white minds

第四十章 全ては愛故に‐1

 屋上から階段を駆け下りて、レインは真っ直ぐ小さな会議室を目指した。仮治療室として使われているその部屋は四階にある。そこにはベレットが、そしておそらくはメイオやスピルたちがいるはずだった。
 彼女が何をしにやってきたのか、知られれば必ず止められるだろう。精神を注ぎますだなんて言ったら、無茶だの無謀だのと反対されるに決まっていた。それでも彼女の決意は変わらなかった。無茶は昔からの癖で、それは今に限ったことではないのだから。だから今さら変える気は毛頭なかった。
 そう、私は無茶ばかりしている。今までも、これからも。
 彼女は目的の部屋の前に立つと、片手で桔梗を抱き直して扉を開けた。中にいたのはやはりメイオとスピル、それにカームとウィック、よつきだった。驚いた顔で振り向く彼らを一瞥して、彼女はつかつかと歩み寄る。ベッドの側に寄れば、すぐに視界に懐かしい顔が映った。
 ベレット。
 声には出さずに彼女はその名を呼んだ。レモン色の髪は白いシーツの上で跳ねていて、上下繋がった深い赤の服は記憶の通り目に鮮やかだ。けれども肌の色だけが病的に青い。閉ざされた瞼の向こうに、苦悩に歪む瞳が見えた気がした。
「レイン、まさか」
 すると何をするつもりか気づいたのだろう、声に鋭さを込めてスピルが彼女の肩を掴んだ。しかしその反応を予想していた彼女は、ちらりとだけ視線を向けて軽くうなずく。
「はい、そのつもりで来ました」
「ちょっとレインってば、頭いいのに馬鹿なんだからもうっ!」
 素直に答えれば案の定、泣きそうな顔で怒るという器用なことをスピルはやってのけた。そしてレインの肩をぐいっと引き寄せてしまう。横から抱き寄せられるような格好となったレインは、無理に引きはがすこともできず微苦笑を浮かべた。桔梗がいるためどうしようもないのだ。
 だがレインたちを不思議そうに見るカームやウィックは、会話の意味も何もかもを理解していないようだった。相変わらずの天然な二人組だ。そのことに脱力しつつも何だか微笑ましくて、レインは不意に泣きたくなる。みんなこんな風に何も考えずに生きていけたらいいのにと、無理なことをつい思ってしまった。
「まあ今回ばかりはオレも言い過ぎだとは思わないぞ、レイン」
「メイオに言われると困りますね……でも約束してきましたから。ああ、心配しないでください、私死にませんし倒れませんから」
「信憑性が薄いな」
 しかしそんな二人とは違い、メイオもすぐに彼女の意図に気がついたようだった。彼との会話でよつきも事態を理解したのだろう、叫ぼうとした言葉を飲み込んで口をぱくぱくとさせている。
 それらは全て、予想通りの反応だった。現在のレインの精神量を考えれば当然の行動だった。だがさらなるスピルの言葉は、彼女の予想を遙かに越えていた。抱きしめる腕に力を込めて、スピルは怒ったように唇を尖らせる。
「もう、本当に自分のことはいつだって気にしないのね。でもね、あなたがそんな寂しそうな顔してるうちは、私は許さないわよ」
「……え?」
「そんなんだから神風邪にやられたり精神量回復しなかったりするのよ。そうでしょう? あなたが幸せいっぱいになれば話は早いじゃない。ベレットはあと一日二日じゃ死なないから大丈夫。そんなに心配ならせめてこの部屋にいなさい。あなたがいるだけで違うでしょうから」
 スピルはまくしたてるようにそう言うと、子どもを見守るがごとく微笑んで頭を撫でてきた。レインは複雑な気分になりながらも小さくうなずく。胸の奥でちくりと傷む何かが、無視してきた何かがうずいたような気がした。
 全てスピルの言う通りなのだ。わかっているからといって自分の心を思う方向へ持っていけないのが難点だが、確かにその通りなのだ。
 私は、幸せになれるの? そんなこと考えていいの?
