white minds

第三十九章 交錯する思い‐4

 瞼越しに感じた日差しの強さにアースは眉根を寄せた。温かな光を怪訝に思いながら目を開けば、視界にぼんやりと白い部屋が映し出される。森の中でも荒野でもない、見慣れた壁に見覚えのある器具が並んでいた。ここは治療室だ。そのことを認識してほっとしながら、彼は辺りを見回した。
 眠っている間も緩まなかったらしい腕の中にはレーナがいて、浅い呼吸を繰り返している。どうやらずっと眠り続けていたようで、固く瞳は閉ざされていた。ただでさえ白い肌は病的に青白く、大丈夫かと問いかける意味すらない状態だった。
「起きたか」
 そこで声が降りかかり、彼はおもむろにその方を振り返った。やや離れた椅子に腰掛けているのはシリウスだった。彼以外は皆眠っている。ホワイトやスェイブはもちろんのこと、治癒のためにやってきていたサホもあけりも、セインまでも眠っていた。皆ベッドの上かベッドにもたれかかるようにしている。何か妙な薬でも嗅がされたかのような様子だ。
「寝てる、な」
「ああ、寝ている。疲れもあるが感化されたためだろう」
「感化?」
「こいつやホワイト辺りが原因か。精神力の豊富な奴が負の感情に囚われると、それは周囲にさえ多大な影響をもたらす。一部では神風邪と呼ばれる状態だ。感化された者たちはひどく眠たくなり、発熱に苦しむ者もいる」
 淡々と説明するシリウスを横目に、あいていた手でアースは自分の額に触れてみた。熱くはない。どうやら彼自身は感化されなかったらしい。だがよく見れば傍にいるサホの頬は紅潮していて、その背には控えめにシーツが掛けてあった。
「お前は大丈夫なのか?」
「私は一時期部屋を出たからな。レインやよつきもそうだ、だから今はいない。どうやらこいつは今よくない夢を見てるらしい。寝てるのに負の気が漂うとはやっかいだな。周りにも当人にも」
 軽く嘆息してシリウスはレーナを一瞥した。彼女自身も若干温かいことに気づいてアースは眉根を寄せる。その神風邪とやらの影響なのだろうか。
 もしあの夢を見ているなら、穏やかな眠りのはずはない。彼女が全く同じ光景を見ているかどうかは定かではないが、ともかく思い出したくもない記憶には違いなかった。
 夢のおかげでグレイスのことは何となくだがわかった。そしてブレードのことも。少なくともブレードとリティの関係が良好ではなかったことは確かだった。だから皆口を揃えて言っていたのだろう、『ブレードと同じ顔の』と。
 どうりで青葉とブレードが互いを受け入れられないわけだ。
 アースは内心で苦笑した。だからブレードも青葉も不安定なままなのだ。他に目覚めた者は皆大丈夫だというのに、彼だけ居所がないかのようにふわふわとしている。
「だがお前がいるうちは大丈夫だろう。気の乱れも少ない」
 すると不意に笑い声をもらしてシリウスはそうつぶやいた。アースは訝しげに首を傾げる。言っている意味も何故笑うのかも理解できなかった。事態は深刻だというのに、何故だかシリウスは安堵しているように見える。
「深く考えるな、気の相性の問題だ。普通はこんなに早く自己崩壊から回復したりしない。不安定なままでかなり危険なのだが……少なくとももう消えることはなさそうだな」
 しかし笑った理由は言わずにシリウスはそう付け加えた。彼はそのまま立ち上がり扉へと向かう。遠ざかる背中を呼び止めようと、慌ててアースは口を開いた。
「どこへ行くんだ?」
「レインたちの様子を見てくる。そろそろメイオたちも戻ってくるらしいしな、今後を考えなければならない」
「今後?」
「魔族界と神界の混乱をどうするかだ。ディーファのせいで全ての世界に波紋が広がった。今どうなってるかはメイオたちが調べてくれているが、いい状況ではないはずだ」
 扉に手をかけたままシリウスは振り返った。青い髪がさらりと揺れてアースは思わず目を細める。青はどうしてもグレイスを想像させた。ディーファも青なのだが今のアースにとってはグレイスの方が重要だ。どうして彼女はこうも青い者たちと関わるのか。不思議な気持ちになる。
「ここは頼む。しばらくは誰も目を覚まさないだろうが」
 そう言い残してシリウスは治療室を出ていった。扉の閉まる無機質な音がさらなる静寂を告げて、アースは思わず嘆息する。
 次にここに誰かが来る時、それがいい知らせであるといい。彼は心の中で小さくつぶやいた。これ以上問題が起こらないことを祈って。




