ウィスタリア

第三章 第六話「この世界の救世主だよ」(前)

 薄灰色の空からふわふわと雪が降る。先ほどまで気まぐれな風に舞い上げられていたそれらは、再び地上を目指して揺れ落ちてきている。ゼイツはその一つを、分厚い手袋で受け止めた。茶色の布へと降り立った雪の上に、また別のものが柔らかく被さる。
「今日も積もりそうだねー」
 ゼイツの隣では、クロミオが空を見上げている。もこもことした帽子を押さえていた小さな手が、白と灰色でまだらとなった空へ無造作に伸ばされた。「姫様に見せた雪人形、また見失っちゃうよ」とぼやく声が弱々しい。ゼイツは手のひらから雪を払い落とした。
 少しずつ、ゼイツもこの庭の景色に慣れてきている。無慈悲に全てを染め上げる雪を見ても違和感を覚えなくなった。それでも恐怖は感じる。あらゆるものをなかったかのように覆ってしまうその力を見ると、一見平穏に思える日常が連想された。その下には一体何が眠っているのか。春になれば、全てが明らかとなるのか。
「ねえゼイツさん」
「ん? あ、ああ」
「あ、今ゼイツさん聞いてなかったでしょう! ひどいなー。ラディアスさんもいつもそうなんだよね。本当ひどいっ。……そういえば最近、ラディアスさんにも会ってないや」
 ゼイツの方を振り仰いだクロミオは唇を尖らせ、しかしすぐに眉尻を下げて肩を落とした。表情がころころとよく変わる。ゼイツは「そうか」と答えて微苦笑を漏らすと、再び考えを巡らし始める。ラディアスの姿を見かけることが少ないのは、水面下で誰かが動いているからなのか。変化がないように見えても、やはり何かが進んでいるのか。
「ゼイツさんは?」
「……いや、俺も会ってないな」
「そうなんだ。ラディアスさんが忙しい時っていつもよくないことが起こる気がする。嫌だなぁ」
 クロミオは子どもらしからぬため息を吐いた。何もわかっていないようでいて、経験から感じ取るものはあるようだ。ゼイツは曖昧な相槌を打つと、口をつぐむ。肩や頭に積もった雪が、唐突に重く感じられた。頬へと突き刺さる冷たい空気が、じわじわと染み入るような痛みをもたらしている。ゼイツは一度目を瞑った。視界が黒く塗りつぶされると、かすかな風の音が大きくなったように思える。
「何も起きないといいんだけど」
「そうだな」
 呟くクロミオに、ゼイツは瞳を閉じたまま同意を告げる。それは祈りに近かった。嵐を予感させる静寂に戦く心が、ただただ平穏を願っている。それが長くは続かないことを確信しながら。滑稽だ。
「姫様もラディアスさんのこと心配してたし」
 そう続けたクロミオの声に、かすかに異質な音が混じって聞こえた。過敏になったゼイツの耳はそれを拾い上げた。はっと眼を見開いたゼイツは、音が聞こえた方へと顔を向ける。彼の後方、雪の小山の向こうからだ。白に塗りつぶされている世界をねめつけ、彼は息を呑んだ。
「ゼイツさん?」
 不思議そうにクロミオが名を呼んでくる。だがそれには答えず、ゼイツは耳を澄ませた。これは雪面をぎこちなく踏みつける足音だ。一歩一歩、慎重に彼らの方へ向かってきている。
「あれ? 誰か来る?」
 クロミオも気がついたようだった。時折弱い風が吹く程度の中、雪を踏みしめる音は響きやすい。クロミオはゼイツへさらに近づくと、小首を傾げた。ゼイツは左手を固く握る。できる限り穏やかな表情を心がけたかったが、頬に不必要な力が入った。
 しばらく待つと、雪の小山から男が顔を出した。銀世界を背景に、赤茶色の髪が映える。フェマーだ。マント姿ではなく、珍しく焦茶色の分厚いコートを纏っている。ゼイツが黙したままでいると、隣にいたクロミオが先に反応した。
「フェマーさん!」
