ウィスタリア

第一章 第九話「どうして」

 その後しばらく、地下牢を訪問する者はなかった。体も心も渇ききったゼイツは、次第に考えることも止めていた。思考すればするほど、自分の内から何かが削り取られていくような錯覚に陥る。疑問と疑念が、希望をすり減らしていく。
 彼が待ち望んだ水を得たのは、現実と夢の狭間を行ったり来たりしていた時だった。硬いパンを少しずつかじり空腹を紛らわせてはいたが、水分を失った体はいとも容易く疲労する。ざらざらとした壁に背を預けていた彼は、扉を叩かれてようやくおとないに気がついた。潜入者としては失格だ。
 外気のためなのか予想していたより冷たかった水は、ゼイツの心を再び奮い立たせた。細かな塵で濁っていた空気に一筋の風が吹き、よどみの中で渦を巻いていた思考に流れができる。ラディアスの言っていた通り水が運ばれてきたのだから、彼らはゼイツを殺す気はないのだろう。少なくとも今すぐ、死なせるつもりはないらしい。
 だが次にまたいつ水を得られるかわからない。一気に飲み干したいのを我慢し、極力消耗しないよう気をつけながら、ゼイツは退屈な時をやり過ごした。
 変化が感じられない中では、どれほど情報を求めたとしても確かなものが得られない。次第に警戒することさえ意味を感じられなくなり、彼は再び眠りの中へと身を投じるようになった。殺されないのならば、気を張り詰めている必要もない。一人ならば失言に気を遣うこともない。少しでも体力を温存するべきだ。
 次に戸が叩かれたのは、ゼイツがまたうつらうつらしていた時だった。重たい瞼を持ち上げて見えた世界は、相変わらず薄暗かった。だが扉の向こう、金属の格子越しには見慣れぬ男の姿がある。水を持ってきてくれた者とは違う人間だった。ゼイツは自由になった手を隠すのをすっかり忘れていたが、そのことは意に介さず――手を拘束されていたことも知らないのかもしれないが――男は口を開く。
「釈放だ」
 端的に告げられた言葉を、ゼイツは脳裏で繰り返した。思ったよりも早かった。一体あれから何日経ったのだろう? 陽も入らぬ牢の中では時間の流れがわからない。壁に手をつき、彼はよろよろと立ち上がった。飢えのためかそれともしばらく動いていなかったせいなのか、目眩がする。一度固く目を瞑ってから、彼は深呼吸をした。
 鍵を開ける音がする。ついで濁っていた空気と共に、重たい扉が動いた。男の持つ明かりが薄汚い室内を照らし、苔の生えた床を露わにする。ゼイツはゆっくり男の方へ近づいた。無遠慮な視線が向けられていることはわかっていたが、あえて気にしない振りをする。
「ついてきなさい」
 不審な動きがないか警戒しながらも、男はゼイツに背を向けた。力無い後ろ姿だ。ゼイツは大袈裟なくらいに頷くと、その後を黙ってついていった。ラディアスから受け取った麻の袋が、手の先で揺れる。所々へこんでいる通路の床を眺めながらゼイツは歩いた。よどんで湿った臭いが、徐々に薄れていく。
 筋肉が落ちているのか、それとも疲労のせいなのか、両足が重い。時折視界も歪む。だが遅れまいと必死に前へ進んでいると、次第に道幅が広くなった。牢へ入れられた日にも通ったはずなのだが、記憶にはない。
 彼が密かに首を捻っていると、しばらくもしないうちにいつもの地下広間へ出た。ここからは明かりを掲げる必要もなかった。前を歩いていた男は立ち止まると、ゼイツの方を振り返る。
「ここからはもうわかるだろう。部屋に戻っていろ、だそうだ」
「……部屋に?」
「そこでおとなしくしていろとの伝言だ」
 これ以上関わりたくないと、無表情を装った男の顔が語っていた。こうして向かい合うと、思っていたより若い男だと知れる。肌に張りがあるし皺がない。疲れ切った双眸が年を重ねたように見せていただけだった。その場を動く気配のない男へと、ゼイツはまた頷いてみせる。
 誰からの伝言かと、問いかけるのは止めた。意味のない行為だった。おそらくこの男は答えないだろうし、口にしたとしても『大本』かどうかはわからない。それよりも、ゼイツにはすぐに確認したいことがあった。
「わかった」
