ウィスタリア

第二章 第一話「女神様がいるから」(後)

 それから、しばらく会話はなかった。時折クロミオが取り留めのない話――教会の外で見てきた物事が大半だが――をするだけで、会話が弾むことはなかった。仮初めの笑顔を張り付けて、ルネテーラはやや視線を落としている。決して、自分から話を広げようとはしない。
 適当に場をにぎやかすというのはゼイツも苦手だ。だからクロミオの言葉に相槌を打ったり適当に返答するだけで精一杯だった。クロミオはこれを恐れていたのだろうか? 確かに、この場に一人であったならば相当心細い。ウルナに何かあった時、いつもルネテーラはこうなのだろうか。
「もうお腹がいっぱいです」
 小食なのか、気持ちが落ちているせいなのか、ルネテーラはすぐに食べ終わってしまった。またこの気まずい空気で食欲が落ちたのか、クロミオもすぐに食事を終える挨拶をしてしまった。のろのろと食べ続けていたゼイツは、いたたまれない沈黙の中で思案する。これからこの二人はどうするのだろう。ゼイツはどうすべきなのだろう。
「姫様も、もう終わり?」
「ええ、もう十分です。クロミオも?」
「うん。僕ももうお腹いっぱい。姫様どうする? 今日は勉強もないみたいなんだ」
 幸いにも、先にクロミオが動いてくれた。使った皿を片付けながら問いかけるクロミオに、ルネテーラは「うーん」と軽く唸る。もそもそとパンを口に運びながら、ゼイツは二人のやりとりを見守った。クロミオの勉強がないというのは、何か問題でも起こっているのだろうか? ゼイツの頭の中を幾つもの可能性が通り過ぎていく。
「どうしましょう……」
「姫様、やりたいことないの? それじゃあ本を読もうよ。あの本! ラディアスさん忙しくて最近貸してくれないんだー」
「あの? ――ああ、あれね。いいわね、クロミオ。わたくしもこの神話は好きよ」
 ぽん、とルネテーラが手を叩いた。沈んだ気持ちが少しは浮上してきたようだった。いや、そう努めているのか。ゼイツが食事を続けている中、二人はそそくさと立ち上がる。そして古めかしい本棚の方へと歩き出した。読書の時間ということらしい。その方がゼイツにはありがたかった。少しでもこの空気が遠ざかるなら大歓迎だ。
 ルネテーラの背丈以上ある大きな本棚から、背伸びをしたクロミオが一冊の本を取り出す。所々色褪せた紺色の表紙で、予想していたより分厚い。神話というからあの青い男の話かと思ったのだが、違ったのだろうか。ゼイツは内心で首を捻る。彼の知るおとぎ話はもっと薄い本に書いてあった。
「わー、やっぱりラディアスさんのより立派!」
「比べては駄目よ、クロミオ。これは遺産の一つなんですから。大事に扱ってね」
 二人は楽しげに笑いながら近くのソファへと腰掛ける。その様子は仲のよい兄弟のようであった。ウルナよりもルネテーラの方が幼く見えるせいだろうか。こちらの方がしっくりとくる。ゼイツは二人を横目にしながらカップを手に取った。
「これは、一つの世界が終わるまでの物語です」
 よどみない口調で、最初の一文と思われるものをルネテーラが口にした。断言できなかったのは、ゼイツの記憶にはないものだったからだ。そのような始まりだったかと眉根を寄せ、彼は自分の知っているおとぎ話を思い出そうとする。いや、別のものだった。最初の一文は父親がよくそらんじていた。「これは、世界に平穏が戻るまでの物語です」だった。似ているが違う。
 冷たいお茶を喉の奥へと流し込み、ゼイツは二人の様子を盗み見る。さすがに全文を声に出すつもりはないようで、二人は並んで一つの本を覗き込んでいた。微笑ましい光景だ。
 しかし疑問が一つ生まれると、何とも言い難い不安が彼の胸の内を渦巻き始める。何度も読まれているこのおとぎ話とは、一体何なのか。形を変えて各国へ伝わったものなのだろうか? ゼイツは今まで、それは自国にのみある伝説の類だと思っていた。クロミオが「青の男」の話をするまでは、まさかそれがニーミナにもあるとは考えてもみなかった。
