white minds

第三十八章 眠れる海へ‐8

 戦場であるはずなのに、砂浜は依然としてその白さを保っていた。ここからは見えないあの海と同じように、この砂も他の世界より遙かに多くの『要素』を含み、限りない有に、限りない無に近いのだ。それはディーファの攻撃によっても揺らがなかった。変化は一瞬で、それも気づけば元のように戻ってしまう。
「いや、違う」
 だがその変化の積み重ねがこの空間そのものにも影響し始めていた。些細な変化、兆候を読みとって、レインは息を呑む。
「ホワイト」
「ええ、わかってるわレイン。海が波立とうとしている」
 ホワイトの瞳を間近で見て、レインは目を細めた。いつもと変わらない表情の中に苦痛が読みとれた。彼女は今、蠢く海に抗っているのだ。飲み込まれないようにと必死に、戦っているのだ。
「ちょっと早いけど、動かないとまずいわね」
 ホワイトのつぶやきにレインはうなずく。同時に精神を集中させた。動き出そうと構えたセインの手のひらに、薄紫色の刃が現れる。それはレインの特殊能力の一つだった。あのディーファの攻撃さえ弾き返すことのできる、数少ない武器の一つ。
「行くわ、セイン」
「おう」
 ホワイトとセインが動き出した。セインがまず砂を蹴って飛び上がり、その後を追うホワイトの姿がかき消える。
 だがそこでぐしゃりと、何かの潰れるような嫌な音がした。振り向けばジーンの張った結界が消えていた。けれども不安の声を上げるより早く、膝をついていたジーンは立ち上がる。血も出ていなければ痛みがある様子でもない。無傷だった。
「直前に避けたので平気だ。それより私たちも動かなければいけない、メイオ、スピル」
「ええ、そうね。このままじゃあいくら精神無尽蔵のリティでももたないわ。海に思ってたより早く影響出ちゃったみたいだし、早く片をつけないとね」
 安心させるよう微笑んだジーンは、メイオ、スピルと顔を見合わせて駆け出した。三人の背中を見送りながら、レインは胸の前で強く手を組む。
 武器を維持するために、彼女はそれ以上の技が使えなかった。しかも彼女にはリティへ精神を送り続けるという別の役目もあった。だから彼女はその場を動かず、そして彼女を守るためにスェイブ、カーム、ウィックがいる。大概の攻撃はスェイブの張った結界が守ってくれるから心配はないのだが、念のためだ。レインがやられればセインとリティがともに危険にさらされる。
 でも、糸口がない。
 レインは奥歯を噛みしめた。リティはよくやってくれている。ディーファの攻撃を一度もうけることなく、かつ彼の意識を集めている。しかしそれでもディーファに隙はなかった。これではホワイトの力が届かない。仲間が傍にいるというのは避ける観点からすれば不利なのだが、この際は仕方ないだろう。相手に少しでも傷を負わせなければ駄目なのだ。多少のリスクは覚悟しなければならない。
 顔を上げれば丁度、リティの刃がディーファの影を薙いだところだった。惜しい。だがそれは同時に無防備になることを意味する。案の定、彼女目指して次々と黒い雨が降り注いだ。空から落ちてくる無数の黒い光。けれどもレインが案ずる間もなく、それはすぐ側にいたアースによって器用に払いのけられた。彼は期待していた以上にその役目を果たしている。彼女の動きがわかっていなければそんなことは不可能だった。彼女と多くの戦闘をともにした者でも、無理だったというのに。
「はあっ!」
 だが安堵する暇もなく次の攻撃が始まった。セインの薄紫色の刃が、現れたばかりのディーファへと振り下ろされる。それは鋭く弧を描くが、しかし青い影を掴まえることはなかった。するとやや離れたところで構えていたメイオとスピルが、同時にセインめがけて青白い炎を放つ。
 炎は、セインの刃によって弾かれた。それは白い砂の上に現れたディーファの袖を焼き切った。
「惜しい」
 レインは囁く。ディーファに攻撃を当てるというのはすなわち確率にかけるということだ。広範囲の技であればある程有効だが、仲間に当たるかもしれないという危険も伴う。
 彼らの攻撃がディーファを捉えるのが先か、それとも海の歪みがホワイトを飲み込むのが先か、飛び交う黒い光が彼らの体を貫くのが先か。全てを握っているのは時の流れと、そしてそれぞれの予想を突き破る『何か』だけだった。
 お願いと、祈る言葉を飲み込んでレインは手を強く握った。彼女たちを覆う結界の外では、黒い光と青白い光が入り乱れ、またその間を縫うようにして白い光弾が飛び交っている。
 時間の感覚が消えそうだった。彼らの体力が、気力が、運がもつのか不安になる。
