ウィスタリア

第一章 第二話「誰も拒絶しない場所だから」

 庭をしばらく進むと、左手に人が二人は優に通れるくらいの扉が見えた。しっかりと取り付けてあるのか、この強風の中でも音を立てていない。薄汚れた壁とは違い、そこだけはよく磨かれているようだった。
 ウルナは一度後方を振り返って目で合図すると、重たげな扉を開く。くるぶしまであるスカートを翻して、彼女はその奥へと進んだ。ゼイツは無言でその後を追う。草木に紛れやすい緑の上着が、風に煽られて硬い扉にぶつかった。
 中へ足を踏み入れると、そこは質素な部屋だった。やや黄ばんだ白い壁には、子どもが描いたと思われる絵が張り付けられている。家具は少なく、奥に見える棚と手前にあるテーブルと椅子の他は何もなかった。もっとも、右手に扉があるところからすると、そちらに物を置いているのかもしれない。それにしても殺風景だったが。
「ここは私とクロミオの部屋です」
 彼が部屋を見回しているのがわかったのだろう。彼女はそう説明すると、棚へと近づきその上に乗せてある小さな箱を手に取った。色褪せ具合を見ると、ずいぶん昔から使っているようだ。
 彼女は椅子に座るように目配せをしてから、彼の方へと寄ってくる。彼はおとなしく手近な白い椅子に腰掛けると、目の前に立つ彼女を見上げた。片方しか露わでない黒い瞳はとらえどころがなく、何もかも見透かしているかのように感じられる。沈黙がいたたまれずに、彼は当たり障りのなさそうな疑問を口にした。
「――クロミオ?」
「ええ、弟の名前です。まだ八歳になったばかりで。今日もまた勝手に出かけちゃって、仕方のない子なんです。まだまだ遊び盛りで」
 言葉とは裏腹に、声音には優しさが滲んでいた。顔をほころばせた彼女は、焦げ茶色の箱から包帯を取り出す。そして血の滲んだ彼の袖を慎重に捲り上げると、傷口を見て顔しかめた。よく日に焼けた彼の肌に、おそらく撃たれた痕があるはずだ。まさか傷口だけでわかったのだろうか? ひやりとしたものを感じつつ、彼は眉根を寄せる。
「ひ、ひどいのか?」
「いいえ。でももう少しずれていたら、太い血管がやられていたと思うの。危ないところだったわ」
 彼は密かに固唾を呑んだ。そんなことになれば、ますます事態は危うかっただろう。もっとも、現状がすこぶるよいものであるとも言えない。彼女が自分の勘違いに気がついたらと考えると、背筋を冷たい汗が伝っていった。
「あなたは運がいいのね」
 箱から小さな盆を取り出し、それを腕の下にあてがうと、彼女は傷口によくわからない液体をかけ始めた。痛みと冷たさに襲われて、彼は声を堪えるために奥歯を噛む。肌に突き刺さり、肉が抉られ、脂肪が焼かれるような激痛。そんな錯覚に飲み込まれながら、彼は一度固く瞳を閉じた。これが毒だったら終わりだなと、頭の隅で考える。
 腕から全身へと駆け巡った強烈な違和感が収まると、彼は恐る恐る目を開けた。自然と呼吸が荒くなっている。顔色も悪いかもしれない。だが彼女は表情を変えることなく、ついで白い布を腕へと軽く当ててから、包帯を巻き始めた。手慣れている。
 ゼイツは額に滲んだ脂汗を、右の手の甲で拭う。少なくとも今すぐ死ぬことはなさそうだと、安堵することがなかなかできない。好意の皮を被った罠だという可能性が、いつでも彼の脳裏をかすめていた。
「ゼイツはどこの所属なの?」
 手当をしながら、何気ない調子で彼女は尋ねた。所属とは何のことだろう? そういう制度がこの教会には存在しているのか? 頭をいくら回転させても、咄嗟に上手い言い逃れが浮かばない。彼は答えあぐねて口をつぐんだ。不用意な発言は立場を危うくするだけだ。慎重に返答を選ばなければ。
「ゼイツ?」
 不思議そうに顔を上げた彼女は、動揺を押し隠す彼を凝視した。一つしか見えない黒い瞳は、純粋に疑問に思っているようにも、探っているようにも見える。視線を逸らしたくなる。長居をするのはまずいだろう。ここで彼女をはねのけて走り去るべきか、それとも適当に言い繕うべきか、彼は迷った。
「もしかして、覚えていないの?」
「え、あ、いや……」
「まさか暴発の影響で記憶が――? テンポラもそうだったって言っていたのよ。大変」