 信じられない報告にレインは息を止めて瞬いた。言葉の意味をもう一度噛みしめて、だがそれでも信じられなくて首を傾げる。
 彼女がいるのは司令室だった。彼女だけではない、この場にはよつき、シリウス、そしてメイオとスピルがいる。今し方メイオたちから外部の状況を聞いたところだった。けれどもそれが信じられない状況なのだ。喜んでいいのか悲しんでいいのかわからず、結果何と言っていいのかわからなくなる。
「そりゃあ驚くわよね。でも、本当なの」
「二人は……直接会ったんですか?」
「いや、直接ではないわ。何てったって近寄れない状態だったんだもの。あんな風になってしまったら……まるで精神を吸い尽くす生命みたいなものだわ。誰も近寄れない。魔族でさえ近寄っていないみたいだったもん。ああ、数人はいるみたいだったけれどね」
 立ちつくすレインの肩をスピルが軽く叩いた。レインは相槌を打ち、横にいるメイオを見上げる。メイオもゆっくりとうなずいた。二人が言うなら本当のことだろうと、レインは混乱を収めるよう必死に努力する。
 ダークとジーンが生きていた。
 それが二人の告げた衝撃的な事実だった。いや、生きていたという表現が正しいかどうかはわからない。彼らの核は確かに魔族界に存在し、その気が感じられたという。だがそれは極度に不安定で、そして体を維持する最低限の精神すらあるかないかの状態だった。『普通なら』体が消えているはずの精神量。それなのに気は確かに存在し、そして魔族の頂点が蘇ったという噂が魔族界には流れている。
 しかもそんな状態に陥っているのはなにも二人だけではなかった。黄色の世界の隅でも、神魔世界でも、同様の現象が起こっているという。
 死んだはずの者たちの気が存在して、周りの者の精神を吸い取る現象が。
「魔族の一部は精神が吸い取られていることはあえて無視して活発化してるわ。着々と戦力を集めて……たぶん神をうち倒すつもりよ」
 スピルはそうつぶやいて大きく嘆息した。最悪の事態が生じていると考えていい。ディーファはいなくなったのに戦いが止まらない。それなのにこちらの戦力は既にぼろぼろであって。
「それで、神の方は?」
「それがねえ、一部がその魔族の動きに気づいて応戦する気満々なのよ。何とか話してみようとしたんだけど無視されてさ。私たちのこと実際に知ってる人ほとんどいないし、どうやら神技隊に対する信用がないみたいでね。どうしようって感じよ」
 レインが尋ねるとさらにスピルは脱力した。もう嫌、とつぶやいた彼女は傍にいるメイオにもたれかかるようにする。メイオの大きな手が彼女の頭を柔らかく撫でた。その慣れた優しい仕草に彼女の頬がほんの少しゆるむ。
 本当に最悪だ。レインも脱力しそうになりながらも何とか踏みとどまり、傍にいるよつきとシリウスを見やった。二人は顔を見合わせながら何やら目で語り合っている。その口角は歪みながらも器用に上がっていた。苦い笑みというやつだ。
「つまり、相当問題な事態ってことですよね」
「そうだな、相当問題だな。おそらくディーファの攻撃が影響して危機感が強まったのだろう。そこへ魔族へは希望の噂が、神では良くない噂が広まって戦闘準備が始まったというところか」
 二人は苦笑しながら口々にそう言った。そりゃ信用ないですよねーとよつきがもらし、あの馬鹿どもがまた馬鹿をやらかしているのかとシリウスが毒づく。
 どうにかしなくてはならない。同じ過ちを繰り返さないためにディーファを倒したというのに、これでは全く意味がない。レインは強く拳を握りながら唇を噛んだ。それなのに焦りばかりが先行して思考がまとまらなかった。何が起こっているのか、何故こうなったのか、何をすべきなのか考えられない。
「ともかく、神界の方は私が様子を見てくる。一応顔が知れてるからな」
 そこで意を決した様子でシリウスが宣言した。彼は転生せずに地球に残った神だ。彼ならば確かに話を聞いてもらえるかもしれない。
「そうね、お願いするわ」
「だがあいつらは頭が固いからな、説得には時間がかかるだろう。今までの恨みが重なってアルティードでさえにわかには『昔の話』を信じてくれなかったくらいだからな。期待はするな」
 しかしシリウスはすぐにそう付け加えた。傍にいたよつきがえっ、と声をもらして驚きに目を見開く。アルティードという名前はレインも知っていた。現時点で神を統制している者だ。その名前は梅花の記憶にしっかりと焼き付いている。