「レイン、焦らないでください」
 肩越しに声をかけられ、レインはうなずいた。語りかけてくるスェイブの優しい声音が、波立っていた心を落ち着ける。
「あなたの刃がなければセインはホワイトを守れません。リティももちません」
「ええ、わかってる」
 深呼吸を繰り返しながら、彼女は混沌とした戦闘を見つめた。ディーファとホワイトの姿は、時折視界に光を伴って現れるだけだ。これだけ転移を繰り返す……否、核の状態を長く維持し、かつ瞬時に現れることができるのは『純粋なる存在』に許された特権だった。セインにもリティにも、メイオにもスピルにもジーンにもそれはできない。彼らは二人より安定した、一歩『有』に近い存在だからそれは無理だった。
 そこで世界が、唐突に震えた。結界の中でもそれを感じ取ってレインは顔を上げた。ふと視線を脇へとやればいつの間にか『海』が近づいてきている。何色とも表現できない、強いて言えば何色でもある海が、先ほどまではなかったはずなのにすぐそこにやってきていた。引き寄せられたのだ。
 まずい。
 鼓動が跳ねて、背筋を冷たい汗が落ちていった。ディーファの攻撃はまだその海へは落ちていないけれど、それも時間の問題かもしれない。海に落ちれば誰であろうと無に帰す。また海に波紋が生じればそれは新たな存在の誕生を意味していた。どちらにしろこの状況をさらに混沌とさせるだけだ。いい影響はない。逃げ場さえ少なくなるのだから。
「スピルっ!」
 刹那、結界越しに聞こえたメイオの叫びが運の終わりを告げた。突如迫ってきた海に足が着きそうになり、慌ててスピルは身を捻る。だがそこを誰かの白い光弾が直撃した。ディーファのものではないが、直撃すればただではすまない。崩れ落ちる彼女の上を、黒い光の筋が通りすぎていった。
「ジーン!」
 次に倒れたのはジーンだった。スピルに気を取られたのだろう、立ち止まった彼の足下、弾き返された黒い光弾が爆発した。直撃したのは砂、だが影響はそこだけにはとどまらない。声にならない悲鳴とともに彼は膝を折った。深緑色の長い髪がふわりと空を舞う。
「このっ」
 そこで二人をかばうよう、無茶にもリティは踏み込んだ。小さくなる背中を目にして、レインは制止する言葉を飲み込む。
 不安定な砂を蹴り上げたリティ、その手にある刃が一気に伸びた。レインからではどれだけ伸びたのかわからない刀身を、精一杯の力でリティは横凪にする。風などないはずの世界に巻き起こる風が、背をかがめたセインの頭上をも、アースの頭上をも通りすぎた。
 そして――――
「っつ!」
 リティの顔が歪むと同時に、青い影の腕に切っ先が触れた。
 ディーファに加えられた一撃。それを理解するのに時間がかかった。その現実を受け入れるのを一瞬本能が拒否した。
 刃が消え、リティはその場に崩れ落ちる。揺れる黒髪の隙間から見えたのは、焼けこげたように赤黒くなった肩だった。とてつもない破壊系の技を身に受けた時の反応だ。ディーファの攻撃が直撃したのだ。
「リティ!」
 飛び出したかったが、レインにそれは許されていなかった。今がチャンスなのだから、セインの武器を奪うようなことはできない。ホワイトの守りを消すようなことはできない。悲鳴を堪えてレインは唇を噛んだ。それでも殺しきれなかった吐息だけがもれていく。
 刹那、ディーファの瞳がリティを捉え、それに気づいたアースが彼女の前に飛び出した。
「仕方ないっ」
 そこで舌打ちして、それまで結界の内にいたクーディが転移した。技を避けるのが苦手な彼はこの戦場には不向きなのだが、それでも動くべきだと判断したのだろう。
 ディーファの放った幾つかの黒い光弾を、アースはエメラルドに輝く剣で弾き返した。その脇にクーディは姿を現す。クーディの手のひらが光り、その周囲を結界が覆った。
 嫌な音が鳴り響いた。四方八方から降り注いだ雨のような黒い筋が、中にいる三人を覆い隠した。一度に複数の技は使えないはずだから、立て続けに放ったのだろう。
 つまり、好機だ。ディーファはさらなる攻撃はできないし、転移をし続けることもできない。
 レインは今以上に精神を集中した。白くなる程握った手に祈りを込めるようにすると、セインの持つ剣が一際強く輝く。
 核の状態が維持できなくなったディーファが、すぐに姿を現した。同時に光を纏ったままの剣を、セインは彼へと投げた。ディーファの気配が軽く揺らぐ。また転移しようというのだ。
 だがその時、異変は生じた。