 ずっと考えてきた問いを、彼女はまた胸中で繰り返した。だが今度はどこからか言葉が返ってきた。自分と同じ声の、けれどもずっと穏やかな声が、歌うように答えを奏でる。
 私が幸せにならないと、幸せになれない人がいる。私が悲しむと、悲しんでくれる人がいる。みんなを幸せにしたいなら、まず自分が幸せでなくちゃいけない。
 レインは桔梗を抱き直して唇を結んだ。甘い言葉は胸に染み入って、何故だかすごく泣きたくなる。
 リティをおいて、一人で幸せにはなれないとずっと思ってきた。セインはホワイトと会えずに、彼女を守れずに苦しんでいるのに、彼を放ってはいられないと思ってきた。そうやってずっとブレードを傷つけてきた。
「それは、わかってるんです」
 苦しげに答えてレインはかすかに微笑んだ。するとスピルは腕をやおら離して、続きを促すように頭を傾ける。レインは眠る桔梗の顔を覗き込んだ。
「私が自分で自分を押し込めてることはわかってるんです。そろそろ何とかしなきゃいけないってことも。でも今は、ベレットを助けたい。私は私が後悔したくないから助けたいんです、それは駄目でしょうか? ベレットを放っておいては、私は私を許せないから」
 きっとそれは自己満足の一部だろう。けれども今精神が必要なら、多くの者たちを助けるために回復しなければならないのなら、自己満足でもいいと思えた。今はただ、自分のためにベレットを助ける。ブレードを悲しませたくないというただその思いのためにベレットを助ける。それは不純な動機だ。ベレット自身は喜ばないだろう理屈だ。
「レイン……」
「ええ。私、久しぶりに私のために頑張ってみようと思うんです。ブレードのためにじゃなくて私のために。だってブレードのためになんて言ったら、また重荷を背負わせることになりますよね? それは嫌です。だから私のためにベレットを助けます。そうすればきっと、前よりずっと真正面からベレットと向かい合える気がするから」
 言いながらレインは爽やかに微笑んだ。宣言してしまえば何だか清々しくなり、今度は真っ直ぐスピルの瞳を見つめ返すことができる。
 ブレードと距離を置き続けてた彼女を、ベレットはいつも複雑そうに見つめていた。ブレードを好いていたベレットにとっては、二人の仲がうまくいかないことは喜ばしいことのはずだった。が、それで傷つくブレードを見るのは辛かったようだ。
 けれども、もう繰り返さない。同じことで後悔はしたくはない。
「だからお願いしますスピル、私にベレットを助けさせてください」
 レインは静かに頭を下げた。そのまま顔を上げずにいれば、あーあ、とため息混じりにスピルが困り果てる気配がする。
「もうどうしようメイオ、こんな風に言われたら私止められないわよ」
「だな。強くなったよ、レインは」
「本当ね、どうしてこんなに急に、変われるのかしら」
 ゆっくり頭をもたげれば、苦笑し合ったメイオとスピルが同じように額に手をやっていた。レインはふふっと笑って、傍でぽかんとしているよつきを一瞥する。
「それは梅花のおかげです。私と彼女は本当に同じで、辿った道は違うはずなのに本当同じで、そして彼女は変わってくれたから、私もきっと変われるなって」
 ね、とレインは胸中にいる梅花に問いかけた。いや、おそらくもう半分程は同化している存在だから、『いる』というのはおかしいのかもしれない。
「た、確かに……梅花先輩の変わりっぷりと似てきましたね。まあ、その、メイオやスピルはシン先輩とリン先輩そのままって気もしますが」
 すると立ちつくしていたよつきが肩の力を抜き、そうつぶやくようにもらした。そんな彼をメイオは首を傾げて見たが、隣にいたスピルはくすりと笑って一瞥する。
「私はね、メイオがいれば生まれ変わったって私らしくいられる自信があるわ」
「なんか、さらりと惚気られた気がするんですが」
「気にしない気にしない。ほーら、カームやウィックだってほとんど変わらないでしょう? 核の力が強いからね、相棒さえいればいろんなものが維持されるのよ」
 そう付け加えるスピルの言葉に、レインは思わず苦笑した。記憶にあるシンとリンの姿を、陸とすずりの姿を思い描けば、うなずかずにはいられない。
 受け継がれるものは受け継がれる。だが変化できるものは変化できるのだ。
 だってあれだけリティが変われたんだものね。
 レインは心の中で小さくつぶやいた。まだ全てが終わったわけではないのだから絶望してはいけない。ベレットを助けて皆を目覚めさせて、戦いを止める。無謀だが無理だと決まったわけではないのだ。
