white minds

第三十九章 交錯する思い‐1

 ぼんやりとした視界に映ったのは見知らぬ場所だった。すぐ側にはごつごつとした岩があって、その先にはただ乾いた茶色い荒野が広がっている。
「ここは……?」
 何度か瞬きを繰り返せば、霞んでいた視界は次第にはっきりしてきた。だが喉から絞り出した声はかすれている。レインはゆっくり体を起こし、その際走った激痛に顔を歪めた。
 体中が痛い。まるで限界まで力を使い果たした時のように、指先一つ動かしただけで感覚という感覚が悲鳴を上げた。前にも何度か経験したことはある。けれども今のはそれらよりずっと、体の芯から発せられていた。まるで核が限界を訴えているように、切実な訴えだ。
「レイン?」
 彼女が息を整えながら胸元に手をやると、どこからかセインの声が聞こえてきた。慌てて顔を上げれば桜色の髪が足下へと落ちて、茶一色の地面に色を添える。
「セイン」
「よかった、気がついたか」
 岩陰から顔を出したのは、安堵の笑みを浮かべたセインだった。その腕にはぐったりとして瞼を閉じるホワイトが抱かれている。白い光こそ纏っていないが、その顔色は白その物だった。生きているのかと疑いたくなる程に温かさが感じられない。
 そうだ、ディーファと戦い、ホワイトは力を使ったのだ。
 そのことをようやくレインは思い出した。ホワイトが力を使った後どうなったのかは全く記憶がないが、おそらく自分は気を失ったのだろう。余波を浴びて。
「セイン、皆は?」
「今確認してる。ああ、リティならそこに倒れてるぞ。あのアースとかいう奴が傍にいるけど」
 彼の温かい言葉に導かれるように、岩に寄りかかりながらレインは立ち上がった。とにかくリティの姿を確認したかった。役目を押しつけて一人残してきた自分の片割れを、その無事をこの目にしっかりと焼き付けたかった。
「リティ……」
 アースにぐったりともたれかかったリティは、まだ気を失っているようだった。土気色の顔をしているのは肩の傷が原因に違いない。同じくらい顔色が悪いクーディが治癒の技をかけているが、上手く入ってないようだった。彼には無理なのだ、高度の治癒は。
「何とかしないと」
 つぶやきながらレインは一歩を踏み出した。足を動かすだけで貫かれたような痛みが全身を走る。この岩がなければ倒れていたかもしれない。けれども彼女は歩を進めた。ディーファの技を受けたのだ、放っておけばどうなるかわらからない。
「おいレイン、大丈夫か?」
「ええ、私は。ちょっとした技の後遺症があるだけですから。剣と結界同時にというのはやはり無理があったみたいですね、不甲斐ないです」
 慌てて近づいてくるセインに、彼女は軽く微笑んで視線を向けた。彼を守るために力を使ったことを、彼自身も理解しているのだ。
 無茶は承知の行為だった。だから彼女に後悔はなかった。むしろディーファのあの攻撃を防ぎ切ったことに驚いているくらいだ。結界には自信があったが、相手がディーファとなればやや不安があったのも事実なのだから。
「……ディーファは?」
 そこで最も重要なことに気づき、レインは立ち止まった。ディーファの気は感じられないが、ここがどこかわからないので確かなことが言えない。何が起こったのだろうか。ホワイトは、勝ったのだろうか。尋ねるように目線を向けると、セインはゆっくり首を横に振った。
「わからない、気がついたのはオレが最初みたいだが、その時は既にここだった。どうやらマグシスの生み出した世界の一つらしい。だが勝手には動けないしな」
 答えながらセインは抱えたホワイトを見下ろした。その茶色の瞳が辛そうに揺れている。
 ホワイトは死んではいない。それは彼女の体がしっかりと存在していることから明らかだった。だが本当に無事かどうかは疑問だった。もしかしたら今も『青の海』と戦っているのかもしれない。
「そうですか……じゃあ私が確認してきます」
 だから彼女はすぐにそう申し出た。ホワイトが目を覚まさない状況でディーファが無事なら大変なことになる。一刻も早く確かめなければ、また手遅れになってしまう。
「無茶だ! その体であそこへ近づく気か?」
「ですが――」
「駄目だ、それはオレが許さない。レインにはレインの役目がある、そうだろう?」
