white minds

第四十章 全ては愛故に‐3

 静寂の中聞こえた扉の音に、ぼんやりとよつきは視線を移した。かすかな音だったが空耳ではない、確かに聞こえたのだ。じっと見つめれば遠慮がちに開かれた扉が閉じ、今度は小さなノックが聞こえてくる。不思議に思いつつも適当に返事したよつきは、それが信じがたい程ゆるゆると開けられるのを黙って見守った。
 レーナたちが出て行ってから治療室にいるのは、彼とスェイブ、セインとホワイトだけだった。だから今まで話声一つしなかったのだ。そうでなければこんな些細な音になど、全く気がつかなかっただろう。
 そんなことを考えていると、控えめに開いた扉から小さな頭がひょっこりと顔を出した。
「メユリちゃん?」
 小動物のごとくそろそろと入ってきたのは、予想外にもメユリだった。ジュリの妹である彼女はここしばらく桔梗の遊び相手をするかもしくはダンたちと一緒か、とにかく食堂にこもったままだった。神は何も食べないのでそこは神技隊だけの場となっており、一種の隠れ家のような状態なのだ。そんな風にできる限り神々から離れてきた彼女が、こんなところに顔を出すとは驚きだ。
「よつきさん、お姉ちゃんは?」
 知ってる人がいて安心したのか少し微笑んで、メユリは彼へと近づいてきた。どうやらダンたちはついてきていないらしい。ということはこっそり一人で抜け出してきたのだろうか。
「まだ眠っていますよ」
 よつきは残念な事実を告げることが心苦しくて、声を低くしてそう答えた。心許なくて握ったスェイブ手はほんの少し汗ばんでいるが、いまだにぴくりとも動く気配がない。もはや何が原因で目覚めないのかわからなかった。精神量が問題なのかそれとも神風邪が原因なのか。それすら定かでないからこそ、より不安がつのる。
「そうなんだ……」
 メユリはとぼとぼと歩いてくると、眠るスェイブの顔をそっと覗き込んだ。髪の色も長さも服も違うその様を彼女がどう思っているかは知らない。そもそもこの複雑な現状について、誰かから説明を受けているかも定かでなかった。しかしその瞳は不安そうに揺れていた。心配なのかと聞くまでもなく、案じている者の表情だ。
「大丈夫ですよ、ちょっと疲れが溜まってるだけですから」
 だから励ますようにそう答えてよつきは微笑んだ。見上げてくるメユリの顔がほんの少し緩んで、こくりと首が縦に振られる。同時にくせのある髪が揺れた。
 こんな妹を心配させて彼女は何をしているのだろうか。いつも気にかけていたというのに、こんな時にほったらかしだなんてあんまりだ。数日ならともかくホワイト以外はもう皆目覚めたのだから、そろそろ起きてもいい頃なのに。
 よつきは心の中でスェイブを責めた。いや、実際はジュリを、かもしれない。断固として彼をメユリに近づけなかった彼女を思い出せば、ひどく遠い日のことのように思えた。それほど時が流れたわけではないのに、あまりに多くのことがありすぎて感覚がおかしくなっている。この黄色の世界にいるとなおさらだろうか。
「あっ」
 すると突然、メユリが目を見開いて声を発した。不思議に思って彼女の視線を追ってみると、スェイブの瞼がやや動き軽く眉根が寄っている。
 まさか。そう彼は胸中でつぶやいた。今まで自発的には全く動かなかったのに、このタイミングで目覚めるとでもいうのだろうか。大事な妹に心配はかけられない、とでも言うように。
「お姉ちゃん」
「スェイブ」
 期待に震える二人の呼び声が重なった。それまで重い顔で俯いていたセインでさえ、不思議そうに彼らの方を振り返る。
 変化は一瞬だった。全く動かなかったスェイブの瞼が持ち上がり、周囲へとくまなく視線を巡らせた。そして安堵したように息を吐き出すとおもむろに上体を起こす。すぐ側にいたメユリは驚いて身を引き、よつきは言葉を失って何度も瞬きをした。
「お姉ちゃん?」
 もう一度メユリは呼びかけた。よつきに握られていない方の手を額に当てて、スェイブはゆっくり彼女を見下ろす。その瞳には確かに妹を見守る温かさがあった。見慣れない者を見下ろす気配ではなく、親しい者を見つめる目だ。
「すいません、また心配かけましたね」
 開口一番にそう言って、彼女は申し訳なさそうに微笑んだ。眼差しはメユリへと向けられているが言葉は他の者に対しても、だろう。よつきは肩の力を抜き相槌を打つ。するとスェイブは視線を上げて彼を見つめてきた。柔らかい眼差しを向けられては、それまで溜め込んでいた文句は全てどこかへ消えてしまう。
「途中からはもう目覚めても大丈夫な体調だったんですが、ホワイトの影を捉えたのでちょっと呼びかけてたんです」
