white minds

第三十八章 眠れる海へ‐6

 会議室を出たアースが口を開くより早く、レーナは彼の手を取って歩き出した。逆のことはよくあるが引っ張られるのは予想外だった。驚きに目を丸くした彼は、うまく言葉が紡ぎ出せずにただ後をついていく。
 彼女は廊下をひたすら真っ直ぐ進んだ。この方向には階段も何もない。いや、屋上へ上る入り口があるだけだ。窓から外へ目をやれば黄色い空が温かい光を大地へと与えていた。外はきっと適度に暖かいだろう。
「レーナ?」
 口にするべき言葉が見つからなくて、とりあえず彼はその名を呼んだ。だが振り返りもしない彼女は辺りの気配をうかがいながら、何も言わずに屋上への扉に手をかける。
 短い階段を上ればすぐに、そこは屋上だった。外壁と同じ白い床が一面に広がっている。風はやや強いものの寒くも暑くもなかった。もっとも生き物の気配も感じられないが。
「ここなら、聞かれないな」
 そうつぶやいてレーナは大きく息を吐き出した。その細い手が彼の手首を離れ、ぬくもりがなくなったことに彼は眉根を寄せる。些細なことなのに寂しいと思うのは何故だろう。先ほどの話のせいなのか、それとも明日への不安なのか。
「アース」
 囁いて彼女は彼を見上げてきた。手を伸ばせば触れられる距離にあるその瞳が、戸惑うようにかすかに揺れている。
「明日のことなんだが」
「ああ」
「本当に行くのか?」
 問いかけの意味を、彼は黙って考えた。行って欲しくないのかそれとも確認なのか、表情からも口調からも読みとれはしない。見上げてくる瞳は真剣でそれでいて頼りなかった。だがそれだけではわからない。彼はどう答えるのが適当か悩みながら、結局素直な答えを口にする。
「われは行きたい。これ以上知らないところで戦われるのは嫌だからな」
 そう告げると彼女は複雑そうに微笑んでうなずいた。嬉しいのか悲しいのか苦しいのかわからない笑顔だ。こんな時くらい繕わなくていいのにと、苦い気持ちになる。
「そうか、わかった」
「で、それを確かめるためだけにここへ連れてきたわけじゃないのだろう?」
「ああ、もちろん。明日行くなら一つ、言っておかねばならないことがあるんだ」
 彼女はもう一度、扉の方を確認した。誰かが近づいてきているか否か、気でわかるはずだがそれでも気になるのだろう。何を恐れているのだろうとアースには不思議だった。今心配するのはディーファのことだけであるはずなのに。
「明日は『ブルー』にはなれない」
「……は?」
「いや、ならない、だな。周りへの影響が大きすぎるから駄目なんだ。それが言いたかった」
 しかし彼女が口にしたのは、予想外のことだった。あまりに予想外すぎて間抜けな声がもれる。けれども凝視する先の彼女は至極真面目な顔をしていた。風に揺れる髪が時折その頬を覆うだけで、黒曜石のような瞳は真っ直ぐ彼へと向けられている。
「あれは、われの力じゃないんだ。リティの力でもないんだ」
「どういう、意味だ?」
「あれはグレイスの力なんだ」
 グレイス。それは聞き覚えのない名前だった。少なくとも上位の神の中にはいなかったはずだ。魔族の名前は詳しく聞いていないからわからないが、説明にも出ていなかった気がする。
「そいつは誰だ?」
「黄色き者の一人、リシヤの右腕でケイファの主だった男だ」
「……だった?」
 思わずアースは問い返した。そしてそのことを後悔した。彼女の顔が目に見えて曇り、視線が足下へと落ちる。それは偽りのない彼女の表情だった。慌てた彼はその細い肩を掴み、軽く引き寄せるようにする。
「グレイスはディーファに殺されて死んだんだ。われをかばって。だが死ぬ間際にわれに力を残したらしい」
 彼女は顔を上げて彼の瞳を覗き込んできた。何度も見たことがある痛みを堪えた顔で、彼女は笑っている。笑わなくてもいいのに笑っている。それは彼女の癖で、皆の知るレーナであるための証だった。リティではなくレーナである証。
「じゃあまさかその力が」
「うん『ブルー』の力。あいつの名前ブルーだからな。そのまんまだったんだ、われが聞いた音は。まあ残りの『ビート』はわれの名前だったんだけど」
「お前の?」
「アビリティ、の前がビィートゥ。ああよかった、離して言えば大丈夫そうだな。うん、それがわれの名前。だからビートブルーってのはまああながち間違った造語でもないわけで」
 けれども説明する口調は軽かった。軽やかに、何でもないことのように語られる言葉に、本当は色んな思いを隠している。肩を掴んでいた手を離して彼は頭を撫でた。優しく優しく何度も撫でれば、彼女は一瞬目を丸くしてそれから嬉しそうに破顔する。
「だがそのグレイスの力がどうして我々にも波及してるんだ?」
「うーん、たぶんリティがレーナに入る時、その力の影響を受けたんだと思う。あの時かなり、強引に入ったからなあ。で、グレイスの力がわれに残ってるってのは、他の奴らは知らないんだ。知ったらきっと驚くし、動揺する。だから明日は『ブルー』にはなれない」
 そこでようやく彼女の言いたいことがわかった。本当は肝心なところを聞いていないのもわかっていたが、彼は追及しなかった。今聞けばきっと傷つける。決戦前にそれは避けたかった。生きて戻って来た時に聞けばいいのだから。
「なるほど、だから聞かれたくなかったわけか」
「そう、ケイファもきっと複雑な顔するしな」
 くすりと笑う彼女の頬へ、彼はもう一方の手を伸ばした。そして軽く触れるような口づけをする。
「アース?」
 甘さに酔ってしまわないようすぐ離れれば、彼女は不思議そうに小首を傾げた。何に対して訝しげに思ってるかは定かではないが、聞かない方がいい気がして彼はもう一度その頭を撫でる。
「続きは、戦いが終わってからな」
「は、はぁ?」
「その方がわれは精が出るしな」
「ふ、不純な動機じゃないかそれっ!?」
 不純でもいいだろうと言い返して、彼は彼女の手を取った。来た時とは逆に華奢な手首を有無も言わせず引っ張っていく。手のひらに感じるぬくもりが温かく、心地よかった。自然と口角が上がっていく。
「今くらいは」
 せめて二人でいたいと、祈るように彼はつぶやいた。声は風へと乗って、瞬く間に消えていった。




