white minds

第四十章 全ては愛故に‐7

 昼下がりの懐かしい公園を、味わうように梅花は眺めた。やや重くなった桔梗を抱き直してほんの少し口角を上げる。
「懐かしい?」
「ええ、変わってませんねここは」
 問われて梅花は素直にうなずいた。本当に懐かしかった。時折聞こえてくる子どもたちの声も母親たちの雑談も、平和その物で懐かしい。
 そんなことを考えながら、彼女は乱雲とありかへと視線を戻した。そして見守るような二人を目にして、やや恥ずかしそうに笑う。
 目の前にいる二人の温かい眼差しがどこかくすぐったかった。子どもができたせいだろうか、二人の顔に浮かぶ表情の意味が何となくだがわかった。だからこそ今まで知らなかったむずがゆさまで覚えてしまう。愛してるのだと真正面から言われているようで。
 梅花は青葉とともに、レーナの力を借りて両親のもとを尋ねていた。会うのは一年ちょっとぶりになるのだが、ずいぶん長いこと顔をあわせていないように感じられる。マンションで挨拶を交わした彼らは、そこでは狭いからと場所を変えることにした。歩きながら向かったのは、以前ありかとばったり出くわした小さな公園だ。乱雲たちの家から近いらしいここを、彼女たちはまた話の場として選んだ。
 そこは記憶の中のものとほとんど変わらなかった。季節が違うということを除けば本当に変わらない。梅花自身も見た目ではコートの有無くらいしか違わないだろう。もちろん抱いている桔梗の存在は大きいが。
 そうよね、一年しかたってないんだもの。
 梅花は胸中でつぶやいた。その一年のうちにあまりに多くのことがあったから、既に遠いできごとのように思っていた。けれども一年の月日でこの公園が朽ちるわけもなく消えるわけでもなく。不思議な気分になりながらも彼女は周囲を眺めた。
 あすずもほんの少し大人になっただけで、やはり変わらなかった。たった一人の妹である彼女は今は青葉と何やらベンチで話し込んでいる。少し離れるようにと青葉に頼んでおいたのだ。これから話そうと思っていたことは、あすずの耳には入れたくなかったから。
「それにしても技が使えなくなるなんて……まあ使ってなかったから不自由はないんだけどね。でも変な感じよ」
 ありかはそう言って微苦笑を浮かべた。相変わらず若く見える彼女はシンプルな茶色のコートを羽織っている。隣に立つ乱雲も同じくシンプルなコートで色は黒だ。だがどことなく上品な印象のそれらは、少なくとも今の神魔世界では手に入らない上等なものだった。まだ混乱から抜けきっていない神魔世界では、とりあえず飢えと寒さを凌ぐことが重要だ。見た目を気にする者はほとんどいない。今梅花たちが着ているコートも、一年前に寒さ対策のため安く買った物の一つだ。
「たぶん驚いてるんじゃないかとは思ってたんですが」
「驚きはしたけどね、急に気が感じられなくなったから。でも今は平気よ、慣れたし」
 苦笑混じりにそう言えば、ありかは小首を傾げながら穏やかに答えた。そう言ってもらえて梅花は本当に感謝する。技が使えなくなった経緯も相当かいつまんで話したのに、それでも納得してもらえたのもありがたかった。しかも二人はこちらにいる元神技隊の皆にも説明してくれるらしい。これでこちらの世界で混乱が生じることもなくなった。もっとも、既に技から離れていた者たちだから動揺も少なかっただろうが。
「それにしても私がもうおばあちゃんだなんてね」
「す、すいません突然で」
「ううん、気にしないで。嬉しいのよ? ただあすずはいきなりおばさんでちょっとびっくりしてるかもしれないけどね」
「それは……本当に申し訳ないと思ってます。まだ中学生ですもんね」
 梅花もありかも乱雲も、それぞれにあすずと青葉の方を見た。どうやら神魔世界の話を面白おかしく聞かせているらしく、青葉が身振り手振り交えて口を開くとあすずは目を輝かせている。脚色されてるなと梅花は思った。確かに事実をそのまま話すのは問題だが。
 でもよかった。青葉も無事ブレードを受け入れて、ここまで立ち直って。
 心の中でこっそりと彼女は思った。同化まで時間はかかるだろうと覚悟していたのだが、案外それは早く実現した。ブレードは青葉を、青葉はブレードを、すんなりとまではいかなくても受け入れることができた。噂に聞くところでは特にサイゾウが頑張ってくれたらしい。あれでかなりの仲間思いなのだ。
「でも子ども好きだからあすずも喜んでたし。もう大丈夫じゃないか?」
「そうね、あの子もそれなりに大人になったものね」
