ウィスタリア

第三章 第一話「神話の最後を覚えていますか?」

 雪が降らない世界もあるのだという。寒さに怯えることも、蓄えを心配することもない場所が、この地平のどこかには存在するのだそうだ。だがウルナには全く実感のないことだった。重く厚くなっていく雲を見る度に不安に思う気持ちを、抱いたことがないとはどういうことだろう? 想像しようとしても無理だった。
 どんなに拒絶しても冬はやってくるし、凍てつく空気は貧しい人々の命を奪う。準備を怠れば多くの人間が死ぬ。それが冬だ。その間、皆は肩を寄せ合いながらひたすら春が来るのを待ち望んでいる。少しでも早く、その日が訪れることを祈っている。
 ウルナは庭にたたずんだまま、空を見上げていた。厚みを増していく雲を見ると、幼い日に抱いていた漠然とした希望、恐怖を思い出す。風の温度が、匂いが変わっていくこの時期に独特のものだ。短い夏が終わり、気づけば秋が通り過ぎようとしている。また長い冬がやってくる。ひたひたと忍び寄る気配は、世界が変わらないことの象徴であり、また変化することの象徴でもあった。
「明日は、雪が降るそうだ」
 雲を睨みつけていたウルナの背に、不意に声がかかった。羽織った上着の襟元を寄せて、彼女は振り返る。部屋の扉を開けて庭へと一歩を踏み出し、ラディアスが顔を曇らせていた。彼が笑った顔を最近見ただろうかと、彼女はぼんやりと考える。彼の微笑みを思い起こそうとしても、小さな頃のことしか手繰り寄せられない。
「やっぱりそうなのね」
「ああ」
 ウルナの隣にラディアスは並んだ。それ以上返る言葉はない。渋い彼の横顔から目を離して、彼女は再び薄曇りの空へと視線を向けた。ますます冷え込みは強くなっている。彼の言葉が本当なら、じきに世界は白に包まれるだろう。全てを塗りつぶす凶悪な季節の到来に、人々は震えるしかない。
「カーパル様のところへ行ってきた」
 ぽつりと、独りごちるようにラディアスが言った。わずかに右の瞳を細めて、ウルナは「そう」とだけ応える。気まぐれに吹いた風の音もどこか遠い。彼の吐息も、生の気配も儚く感じられる。緩く束ねられた髪が揺らされるのが、視界の端に映るくらいだ。
 時折こうして世界が希薄になる。彼女と世界を隔てている何かが厚みを増し、あらゆるものに触れられなくなる。それが一体いつからなのか、もう思い出せなくなっていた。
「ジブルとナイダート、双方に表立った動きはない。おそらく牽制し合っているんだろう」
 抑揚のない声でラディアスが告げる。ジブルと聞いて、ウルナはゼイツの顔を思い浮かべた。彼は何を思ってここにいるのだろう? 故郷を離れ、どうしてここに執着するのか。彼女には不思議だった。見知らぬ土地に居続けるのは苦痛に違いない。それがニーミナであればなおさらだ。この教会は、彼女にとっても居心地がよくない。
「そう」
「だがそれもいつまで続くか……。ナイダートの要求が徐々に大きくなるのではと、カーパル様は懸念している」
「こんな道を選んだのだから仕方ないわ」
「ウルナ」
 ラディアスの声音に棘が混じった。だがウルナは気にもかけない。全てはカーパルが選んだ結果であり、そのことでナイダートを恨みに思うのは間違いだ。ナイダートはナイダートで、自国のために全力を尽くしているのだろう。争いにならないのは、ただ双方の利害が一致しているがためだった。周囲が動けば状況は変わる。いつ何がひっくり返されてもおかしくはない。
「決めたのは叔母様よ。ただ、全ての手の内を見せる必要もないわね。なるようにしかならないのだし」
「……達観しているな」
「だってどうしようもないもの。変わったものは元には戻らない。決定は覆せない。後悔しても無駄なのよ」
 降り落ちてきた雪が空へ帰ることなどないように、全ては一つの流れに乗っている。時間は巻き戻らない。死んだ者は生き返らない。もしもそれができるとしたら、きっと女神だけだろう。ウルナは口角を上げた。
「不可能を可能にすることができるのは、ウィスタリア様だけよ。でもウィスタリア様はそれをしない。今までも、きっとこれからも」
「だからお前の心も戻らないのか」