「ホワイトの!?」
 彼女がそう事情を説明すると、黙って聞いていたセインが歓喜の声を上げた。それも仕方のないことだろう。ホワイトがどうなっているのか全くわからない状況で、彼女の言葉は確かに一つの希望だった。立ち上がった彼が近づいてくるのを、スェイブは微笑んで見上げる。
「はい。丁度レインがやってきてくれたので、交代の機会だと思って戻ってきました。今はレインが一人で呼びかけてます。本当はリティと二人で呼びかけた方が効果的なんでしょうが」
 そう彼女は言葉を続けた。ホワイトの影を捉えるというのがいまいちよつきにはわからないが、人間にはできなくとも彼女たちには可能な行為なのかもしれない。そもそも彼女たちの本体は『核』なのだ。きっと肉体ではない状態の話だろう。
「でも、レインがやってきたということは、もうベレットの治療は終わったんでしょうか?」
 そこでふと重大な事実に気がついて、よつきは立ち上がった。手を離すのを忘れていたためスェイブも引きずられるような格好となり、ベッドのシーツが一部床へとずり落ちる。
「あ、ああ、すいません」
「いえ、そんなことはいいんですが。……ベレット、ですか?」
 彼は慌てて手を離したが、スェイブの瞳には鋭い光が宿っていた。どうしてその名前が出てくるのかと、目だけで問いつめているようだ。それは妹に余計な話が吹き込まれそうになった時のジュリと同じで、地雷源だなと咄嗟によつきは悟る。妙な言葉で適当にごまかさない方がいいだろう。
「その話は後で詳しく。とにかくすぐに状況を確かめてきます」
「どこへ?」
「四階の仮治療室です。あ、スェイブも行きますか?」
 だから彼は今説明するのを避けた。問いかければ彼女はうなずき、ずれたシーツを元に戻して立ち上がる。
「はい、私も行きます。あ、セインはここに残ってホワイトを見ていてくださいね。もしかしたらレインの力で目覚めるかもしれませんから」
 彼女は歩きながらセインへ告げると、そのまま扉へと向かおうとした。だが途中で思いとどまって立ち止まり、メユリの方を振り返る。
「メユリはここで待っていてくださいね。すぐ戻ってきますから」
「本当……に?」
「ええ、本当です。状況を確認次第私もこちらでホワイトの精神補給にかかります。ですからすぐ戻ってきますよ、心配しないでください」
 そう言って優しく微笑みかける横顔は、よつきがよく知るジュリのものだった。メユリへと惜しみなく愛情を注いでいる時の、穏やかで温かい笑顔。それはたとえ髪の色や長さが、服装が違ったとしても、ジュリなのだと感じさせる力を持っていた。メユリは力一杯うなずく。それを確認して、スェイブは扉の取っ手に右手をかけた。よつきもその後に続いて治療室を出る。
 廊下を行く時間も階段を上る時間も、やけに長く感じられた。何度も行き来している行程なのに、白い壁も天井もどこまでも続いているような気になる。
「ここですね」
 それでも歩いていけば辿り着くわけで、確認するスェイブによつきはうなずき返した。彼女の白い手がためらうことなく扉を開ける。すると同時に中にいた数人が一斉に振り返った。彼らの息を呑んだような気配が、気の感情に疎い彼にも伝わってくる。
「スェイブ!」
 まず喜びに叫んだのはスピルだった。淡い山吹色の髪を揺らして駆けてきた彼女は、スェイブの両手を踊りださん勢いで取る。
「ちゃんと目覚めたのね」
「はい、心配かけて申し訳ありませんでした」
 手を引き寄せるスピルへと微笑み返し、スェイブは軽く頭を下げた。二人の邪魔にならないよう部屋へと入ったよつきは、音を立てずに扉を閉める。
 部屋の中は予想していたより静かだった。カームとウィックの姿がないのがその原因だろうか。死んだように目を閉じ椅子に座り込むレインの肩を、ブレードが抱いている。そしてそこからやや離れた簡易ベッドの上にはベレットが横になっていた。ベレットの傍にはメイオがついている。だが彼らを取り巻く空気は微妙で、どことなくぎこちなさが感じられた。
「レインは今ホワイトを呼びかけるために、一時こちらから意識を遮断してます」
 スェイブはそう説明しながら、浅い呼吸を繰り返すレインを一瞥した。よつきもその方を見る。前に見ていたより穏やかな横顔なのは、ブレードが傍にいるためだろうか。少なくとも見た目ではレイン自身に命の危険はなさそうだった。
「じゃあ」
「はい、これでリティが戻ってくればきっとホワイトは目覚めると思います。手応えはありましたから。ただ、あともう少し力が必要なだけで」
