white minds

第三十九章 交錯する思い‐2

 黄色の世界へと戻ってきたレインたちを待ち受けていたのは、荒野の中に立つ基地だった。記憶にある緑も穏やかな風もそこには存在していない。強い風に晒された大地が一面に広がり、傷ついた世界を象徴していた。出発する直前と同じなのは空の色だけだ。黄色い空だけが傷んだ地上を明るく照らしている。
「お帰り、なさい」
 まず出迎えてくれたのはラウェイ……否、よつきだった。気配に気づいたのだろう、巨大な基地から飛び出してきた彼は、何を言うか迷った後に当たり障りのない言葉をかけてくる。
「ただいま」
 同じくどう答えるべきか迷って、結局レインは月並みな言葉を返した。微妙な距離が二人の間には確かに存在し、それ故双方近づけない。彼はこの状況を訝しげに感じているだろう。少なくとも瞬時に理解できることはなく、若干戸惑っているようだった。
 それも仕方あるまい。かろうじて倒れずにいるレインの後ろには、ホワイトを抱えたセインが立っている。そしてその後ろにはスェイブを支えたカームとウィック、リティを支えたアースと、クーディがいた。だがそれ以外は誰もいない。ダークやジーンだけでなく、メイオとスピルもいなかった。
 メイオとスピルがいないのは再び海へと探索に行っているからだ。一度戻ってきた二人は、ディーファの気配は海にはなかったとだけ告げてまた出かけていった。二人揃っていれば心配はないだろうと、セインもすっかり任せている。だから傷を治すためにも彼女たちは一足早く戻ってきたのだ。けれどもそんな事態をおそらく、よつきの想像していた状況には当てはまらないはずだ。こんな中途半端な状況は、想定外だろう。
「勝ったん、ですか?」
 だからそうよつきが問いかけてきたのは、至極当然のことだった。レインは微苦笑を浮かべながらどう答えるべきか考える。負けてはいない。少なくともディーファの姿はなく、恐怖は去ったように見えた。だが勝ったと言える程快くはなかった。ダークの姿もジーンの姿もなく、今後の魔族界の行く末が心配だ。
 いや、もっと気になるのはリティのことか。彼女の心が無事であるか定かではないし、ホワイトが目覚めるかどうかも怪しかった。とにかく、勝ったと言える状況ではない。
「ディーファはおそらく倒れた」
 言葉に迷う彼女の代わりに、凛とした声でセインが答えた。ホワイトを抱えながらゆっくり近づいてきた彼は、瞳を瞬かせるよつきに真顔で告げる。よつきは不思議そうに首を傾げた。『おそらく』という微妙な表現を不思議に思っているのだろう。
「詳しくは後で話すわ。とりあえず負傷者がいるからそちらが先」
 しかしすぐに、レインは戻ってきた目的を思い出した。説明には時間がかかるだろうから治癒の方を優先しなければならない。彼女はよつきが口を開くのを制して歩き出そうとするが、それは次の瞬間別の要素によって中断された。白い基地の扉が開き、そこから勢いよくブレードが飛び出してくる。
「レインっ」
「ブレード……」
 駆け寄ってきた彼に抱きしめられそうになる直前で、レインは一歩後退した。疲労しているのか顔色の悪い彼は、片眉を跳ね上げるとそんな彼女の手首を握る。
「何で逃げるんだよ」
「えっと……反射? 梅花がそうした方がいいって」
「何わかんないこと言ってんだ。オレが、一体、どれだけ心配したか」
 囁くように言いながらブレードはその場に片膝をついた。明らかに様子が変だ。彼女は目を細めて、それでようやく彼の精神が足りないことに気づく。驚愕すべき体力と快復力を誇る彼も精神力だけは赤き者の中でも低い方だった。もっともそれはメイオたちに比べればの話であり、下位の物よりは十分高いのだが。
「ブレード、あなた」
「あ? ああ、無駄に苦手な結界とか使ったからな。っつーか誰だよこの船作ったの。あんな秘技あるなら教えてくれればいいのに。ディーファの攻撃かなり続いたからな、まいった。まあ最後の二日はこの船が防いでくれたけど」
 最後の二日。それだけで相当の日数この黄色の世界を離れていたことをレインは悟った。リシヤの作ったこの黄色の世界とも、ホワイトの作った白の世界とも、ましてやマグシスの生み出した世界ともあの海の時の流れは違う。いや、時が流れているかも疑問だった。あそこは完全な無と完全な有に限りなく近い、言うならば死と生の狭間にあるようなところだった。他の未熟なる世界とは明らかに違う、特別な場所だ。
「ありがとう、ブレード」
 彼女は彼の手を引き上げるようにすると、強ばった頬を何とか笑みの形に変えた。リティが『壊れかけてから』彼女の感情はかなり凍り付いていた。それでも長年培ってきた理性が、そして梅花の心が、全てを放り出すのを止めてくれている。
 まだやるべきことがあった。このまま放っておくわけにはいかないのだ。