 しかしそう言う彼の声の響きに、レインは素直にうなずくしかなかった。嫌だと言わせない、反論を許さない強い声音には逆らえなかった。優しさ故の言葉は、気に敏感な彼女の胸に深く染み込む。それを裏切るには相当の覚悟が必要で、今の彼女にはそれはなかった。こんなぼろぼろの体ではあっと言う間に海に取り込まれてしまう。
「それなら私たちが調べてきます」
 そこへ、朗らかな声が背後からかかった。この凛とした響きはスピルだ。振り返れば淡い山吹色の髪に透き通った海の瞳をした――つまり『元の姿』に戻った彼女が立っている。力の解放がもたらした効果だ。その隣には同じく『元の姿』に戻ったメイオが立っている。赤紫の髪に黒い瞳、全身がほぼ茶系で統一された彼は心を穏やかにさせる微笑みを浮かべていた。吐息をこぼすと力が抜け、レインは意志に反してその場に座り込む。
「メイオにスピルか。任せてもいいか?」
「もちろんですよ! 私たちなら何かあってもまあ、それなりに何とかしてくるんで心配しないでください。ねえ? メイオ」
「だな。スピルの傷もひどくなかったみたいだし」
 頼もしくも胸を張る二人に、セインはじゃあ任せる、と一言口にした。同時に二人の姿がかき消える。目に焼き付いた残像を振り払うように、レインは瞬きをした。あの二人なら大丈夫だろうと、漠然とした安堵が胸に満ちる。
 だが自分にも仕事があるのだと言い聞かせて、彼女は立ち上がった。同時にまた鋭い痛みが襲ってきて体が強ばる。それでも何とか堪えようと彼女は奥歯を噛みしめた。ホワイトはもっと辛い苦しみの中にいるのだから、こんなことに負けてはいられない。
「レイン」
「大丈夫です。私は、大丈夫です」
 彼女は言い聞かせるようにそう繰り返した。ゆっくりと地を踏みしめながら歩けば、辺りの様子がよく目に入ってくる。やや離れたところにカームとウィックは倒れていて、その傍には同じくぐったりと地に伏したスェイブの姿があった。だが彼らは生きている。格好は『元の姿』に戻っているし、弱々しいがその気がちゃんと彼女にも感じられた。ただ気絶しているだけだ。
 けれども――――
「ダークとジーンがいない」
 愕然とする事実を確かめて、彼女はつぶやいた。目に見える範囲に二人の姿はなかったし、気も感じられなかった。少なくともこの世界にはいない。
 まだあの海に取り残されているのか。それとも別の世界に飛ばされたのか。それとも、息絶えたのか。
 記憶の途切れる直前の光景が、脳裏をよぎった。ジーンの体が消えるのを彼女は目にしていた。ダークとて、あの状態で生きながらえているとは考えにくい。
「そんな」
 絶望的だった。歪む顔を見られないようにと俯いて、彼女は嗚咽を押し殺した。今感情的になるのは危険だと理解しているのに、心が震えるのを抑えきれない。
 ジーンが、ダークがいなくなってしまった。リティをおいて行ってしまった。事情のわからない多くの部下たちを残して、消えてしまった。何も言わないままにこんなにも早く、二人揃って。
「そん、な、のって」
 二人がいなくなったことそのものよりも、それが引き起こすであろう事態を、与えるであろう傷を思うと心が震えてどうしようもなかった。犠牲の覚悟をしていなかったわけではないが、こんな形でというのは予想していた中でも最悪だ。
「レーナっ!?」
 その時喜びに満ちた声が、レインの耳に届いた。それが慣れ親しんだ響きとよく似ていたあまり、彼女は思わず顔を上げてしまった。そして心構えがないままに半身と視線を合わせてしまう。
「あっ」
 ぼんやりとした瞳のまま、それでもリティはレインを見ていた。リティにとってはそれは自然な反応で、何か理由のことがあってではない。けれどもレインの鼓動は跳ねた。まずいと直感的に悟り、言葉を発しようにもうまく唇が動かなかった。
 しばし、二人は見つめ合う。瞳に映るリティの顔は見る見る間に青ざめていった。虚ろだった黒い瞳は光を帯び、同時に怯えるように揺れ始める。震えるその華奢な肩を不思議そうにアースが抱きしめた。傍にいるクーディは一瞬怪訝そうに目を細め、それからリティの視線を追うようにしてレインを見上げる。
 抑えなくては。
 理性はそう忠告していた。だが動揺する心を落ち着けるには時間が足りなかった。抑えようと努力しなくては全ての記憶が、思いが、伝わってしまうというのに。それなのに冷静に心を押し込むことができなかった。