 消えようとしていたディーファも、剣を投げつけたセインも、突然時間が止まったように動きを止めて目を見開いた。体ごとねじ切られるような強い痛みをレインも感じる。二人が立ち止まった理由も、それと同じに違いない。
 剣はディーファの脇へ突き刺さって消えた。否、レインが消したのだ。再びそれをセインの手元へと戻すために。だが皆の意識はそれとは別の所へと向けられていた。
「海が……」
 レインはつぶやいた。色を変える海がまた一段と近づいていた。これ以上力を使うのならば飲み込むぞと、まるで意志を持って脅しているかのように。
 はっとして見やれば、スピルはメイオに抱えられて何とか無事だったが、膝をついたままのジーンのすぐ側まで海は迫っていた。後ほんの少しでも左にずれていれば、無に帰っていたところだ。
「ぐっ」
 ディーファの顔が歪んだのを、レインはこのとき初めて見た。受けた傷による痛みというよりは、おそらく海に引きずられそうになっているためだ。海の力にはさすがのディーファも敵わない。
「ホワイト!」
 セインが動く。世界の悲鳴を無視して動く。どこからか姿を現したホワイトがその横にはいた。彼女の体を覆う白い光がその輝きを増す。表情は苦しみに歪められていたが、立ち止まることはなかった。この機会を逃してはいけないと自らに言い聞かせているようだ。
「駄目!」
 だが咄嗟に、レインは声を上げた。
 聞こえたのだ、音が。海の放った音が。名を呼ぶよう歌うよう奏でられた旋律が、レインの頭を揺さぶった。その名前に聞き覚えがあったからこそ震えが止まらなくなる。
 その音を無理矢理音に表すならこうだ。ホワイトゥブレィク。それはホワイトから放たれる、存在その物の音と同じ。
 飛び出そうとするレインの肩を、ウィックが強く掴んだ。食い込んだ指の痛みに眉根を寄せながら、レインはホワイトの姿が薄くなるのを視界に捉える。
 ディーファもホワイトも苦しんでいた。海の呼び声が二人の『純粋なる者』を蝕むのだ。まるで自分の元へ帰るようにと、何度も囁くように。
 だからセインは一瞬迷ってしまった。理性ではどうするべきわかっているのに、感情がそれを許さなかった。今が好機なのは確かだが、力を使えばホワイトはまず間違いなく消えるだろう。彼の思いがレインには手に取るようにわかった。セインの横では耐えきれずにホワイトがうずくまり、その前方にいるディーファも動けず立ちつくしている。
 誰にでもわかる、絶対的な好機。しかし同時に最大の危機。
「ホワイト!」
 だがその場を動かす声は、予想外のところからやってきた。ディーファの背後に現れた男を、誰もが慌てて凝視する。
「ダーク!?」
 真っ先に声を上げたのはジーンだった。膝をつきながらも信じられないといった顔で、彼は口を何度も開閉させている。けれどもダークは何も言わなかった。彼の瞳には決意の光が宿っていて、リティすら視界には入っていないようだ。
 ダークの右手から、青白い球体が幾つも同時に放たれた。それはディーファの背中目指して真っ直ぐ突き進んでいく。ディーファの眉根が寄った。冷たい瞳が一瞬揺れて、体を包み込む青い衣服が大きく揺れる。
 球体の一部は、ディーファの服の袖に払われた。しかし残りの一部は肩を直撃した。
「やった……!」
 隣にいたカームが歓喜の声をもらす。レインも思わず口を開きかけ、そして息を呑んだ。
 苦痛のためか、それとも力を解放したのか、揺らいだディーファの存在その物が彼を取り巻く空間を瞬時にねじ曲げた。それは精神の暴発にも似ていた。波紋は瞬く間に広がり、ダークへも真っ直ぐ向かっていく。傍にいたセインやホワイトにも、一種の衝撃波は向かっていった。
「ホワイト!」
「ダークっ」
「セインっ!」
 反応したのはそれぞれの部下たちだった。悲痛な面もちのまま、それでもジーンは片足で立ち上がって転移する。倒れていたはずのリティは上体を起こし、アースの腕もクーディの制止をも振り切ってやはり転移した。そして三人目は、レイン自身だった。スェイブの強固な結界を擦り抜けて飛び出す。無意識に使った転移に体が軽くなり、視界が一瞬黒に塗り潰された。
 聞こえたのは、悲鳴だった。
 それが誰のものなのか意識する前に、レインは自らの前に結界を生み出した。体中に感じる衝撃が、戻ったはずの視覚をまた混乱させる。ただ感じるのは同じ技をリティが使っているということだけだった。足下がぐらつくのを懸命に堪え、レインは歯を食いしばる。
「レインっ」
 肩に置かれた手の温度を感じて、レインは大きく息を吐き出した。体を蝕もうとしていた波が徐々に去っていく。衝撃波は止んだのだ。