 包帯を巻き終えた彼女は、心底不安そうに眉根を寄せた。予想していた話の方向とは明らかにずれていて、言葉を失った彼は瞬きのみを繰り返す。彼は何も言わない方がいいのではないか? そんな気がしてくる。
 暴発というのは何なのか? 単なる事故ではないのか? 浮かぶ疑問を口にすることもできずに、彼は曖昧に微笑んで頭を傾けた。これは彼女の勘違いに全てを委ねる方が楽かもしれない。言い淀んでいるうちにどんどん事態が動いていく。彼女は小さなため息を吐くと、箱の蓋を閉めてからその上に盆を乗せた。
「傷はかなり痛みます? 化膿止めがないので持ってくるわね。ついでに、お医者様にすぐかかれるかどうか聞いてくるわ。それまで、ここで静かに待っていて」
 箱を抱えた彼女は柔らかく微笑んだ。彼が何も言わずに相槌を打つと、彼女は踵を返して右手の扉へと向かう。茶色の布が、長いスカートが揺れて、白い部屋の中で淡い軌跡を描いた。彼女の後ろ姿が扉の奥へと消えていくのを、彼は黙って見送る。
 扉が閉まると、ようやく静寂が訪れた。どこか張り詰めていた空気も緩む。彼は大きく息を吐くと、もう一度部屋の中を見回した。壁の材質はジブルのものと大きく変わりなさそうだ。ただ長年使っているのか黄ばみがひどい。所々罅も入っている。彼はゆっくりと椅子から腰を上げ、顔をしかめた。
「この部屋はどの辺りに位置してるんだ?」
 脳内で教会の全体を描き出そうとして、すぐに彼は諦めた。そんなものは彼の知識にはない。しかも撃たれてからは追っ手を撒こうとでたらめに走ったため、どの方角へと進んでいたのかも定かではなかった。教会の端の方なのか否かも皆目見当がつかない。何となく、奥へと進んでいた気はしているが。
 しかしこれは絶好の機会だ。ウルナが戻ってくれば自由には動けないし、医者になど診せたらこの傷が銃弾によるものであるとばれてしまう。早く証拠を見つけてここを脱出しよう。彼女はもうこの近くにはいないだろうか。
 彼はそろそろと扉へ寄り、ゆっくりそこを押し開けた。軋んだ音を立てて開いたその先にも、もう一つ部屋が存在していた。小さな机と椅子、そして小振りな棚があるのみの、やはり殺風景な部屋だ。正面と左手には、同じような扉が一つずつ存在している。彼は少し悩んでから、左手の方の取っ手を握った。
 その先は、廊下だった。床も壁も天井も白い。材質も印象も部屋の中と大差はなかった。ただそれはひたすら長く、また所々に似たような扉が並んでいるのが見える。統一されていると言えば聞こえはいいが、味気ない。とにかくこの建物には生気がなかった。
「何てわかりにくいんだ」
 思わず彼はぼやいた。人通りがないのは幸いだが、これではどこに何があるのか予想もつかない。どうやってここにいる人々はそれを判別しているのだろう?
 彼は小さく舌打ちしてから、仕方なく歩き出した。外から見た時もわかりにくい構造だとは思ったが、中からでも同じらしい。このまま進んで怪しい場所を探すしかないだろう。人というのは、何故だか大抵奥の方に大事な物を隠すものだ。
 相変わらず左腕は重い。痛みと言うよりも鈍い痺れが走っていて、とにかくだるかった。歩き出すとまた足の気怠さも戻ってくるし、喉が渇いていることにも気がつく。気のせいだろうか、ニーミナの方がジブルよりも乾燥しているように思える。空気の重さも、わずかにだが違った。
 急ぎたいが足が上手く前へと進まない。できるだけ靴音を立てないようにと気を遣うと、なおさら歩みは遅かった。人の気配に注意を払いつつ、彼は白い廊下を行く。
 ウルナの言動から判断するに、この教会に住む者は互いを知り尽くしているわけではなさそうだ。素知らぬふりをしていればやり過ごせるかもしれないと、焦る心を落ち着かせるための言葉を繰り返す。左腕の傷に注目されなければどうにかなるだろう。彼は軽く口角を上げた。
 しかし、いっこうに廊下が続くのみで、そもそも奥へと向かっているのかも定かではなかった。『教会』と呼ばれてはいるが、この建物の造りは異様だ。まるで迷路だ。何かを隠すためにこんなわかりにくい構造をしているのだろうか? それにしたって、ここを利用する人々にとっても不便だろうに。
 足の裏が熱を持ったように痛む。視界もかすかにぼやけている気がする。傷から何か感染していないことを願い、彼はもう一度左腕へと一瞥をくれた。緑の上着に隠れて、しっかりと巻かれた包帯は見えない。上着に滲んだ血の色がやけに毒々しく見えて、彼は瞳をすがめた。この傷が決定的な破滅を運んでこないことを、つい願いたくなる。
