ウィスタリア

第二章 第四話「この国は滅ぶのね」

 教会の姿がはっきり捉えられるようになったのは、夜も更けた頃だった。空に昇った月の蒼さが、冷え冷えとした空気をいっそう強調しているかのように思える。走り続けたゼイツの体は、とうに限界を超えていた。だが疲労は感じても痛みは自覚できなかった。どこかが麻痺してしまったかのように、足の重みもない。むしろ軽い高揚感を覚えるくらいだ。
 吹き荒ぶ風が、辺りの草原を撫でる。揺らされた木々の黒い影が、地面の上で不気味な軌跡を描く。その中を彼は駆け続けた。思考はもう正常に働いていない。ただ焦る気持ちだけが胸の内でくすぶり、彼の体を急かしていた。
「どうしようもないな」
 何度目になるかわからない言葉も、きちんと声になっているかどうか怪しい。口の端を上げた彼は躓きそうになり、慌てて体勢を立て直した。一度転んでしまうと、また走れるかどうかわからない。それどころか二度と起き上がれないかもしれない。注意しなければ。
 そう気を引き締め直した彼の瞳に、何やら異質な影が映った。前方にある丘の上の木、その横にある小さな黒い何かだけが、風に逆らって棒立ちになっている。遠目からでもそれは人の姿のように見えた。瞬きをしても消えない。幻の類でもなさそうだ。
 こんな時間、こんなところに誰がいるのか? 考えながらも足を止めることができず、ゼイツはその人影に向かって真っ直ぐ走っていった。ただの黒い棒のように見えた輪郭が、徐々に鮮明になる。風になびくマントを手で押さえ教会の方を眺める横顔には、ゼイツも見覚えがあった。
「フェマー……?」
 それはジブルの使者フェマーだった。ゼイツの足音に気がついたのか、風に煽られた髪を耳にかけて、フェマーが振り返る。今はただ闇色にしか見えない瞳が、見開かれるのがわかった。
「ゼイツ!?」
 喫驚するフェマーの声が、風に乗ってゼイツにも届いた。よほど動揺しているのか、踏み出しかけた一歩も実にぎこちない。風が強い時であれば転んでもおかしくなかった。手を離したせいで、押さえつけられていたマントが翻り大きな音を立てる。
「あなた、どうして――!」
 フェマーから数歩離れたところで立ち止まったゼイツは、そのことを少しだけ後悔した。どっと疲労が襲いかかり、全身が痛みを訴え始める。だが座り込むわけにもいかなかった。足の裏に力を込めて、ゼイツはフェマーを見据える。
「一つ、聞きたいことがある」
「どうして戻ってきたんですか!? てっきりもう逃げたのかと」
「聞きたいことがある」
 問いかける自身の声が凍えきっていることに、ゼイツは気がついた。それは怒りを抑えた時の父のものに似ていた。自分にもこのような声が出せるのかと、冷静な部分が妙なところで感心している。フェマーの顔が歪むのが、月明かりの下でもわかった。
「見たのですね」
 突き刺さるようなフェマーの一言に、ゼイツは右の拳を握る。「見た」とは古代兵器のことだろうか。やはりフェマーも知っていたのか。湧き起こる感情に名をつけることができず、ゼイツは瞳をすがめた。体中が脈打っている。頭の芯が鈍く重い。肯定する代わりに、ゼイツは乾いた唇を開いた。
「どういうつもりなんだ」
「見たのですね」
 ゼイツが尋ねると、フェマーはもう一度繰り返す。平行線だ。だが何を見たのか、ゼイツは口にするつもりはなかった。押さえ込んでいた火が燃え盛ってしまう気がして、声に出す気にならない。すると諦めたように、フェマーはゆるゆると首を横に振った。
「どういうもこういうもないです。我々には猶予がない」
 ゼイツが「見た」と確信したのだろう。しかし、言い訳するフェマーに悪びれた様子はなかった。それが余計にゼイツの癇に障る。苛立ちが腹の底で温度を上げた。
「証拠もなしに動く程にか?」
「取り返しのつかないことになる前に、動く必要があるんです。あなたも大人であればわかるでしょう?」