 セインの手をのけるよう一瞥してから、レインは状況を把握しようと目を凝らした。しかし正常に戻った意識が理解したのは、予想外の現状だった。
 ジーンが倒れている。左腕のないダークに右手だけで抱えられて、彼は虚ろな目をしていた。左肩から下がなく、左足も透明になりかけていた。結界が間に合わなかったのだ。ダークはセインやホワイトよりもディーファに近かった。おそらく、ジーンが転移するのと歪みが到着するタイミングが同じだったのだろう。もともとジーンは特殊能力タイプではないから、結界などは苦手なのだ。
「リティ……」
 つぶやきながら彼女は隣をちらりと見た。ホワイトの前に膝をついていたリティは、痛むであろう左手を砂に押しつけて体を支えていた。リティとて本来は特殊能力ではなく戦闘向きのタイプだ。もっともレインの力を借りられるので万能タイプ扱いだったが。
「ホワイトっ」
 けれども声を振り絞って立ち上がり、リティはためらうことなく砂を蹴った。彼女は真っ直ぐディーファへと向かった。その意図はすぐレインへと伝わってくる。今だと、迷うなとホワイトに言っているのだ。ディーファへと向かうリティの右手には青白い刃が生み出されていた。
 今までならすぐ転移するはずのディーファは、リティの方をおもむろに振り返る。青い影がその足下へと落ちて、彼の周囲を異様な雰囲気が包み込んだ。
 彼は力を使う気だ。海に呼ばれているため転移ができない彼は、別の方法で反撃へと出る気だ。その意味を、恐ろしさを、リティだって理解しているはずだった。しかし転移できない今しか機会はない。だからリティは立ち止まることなく刃を振りかざした。青白い光が弧を描く。
 半身を失う恐怖に、レインの体は震えた。それでも理性が結界を生み出す手をゆるめない。後ろにはセインが、傍にはホワイトがいる。第二波を防ぐのが今彼女に与えられた役目だった。
「リティっ」
「レーナ!」
 声が響く。ディーファを包み込む青が光を増した。だがリティの刃が伸びて、彼が技を放つより早くその右肩を一気に貫く。
 声のない悲鳴は、力の暴発を生み出した。
 世界の震えが、名を呼ぶ声が大きくて誰が何を言っているのかわからなかった。黒い光の筋がディーファを中心に四方八方に進む。それは記憶の中にある何かの光景ににていた。レインは目を細めて、悲鳴を押し殺す。
 無数の黒い光は、リティの体をも貫くはずだった。少なくとも直前の状況からはそうなることしか考えられなかった。
 けれども、実際はそうはならなかった。貫かれていたのはジーンで、そしてリティに覆い被さって砂へと伏しているのはダークで。リティの体は貫かれなかった。次第にジーンの姿が世界へと溶けていく。同時にダークの右半身が、直撃を受けて消えかかった。
 痛みが、あらゆる痛みが海を揺らそうとする。悲鳴が海を引き寄せようとする。
 それでもレインの結界はかろうじて後ろの二人を守っていた。おそらくスェイブの結界もカームとウィックを守っているはずだ。他の四人がどうなってるかはわからないが。
「もう終わりにしましょう」
 すると黒い光が止まないうちに、ホワイトがふわりと動き出した。あっ、と声を上げる間もなく飛んでくる黒は、全て彼女の周囲で消えてしまう。
 海の力だ。結界とは全く異質の、それは無と有の狭間で揺らぐ力だった。彼女の気配が希薄なのは海に引きずられかけているためだろう。それでも彼女は悠然と、ディーファへ向かって歩を進めた。黒い光の中揺れる白い髪が浮き立って見える。
「このままではここ一帯が全て海になってしまう。みんなと一緒に消えるのならあなたは幸せかもしれないけれど、私たちにはもっとやらなければならないことがあるの。ごめんなさいね」
 苦しむディーファへと、ホワイトは微笑みかけた。声に満ちあふれている優しさが、レインには不思議だった。
「私たちは幼すぎたの。力を持ちすぎた赤子だったの。引き返せない道を選んでしまって、本当悲しいわ。でもこれ以上同じ道を『次の子ども』にまで歩ませるわけにはいかないわ。ねえ、だから、眠りましょう?」
 そっと掲げたホワイトの右手が、さらに白く輝いた。ディーファは無表情のままホワイトを見つめていた。
 本当は、あなたを救いたかったの。
 そんな声が聞こえた気がした。愛しさと切なさと悔しさと、それでもぬくもりを感じさせる響きで、直接頭に響いてくる。おぼろげなはずなのに確かなホワイトの声。
 同時に、世界は白と青とに包まれた。

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