 苦々しさの中に諦念の響きを交えて、ラディアスが呟いた。ぼんやりとした眼差しを彼へと向け、ウルナは小首を傾げる。風の音が強くなったように思えた。ゆっくり彼女へと双眸を向けて、彼が眉根を寄せる。吐き出された重たい息が、寒々とした空気へと染み込んでいった。また彼が、世界が、彼女から離れていく。
「私の心は、もうどこかへ行ってしまったのかしら?」
 何だか愉快な気分になって、ウルナはくつくつと笑い声を漏らした。大切なものが失われたから、あらゆるものが遠ざかっていくのか。彼女にとって輝かしく見えるのは、ルネテーラとクロミオだけだ。他は全て硝子越しに見る景色のようで、所々歪んだりくすんだりしている。
「――俺にはわからない」
「そうよね、私にもわからないもの。誰だったら教えてくれるのかしらねえ」
 ウルナは笑いながら顔を伏せた。答えのない問いかけは嫌いではない。ただほんのわずかだけむなしさを覚え、上着の襟元を掴んだ。喉の奥に何かが詰まったようで、息苦しさを覚える。
 本当に心がどこかへ行ってしまったのならば、こんな気持ちにもならないだろう。なくなってしまえばいいと何度願ったことか。しかし心が消え去ることはなく、左の瞳が輝きを失うことはない。彼女は中途半端にこちら側にとどまっている。
「ねえ、ウィスタリア様」
 この世界が再び白に包まれる前に、何も感じなくなればいい。祈りを込めて彼女は囁き、右の目を閉じた。光を失ったはずの瞼の裏側に、薄紫の光が見えたような気がした。



 ルネテーラの部屋に入るのは何度目だろうか? お茶に呼ばれたゼイツは、柔らかいソファに腰掛けながら居心地の悪さと戦っていた。
 不幸なことに今日もクロミオはいない。念のためと、まだラディアスの部屋にいるようだった。当のラディアスたちはルネテーラ誘拐事件の事後処理に追われているらしく、最近は全然姿を見かけていない。ウルナは時折ルネテーラの元を訪れているようだが、直接話をする時間はあまりなかった。
 ため息を吐きそうになるのをどうにか堪え、ゼイツは部屋の中を見回した。いつ見ても煌びやかなところだ。できることならこの調度品、本を調べてみたいという欲求が湧き起こる。もっとも足の怪我がまだ完治していないため、必要以上に歩き回るのは許されていなかった。
 無理をして山に入ったのがよくなかったようで、診せた医者には苦い顔をされてしまった。今も鈍い痛みが続いている。痛み止めがなかったら、おそらくひどい激痛に襲われていただろう。ニーミナの医療水準が思っていたよりも高くてよかったと、ゼイツは密かに安堵していた。
「いい香り!」
 お茶を淹れたルネテーラが、テーブルの前で顔をほころばせる。その姿を横目に、ゼイツは首の後ろを掻いた。誘拐事件が解決してからも、彼女は一人になるのを極度に恐れた。そしてゼイツを側に置きたがった。
 しばらくは彼女を一人にさせない方がいいという理屈は、彼もわかる。しかしその思いを聞いた後となっては、何をするのも話すのもやりづらい。普通に反応しようと思ってもつい顔に不必要な力が入る。自分の不器用さを何度も自覚させられ、彼は心中で苦笑した。もう少し上手く繕うことができたらいいのだが。
「さすがクロミオの持ってきてくれたお茶ね。でもこれがなくなったら、しばらくは手に入らないかしら」
 ルネテーラは独りごちながら、白いカップを手にして残念そうに微笑んだ。それから盆にカップを二つ載せると、ゆっくりとした歩調でゼイツの方へ近づいてくる。立ち上がろうとした彼を目で制止し、彼女は小さなカップを手渡してきた。彼が「ありがとう」とだけ口にして受け取ると、彼女は手近な椅子に腰掛ける。薄緑色のドレスの上で、銀の髪が揺れた。
「ゼイツは動いては駄目よ」
 香りを楽しみながら目を細めたルネテーラは、当たり前だと言わんばかりにそう告げる。ますますいたたまれない気持ちになり、ゼイツは愛想笑いを浮かべた。手に馴染まないカップの重みが、息苦しさを強める。
「ウルナにもそう言われてるもの」
「……そうなのか?」
「ええ、そうよ。ウルナもあなたのことを心配しているのよ。無理をさせたのではって」