「そうだったんですか……」
「魔族と神が仲良かった、なんて話を信じられる神や魔族はそういない。皆親しい者を奪われているからな。アルティードだってそれは例外じゃない。ディーファのことを直接知らなければ信じられるわけがないんだ」
 染みついているから、とシリウスは苦々しくつぶやいた。理由もわからぬ戦いが始まってからもう何億もたっている。その間に根付いた『常識』を覆す事実を受け入れることは困難なのだ。
「そうね、でも何とかしなくてはいけないわ」
 だがもう繰り返してはならない。決意を込めた声でレインは囁いた。よつきもシリウスもメイオもスピルも、力強く相槌を打つ。そして同時にシリウスの姿はかき消えた。神界へ向かったのだろう、その気配は既に黄色の世界にはない。相変わらず行動が早いとレインは口の端を上げた。
「神の方はクーディに、シリウスに任せましょう。神魔世界での戦闘防止はとりあえずスピルたちに任せるわ、いい? それで問題は魔族界なんだけど……」
 シリウスの消えた空間を一瞥して、言いながらレインは眉根を寄せた。今魔族界に顔が利く者は誰もいなかった。魔族と知り合いが多いのはリティなのだが、彼女を今動かすことはできない。無論敵として認知されている神が行くのは危険だし、かといって神技隊を行かせるのはさらに危険だった。適任者が、いない。
「ウィザレンダとかあの辺の封印が解けてたらオレたちでも大丈夫なんだけどなあ」
 スピルの頭を撫でながらメイオは肩の力を抜いた。ジーンの直接の部下の中でも、上位の神と面識があるのは一部の者だけだった。ダークを主に支えていた幻麗陣や禁剛陣、陽空陣の部下である。しかし誰が蘇っているのかはわからないし、中には既にディーファによって殺されている者もいた。探すにしてもそれもなかなか危険な選択肢なのだ。
「まあとにかく、ダークたちの現象を掴むためにも同じようなことが起きてるとこを当たってみましょう。それからよ。ダークやジーンと接触できれば早いんだから」
 そこで元気を取り戻したのか、メイオから離れてスピルがにっこり微笑んだ。立ち直りが早いとレインは思う。だからこそ頼りになった。ホワイトもセインも当てにならない中で大丈夫だと思える存在は少ない。
「そうですね。じゃあよつきたちには……この船の平穏と安定をお願いします」
「ちょっ、それってひょっとして一番難しいんじゃないですか!?」
「リティもブレードもみんな負の気を放ってるのよ、私たちみたいに過敏な者はやられてしまうわ。だからできるだけ技使いには正の気を放って欲しいのよ。そうじゃないとスェイブも目覚めないし、私も倒れかねないわ」
 よつきはうろたえながら慌てたが、レインは困ったように小首を傾げて彼を見上げた。正直今でも辛いのだ。ただでさえリティの感情は流れ込みやすいのに、ブレードでさえ今はふさぎ込んでいる。おそらくリティが再び自己崩壊を起こしたことが原因だろう。彼も過去の傷をえぐられたのだ。
「まあ、そう、そうですが」
「私はここから周囲の気を探索してみるわ。もしかしたらウィザレンダたちを見つけられるかもしれないし」
「な、なるほど。で、ではわたくしは鈍感な人たち集めて看病に努めますね」
 だが困惑しながらも自分に言い聞かせたのか、よつきはぎこちない動きで首を縦に振った。我が部下ながらひどいことを押しつけてるなと思うのだが、気を遣う余裕は今のレインにはない。
「ああ、そうです」
「何?」
「桔梗さん、寂しがってますからたまには抱いてあげてくださいね。気の探知なら傍にいても大丈夫でしょう? メユリちゃんたちも疲れてるみたいですから」
 しかし司令室を出ようと歩き出したよつきは、急に思い出したのか途中で振り返った。朗らかな笑みを浮かべて、それこそ平和の最中のように優しく言い残して、彼は軽やかに手を振る。
「わかったわ」
 レインも微笑んだ。それを契機にメイオとスピルの姿も消えた。取り残された彼女は静かな司令室で、そっと小さく息を吐き出す。
 平穏への道のりは、まだ遠かった。心の平穏までの道のりも、まだまだ遠かった。




 歪む視界の中でイーストはかろうじて意識を保っていた。冷たい石に手を着けばほんの少し吐き気が弱まり、手放しかけていた理性が戻ってくる。