 フェマーの諭すような声に、虫唾が走った。乾ききった喉を、けだるい体を、重たい足を、鋭い何かが突き抜けていく。冷え冷えとした感情がゼイツの内で湧き上がった。自然と口の端がつり上がる。
「大人、ね」
 落ち着けという父の声がどこかから聞こえたような気がした。その通りだと、彼自身も思う。ここで感情的になるべきではないことは理解していた。こんなところで道を間違えてはいけないことはわかっている。しかしそれでも、平静にはなれそうになかった。大体、既に何度も選択を誤っている。今さらその上に妙なものを積み重ねたところで、流れが変わるとも思えなかった。
「そのためなら手順を踏まなくてもいいと?」
 誰に対して、何に対して憤っているのか、ゼイツ自身にも定かではなかった。手段を選んでいる場合ではない時もあるだろうと、理解はしていたつもりだ。どうしようもないことがあることは、わかっていたはずだ。事情があるのかもしれないという可能性を、冷静な部分では認識している。それでも納得できない気持ちがあった。腑の底で沸騰する濁った水が、行き場を求めている。
「時間が足りないんです」
 瞳を細めて、フェマーはもう一度教会の方を見やる。ゼイツもそれにならった。月明かりだけが辺りを照らす世界で、白い建物はぼんやりと浮き上がって見える。黒々とした木々の向こうにたたずむ姿は幻想的だ。あそこに女神がいる、と言われたら信じてしまいそうな雰囲気さえ漂わせている。中にいる時は実感がなかったが、確かにあれはこの国の中心なのだ。
「彼らは私たちを拒絶しました」
 教会を見つめたままフェマーが告げる。緩やかな風に煽られて翻ったマントが、乾いた音を立てた。「拒絶」の意味をゼイツは考えた。ジブルの手をニーミナは拒んだのだろうか? だが差し出された手に何が握られているのかも、この場合は問題だ。
「我々の提案を拒んだからには、放置するわけにはいきません。このままではまずい」
「それで、攻撃するのか?」
「威嚇は必要なんです。こちらの本気をわかっていただかないと。彼女たちは知らなさすぎる」
 フェマーはため息を吐いた。あれを威嚇と称するのかと、並んでいた古代兵器を頭の中に描き、ゼイツは苦笑を漏らしそうになる。威嚇のためだけにあれだけの物を引っ張り出せるかどうか、子どもにでもわかることだった。
 過去の遺産を持ち出すなど、戦争でも始めるつもりでなければ不可能だ。それは宝であり、研究材料であった。未来へと少しでも繋ぐために、残された数少ない資料だった。各国の研究者たちは、それらを壊さないように調べ、少しでも長持ちするようにと工夫して保存し、その技術の一端を掴もうと必死になっている。
 何もかもを失いかけているこの時代では、過去に縋るしか方法がなかった。このまま放っておけば、この星の人間は滅んでいくだけだ。世界と共に緩やかに死に浸かるだけだ。
「そして誰かが死ぬんだな」
 だが、手段を選ばずただ抗えばいいのだと、ゼイツには思えない。研究に失敗したウルナの両親のように。実験に参加した白い鎧の少女のように。古代兵器を動かすようなことになれば、また誰かの命が犠牲となる。それしか道がないのだと言って、見えないところで失われる。過去へ手を伸ばすとは、そういう行為だった。
 重たい足で、ゼイツは一歩を踏み出した。そうするには骨が折れたが、一度動き出してしまえば少しは体が軽くなる。もう一歩前へ進むと、踏まれた草が軋んだような悲鳴を上げた。フェマーの眼が見開かれたのがわかる。
「ちょっと、あなたまさか――」
「俺は教会に戻る」
 宣言すると、今度は心も軽くなった。ゼイツは破顔するとゆっくり歩き出す。地の、草の感触を確かめながら慎重に歩を進めると、ひときわ強い風が二人の間を吹き抜けた。傍にある木が騒がしく揺れる。
「彼女たちに知らせる気ですか? そんな馬鹿なことをしてどうするつもりですか!?」
「助けたい奴を助ける。俺にはそれしかできないからなっ」
「待ちなさいっ」