「セイン、ホワイトを中へ。スェイブもリティもとにかく中へ入れて。話はそこで。そして今は休みましょう? 状況を理解するためにも、メイオたちを待たなくては」
 だからレインはやおら背後を振り返った。虚ろなリティの瞳をできるだけ直視しないようにして、無理矢理微笑を浮かべる。
 こんな時は微笑むべきだと梅花が言っていた。辛い時こそ安堵させなければ、それこそ自分たちの存在すら危うくなりかねない。
「それじゃあ治療室がいいですね。案内します」
 すると彼女の気持ちが伝わったのか、よつきも穏やかに微笑して歩き出した。赤茶けた土を踏みしめて、彼はゆっくりと白い扉へと向かう。眩しい金糸を目に映して彼女は瞳を細めた。記憶がなくても見に宿す色が違っても、頼りになる部下には違いなかった。凍り付きそうだった心がほんの少し温められる。
「まだ終わったわけじゃない」
 誰にも聞こえないようそっと、彼女は囁いた。それは決意とも願いとも憂いとも取れる言葉だった。




「じゃあディーファは消えたようだけどまだ確かではないんですね」
「ええ、そうなの」
 治療室の簡素な椅子に腰掛けてレインはうなずいた。向かいに座ったよつきは真顔で視線を床へと落とし、静かに相槌を打っている。その瞳には険しい色があり結ばれた唇は白くなっていた。それも仕方ないだろう、こんな話を聞いた後では。
 ちらりと視線を脇へ移せば、すぐ傍のベッドにはホワイトが横たえられていてた。そこへ寄り添うようにセインが座り、心配に顔を歪めながら彼女の手を握っている。もう一方のベッドにはスェイブが寝かされていた。彼女の場合は精神の使いすぎが原因だ。ディーファの攻撃を防ぐ結界、その維持は想像するだけでも身震いする。よくもったと思うくらいだ。
「でも負けてはいないと」
「そうね」
 レインは再度首を縦に振った。負けてはいない、それは確かだ。賭には勝ったのだし黄色の世界も魔族界も神界も、他の世界も消えてはいない。おそらくディーファの戦闘の影響でひどい状況ではあるが、滅んではいなかった。最悪の状況ではない。
「でも、レーナさんが」
「そう、ね」
 言いよどむよつきへと寂しげに微笑んでから、レインはリティを一瞥した。もう一つのベッドの隅にリティは座っていた。アースの膝に乗せられてぐったりともたれかかる様は、まるで人形のようだと思う。瞼は閉じられていて微動だにすらしない姿は生きているのか怪しかった。実際死にかけているのだと知っているからレインは泣きたくなる。
 自己崩壊が生じ始めている。
 リティの状況をそうレインは説明した。よつきはわけのわからないといった顔をしたが、その後すぐに理解してくれた。
 赤き者も黒き者も、ましてや白き者は、人間よりも遙かに不安定な存在だった。力を持つ代わりに精神の影響を強く受けるため『思い』が体に影響する割合が段違いなのだ。
 消えたいと思えば消えられる、生きていたくないと願えば死んでしまう。それ故極度の精神不安は存在その物を脅かすのだった。その状態を彼女たちは自己崩壊と呼んでいる。
 実際今までに自己崩壊で死んだ物が数人いたし、リティ自身も一度起こしかけていた。グレイスが、彼女をかばって死んだ際のことだ。その様を直接レインは目にしてはいなかったが。
「その、ダークさんやジーンさんは本当に亡くなったんですか?」
「わからないわ。ディーファと同じく気はないけれど確かなことは言えないの。ディーファとは違って海以外でも生きられる二人なんて、どこにいてもおかしくないんだし」
 確かめるようかけられた問いに、レインは首を横に振った。あの様を見ていた彼女としては確信のできる事実だった。だがそれを口にする勇気はない。
「だからメイオたち……ああ、シン先輩たちね、があちこち探索してくれてるの。とにかくそれを待とうと思って。まずは怪我も治さないといけないし、精神も補給しないといけないしね」
 ともすれば沈みがちになる気持ちを奮い立たせるように、努めてレインは明るい声を出した。よつきは目を細めてうなずく。だがその手のひらがレインの肩に優しく載せられた。
「よつき?」
「無理しないでくださいね。ええっとレインだって精神足りませんよね? 怪我治すと言ってもスェイブは倒れてるし、どうする気ですか? 誰が一体何をするんですか?」
「えっと、それは」
 優しく問われてレインは口ごもった。自分が何とかしなければと気負っていたのは事実だ。だがそんな風に穏やかに諭すように言われればどう答えていいかわからなくなる。戸惑いが声音に現れて彼女はうろたえた。押し殺していた気持ちが溢れそうになる。
「あーやっぱりそうですか。無茶癖はこの頃からなんですね。わかりました、わたくしが他の神技隊の人たちに話してきます。きっとサホさんやあけりさんたちなら何とかできるでしょうから呼んできますよ。レインはここで待っててくださいね」
 深く嘆息すると彼は立ち上がった。彼女は座ったままその顔を見上げる。
「まずは怪我を最優先にしますね」