 カップの中身へ視線を落としながら、ルネテーラは囁く。どう返答してよいのか彼にはわからなかった。ウルナは彼のことをどう思っているのか? 周囲へはどう説明しているのか? 牢から解放されたばかりの自分自身の処遇については、いまだ確認してはいない。
 多くの者が、彼がニーミナの人間ではないと知っているはずだ。それなのにルネテーラの傍に置いておくというのが解せなかった。さらわれたばかりの大事な『姫君』を、得体の知れない人間と一緒にいさせるというのはどういうことだろう? ニーミナの人間ではないから逆に安心なのか? もっとも、この足の状態を考えればそう判断したくなる気持ちもわかるが。
「ウルナの調子も悪そうね」
 ぽつりと、ルネテーラは呟いた。カップを持ち上げた状態で、ゼイツは絶句する。ルネテーラの目にはそう映るらしい。彼には普段のウルナとの違いが定かではなかった。少なくとも表面上は何事もないように見えていた。
「また力を使ったのかしら?」
 ゼイツは固唾を呑んだ。ルネテーラの口から『力』という単語を聞くのはこれが初めてだった。だがウルナの瞳のことを知っているのだから、当然それにまつわる力のことも理解しているのだろう。そっとカップに唇を寄せて、彼は心を落ち着かせようとする。ではルネテーラは何をどこまで知っているのか。本当は『全て』わかっているのではないか。
「ルネテーラ姫は――」
「はい?」
「ウルナが力を使ったところ、見たことがあるのか?」
 カップから口を離して、ゼイツは尋ねる。小首を傾げたルネテーラは、一瞬だけ頬を緩めた後に目を逸らした。そして躊躇するように視線を彷徨わせ、嘆息する。
「一度だけ」
「そうなのか」
「ウルナはわたくしの前では緑石を見せようとはしません。カーパル様の話もしません。わたくしはいまだに、どうしてウルナがあの瞳を得ることになったのか聞いてもいないのです」
 寂しげな声が部屋の中に染み入った。ゼイツは何と言葉をかけるべきか、判断に迷い瞼を伏せる。湯気の立つカップの中身を見つめていると、胸の奥に重苦しさを覚えた。
「ウルナの両親が、その力について研究していたことは聞きました。それをカーパル様が継いだことも。ウルナの血筋は、力と相性がよいそうなんです。わたくしなんかよりもずっとずっと。わたくしにできることは、この書物を守ることくらいです」
 ゼイツが顔を上げると、ルネテーラは本棚の方を見つめていた。実験中のウルナを思わせる遠い瞳に、心臓がとくりと跳ねる。クロミオは気楽に手に取っていたが、重大なものらしい。いや、それだけではない、ルネテーラの部屋には遺産が溢れていた。彼が腰掛けているソファもおそらくそうだろう。
「ここの本はどれも遺産なのか?」
「ええ。技術的なことは何一つ書かれていませんが。ここにあるのはみな神話です」
 振り返ったルネテーラはゼイツを見つめる。紫の双眸に神妙な光が宿ったようで、全てを見透かされた心地になった。「神話」と彼は繰り返す。クロミオと読んでいた本の他にも、ここにはおとぎ話が山ほどあるのか?
「他国の方は何故だかおとぎ話のように思っているようですが。神話も遺産の一つではあるんです。いわば歴史書です」
「え……?」
「わたくしたちが『力』についての情報をどこから得ているか、考えたことはありませんか?」
 かすかにルネテーラは微笑んだ。何か考え違いをしているのではと、ゼイツの脳裏を疑問がよぎった。考えてもみなかった。ニーミナはどうやって禁忌の力について探っていたのだろう? 禁じられていた力について研究するような余裕は、こんな小国には普通ない。
「神話です。誰もが知っているあの神話は、全てここニーミナで起こったことなんです。ですからここには多くの正確な神話が残されています。ここにある本もその一部です」
 カップを両手で包み込み、ルネテーラは瞳を細める。確かに、ここにある本にはゼイツの知らない続きがあった。彼女の言うことが本当なら、そちらが本来の話なのだろう。だがそれよりも聞き捨てならないことがある。『ニーミナで起こったこと』とはどういう意味なのか? まさか本当にあんなことが過去にあったとでも言うつもりなのか?