 横を通り過ぎようとしたゼイツの腕を、フェマーが慌てた様子で掴んだ。見た目にそぐわぬ強い力で引っ張られて、ゼイツはフェマーを見やる。蒼い月明かりのせいなのか、フェマーの顔は青ざめて見えた。唇もかすかに震えている。
「死んでもらっては困るんです。ニーミナで何が行われていたのか、しっかり話す義務があなたにはあるんです。それくらいはできるでしょう? 私たちは、どんなに些細なものでも情報を求めている」
「それが俺の仕事だと?」
「そのためにここへ来たのでしょう? 忘れたとは言わせませんよ」
 捨て駒だったゼイツにそこまで言う程、フェマーは追いつめられているのだろうか? いや、ジブルはと言うべきか。一体何が起こっているのか、気にならないわけではなかった。ゼイツの知らないことが遙か彼方で進んでいる。だが、今はそれよりもウルナたちの方が気にかかる。無事なのかどうか、その方が心配だった。
「忘れてはいないさ。ちゃんと戻る。きっと、必ず」
 フェマーの腕を振り払い、ゼイツは強い語調で告げた。そして全力で駆け出した。限界を超えているはずの体が軽い。先ほどまで感じていた疲労が嘘のようだった。呆気にとられているだろうフェマーを残して、ゼイツは教会を目指す。ここまでくればあともう少しだった。今まで走ってきた途方もない距離を思えば、大したことはない。
「――ゼイツ!」
 後ろでフェマーの叫ぶ声がする。だがゼイツは振り返らなかった。さすがに走って追いかけてくる気はないのか、足音は聞こえてこない。となれば、あとは間に合うかどうかだ。もっとも、こんなところにフェマーがまだいることを考えれば、威嚇射撃をするにしてももう少し後になるだろう。さすがに使者を巻き込むような馬鹿な真似はするまい。まだ時間はある。
「間に合え」
 念じるように、ゼイツは呟いた。奥歯を噛むと、舗装されていないでこぼこの道を踏みしめるようにして走る。ぎりぎりのところで保たれている体は、気を許せば小石にも足を取られそうだった。転んだら終わりなことには変わりない。もう止まってはいけない。
 汗で額に張り付いた金糸を引きちぎりたい衝動と、彼は戦った。全てが鬱陶しくて堪らない。何もかもを投げ出して身軽になりたい。風に揺れている草原に思い切り倒れ込みたい。だがそれでも彼は、前へ前へと進んだ。
 フェマーの必死な言葉を胸中で繰り返す。ジブルは大切な国だ。大事な祖国だ。しかしそれでも、ウルナたちを放ってはおけない。矮小な考えしかできないゼイツには、ジブルのためにあらゆるものを犠牲にするなど、そんなことをする自分など許せなかった。
 感情だけが先走り、思考がまとまらない。視界がかすむ。それでも走り続けて気が遠くなりかけた時に、教会の入り口がようやく目に入った。西の棟は真夜中でも開かれている。助けを求める人々をいつでも受け入れられるように。新しく取り付けられたとわかる真新しい扉は、今は月光をうっすら反射して鈍く輝いていた。その前へ辿り着くと、彼はゆっくり取っ手を引く。
 誰もいない『本来の教会』を通り抜けて、彼は隠し通路を目指した。奥にある女神像の土台の裏側に、幾つか扉がついている。そのうちの一番小さなものがその入り口だった。
 ここにある女神の像は、聖堂にあった物よりも輪郭がはっきりしている。髪の短い女が空を見つめてたたずんでいるような姿だ。だが顔立ちはよくわからないし、ゆったりとした衣服では女とも断定しづらい。ウィスタリアというのが女神を指す名前だと知らなかったら、即答はできなかっただろう。
 彼は隠し通路へ続く階段を下り、曲がりくねった回廊を進み、また階段を上り、奥の棟を目指す。黄ばんだ白い廊下も、夜ともなれば不気味な光を纏っている。明かりはない。しかし薄闇に慣れた夜目のおかげで、速度を落とすことなく進むことができた。足音を立てずに注意深く歩き、彼は奥の棟へと入る。