 彼はそう付け加えると背を向けて扉へと向かった。無機質な白なのに温かみを感じさえる部屋から、その姿が見えなくなる。
「頼っていいのよね」
 つぶやくとどっと肩の力が抜けた。だが同時に背後からクーディの失笑が聞こえ、彼女はおもむろに振り返る。
「クーディ」
「悪い、ついな」
「本当悪いわよ。リティが大変なのにあなたが笑うなんて信じられないわ」
「だが、こいつが今こちらにいるのはお前のおかげだ。お前には元気で生きていてもらわないといけない。倒れられたら困る」
 アースの隣、部屋の隅で壁に寄りかかるようにして肩をすくめたクーディは、記憶にある姿と全く同じだった。彼自身は記憶をなくす前の、シリウス時代の記憶もちゃんと維持しているらしい。けれども彼の態度はレインの知るものと同じで、特別違和感はなかった。別の意味で一人取り残されていた彼も、その性格を揺るがすようなできごとには出会わなかったようだ。
「それは、わかってるわ」
「ならいい」
 簡素に答えればそれきりクーディは黙り込んだ。アースの視線を感じながらも、レインは細く息を吐き出して俯く。リティのためにも皆のためにも自分のためにも、少しでも落ち着きたかった。考えるべきことは山程あるのに疲れ切った心がそれを妨げている。
 落ち着かなければ。
 胸中でレインはつぶやいた。メイオとスピルが神魔世界を、黒の世界を、赤の世界を駆け回って調べてくれている。またここに残ってそれなりに元気だったケイファが黄色の世界を探索してくれていた。その報告を待つしかないのだから落ち着かなければと、はやる心を抑えながら彼女は何度も言い聞かせる。
「先輩っ!」
 その時、勢いよく扉が開くと同時に明るい声が響き渡った。目を丸くしてその方を見れば赤毛の少女が取っ手に細い手をかけている。
 イアルと呼びそうになるが、今の名は違うのだと思い直してレインは小首を傾げた。慌てて梅花の記憶からその名前を引っ張り出そうとする。あけりよ、と脳内に囁く声が染み渡った。
「あけりさん、だから今は記憶ないから名前違うんですよ」
「そ、そうだった! すっかりいつもの調子で、ごめんなさい」
 すると急いで追ってきたのか、あけりの後ろから微苦笑を浮かべたよつきが顔を出した。背の低い彼女の上では、彼の頭は丁度乗っているかのようだ。
「ともかくあけりさんはジュリの方をお願いします。ジュリが目覚めてくれたら他の怪我人対策は問題ないですからね」
「はーい」
 よつきに言いつけられて朗らかに返事すると、あけりは傍にあるベッドへ直行した。その瞳が戸惑いに揺れたのは、力の解放のせいでスェイブの姿も元に戻っているためだろう。
「……ジュリさん、髪短くなってる」
「それが元の姿ってところでしょう。ってそんなこと気にしてたら駄目ですよ、世の中気にしない方がいいことばかりなんですから」
 けれどもよつきは訳知り顔だった。ラウェイそのものではないかと思う程に、妙な達観の仕方だ。笑顔の裏にさえ黒い何かが見える気がする。
「ちょっと待ってください、よつき先輩」
「あーすいません、サホさん。あけりさんが走り出したのでつい追いかけてしまいました」
 そこでよつきの背後からさらに別の声がした。聞き覚えのあるふわふわとした柔らかい声が、鼓膜を心地よく震わせる。
 ミィーン。
 昔の名前を導き出してから、今の名前がサホだったことをレインは思い出した。よつきも口にしていたから確かだろう。特殊能力に秀でた彼女はこんな時にはかなり心強かった。
「じゃあサホさんは……レーナさんの傷をよろしくお願いします。眠ってるみたいですし傍に怖い二人がいますが気にしないでくださいね」
「はい、大丈夫です。慣れてますから」
「どういう意味だ」
 入ってきたのは軽やかな銀髪の、予想通りミィーンと同じ顔をした少女だった。安心してください、と囁きながらやってきて彼女へ、アースがうろんげな視線を向けている。
「あ、聞こえてました? ごめんなさい。その、レーナさんのことでアースさんが不機嫌なのは慣れてるということです。シリウスさんが無口なのはいつものことですしね」
「お前も言うようになったな」
「……もう一人とは私か。心外だな」
 そう言いながらレーナへと近づくサホは何度も頭を下げていた。けれども怯えている様子がないのはレインの目にも明らかだ。アースのにらみにもシリウスの憮然とした視線にもうろたえないし、壊れかけたリティにも優しい目を向けている。
 よかった。
 心底レインはほっとする。記憶がなくても二人は大丈夫だ。間にある溝など意に介せず、こうして来てくれたのだから。
 あとは、自分たちがしっかりするだけだ。
 そう言い聞かせてレインは自嘲気味に微笑んだ。それがいかに難しいことか実感していたからこそ、重いため息がもれた。

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