 ディーファとリティを隔てたもの。それはかすかな希望を、未来を信じたが否か。
「もうわかったわ、じゃあレイン、ベレットをお願いね。その代わり他の人たちを何とかできるよう、私たちは頑張っておくわ」
 観念したスピルの声に、レインは首を縦に振った。胸の痛みも寂しさも完全に払拭できたわけではないが、それでも何とかなるような気がした。
 彼女は眠るベレットの横に腰掛けて手のひらをかざす。その口元には、無意識に微笑みが浮かんでいた。




 一階にある本来の治療室を出たよつきは、音を立てずにそっと扉を閉めて息を吐き出した。その隣には珍しくサイゾウ、アサキ、ようが立っており、同じく重いため息をついている。
 四階の仮治療室へとやってきた三人を引き連れて、彼は治療室へと顔を出したのだ。ジュリが目覚めたとの知らせを彼らが伝えに来てくれたからだ。しかし実際行ってみれば彼女はまだ寝ており、穏やかな浅い呼吸を繰り返している。傍にいたときつに聞けば、一瞬は起きたがまた眠ってしまったということだ。
「ジュリが目覚めてくれないとわたくし、とても困るんですが」
「だよな、ジュリがいればそれなりにみんな元気にしてくれるだろうし」
「そうだよねー、でもやっぱり相当ダメージ受けてるんだね。すぐ寝ちゃうなんて」
 歩きながら思わず愚痴をもらすと、サイゾウとようからも賛同が得られた。ちらりと肩越しに視線をやれば、アサキは複雑そうな微笑を浮かべて頭を傾けている。だがどうやら気持ちは同じようだった。それを口にしたくないだけで。
「こんなに待ってるのに」
 ぽつりとつぶやいてから、よつきは自嘲気味に口角を上げた。まるで恨み言のようだと思う。本当は自分が傍にいて助けとなれたら最高なのだ。しかし彼にはそれができない。そんな余裕もなければ、彼が傍にいること自体の利点が見いだせなかった。例えばアースが傍にいればきっとレーナの気は安定するだろうし、アキセが傍にいる方がサホは安心して治癒の力を発揮することができる。だが少なくともよつきたちの間にそのような関係はない。妙な『腐れ縁』が存在するだけだ。
「よつきってさあ」
 すると言いにくそうに、けれどもどこか面白そうな調子でサイゾウが口を開いた。よつきは首を傾げてサイゾウの方を振り返る。彼が何を口にしようとしてるのかさっぱりわからず、自然と額に力が入った。
「ジュリのこと好きなのか? いや、なんか違う気もするんだよなあ」
「は、はあ。好きか嫌いかと言われれば好きですが。そういう意味じゃありませんよね」
「そりゃな。でも何だろう、普通の好きじゃあないよな。なんつーか、家族とか兄弟に近いような」
 うなりながら眉根を寄せたサイゾウを、よつきは困ったように見返した。それは彼自身も疑問に思っていてもてあましていた感情だったから、うまくは答えられなかった。幼馴染みという感覚に近いのかもしれないが、それだけではない何かもある気がする。スェイブの言いぐさではやはり以前も似たような状況だったらしく、少なくとも艶のある話は出てきそうになかった。
「そうですねえ、同志みたいな感じですかね。兄弟だとどっちが上だかわかりませんし」
「ああ、じゃあ双子かそんなところか」
 よつきは適当にはぐらかそうとしたが、サイゾウは自分で勝手に言って納得したのか満足そうにうなずいた。それも少し違うようによつきは思うが、言い得て妙なようにも感じる。
 ホワイトによってともに対として生み出された存在。メイオとスピルはいかにも恋人といった風だがカームとウィックは兄弟に近い。同じ『対』とはいえ微妙に異なる関係が築かれるらしい。だがその二人が互いに特別な者として認識しているのは確かだった。シリウスや今は倒れているベレットが対ではないのは、その面倒さを考慮したためなのか……。
「あっ」
 だがそんなよつきの思考を遮ったのは、驚いたように発せられたサイゾウの声だった。彼は修行室手前の階段際で立ち止まり、その上を見上げている。
「ブレード?」
 よつきはサイゾウの視線の先を追った。目に入ったのは階段の踊り場に立つ一人の青年だった。その名を口にしないサイゾウたちの代わりに、彼はぽつりとつぶやく。
 見た目は全く青葉と変わらない青年。だが彼独特の朗らかさも明るさもない顔をしたブレードが、階段を下りようとした状態で怪訝そうに顔をしかめている。