 梅花が青葉たちを見つめて黙っていると、ありかと乱雲はそう言葉を交わして笑い合った。彼ら家族もうまくいってるのだろう。それが嬉しくも、だがほんの少しだけ羨ましく感じられた。『今後の自分』が予想できる彼女としては、幸せそうな親子の姿が眩しくてたまらない。
 そうだ、言わなくては。
 梅花は意を決してもう一度桔梗を抱き直した。体が冷えないようにと桔梗を包んだ厚い布の端を、決意が揺るがないようにそっと握る。そしてありかたちの方を振り返った。
「どうかしたの? 梅花」
「あの、もう一つ言わなければならないことがあるんです」
 梅花は声を潜めた。本当は言わなくてもいいのかもしれない。きっともう二度とこちらの世界には来ないだろうから、来るためにはまたレーナに迷惑をかけることになるから。もう会わないだろうから本当は言う必要などないのかもしれない。しかしそれでも告げなくてはならない気がして彼女は口を開いた。
「私、そんなに長くないと思うんです」
 それは唐突な宣言だった。一瞬意味がわからないという顔をして二人は目を合わせる。それから言わんとすることを飲み込んで青ざめ、もう一度梅花を見つめてきた。
「そんな、どうして?」
「私は無理をしすぎました。まだ神として目覚めるのには体の準備が整ってなかったのに……それなのに力を使いました。それでも力を手放していなければ神としては生きていられたでしょう。でも私はもう人間としての体に戻ったので……そのつけが回ってきたんです」
 彼女は説明しながら微笑んだ。本当は既に時折痛みを感じている。日が昇る頃には心臓が苦しくなるし、長く動いていると呼吸が苦しくなる。手足も痛む。食べられない時もある。既に体は限界を訴え始めていた。無理ばかりすると言われてきたが、それがこんな時に影響するとは彼女は思ってもみなかった。
 この体は蝕まれ続けていたのだ。ずっとずっと。
「どのくらい……なの?」
「たぶん、もって四、五年です。青葉だって二十年はもたないでしょう、彼もそれなりに力を使っていますから」
 そう、それが代償。消えた歴史を紡ぎし者たちが、希望の末に手に入れた痛み。一番短いのは自分で、次に短いのはレンカだろうと梅花は予測していた。力を早く解放した順だ。シンもそんなに長くはないのかもしれない。ブラストの一件があったから。
「そん、な」
「ええ、本当に桔梗に申し訳ないです。大きくなるまでずっと傍にいようって決めていたのに、それなのにこんなことになって」
 梅花は声を詰まらせた。桔梗の面倒の心配はないだろう。きっと神技隊の皆がいつも気にかけてくれるはずだし、それにレーナがいる。だが桔梗が大きくなった時、その時母親のことを覚えているだろうか? レーナにその面影を見つけるのだろうか?
 そんな風に考えると胸が痛くてどうしようもなかった。体の発する悲鳴とは別に、心が悲鳴を上げる。
 馬鹿なことをしたとは思わない。あの時力を使わなければ青葉は死んでいただろうし、桔梗がいたからこそ今まで乗り越えてこられたのだと思う。だから選択に後悔はない。
 それでも、もう少し長く生きたかった。傍にいたかった。寂しい思いをさせたくなかった。孤独の痛みを知っているからこそ、娘にそんな辛さを味わわせたくなかった。
 すると不意にありかの腕が伸びてきて、優しく梅花の頭を抱え込んだ。咄嗟のことに思考が働かず、梅花は何度も瞬きを繰り返す。
「大丈夫よ、あなたの子だもの。あなたに愛されてこの子は幸せよ。だから心配しないでいっぱい愛しなさい。その分この子は幸せになれるんだから」
 それは呪文のような言葉だった。ありかに言われたからこそ、すんなりと胸にしみる言葉だった。
 ありかも乗り越えたのだ。梅花を置いて神技隊となったその罪の呪縛から、自分の力で乗り越えたのだ。その事実が嬉しくて梅花は小さくうなずく。母のように自分も乗り越えなければならないと、強く自分に言い聞かせた。
「はい」
 だから彼女は涙を堪えて返事をした。心配いらないと告げるようにはっきりと、凛とした声音で。ありかの思いに答えるように。
 だがそれでも、ふと冷たい影が頭をよぎった。
 自分はまた、レーナを置いていく。
 レインがリティを一人残してブレードを追いかけたように、また半身を取り残していくのだ。しかも今度は永久の別れとなるだろう。次の再会を約束することはもうできない。本当の別れだ。
「梅花。あなたがしっかりしないと、残された者は辛くなるのよ?」