 体が痛い。全身が引き裂かれるように痛い。体中の感覚という感覚を一つずつ刺激されているようだった。どうして自分は死なないのかと自問したくなるくらいだ。
「だから戻っていろと言っただろう、イースト」
 そこへ不意に、目の前に黒い影が覆い被さってきた。その大きくも温かい腕にほっとして、誰が来たのか彼は認識する。この腕はバルセーナのものだ。
「バルセーナ、様」
「この近くにいればお前たちは死ぬぞ。私でも立っていられないんだ。あの扉へと近づけば、さらに吸い取られてしまう」
 見上げた先のバルセーナの顔も、苦痛で歪んでいた。精神を吸い取られているのはイーストだけではないのだ。バルセーナもベルセーナもウィザレンダもマトルバージュも皆同じ。元の精神量が違うからダメージはイーストの方が大きいだけで。
「戻れ、イースト」
 かすれた声で優しくかけられた言葉に、イーストはゆるゆると首を横に振った。戻りたくないという気持ちもあるのだが戻れないのである。体がいうことを聞かず、転移をすることもままならない。
 ダークとジーンが突然魔族界に戻ってきたのはつい昨日のことだった。何があったのか説明を求めに駆けつけたウィザレンダとマトルバージュが戻らないので、心配してイーストたちも皆向かったのだ。
 そこで、この事態に出くわした。
 ダークもジーンも信じがたい程弱っていた。生きているのが不思議な程精神が不足していて、姿を保っているのがやっとだった。ジーンに支えられて石の寝台に横たわったダークは、青い顔のまま固く瞼を閉ざしている。その隣に座り込んだジーンも虚ろな瞳で来るなと手をひらひらとさせただけだった。
 傍には、精神をほとんど吸われ尽くして意識を失ったウィザレンダとマトルバージュが倒れていた。かろうじて生きているのは、二人の精神のおかげでダークとジーンの状態がほんの少し改善されたからである。
 そうでなければ、あの時いたイーストもレシガもラグナも死んでいたはずだ。五腹心が耐えられるものではない。バルセーナやベルセーナでさえ一時期は歩けなくなったのだから。
「いいから戻るんだ」
「戻れ……ません。少なくとも今は歩くのがやっとです」
 重い息を吐き出してイーストは俯いた。本当は困らせたくはないし、こんなことを言いたくもない。だが戻れないのも事実だった。誰かにこの状態を伝えなければならないというのに。
「そう、か」
「すいません。何とかレシガをつれて外に出ます。この建物を抜け出せば、少しはましになるでしょうから」
 イーストは意を決して立ち上がろうとした。だが石の壁についた手も力無く滑り落ち、体を起こすことさえできない。
「イースト」
「平気、です。……バルセーナ様は?」
「私は残る。このまま彼らを放っておくわけにはいかない。私とベルセーナがいれば少なくとも死ぬことはないだろう。お前たちは何としてでも外へ出るんだ。そして、下の者を止めるんだ」
 声の鋭さに導かれるように、イーストは真正面からバルセーナの瞳を見た。真剣な光の中に焦りと恐れが混じっている。危惧しているのだ、戦いが止まらないことを。過ちが繰り返されることを。
「はい、わかりました」
 答えてもう一度イーストは立ち上がろうとした。壁に体をあずけるようにして割れ目に指を入れれば、ほんの少し上体が持ち上がる。
 青き者の力により、魔族界はひどく傷ついた。だが魔族の頂点が蘇ったという噂は瞬く間に広がった。
 全てを神のせいと決めつけた下の者は、ついに戦力を結集することを決意したのだ。今も着々と地球総攻撃への準備をしているらしい。今度こそ神を亡きものとするために。
 繰り返してはならないのに。
 何とか立ち上がってイーストは唇を噛みしめた。視界はぼやけているが壁づたいなら歩ける。外へ出ればもう少し楽になるのだから、それまでの辛抱だ。
「私もこれ以上、部下をなくしたくはありません」
「ああ」
「止めて、みせます」
 イーストはよろよろと歩き出した。空色の髪が、汚れた服が硬い石にすれて、耳障りな音を立てる。けれども彼は意にも介さなかった。もう誰も親しい者を失いたくないはずだ、それは皆同じはずだと言い聞かせて。
 だから真実を伝えなければならない。
 ゆっくりとした歩みで、イーストは必死に進んだ。

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