 会議室を出たレインは真っ直ぐ司令室へと向かった。既に頭に入った道順を間違えることなく進み、目的の部屋へと急ぐ。
 まだ、ブレードはいるはずだ。
 慌てる心を落ち着かせて彼女は胸元を押さえた。部屋の中の気を探れば、幸いにも彼しかいないようだった。不用心だが今は幸いだ。一歩を踏み出せば、気の抜けた音を発して扉が開く。
「レイン?」
「ブレード」
 視線は真っ直ぐ、壁に寄りかかるブレードに向かった。彼の瞳もまた彼女を捉えていた。記憶にない黒い髪にももう慣れたし、以前にも増して不機嫌なのにももう慣れた。かすかに微笑を浮かべて彼女は近づいていく。乾いた足音が響き渡った。
「話し合いは――」
「終わったわ」
「そう、か」
「あなたは、連れていけないわ」
 それは最終宣告だった。彼は傷ついたように眉根を寄せて、ぐっと唇を噛む。彼女だってできるならこんなこと言いたくはなかった。だが理性が、現実が、それを許してはくれない。
「そっか」
「だからあなたにお願いがあるの」
 彼女は彼の手を取った。触れ合うことが常に揺らぎ続ける彼らにとっての、ここにいることの証だ。温かさが嬉しい、ここに今彼がいることが嬉しい。ただその気持ちを込めて彼女は彼を見上げる。
「ここを、彼らを、残された者たちを守って」
 目を合わせて囁けば、彼は驚いたように目を見開いた。予想していなかった言葉らしい。ついてこないでくれ、と頼まれると思っていたのだろう。
「守る?」
「そう、守って。ディーファが本気で私たちと戦闘すれば必ず他の世界にも余波が来るわ。ここも安全だとは言えないの。だから守って欲しいの、ここを」
 言い聞かせるよう言葉を切って彼女は頼んだ。強く握った手が白くなっていることに気づき、ほんの少し力を緩める。
「レイン」
「ここにはまだラウェイたちが残っているわ。それに、私たちの子どもがいる」
「……あ」
「私はその子を置いて行かなければならない。でもあなたなら傍にいられるわ」
 それは願いにも似た、祈りにも似た、けれども裏のある言葉だった。ただついてくるなと言うよりも、守って欲しいと頼む方が彼には効果がある。それは彼自身だってわかっていただろう。
 でも、それでもいい。
 彼女は時の流れに祈った。
 後で気づいて恨まれても何故だと問いつめられてもいい。けれども今は彼を失いたくなかった。奪って欲しくなかった。ディーファや海の餌食には、したくなかった。
 神も魔族も不安定な存在。歪みがあればたやすく海へと引きずり込まれてしまう。また歪みを引き出すのが得意なディーファがいれば、その確率はさらに上がった。
 彼をここへ繋ぎ止めなければならない。何としてでも。それにこの世界が危険であることもまた事実だった。仲間を、子どもを、巻き込んだ人間たちをこれ以上失いたくはない。
 それはレインの願いでもあるが梅花の願いでもあった。
 内に眠る……否、目覚めようとする梅花の切なる願い。
「わかった」
 苦々しさを押し殺しながらもブレードは静かにうなずいた。レインは微笑んでそっと握っていた手を離す。もう対丈夫だと、彼の気がはっきりと告げていた。
「ただし」
「うん?」
「死ぬなよ、絶対に」
 怒ったような彼の言葉に、彼女は素直にうなずいた。