 一度足を止めると、息苦しさを覚えた。目の奥が重く、前後の感覚が朧気になりふわふわと視界が動く。吐き気がする。歯噛みしてそれらをやり過ごしてから、彼はまた歩き出した。やはり毒を注がれたのではないか。それとも傷のせいか。精神的には強いつもりだったのだが、ここに来てからひたすら自信が打ち砕かれている。
 ゆっくりとでも進んでいると、ようやく変化が訪れた。ひたすら真っ直ぐ続くだけと思われた廊下に、右へと進む道が現れた。彼はその手前で立ち止まる。このまま前へ行くべきなのか、右へ曲がるべきなのか。根拠となるような情報はない。選ぶとしたら勘だ。彼はそっと右へと向かう廊下を覗き込んだ。
 そして、息を呑んだ。最悪なことに、思い切りウルナと目があった。彼女は書類を抱えてこちらへ向かって歩いているところだった。後悔の念を抱きつつ、彼は必死に呼吸を整える。おそらく彼に気づいたからだろう、彼女は一瞬目を丸くして、それから小走りで寄ってくる。観念した彼は、できるだけ自然な照れ笑いを意識しながら右手で首の後ろを掻いた。
「ゼイツ! 待っててって言ったのに」
「いや、その、喉が渇いて……」
「そうだったの? 気づかなくてごめんなさい」
 彼のすぐ傍までやってきた彼女は、息を吐くと辺りを見回した。それから抱えている書類へと目を落とす。その視線につられるように、彼もその紙を見下ろした。何なのだろう。
「それは?」
「あなたの滞在許可証よ。ゼイツって名前がどの所属にもなかったから」
 さらりと告げられた事実に、彼は絶句した。名前がないとはどういうことだろうか? 登録することになっているのか? それを誰でも調べられるのか? それなのに、彼女はどうして疑問にも思っていないのだろうか?
 この教会の制度も、彼女の思考も、何もかもがわからなかった。さすがはニーミナだと言うしかない。もちろん、それで納得してすむ話でもない。何かを間違えた瞬間、彼の命は終わる。
「――どうして?」
 彼にはそう尋ねるしかなかった。それ以上の言葉を続けることができなかった。何故見知らぬ者に対してそこまでするのか。考えれば考える程、疑問は猜疑に包まれていく。うまくいきすぎていて怪しい。全ては彼から情報を引き出すための罠ではないかとさえ思う。見えない糸が、この白い教会に張り巡らされている。
「だってあなた、帰る場所がないでしょう?」
 当たり前だと言わんばかりに、彼女はそう言い切った。右の瞳が揺れることなく彼を見据えている。全てを見透かすような視線から逃げたくて、彼はかすかに俯いた。黄ばんだ床に映る影が、そこはかとなく薄い。まるで夢の中に迷い込んだような、妙な心地になる。
「帰る場所……」
 確かに、調査を成功させなければ彼は帰ることができない。何も持たずに逃げ帰ることは許されない。ここはジブルの同盟国ではない。協定を結んだ国でもない。ニーミナだ。何もかもが謎に包まれた、『女神』に守られた小国だ。そこに潜入するということの意味を、彼も理解している。そうせざるを得ない程に、ジブルが追い詰められているということも。
「ここにいる人々は皆、帰るべき場所を持たぬ者たちばかり。だからこそウィスタリア様が助けてくださったのよ」
 静かな声で彼女は告げた。彼はやおら顔を上げて、呆然と彼女を見つめる。穏やかな表情で当たり前のように口にした、女神の名前。その不思議な響きに、彼の胸の奥がざわついた。
 ニーミナはウィスタリア教を国教としている。ウィスタリアというのが女神の名だというのは彼の知識にもある。しかしそれ以上のことは知らなかった。彼女たちは女神をどのような存在と捉えているのだろう? どのように伝えられているのだろう? 彼女の微笑を見ていると、それは救いの象徴のように思える。
「ゼイツも心配しないで。大丈夫、あなたはここにいるのを許される。ここは誰も拒絶しない場所だから」
 確信に満ちた彼女の言葉に、彼は曖昧な笑みを浮かべて首を縦に振るしかなかった。見知らぬ力に流されているような感覚に、腕の重みさえも忘れかけていた。

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