 ここまで来ればもう何も怖くはない。彼はそのままウルナたちの部屋を目指した。彼女が戻っていなかったらどうしようという心配はあった。寝ているだろうクロミオに事情を話して伝わるとも思えない。いや、それならラディアスを呼んでもらえばいいか。そんなことを考えているうちに、彼は目的の部屋の前へと辿り着いた。
 深呼吸をしてから、彼は自分の姿を見下ろす。ひどい有様だ。土と風でくたくたになった衣服は、夜でもなければさぞみすぼらしく目に映ったことだろう。しかしウルナならば気にしないか。牢から出てきた時の彼を見ても、動揺した素振りもなかった。
「ウルナ」
 まずは小さく呼びかけてから、拳の裏で戸を叩く。そしてしばらく待った。これで反応がなければもう少し大きな声を出さなければならない。はやる心を抑えて、彼は固唾を呑んだ。今すぐこの扉を無理やりこじ開けたくなる。今こうしている間にも、国境沿いで動きがあるかもしれない。
 返答はない。やはりいないのか。そう思ってもう一度戸を叩こうとした途端、扉は音もなく開いた。宙で止まった拳を一瞥してから、彼はその向こうにいる人影を見やる。ウルナだった。明かりのない部屋でたたずんだ彼女は、髪も結っていない。月明かりに照らされた寝間着は、薄ぼんやりと輝いて見えた。乾いた喉をひくつかせて、ゼイツは手を下ろす。
「ウルナ――」
 何が起こっているのか伝えなければならないのに、声が震える。彼女は小首を傾げて微笑むと、一度後方を振り返った。そして安堵したように肩をすくめて、ゼイツの方へと視線を向ける。緩やかに揺れた黒髪が、寝間着の上を滑った。
「よかった、クロミオは起きてないみたい」
 そう告げる彼女の肩を、彼はちらりと盗み見た。包帯が巻かれているのかやはりそこは少しだけ膨らんでいる。彼は軽く目を瞑り、心を落ち着けようとした。どこから話せばいいのだろう。何から説明すれば彼女はわかってくれるのか。焦るばかりで思考がまとまらない。彼女が何をどこまで知っているのかも、彼はわからないのだ。
「落ち着いて聞いて欲しい」
 絞り出した声の情けなさに、笑い出したくなった。ウルナはうっすら微笑んだまま、首を縦に振る。まるで彼が説明する必要などないとでも言いたげに、全てわかっていると言いたげに、ゆっくりと。慈悲深く。記憶にある幼い頃に見た母の面影と、その様は重なった。
「大丈夫よ、ゼイツ」
「――ジブルは、ニーミナを攻撃するつもりだ」
 結局、端的に彼は告げた。言葉を選ぶことなどできなかった。彼女は不思議そうに逆側へと頭を傾け、それからまじまじと彼を見上げてくる。子どものような仕草だ。なおさら話を続けにくくなり、彼は唇をきつく引き結んだ。彼女の瞳がわずかに揺れる。
「……ジブルが?」
「そう、だ」
「使者が来ていたのは、そのことと関係しているの?」
「おそらく。国境沿いに古代兵器が並んでいた。彼らは本気だ。使者が戻れば、攻撃が開始されるだろう」
 一言一言はっきりと、彼は口にした。そして彼女の応えを待った。彼女は取り乱すどころか、納得した様子で相槌を打っている。何故それをゼイツが知っているのかと、問いかけてはこなかった。彼女は少しだけ視線を下げると、考え込むように頬へ手を当てる。ゆらりと揺れた寝間着の軌跡が、彼の目に妙に焼き付いた。
「じゃあこの国は滅ぶのね。道理だわ」
「――え?」
 微睡むように微笑んだ彼女の口からこぼれたのは、予想だにしなかった言葉だった。瞠目した彼は間の抜けた声を漏らす。咄嗟に頭が回らなかった。言っている意味が理解できない。
「ああ、でも姫様とクロミオを守らなくては」
「あの……ウルナ?」
「二人は守らなくては。お願いゼイツ、姫様とクロミオをあなたの国へ連れて行って」
 独り言のようにそう続けた彼女は、切なげに眉根を寄せて懇願した。混乱する中でも聞き捨てならない言葉を拾い上げ、彼は息を詰まらせる。『あなたの国』という響きが重くのしかかってきた。息苦しい。
「ウルナ」