「あの神話は何度も複製されているんです。だから所々話が変わっていたり、欠けていたり」
 歌うようにルネテーラは告げる。まるで言葉をあらかじめ準備していたかのようだった。ゼイツは眉根を寄せる。彼女の説明がわかるようでわからない。否、理解したくないと言うべきか。先ほど聞いた歴史書という単語が、脳裏を渦巻き始める。
「神話は実話なんです。あれはまだ力が存在していた時代の話なんです。その力が消えるまでの歴史を刻んだものなんです」
 青の男の話を、ゼイツは思い出そうとした。あの英雄譚の結末を。だが彼が知っているのは青の男を倒すまでだ。彼女の言葉を借りれば、その先に力が失われるまでの話があるらしい。
「あの神話は現実と矛盾しないのです。古代の力を研究している人間であれば、研究者であれば皆知っています。それを隠しているだけなの」
 ルネテーラが遠く思えた。何も知らないように見えた彼女も、彼が全く理解していなかった現実と直面している。徐々にだが、何故ジブルやナイダートが焦っていたのか理解できるような気がした。むやみに警戒していたのではない。この国であれば何か成してしまうかもしれないと、そう危惧していたのだろう。固唾を呑み、彼は口を開く。
「……どうして?」
「あの力をもし誰かが手に入れたら、今までの国の関係が根本から変わってしまいます。世界が作り替えられるのと同じです。だから誰も手を出さないようにと、そういう決まりを遙か昔に作ったんです」
「だから、禁忌の力なのか? 連合の取り決めよりずっと以前から、そう決められていたと?」
「はい」
 頷いたルネテーラを、ゼイツは見つめた。現実感のない話に奇妙な気分になる。少しずつ死へと向かっていくこの世界が変わるとでも言うのか? そんな馬鹿な話があるのか? 否定しそうになるも、彼は考え直す。確かにそんな力を自由自在に使うことができたら、大きな変化が起こるだろう。『心』をエネルギーとする力なのだから。
 よく考えてみれば、連合に所属していないニーミナにも禁忌の話が行き渡っているという時点でおかしかった。あらゆる国と交友のないニーミナには、連合の取り決めなど意味をなさない。だがそれが遙か昔からのものであったら? ジブルやナイダートの建国前からならば? ニーミナという国がいつから存在しているのかも、彼は把握していない。
「ゼイツは、神話の最後を覚えていますか?」
 ルネテーラに率直に尋ねられ、ゼイツは首を横に振った。覚えているも何も、そもそも知らないのだ。ルネテーラの言う通り、それは欠けていたのだろう。彼女は再びカップへと目を落とすと、肩越しに滑り落ちてきた銀の髪を背中へ追いやる。神妙な空気が部屋の中を満たした。
「力は完全に消えたわけではないんです。よく読めばわかります。あの力はこの世界から消えたわけではなく、使える人がほとんどいなくなっただけなんです」
 胸の奥がざわめいた。ゼイツは固唾を呑み、続く言葉を待つ。うるさく騒ぐ鼓動が、何かを拒絶しようとしていた。耳の奥が痛い。
「一冊だけ、かなり古い遺産がここには残されています。そこにはこう記されているんです。力を使える女性が、一人は確実に取り残されてしまったと」
 顔を上げたルネテーラの双眸が、ゼイツを捉える。「まさか」と心の中で彼は声を上げた。ばらばらに散らばっていた破片から少しずつ全体の形が見えてきた。歴史書、世界から失われた禁忌の力、――そして女神。
「それがわたくしたちの言う女神、ウィスタリア様です。ですからわたくしたちが力へと心をはせるのは当然の成り行きなんです。わたくしたちは、女神様の力を信じているのですから」
 禁忌の力を使うことができる存在、それが女神ウィスタリア。彼女の実在を信じるからこそ、人々は祈る。そして失われたと思われている力を求める。力も、女神の存在も、ニーミナの人々にとっては疑いようのない歴史的事実なのだ。しかもそれを裏付ける緑石が、戦艦が、ここにはある。
「禁じられていることはわかっています。手を出すべきではないのかもしれません。ですがわたくしたちは、ウィスタリア様に近づきたいのです。ただ滅びを待つのではなく」
 真っ直ぐと突き刺さるようなルネテーラの視線を、ゼイツは受け止めることができなかった。味のしないお茶で喉を潤すだけで、精一杯だった。

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