 その理由はすぐによつきにもわかった。サイゾウが彼を鋭くにらみつけているのだ。アサキがわたわたながら本当でぇーす、と声をもらし、その隣ではようが喜びに瞳を輝かせている。しかしサイゾウだけが、憎悪すら感じさせる眼差しをブレードへと向けていた。戸惑うブレードはそれ以上降りることができず、その結果二人は対峙したようになる。
「青葉!」
 そして突然、サイゾウは大声を上げた。白い廊下に響いた名前が、よつきの鼓膜をも冷たく震わせる。
「は、はあっ?」
「お前だよお前っ」
 困惑するブレードをねめつけて再び怒鳴ると、サイゾウは勢いよく階段を駆け上った。そして一歩後退するブレードの胸ぐらを掴み、荒くなった呼吸を整えるよう一旦口をつぐむ。
「お前、何でこんな所にいるんだよ」
「は、はあ?」
「あいつが、梅花が一人で頑張ってるのに、何でこんな所にいるんだよっ!?」
 サイゾウのどこか泣きそうな叫びに、よつきははっとした。慌てたアサキがその横を通り過ぎて階段を駆けていくが、よつきは全く動けなかった。近寄ったアサキはおどおどしながら暴力駄目でぇーすとサイゾウに囁く。が、効果はまるでなかった。サイゾウは手の力をゆるめることもせず、ブレードの瞳をにらみつけている。
「うめ、か?」
 怪訝そうにつぶやいてから、ブレードは小さくと声をもらした。それが誰を指す名か思い出したらしい。若干顔が青ざめている。
「お前、ちゃんと守るって言っただろ。傍にいるって言ってただろ。それなのに一人で頑張らせて辛そうな顔させるなんて、それはお前が一番嫌いなことじゃなかったのかよ!?」
 サイゾウが激怒する理由は、放たれた言葉に表れていた。きっと彼の脳裏にはベレットへと精神を注ぐレインの姿が映っているはずだ。強さの中にも儚さをたたえた横顔も、より白くなった手も、彼女がいかに無茶をしているかを語っていた。よつきは唇を強く噛む。
「でも、オレが傍にいるとあいつは――」
「あーうるさいうるさいっ! うだうだ考えるなんてお前らしくない! ……いや、ある意味お前らしいか。いつもは何も考えずに突進するのに、いざというときは考え込むんだよなあ。あのな、お前が隣にいてあいつが困るわけないだろう? 何をするわけじゃなくても、ただ隣にいるだけであいつは幸せなんだよ。そういう顔するんだよ。まさか知らないなんて、オレは絶対言わせないからなっ!」
 そこまで言い切ると気が抜けたのか、サイゾウは手を離してゆっくりと後退した。そして困り切っていたアサキを無視して踵を返し、一気に階段を駆け下りる。
「サイゾウ、ちょっと言い過ぎだよー」
「うるさい、オレは怒ってるんだ」
 ようが泣きそうな顔で抗議したが、やはり彼は聞く耳を持たなかった。ただ長めの髪からちらりと見えた瞳は、ようと同じく泣きそうに細められていた。
「サイゾウ、落ち着くでぇーす。一度部屋に戻るでぇーす」
「その前に食堂だ、オレ腹へった。神や魔族と違って食わずに生きてけないからなあ。まあそろそろ神魔世界に戻らないと食料もピンチだけど」
 けれどもすぐ明るい表情に戻ると、降りてきたアサキの肩をサイゾウは軽く叩いた。ようが大きく賛同を唱えたので、三人は連れだって食堂の方へと引き返していく。乾いた足音に乱れはなく、先ほどの騒ぎが嘘のようだった。
 よつきはそんな彼らの背中と、立ちつくしたブレードとを交互に見た。何と言っていいかわからない。こんな時にかける言葉が、よつきには見あたらなかった。
「でも」
 しかし彼は小さくつぶやく。
 サイゾウの言う通りだ。自分たちはすぐ何でも考え込みすぎるのだ。傍にいたいなら傍にいたいと、そこに理由なんてないと、思うままに行動した方がいい時だってあるはずだ。
「オレは――」
「ブレード?」
「オレは馬鹿なんだよな、いつだって。いや、オレたちは、か」
 ブレードの自嘲気味な声に導かれて、よつきは顔を上げた。だが不安とは裏腹に、ブレードの瞳には先ほどにはない光が宿っていた。決心とも取れる強い意志が。
「行ってくる」
 かろうじてそう聞こえる程度に囁いて、ブレードは階段を駆け上った。よつきは唖然としてその様を見守る。まさか突然のサイゾウの言葉が、こんなにも影響を与えるとは思わなかった。何も詳しい状況を知らない人間の言葉が、こんなにも胸に響くなんて。
「わたくしも、行きますかねえ」
 口角を上げてよつきは踵を返した。廊下に響く足音さえ、何故だか今は心地よかった。
 それはかすかな、しかし確かな転機。

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