 期待するスピルへと向き直って、スェイブはそう続ける。その報告は室内を活気づかせ、聞いているよつきの気持ちをもさらに上向かせた。鋭さを含んでいた部屋の空気が、若干和やかなものとなる。
「そう、今リティは魔族界なのよ。でもダークたちを助けて戻ってくるはずだわ。どれくらい時間がかかるかわからないのが難点だけど……きっとすぐ帰ってくるわ、絶対」
 同じくスピルも元気づけられたのか、朗らかにそう言い切った。そしてスェイブと顔を見合わせて微笑みあう。それはまるで全ての事情を見透かしたかのような笑顔で、安堵した者の表情だった。レインのこともリティのことも、ブレードのこともダークのことも、その他大勢のことも全てひっくるめて案じていた者が、光を見いだした時の顔だ。
 そう、確かに今光が見えたのだ。どうしようもなくただ最悪の結果だけは免れようとあがき続けていた日々の、その先に出口が見えてきたのだ。
 あとは魔族と神の動きだけだなと、よつきもほっと胸をなで下ろした。こちらに関してはシリウスやリティ、ダークたちの働きに期待するしかないが。
「ベレットは?」
 しかしそこで一つ気にかかることがあると言いたげに、声を潜めてスェイブは問いかけた。スピルはベレットをちらりと見てから微苦笑を浮かべる。よつきもつられてベレットを見やった。狭いベッドに寝かされた彼女は口元までシーツをかぶっていて、彼の位置からではその表情はわからない。だが時折メイオが何か喋っているところを見ると会話しているようだった。現状確認というところか。
「あの通り、ディーファの力で蘇ったんだけど何がどうなってるのかわからないみたいね。そりゃそうよね、彼女が一度死んでからずいぶん時がたってるもの」
 そうだ、彼女はダークたちのようにディーファとの対決も知らないどころか、転生が行われたことも知らないのだ。それで一度に状況が理解できるわけがない。全てを把握するにはかなり時間がかかりそうだった。
「そうですか、そうですよね」
 同じことを考えたのか、スェイブはやや眉をひそめてうなずいた。不安に思っているのかそれとも何か別のことを案じているのか、複雑な色を帯びた表情だ。だが彼女が次の言葉を発することはなかった。それを遮るように別の気配が、慣れ親しんだ気が突然部屋の中に現れる。
「シリウスさん!?」
 あまりに唐突な登場に、ほとんど叫びに近い声をよつきは上げた。部屋の隅に転移でやってきたのはシリウスだった。片膝をついた彼は辺りをうかがうがごとく視線をさまよわせ、それから近づいてきたよつきをおもむろに見上げる。
「それなりに面子は揃っているようだな」
「シリウスさん、どうかしたんですか? 確か神界に行ってたはずじゃ――」
「ああ、今戻ってきた」
 尋ねると無愛想なくらい簡素に答えて、彼はゆっくり立ち上がった。上体を起こせば緩く後ろで束ねていた青い髪が揺れて、よつきの視界にくっきりと映る。その青が彼の顔色を不健康な印象へと導いていた。いや、今までそう思ったことなどないのだから、本当に顔色が悪いのだろう。
「何かあったんですか?」
 だからそう問いかけるには勇気が必要だった。気づけば皆の視線が二人の方へと向けられており、続く言葉を静かに待っている。
「アルティードの説得には何とか成功して、それでラウジングやミケルダたちを走らせてたんだが」
 すると重い息を吐き出してシリウスはやや視線を落とした。聞き覚えのある名前に懐かしさを感じながらも、よつきは促すよう相槌を打つ。
「どうやら明日か明後日、魔族が地球総攻撃に出るらしい。それが今の産の神の見解だ。そのための準備が双方着々と進んでいる」
 しかし次にシリウスの放った言葉に、よつきは息を呑んだ。できれば耳を塞いでしまいたかった。顔色の理由を理解したと同時に、自分の顔も青ざめているだろうと容易に予想できる。
「地球外の神が呼び寄せられて神界はかなり騒然としていた。もうこれはアルティードの手に負えるレベルではない。先ほどまでケイルと話していたのだが、彼の説得でもおそらく他の神は納得しないだろうな。神の恐怖は理性を越えてしまった。まったく、どうして」
 続きを口にしたシリウスは、苦渋に顔を歪めながら言葉を途切れさせた。それは今一番聞きたくなかった最悪の事態だった。それまでかすかに見えていた光が突然消え失せ、一瞬で暗闇に覆われたような気分になる。
「そんな……」
「魔族もおそらく似た状況だ。カルマラの話によれば五腹心の一部が戦闘を慎むよう警告してるが、それも一部の者にしか効果がないらしい」
 そう告げてシリウスは嘆息した。五腹心が止める側に回っているというのがよつきには腑に落ちないが、ひょっとしたらダークたちからそれらしい命が下っているのかもしれない。いや、その可能性が高いだろう。