「ゼイツは他の国の人でしょう? どこでもいいの、二人が生きていけるなら。二人が無事なら、どこだっていいの。どこでもかまわないのよ」
 微笑を崩さない彼女が、空恐ろしく見える。今ここでどう答えるのが正解なのか、彼には判断がつかなかった。何を言っても間違っている気がする。どう返答しても道を誤る気がする。ひくついた喉の奥を、乾いた唾が落ちていった。
「気にしなくていいのよ、ゼイツ。私があなたを助けたのは、この国を滅ぼしてもらうため。愛しくて憎いこの国を、あなたに滅ぼしてもらいたくて。だけどね、どうしても二人だけは助けたいの」
 彼女が一歩、彼の方へと進み出る。雰囲気とは相容れない軽やかな靴音が、部屋や廊下に響く。彼はその場を動けなかった。揺れる髪を、寝間着をぼんやりと見つめながら、胸中で彼女の言葉を繰り返す。
「お願い」
 彼女がさらに近づいてくる。揺れた寝間着の裾が揺れて、彼の足に触れた。彼女の右手がそっと、彼の頬へと伸ばされた。彼はそれを人ごとのように眺めていた。強い光を宿した彼女の右の瞳に、吸い込まれそうな心地になる。
「我が儘だってわかっているわ。だけどお願い、ゼイツ」
 彼女の手が首へと回された。何が起きたのか気がついたのは、目の前が暗くなったときだった。ほんの少し触れるだけの口づけに、一気に体温が上がる。それと同時に、かすみかけていた意識が清明になった。
「駄目だウルナ」
 離れようとする彼女の手を掴み、目前にある瞳を彼は見下ろした。どうにか発した声はかすれている。冷たい彼女の指先が、ぴくりと震えたのがわかった。だが振り払うことを許さず、彼は眉をひそめて言葉を絞り出す。
「それは無理だ、ウルナ。ジブルがルネテーラ姫を大切に扱うわけがない。俺の国は、そんなに素晴らしい場所じゃあない。うまいこと利用されるだけだ。クロミオだって無事ですむかどうか」
 ゼイツを捨て駒にした国だ。追い詰められているからと、証拠を待たずに動き出したような国だ。そんなジブルが女神の象徴であるルネテーラを手にしたらどうなるだろうか? あの容姿ではうまく匿おうとしても無理だろう。そもそもゼイツにはその伝手もない。しかも事情を知るフェマーにはすぐに勘づかれてしまうに違いない。
「ゼイツ?」
「それに俺はウルナを置いていけない」
 大体、彼女は『二人』と言った。つまり、彼女自身は逃げるつもりがない。それでは意味がない。奥歯を噛み締め、彼は握った彼女の手首を一瞥した。このか細い体で、傷を負った体で、何をしようというのか? ニーミナに残ってどうしようというのか? 嫌な予感が、彼の中を渦巻き始める。
「ウルナはどうするつもりなんだ?」
 問いかける言葉が、力無く辺りに響いた。ニーミナの滅びを願っている彼女は、ここで一緒に死ぬつもりなのではないか? 共に落ちていくつもりなのではないか? そんなことをしても、ルネテーラやクロミオは喜ばないだろうに。
「二人を逃がしてここに残って、それでどうするんだ?」
 尋ねる声が震える。彼女の顔がわずかに歪み、視線が床へと向けられた。答えを促そうと手に力を込めると、痛みを堪えるような小さな呻きが漏れる。彼は慌ててその手を離した。と同時に、彼女が動いた。彼を横へ突き飛ばすと、何も言わずに廊下を走り出す。
「ウルナ!?」
 咄嗟のことに、彼は反応できなかった。予想だにしない強い力だった。よろめいて倒れ込みそうになった彼は、はっと気がついて体勢を立て直す。そして薄暗い廊下の壁に手をついた。月明かりに照らされた道を、駆けていく彼女の後ろ姿が見える。
「ウルナ!」
 もう一度名を呼んで、彼もふらつきながら走り出した。今見失っては取り返しのつかないことになる。後悔することになる。何度も限界を超えて悲鳴を上げた体を、彼は再度鞭打った。静かな廊下に、二人の乱れた靴音が反響した。

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