 リティはあの時何も見ていない。ホワイトが力を使うその直前のことを見ていない。ジーンの姿もダークの姿も目にしていなかった。だがレインは見た。今リティに見せてはいけないものを見てしまっていた。リティに今知らせてはいけないことをそのまま『流し』てしまった。
 少なくとも今は、落ち着くまでは知らせてはいけなかったのに。
「お、おいっ」
 クーディはレインの顔を見て、そして全ての状況を瞬時に理解したようだった。焦燥感に駆られた表情でリティの腕を叩くと、怪訝そうなアースを無視して声を張り上げる。
「落ち着け、いいから落ち着け」
「ダークは……」
「おい、落ち着け。今お前はレーナだろう?」
「死んだのか? われはまた、犠牲の上に立っているのか?」
 リティからもれた言葉はかすれていたが、レインにははっきりと聞こえた。リティの瞳は真っ直ぐレインを捉えたままだ。その黒曜石のような瞳が半身へと必死に訴えかけている。彼女の心を、痛みを、あらゆる感情を訴えかけてきていた。
 それなのに、否、だからこそレインは何も応えることができなかった。二人の間に嘘は通じない。かといって励ますための言葉も今のレインには用意されていなかった。
 壊れてしまう。またリティが壊れてしまう。
 焦りだけがつのってレインは全く動けなかった。背後からセインが近づいてきていても、何も言うことができない。まだ何もわからないというのに、予感のような物が確かに存在していた。
 嫌な予感。
 まずいことが起こったという、そしてこれからさらに何かが起こるという嫌な予感。背筋を悪寒が走り抜け、胃の奥底から吐き気がこみ上げてきた。
「レーナ?」
 異変に気づいたアースが、リティの体を強く抱きしめた。なされるがままもたれかかるようにして、リティは深い呼吸を繰り返している。
「どうしてわれは、誰かを犠牲にしてばかりいるんだろう」
 泣きそうな声が胸に強く響いた。えぐられた過去の傷から今、大量の血が溢れ出してきているのだ。あのグレイスのつけた傷が、彼女を一度死の淵へと追いやった傷が今再び開かれてしまった。
「どうして……」
 レインはつぶやいた。どうして彼女を苦しめるのかと、わかっていて同じことをするのかと、ここにはいないダークをなじりたくなった。もう二度と声を聞くことのないだろう男を、なじりたくなった。
 彼だってわかっていたはずなのに。彼女の心を捕らえるためにわざとあの男が、彼女をかばって死んだことくらい。
 風が不意に、レインの前を通りすぎた。なびいた桜色の髪が一瞬視界を覆い隠し、リティの姿を見えなくさせる。
 嗚咽を押し殺してレインは再び俯いた。
 それでも依然として嫌な予感が強く、体を取り巻いていた。




 何故、こうなってしまったのだろう。
 あの人はただ寂しかっただけで、彼はただ愛していてくれただけで、皆が皆、ただ思い故に動いただけなのに。
 なのに、いやだからか、うまくいかなかった。何もかもが上手くいなかった。
 後悔だけが残って、無駄な力だけが残って、不確かな存在は世界の狭間で揺れ続ける。そして未熟な世界を脅かし続ける。
 これは、定めだったのだろうか? それとも、単なる偶然だったのだろうか?
 何もかもがわからなかった。わからなくて、泣きそうになる。わかることといえば、皆がそれぞれ必死だった、ただそれだけだ。
 そう、誰もかもが皆必死だった。必死に不確かな存在をどこかに繋ぎ止めようとあがいていた。
 それなのにこんな結果になってしまったのは、不器用だったからだろうか? 思いを伝えられず、溜め込み、苦しみ、悩み、それでもどうにかして伝えようと精一杯やっていたのに。
 皆が不器用だった。
 だからうまくいかなかった。力だけが空回りして、多くの者を巻き込み、傷つけた。
 声にならない叫びはきっと力を持った赤子の発する悲鳴だったのだろう。それなのに気づいてくれる大人は、どこにも存在していなかった。
 不器用な者たちは不器用な思いを音にならない叫びでぶつけ合い、互いの体を切り裂く。
 全てはそう、愛故に。

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