 遅かったのか。
 愕然としてよつきは胸中でつぶやいた。どうしても防がなければならなかった、繰り返してはならなかった。それなのに確実に時の流れはそちらへと傾いている。神と魔族の全面対決だけは、それだけはどうしても避けたかったのに。
 しかし明日か明後日、それが現実のものになりそうだという。
「明日か明後日というと……」
「神魔世界では九月の十二、十三日だな」
「もうそんなにたってたんですね」
「ああ、ここにいたら時間感覚も消えてしまうからな」
 シリウスが苦笑すると、つられてよつきも苦い笑みを浮かべた。常春のようなこの黄色の世界では、時という感覚が欠落している。日も沈まず雨も降らず、ただ黄色い空に白い雲が浮かび、穏やかな風が時折吹く世界。こんな所なら気の遠くなるような時間も気づけば過ぎ去っていくのかもしれないと、そう思わせるだけの場所だった。しかしその間も神魔世界では、神界では、魔族界では着々と時が流れている。神も魔族も動いていたのだ。長い戦いに決着をつけるために。
「どうすればいいんでしょう」
 思わずよつきはそうもらした。弱音など吐きたくなかったがついつぶやいてしまった。どうにかする術など、もうないように思える。
 両者が動き出せばもう戦いは避けられないだろう。一度戦いの幕が切られればそれを止める術はない。やがて、全てが滅ぶ。人間たちはその犠牲となり、憎しみあった神も魔族も滅びの影が見えるまで止まることはない。おそらくそれはディーファが望んでいた世界の終わりだ。それが今実現しようとしている。
「え?」
 だがそこで突然背後から肩に手を載せられて、慌ててよつきは振り返った。見ればすぐ傍に優しい笑みがある。スェイブだ。軽く頭を傾けた彼女は、どこか森を感じさせる瞳で彼を見上げていた。いつの間に近づいてきていたのかと、彼は内心で訝しく思う。
「大丈夫です、まだ終わってません」
 彼女の囁く声は、胸の奥へと染み渡っていった。確かに、まだ世界が滅んだわけでも戦いが始まったわけでもない。そこへ行く道が盛大に切り開けてはいるが。
「数日なら私やベレットたちの結界で何とか双方を押しとどめることができます。だから待ちましょう、ホワイトが目覚めるのを」
「ホワイトが目覚めるのを?」
「はい。きっとホワイトが何とかしてくれます。決意したホワイトの力は、可能性は無限ですから。だから待ちましょう」
 スェイブはそう言ってまた笑った。まるで不幸な未来など存在しないかのように、希望だけが見えているかのように。そして、だからクーディもそんな顔しないでくださいね、と小さく付け加えた。すると彼女の背後にスピルがよってきて、不敵に口角を上げる。それはリンがよく浮かべていた表情と全く同じだった。
「そうよ、スェイブの言う通りよ。未来を黒く塗りつぶしたら駄目なんだから。それが私たちの大敵なんだから。ね? 絶望しないで」
 スピルは手をひらひらとさせて悪戯っぽく言った。彼女たちが強いのは昔からなのだなと、よつきは妙に納得する。同時に安堵した。彼女たちがいれば大丈夫だ。彼らが暗闇に飲み込まれることはない。
「では、私はホワイトのところへ戻ってますね」
「了解。私は巨大結界維持のための準備しておくわ。カームあたりにでもケイファ呼び戻してもらって」
 二人は示し合わせたかのようにうなずき合った。スェイブは踵を返して扉へと向かい、駆け出そうとしたスピルは途中で思いとどまり立ち止まる。スピルはくるりと体を反転させると室内を見回した。
「あ、そうそう。ブレードはそこ動かないでレインと一緒にいてね。メイオはベレットをよろしく。できれば明日までに何とか技使えるところまで回復して欲しいから。よつきはクーディと一緒に神魔世界の方で情報収集して。魔族と神がどこで対峙するのか知りたいから、お願いよ」
 そしててきぱきと指示を与えると、返答を待たずに彼女はまた駆け出した。否、駆けだしたと思った瞬間その姿が消えた。転移だ。カームのところへでも行ったのだろう。彼女がもといた空間をよつきは呆然と見つめる。
「でも、わたくしって実は転移できないんですよねえ」
「そうだな」
「さすがにそんなことまでは考えていないんでしょうかねえ、困りました」
 静かになった室内を、よつきは見回した。だが放たれた言葉とは裏腹に困った風ではなく、自分でも不思議なくらい明るい声だった。彼は頬をかく。
 期限は明日。しかし投げ出す気も戸惑う気も、今の彼にはなかった。

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