 食事が進まない。その間も二人は何度も紙を捲っている。どうやら大きな文字で書かれていたようで、その速度は思っていたよりも速かった。だからあれだけの厚みがあったのだろうか。それとも読み慣れた物語だから進むのが速いのか。
「こうして青の男は倒されました」
 ようやっと最後のパンを食べ終えたところで、再びルネテーラの鈴のような声が室内に響いた。もう終わってしまったのかと内心でゼイツが落胆すると、間をあけずにクロミオの声が続く。
「ですが青の男の心は、まだこの世界に残っていたのです」
 全く聞いたことのない一文に、思わずゼイツは二人の方を振り返った。「こうして青の男は倒されました。これで世界に平穏が訪れました」で締めくくられるのがこのおとぎ話のはずだ。少なくともゼイツが知っているものはそうだ。悪い男が倒されて世界は平和になりましたという、ありふれた物語の一つだった。
「青の男の心は、死にゆく者たちに息吹を与えました。歪んだこの世界に引き留めようとしました。それが何のためだったのかはわかりません」
 軽やかなルネテーラの声がゼイツの鼓膜を揺らす。言葉としては頭に入っても、何を言おうとしているのか理解できなかった。彼が知っているものよりも神話の色が強くなっているということは、朧気に把握できたが。
「死にゆく者たちの帰還は、希望と破滅をもたらしました。混乱が満ちた世界で、再び争いが起こりました。いえ、止めることなどできていなかったのでしょう。青の男は元凶であっても、全てではなかったのです」
 語られる見知らぬ物語に、何故だか悪寒が走る。ゼイツはもう一度カップを手に取ると、ゆっくりと唇を寄せた。だが気になるその続きを、ルネテーラは口にしなかった。二人は黙って紙を捲り、また捲る。
 一緒に覗き込んでいればよかったと、この時ゼイツは後悔した。もしかしたらそこにニーミナへと、ウィスタリアへと繋がる何かがあったかもしれない。なかったとしても、それはそれで一つの結果だった。確かめることさえ重大な情報になり得る。
「はい、おしまい」
 しばらくすると、ルネテーラはそう言って本を閉じた。古びた背表紙を撫でて満足そうに微笑むと、クロミオと顔を見合わせる。お気に入りの物語を読み終えた時のように、実に幸せそうだった。その理由がわからず、ゼイツは首を傾げる。その神話はそんなに楽しいものだっただろうか。彼にとっては単なる英雄譚の一つでしかなかった。
「それって……」
 思わず声が漏れた。すると部屋にいたのが自分たちだけではなかったと思い出したのか、二人は慌てたようにゼイツの方を見る。無垢な瞳を一斉に向けられて、ゼイツはやや戸惑った。
「あ、いや」
「ゼイツも知っているの?」
「あ、ああ。俺も小さい頃に読んだ。ただ俺が知っているのは青の男が倒されたところまでだけど」
 ルネテーラの問いに、ゼイツは素直に答える。うまくいけば続きが聞き出せるかもしれないと、内心で期待した。しかしそれは違う結果をもたらした。ルネテーラの紫の双眸が輝く。彼女は胸の前で手を組むと、満面の笑みを浮かべた。
「まあ、ゼイツ、少しずつ記憶を取り戻しているのね! わたくしが祈ったおかげかしらっ」
 彼女にそう言われてようやく、記憶喪失ということにしてあるのだったとゼイツは思い出す。そして焦った。すっかり忘れそうになっていたが、彼はそれを理由にここにおいてもらっているのだった。これ以上の失言には気をつけなければならないと肝に銘じ、彼は慌てる素振りを見せないように努力する。
「そ、そうかもしれない」
 破顔した彼は首の後ろを掻いた。ますますルネテーラは顔を輝かせ、隣にいるクロミオまで両手を叩いた。本気で祈れば記憶が戻ると信じているのだろうか? それがゼイツには不思議でならない。ルネテーラの立場とは何なのか。女神とは何なのか。まだそれさえ彼は把握していなかった。
「ルネテーラ姫!」
 そこで不意に、扉の向こうから声が聞こえた。それはラディアスのものだった。いつもよりも切羽詰まった声音だ。籠を届けろと面倒な仕事をクロミオに押しつけた彼が、一体何の用だろう?