 けれども続けて放たれたありかの言葉に、彼女は弾かれたようにはっとした。
 そうだ、レーナを心配しながら死ぬようではさらにレーナを傷つけてしまう。彼女をさらに困らせてしまう。彼女にはアースたちがいるのだから大丈夫なのだ。後の彼女を心配してはいけないのだ。
 だから自分は、自分のできることだけをすればいい。重荷を一人で抱え込むのではなく。
「はい。ありがとうございます、お母様」
 ありかの手が離れるとゆっくり梅花は頭をもたげた。精一杯の笑顔を浮かべて、大丈夫ですと囁く。
「あ、そろそろ迎えが来る時間ですね」
 彼女は腕時計に目をやってそうつぶやいた。ちょうどレーナが迎えに来る頃だ。名残惜しいが長居をすれば離れがたくなる。ちらりとベンチへ視線をやれば、同じく時間に気づいたのか青葉があすずの手を引いてやってくるところだった。
「梅花」
「うん、時間ね」
 梅花は微笑みながらもう一度家族の顔を目に焼き付けようとした。きっともう二度と会えない愛しい者たちを見つめて、一番言いたくない言葉を告げる。
「さようなら」
「ああ」
「元気でね」
「お姉ちゃん!」
 しかし呼び止めるようにかけられた声に、梅花はあすずへと視線を移した。何も話していないはずなのに何か気づいたのか、その瞳は泣きそうに歪んでいる。もしかしたら何か青葉がほのめかしたのかもしれない。梅花は促すように小首を傾げた。
「私、お姉ちゃんみたいになるから」
「え?」
「お姉ちゃんみたいになるから」
「えっと……無茶はしないでね?」
「無茶? あ、うん、しないよ。でもお姉ちゃんみたいになるから、だからお姉ちゃんも頑張ってね。負けないでね、絶対に」
 何に、とあすずは言わなかった。だが梅花は微笑して首を縦に振った。
「うん、負けない」
 そう告げて、梅花は踵を返した。そして桔梗を抱き直すと迷うことなく公園の出口へと向かう。何度か振り返った青葉は頭を下げていたが、彼女は振り向かなかった。負けないからともう一度つぶやいて、ひたすら歩を進めていく。
「オリジナル」
 公園を離れて道を曲がったところで、レーナは静かに待っていた。普段とは違う華奢なワンピースに薄いコートを羽織った彼女は、家の塀にもたれながら微笑んでいる。
「もういいのか?」
「長居すると別れづらくなるから」
「そうか。じゃあ行くか」
「レーナ」
 塀から背中を離したレーナへと、梅花は凛とした声で呼びかけた。不思議そうに小首を傾げて彼女はその黒い瞳を揺らす。梅花は微笑みながら、真っ直ぐ彼女を見つめた。
「もう少しでクリスマスね。それにリシヤの日。あ、レンカ先輩の仮誕生日でもあったかしら」
「ああ、そうだったな」
「久しぶりにみんなで集まってパーティーしましょう? ラフト先輩たちも呼んで。あ、ダークとかアルティードさん呼んでも楽しいかもね」
 梅花はくすりと笑ってそう言った。その唐突な提案に驚いたのは青葉だ。彼は目を丸くして彼女の顔を覗き込むと、嘘かどうか確かめるように首を傾げる。
「それはまたずいぶんとすごいパーティーだなあ」
 だが気持ちが伝わっているのだろう、レーナは照れくさそうに言って頬をかいた。わかりあった風の二人を見比べて、青葉は複雑そうに苦笑する。
 去年とは違うクリスマス、そしてリシヤの日。それはそれぞれ別の道を歩むだろう者たちの、ささやかな集まりだ。また過去と訣別した証拠でもあり、未来を生きるための礎ともなる。
『始まり』が終わり、これからが始まる印。
「梅花、お前変わったなあ」
「青葉のおかげよ」
「惚気てないでさっさと行くぞ。パーティーするなら準備が必要だ。もう後、五日しかないんだからな」
 豪華にはできないけど、と付け加えてレーナは笑った。梅花もつられて笑いながら桔梗を抱き直す。
 まだ胸の奥には傷があるけれど、まだまだ解決すべき問題は山積みだけれど、それでも一歩一歩前に進むしかない。この世界は完全ではないのだから、完全な世界など存在しないのだから。少しでも進み続けるしかなかった。
「レンカ先輩驚かせたいなあ」
 青葉のおどけたような言葉が静かな道に染み込んでいく。すると吹き抜ける風に目を覚ましたのか、桔梗が小さな泣き声を上げた。
「幸せだなあ」
「幸せねえ」
「いや、しみじみわかりあってないで桔梗あやせって」
 慌てた青葉の様子に、梅花とレーナは顔を見合わせて笑い合った。乾いた風がまた、その間を擦り抜けていった。

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