「ダーク、今すぐ迅速に直ちに魔族界へ行ってくれ」
 修行室にいるダークを見つけたジーンの、最初の一言はそれだった。見つけられた当人は面食らった様子で口を半開きにしている。予想外の言葉をかけられて、どう答えたらいいかわからないようだ。
「ジーン、どういうことだ?」
「明日の戦いにあなたは連れていけないことになった。だがその間に、やってもらわなければならないことがある」
 ジーンははっきりとそう言った。ダークの濃い紫色の瞳が悲しげに揺れて、その大きな手が固く握られる。
 部下が行くのに、守りたい者が行くのに、自分は行けない歯痒さ。それはジーンも理解していた。けれどもダークのためにも連れていくわけにはいかなかった。彼に死なれては困るのだ。
「ダーク、私たちは部下に何一つ説明せずここまで来てしまった。何故魔族と神が戦っていたのか、誰が元凶なのか、そしてこれから何が起こるのか知らない者は多いはずだ」
「そう、だな」
 強い口調でそう告げればダークは素直にうなずいた。リティに連れられて何の話もせずに黄色の世界に来てしまったのだ。置いてけぼりになったウィザレンダやマトルバージュは、さぞ困惑していることだろう。
「もし今ここで私とダークが消えたら、何が起こるかわかるよな?」
 ジーンは苦い気持ちを押し殺して問いかけた。二人を包む広大な空間に一気に緊張が走る。
 繰り返されてきた過ち。それがまた繰り返されるかもしれない。
 さすがにウィザレンダたちは元凶がディーファであるとはわかっているだろう。だが詳しい状況を理解していなければ、何も知らない他の魔族たちを説得することができない。流れが悪ければまた神との戦いが勃発してしまう。それだけはどうしても、避けなければならなかった。
「だからダークには一刻も早く魔族界に行って欲しい。そして説明して欲しい。明日ディーファとの戦いが始まれば、その余波は魔族界へも及ぶだろう。何も知らない部下たちが妙な動きをし出すとも限らないんだ。それを止めるのが、今のダークの役目だ」
 始めはまくし立てるように、次第にゆっくりと声のトーンを落としてジーンは言った。ダークの瞳が再び揺れた。迷っているのだ、この責任感の強い主は。
「ジーン」
「ダーク、大丈夫だ。私たちは負けない。もう、これ以上、あいつに振り回されない。振り回されてはいけないんだ。どうしても駄目な時は、その時はダークを呼ぶから」
 だから心配しないで行ってくれと、ジーンは囁いた。呼ぶことなどきっとないだろうとは思うが、それでも約束するのがジーンなりの優しさだった。頼りにしているのだと、それでも守りたいのだと伝えたくて。
「わかった。だがその前に一度、クーディと話をさせてくれ」
「クーディと?」
「聞きたいことがあるんだ」
「ああ、もちろんそれくらいはいいけれど」
 了承を得て、ジーンはほっと胸をなで下ろした。そこで出てくる名前が赤き者であり微妙な恋敵である男というのが不思議だが、それでも納得してくれたのだからと笑顔を浮かべる。
「我々は――」
「ん?」
「難儀な生き物だな」
 しかし突然つぶやかれた言葉に、ジーンは思わず苦い笑い声をこぼした。本当だ。力はあるのに繊細でもろくて、まるで子どものようにあどけない。たやすく壊れてしまう生き物。かつて誰かが自分たちを称してこう言っていた。力を持ちすぎた、けれども大人のいない世界の赤ん坊だと。
「変わっていけるのならいいのだがな」
 自嘲気味につぶやいてダークは歩き出した。
 その黒に覆われた大きな背中を、ジーンは黙って見送った。

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