 ゼイツが顔をしかめていると、ソファからルネテーラが立ち上がった。それまでの無邪気な笑顔が一瞬で消え去り、その横顔に緊張が走る。何かを察知しているような、そんな表情だった。クロミオも顔を曇らせている。
「どうかしましたか? ラディアス」
 尋ねながら、ルネテーラは扉の方へと向かう。分厚い絨毯を一歩一歩踏みしめる様にも、それまでにはなかった緊迫感が見て取れる。揺れる銀の髪が淡い軌跡を描くのを、ゼイツは黙って眺めた。不安そうなクロミオが立ち上がる気配がする。
「ここでは用件を話せないのかしら?」
 重い扉を、ルネテーラはゆっくりと開けた。その向こうには顔を強ばらせたラディアスがたたずんでいた。黒の長い上衣を着たその姿は、どことなく正装を思わせる。ラディアスはさりげなくゼイツ、クロミオへと一瞥をくれた。それから首を横に振り、軽く会釈をする。
「いや、問題ない。つい先ほどジブルの使者がやってきた。今はカーパル様たちが対応しているが、ルネテーラ姫にもご挨拶願いたいと言っている。来てもらえるか?」
 静かにラディアスは述べた。耳慣れた自国の名前に、ゼイツの鼓動が跳ねた。まさかラディアスの口からそれを聞くことになるとは思わなかった。思考が停止し、息が止まりそうになる。ラディアスの声が何度も頭の中を回った。何が起こっているのかわからない。それが現実のことだと信じられない。ジブルの使者がやってきたとは、どういうことなのだろう?
「ジブル? まさか、あのジブルですか?」
「ああ」
「……わかりました、今行きます。案内してください」
 ルネテーラは頷いた。それから申し訳なさそうに振り返ると、クロミオとゼイツを交互に見る。クロミオが前へ一歩踏み出すのを、ルネテーラは制止した。ゼイツは動けない。言葉どころか声を出すことさえ、今は無理そうだった。耳の奥で鼓動が強くなっている。
「ごめんなさい、わたくしは行かなくては」
「姫様、気をつけてね」
「大丈夫です。わたくしにはウィスタリア様がついています」
 強ばった笑みを浮かべたルネテーラは、再びラディアスの方へと向き直った。ラディアスは頷き、背を向けると歩き始める。ルネテーラも静かに続いた。二人はそれ以上言葉を交わさなかった。
「本当に気をつけて」
 クロミオの声だけが室内に響く。ラディアスとルネテーラ、二人の背中が遠ざかっていくと、重々しい扉がゆっくり閉まり始める。その動きをゼイツはぼんやりと眺めていた。次第に二人の姿が見えなくなり、部屋の中を痛々しい沈黙が満たす。息苦しい。それを破るように、クロミオが大きなため息を吐いた。
「行っちゃったね」
 ゼイツはかろうじて首を縦に振った。震えそうな唇では、まともに音を紡ぎ出せなかった。頭の中を駆け巡る幾つもの可能性に、鼓動は速まるばかりだ。憶測の域を出ないそれらは、ただ彼の胸の内を重くしていく。
 彼はまだ何も報告していない。それなのにジブルが動き出すとはどういうことだろう? ジブルを語る何者かなのか? それとも強行派が動き出したのか? 考えても答えの出ないことばかりが、浮かんでは消えていく。自国に流れていた薄暗い噂ばかりが思い出される。
「だ、大丈夫だよゼイツさん。カーパル伯母さんや姫様たちがいるから。それに、女神様がいるから」
 動揺しているのがクロミオの目にも明らかだったのだろう。慰める言葉を掛けられて、ゼイツはかろうじて半笑いを浮かべた。とにかく今は一人になりたくて、混乱を落ち着けたくて、両の拳を強く握った。唇を噛み締めたせいで、嫌な血の味がした。

◆前のページ◆  目次  ◆次のページ◆