 言葉少なに返答すると、ゼイツは奥の棟へ向かった。通り慣れた道を歩き、自室ではなくウルナたちの部屋を目指す。ウルナは今どうなっているのか。クロミオはどうしているのか。走り出せるのならば今すぐ駆け出したかった。だがこの体では、男の視線がある状況では、それも許されない。
 地上の廊下へ出ると、全てが眩しかった。窓から差し込む陽は既にかなり傾いているが、それでも薄闇に慣れた目には強すぎる。朱色に染まった床も、壁も、天井も、ひたすら鮮やかだった。ゼイツは一度立ち止まると、両の瞳をすがめる。新鮮な空気の濃度も、今の彼には痛みをもたらす。
 彼は前髪を掻き上げると、指に絡みついた金糸を数本、床へと放り投げた。歪な軌跡を描いて落ちるそれらは、夕日を浴びて煌めきを纏っている。何ともなしにそれを眺めて、彼はまた歩き出した。呼吸をする度に喉の奥が痛む。しかしもう、止まるつもりはなかった。
 ウルナたちの部屋まで辿り着くと、彼は荒い息を吐いた。目の奥で白い光が瞬き、すぐに消えていく。頭が重い。慎重に呼吸を整えてから、彼は恐る恐る戸を叩いた。誰もいなかったらどうしようなどという考えも浮かばなかった。脈打つ鼓動が耳の奥で聞こえ、それが近づいては遠ざかって、また近づいてくる。
 返事はなかった。しかし、扉は開かれた。目の前にたたずんでいたのはウルナだった。彼女は一瞬だけ右の瞳を見開くと、薄い唇を震わせる。言葉はなかった。その代わりに、複雑な色を含んだ吐息がこぼれた。左の瞳は、またいつもの黒い布に覆われている。肩にかけられた大きな布のせいで、傷がどうなっているかはよくわからなかった。
「どうぞ」
 かすれた声でかろうじて、彼女はそう告げた。そして彼の反応を待たずにそのまま部屋の奥へと入っていく。彼は躊躇った後、中へと足を踏み入れ扉を閉めた。茜色の陽光が差し込む室内は、まるで燃えているかのようだ。辺りを見回したが、どうもクロミオはいないらしい。
「よかった、助かったのね」
 テーブルの傍まで近づいた彼女は、肩越しに振り返ってそう言った。いつもと変わりない口調だった。何故あの時穴の中にいたのかと、問いただすつもりもないようだ。しかし何も知らないわけではないのだろう。彼は一歩彼女へ近づくと、できるだけ穏やかな声音を心がけて口を開いた。
「それは俺が言いたい。……平気なのか?」
 核心を突かないように、しかしかろうじて触れるような問いかけを、彼女へと放った。彼女は顔を伏せると、よく見ていればわかる程度の相槌を打つ。夕日によって浮かび上がった彼女の輪郭が、不意に空気へ溶けたような印象を覚えた。緩やかに揺れた黒い髪が、袖が、何故だか不安を煽る。
「大丈夫よ。ただ、左目がうずくだけ」
 彼女はそっと左目を手のひらで押さえた。慣れた仕草だった。彼が何も言えずにいると、彼女は無造作に黒い布をはずす。その下には、あの時見た『黒い瞳』があった。全ての闇を凝縮したような黒々とした石は、今はうっすら薄緑色の光を纏っている。近くで見ると、その異様さがより実感できた。どう見ても、それは石そのものが輝いているとしか思えない。
「ああ、やっぱりね。また反応しているわ」
 彼女は独りごちた。あの時のカーパルを思わせる、どこか他人事のような言い様だった。彼はうまく反応することができず、唇を引き結ぶ。彼女は手にした黒い布をテーブルの上に載せると、彼へと向き直った。突然湧き起こった逃げ出したいという衝動に、彼は内心で戸惑いながらも抗う。ひとりでに喉が鳴った。
「私の左目には石が埋め込まれているの。聖なる石と呼ばれる緑石が」
 抑揚のない声がそう説明する。彼女の顔を見つめただけでは、その心情を推し量ることは不可能だった。言葉からも、語調からも、感情が読み取れない。ただその両の瞳を見ていると吸い込まれそうになった。彼は何もわからないというのに、全てを見抜かれているような気持ちになる。
「……どうして?」
 疑問だけがこぼれた。埋め込まれているということは、生まれつきではないらしい。病か何かで失明したのか? まさか健康な瞳をくり貫いたわけではないだろう。――そう、信じたい。
 彼女はふっと声を漏らして笑うと、また歩き出した。彼に背を向けて窓へ近寄ると、そこから外を眺め出す。彼はどうすることもできずにその場に立ち尽くし、彼女の後ろ姿を見つめた。よくみると左の肩の方が膨れあがっている。包帯か何かを巻いているのだろうか。歩く時も、左手をあまり動かしていない。
「私、両親を亡くした時に、火に包まれた家から飛び出したの」
 唐突に、彼女は話し始めた。淡々とした声音で告げられた内容は、『答え』としてはずれていた。けれども、そこに何か重大なものが含まれているということはわかる。彼は固唾を呑んで見守った。耳鳴りが聞こえる。
「私の家は、一階が両親の研究室になっていたの。何かの研究が失敗して、それで家は燃えて。その時、私とクロミオは二階にいたわ。まだ赤ん坊だったクロミオの異様な鳴き声で、眠っていた私は目を覚ました」
 事実だけを語る彼女の声には、一切感情が滲んでいない。しかしそれでも彼は切り裂かれるような痛みを感じた。聞いてはいけない気がして、それでも知らなければいけない気持ちになり、拳を握る。
「火の手はもう二階へと迫っていたから、私はクロミオを抱えて窓から飛び降りたの。茂みに向かって。その時に枝が左目に刺さったのよ」
 クロミオが赤ん坊ということは、八年くらい前のことか。その光景を想像して、彼は瞳を細めた。小さな子どもを抱きかかえた少女。彼女が辿っただろう道筋を、脳裏に描く。
「失われた左目の代わりに、叔母様が石を埋めてくれたのよ。助けを求めて教会へ駆け込んでから……どれくらい経ってからだったかしら。冬のことだった」
 彼女は語った。だがそれだけでは腑に落ちない点があった。義眼とするならば、別のものでいいはずだ。そんな緑石などというわけのわからない石を埋め込む必要はない。振り返ることのない彼女を見つめて、彼は顔をしかめる。
「――どうして?」
 尋ねる声が、わずかにかすれる。すると彼女は突然振り向いた。長い髪が、衣服が空気を含んで舞い、揺れる。薄緑の光を帯びた左の瞳が、鮮烈な意志を感じさせる右の瞳が、彼をひたりと見据えた。呼吸が止まりそうだった。立ち尽くしたまま、彼はその視線をただ受け止める。
「私がこの国を愛していたから。そして恨んでいたから」
「……え?」
 意味を飲み込むのに時間がかかった。思考が働かなかった。彼女の言葉を何度繰り返しても、それが返答として頭に入ってこない。会話を胸中で繰り返してみても、それは唐突なようにしか思えなかった。数度瞬いた彼は、呆然としながら首を捻る。夕闇を背に立つ彼女は、今まで見たことがないような笑みを浮かべている。
「私が誰よりもこの国を愛し、恨んでいたから。だから叔母様は石を私にくださったの。この石は心に反応する石。だからこの石の力を引き出したくてそうしたのよ」
 燃えるような紅い空を背景に、輝く緑石。禍々しささえ感じて、彼は動くことができなかった。その場に立っているのが精一杯だった。乾いた喉の痛みも、体の重だるさも、目眩も、全てがどうでもよく思えてくる。
「私たちの家系は、緑石と相性がいいの」
 そう付け加えて、彼女は声を漏らして笑った。表情とは裏腹に感情のこもらない声は、薄ら寒い心地さえもたらす。彼に答える術はなかった。これ以上彼女が何か言わなければいいと、願うことしかできなかった。触れてはいけない領域へ足を踏み入れたのだと、直感的に理解する。
「私、今ひどく叔母様を恨んでいるの。純粋に研究が好きで、この国のためにと励んでいた父と母は、その純粋さを叔母様に利用されたのよ。そしてこの国のために、叔母様に殺された。無茶な要求をされて焦って、死んだ。だから私は叔母様を憎んでいるの。それを叔母様はわかっていて、あの実験を私に見せるの。いいえ、私に見せることが実験なのかしら」
 よどみなく薄い唇からこぼれていく言葉は、何年も前から用意されていたかのようだった。いや、実際彼女は何度も心の中で答えていたのかもしれない。尋ねられなくともずっと、呪文のように唱え続けていたのかもしれない。
 その封を開けてしまったのは間違いなく彼だ。彼があの場に乱入してしまったから、異質なものが紛れ込んでしまったから、抑え込んでいたものが溢れ出した。彼にはそう見える。
「私が逃げ出さないとわかっているからそうするのよ。ひどい叔母様」
 緑石の輝きが増す。彼女の言を借りるならば、『心に反応したから』なのだろう。後ずさりたい衝動と戦いながら、彼は深呼吸をする。新鮮な重い空気を何度も吸っていると、少しだけ気持ちが落ち着いた。凍り付きかけていた思考が動き出す。彼は固く握っていた拳を解くと、怖々と口を開いた。
「何で逃げ出さないんだ?」
 そんな仕打ちを受けて、どうしてここを飛び出さないのか。あんな『実験』を何度も見せられて、それなのに何故ずっと堪えているのか。純粋な疑問だった。教会の外にも人が住める場所はあるはずだ。身寄りがなくても、少なくともこの教会にいるよりはましだと思える。
「どうしてって?」
 彼女は子どものように小首を傾げて、口角を上げた。石の光が増す。この世のものとは思えない緑の輝きに、彼の鼓動が速まった。耳の奥で何度も鈴が鳴り、まるで警告のように響く。強ばった指先で、彼は服の裾を掴んだ。
「だって姫様やクロミオを置いていけないもの。私はね、二人が幸せならそれでいいの。二人がこの事実を知らなければいいの。私はそのためなら、利用されてもかまわない」
 幸せそうに微笑む彼女から、彼は視線を逸らしたくなった。今まで見て来た彼女の様子を、言葉を思い出して、その奥に隠されていたものに戦慄する。地響きの度に、実験の噂を聞く度に、彼女は何を考えていたのか。カーパルを庇った時、どう思っていたのか。
「だからゼイツ、あそこでのことは誰にも言わないでね。姫様とクロミオには絶対、伝えないで。そうじゃないと私は、あなたを排除しなければならなくなる」
 さらりと恐ろしいことを言い切られて、彼の背を悪寒が走った。ますます彼女の意図がわからない。疑問ばかりが生まれていく。
 初めて出会った時どうして彼を助けたのか、尋ねたくともできなかった。少なくともただの勘違いではないことはわかる。彼女は『実験』の内容を知っているのだ。その場に彼がいなかったことなど彼女には明白だった。ならば何故あんな真似をして引き入れたのか?
「お願いよ、ゼイツ」
「あ、ああ」
 引き攣った声で、彼は咄嗟にそう返事をした。不意にラディアスの言葉が思い出された。ラディアスはどこまで知っているのだろうか? 実験のことも石のこともわかってはいるが、もしかしたらゼイツを助けた意図までは読み切れていないのかもしれない。だからあのような態度なのか……。
「ありがとう」
 彼女はそう言いながら、静かにテーブルへと近づいた。そして黒い布を手に取ると、再び左目を覆い隠した。布の端からかすかにこぼれていた薄緑の光が、少しずつ弱まっていく。得体の知れぬ威圧感が薄らぐと、ゼイツもようやくまともに呼吸ができるようになった。とにかく、彼女を敵に回さない方がいいことは理解した。少なくともここに滞在する限りは。
「ラディアスが部屋に着替えを置いていってくれたはずよ」
 彼を気遣う彼女の言葉が、日常を取り戻す合図となった。彼女はテーブルの上をそっと指の腹で撫でると、その上に置き去りにされていたコップへと手を伸ばす。彼はふっと息を吐き、ぎこちなく首を縦に振った。そして彼女へ背を向けた。少しでも早く一人になりたかった。
「ああ、ありがとう」
 振り向かずに礼だけを述べて、彼は扉へと向かう。心も体も疲れ切っていた。少しでも落ち着いて今後のことを考えたかった。ニーミナが危険な実験を行っていることはわかったが、それだけではどうしようもない。禁忌の力の正体についても、まだ彼はうまく飲み込めていない。
 禁忌の力とは心を動力源とした力なのか? そんな馬鹿なことがあり得るのか?
 部屋を出て扉を後ろ手に閉めると、彼は誰にも聞こえぬよう独りごちた。廊下を行き交う人の姿はない。今日も相変わらずの静寂だ。夕闇に包まれた世界に、彼の影が濃く色を落としている。長く伸びたそれを、彼は何ともなしに眺めた。
「そんな力が、存在しているっていうのか?」
 その場に座り込みたい衝動を堪えて、彼は自室へ向かって歩き出した。歪に響く靴音を、気にする余裕などなかった。

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