 子どもらしい嬉々とした声が雪で跳ね返る。フェマーは笑顔で片手を振ると、そのままのんびりとした歩調でゼイツたちの方へ近づいてきた。ゼイツは動かず、押し黙る。彼の脳裏を様々な可能性が駆け巡っていた。心の水面に投じられた石が、大きな波紋を生んでいる。一方のクロミオは楽しげに一度飛び跳ねると、フェマーの方へ駆け寄っていった。小さな背中からは喜びが溢れ出している。
「こんにちは、クロミオ君」
「戻ってきてくれたんだねー! 雪ひどいけど大丈夫だった?」
「ええ、ひどい雪でしたね。死ぬかと思いましたよ。道中、真っ白で何も見えなくなりまして」
「うわーそれは大変! 無事に辿り着いてよかったねー」
 大袈裟に汗を拭う仕草をするフェマーへと、クロミオは心配そうな声を掛けている。ゼイツはジブルからニーミナへの道のりを思い出した。あの何もない荒野に雪が吹き荒れたとすれば、大変なことになるだろう。目印となるものもない。頼りとなる道も草も全てが雪の下だ。よく迷わずに来られたなと、正直ゼイツは思った。実際、どの辺りから雪が積もっているのかは知らないが。
 しかし、どうしてこうも早くフェマーは戻ってきたのか? ジブルに帰ってまたすぐに出発しなければ、これだけ早く到着しないのではないか? 何かあったのだろうかと、ゼイツの中を不安が渦巻く。また知らないところで大きな動きがあったのではないかと考えるだけで、動悸がした。だからラディアスも忙しいのか?
 ゼイツは今すぐ尋ねたかったが、おそらくフェマーははぐらかすだろう。何より、クロミオがいる前では話題にできない。疑問を吐き出したいのをゼイツがぐっと堪えていると、手を下ろしたフェマーが満面の笑みを浮かべるのが見えた。
「ええ、本当によかったです」
「うん! 僕ね、女神様にお願いしたんだ。お話ができる人が増えますようにって。そのおかげかなー?」
 無邪気なクロミオの笑い声が薄灰色の空へ吸い込まれていく。ゼイツはどきりとした。フェマーがどの程度ニーミナについて理解しているか定かではないが、女神のことを口にするのは控えた方がいいように思える。ニーミナにとっては決してよくないだろう。もっとも、それをうまく伝える術を、ゼイツは持っていないが。
「ああ、そうだったんですか。ありがとうございます」
「よかったね!」
「女神様にはどこでお願いしたんですか?」
「夢の中で! 僕、最近は毎晩会ってるんだー」
 自慢げな声音でクロミオはそう報告する。相槌を打っていたフェマーの瞳が細められたのが、ゼイツにもわかった。嫌な予感を覚えてゼイツは固唾を呑む。子どもの戯言としか普通は思わないだろうが、何がフェマーにとって情報となるかはわからない。一歩踏み出したゼイツの耳に、さらなる二人の会話が届いた。
「そうなんですか。女神様というのは強い方なんですか?」
「もちろんそうに決まってるよ! だって女神様は力が使えるんだもの。女神様は、ウィスタリア様は、この世界の救世主だよ?」
 クロミオは胸を張った。ゼイツはさらに二人へ近づいていき、クロミオの頭をぽんと叩く。弾かれたように振り向いたクロミオは、訝しげにゼイツを見上げてきた。クロミオにとっては、フェマーに話すのもゼイツに話すのも似たようなものなのだろう。実際、ゼイツもその違いをうまくクロミオに説明することはできない。何かを動かす決定権を握っているかいないか、くらいだろうか。
「この世界の救世主ですか」
 ゼイツが内心で言葉を選んでいると、フェマーがふと独りごちた。ゼイツの視界の隅で、遠くを見やったフェマーがかすかに口角を上げる。一見嘲笑っているかのようでいて、どこか神妙にも思える微笑だった。フェマーはコートの襟元に触れてから、艶やかな髪を耳へとかける。
「もしも、もしも『その時』がきたら、本当に救ってくれるんでしょうかね?」
 囁いているはずなのに、不思議と力強く響く。「もしも」という単語には切実な色が滲んでいた。ゼイツはいつか聞いた「切羽詰まっている」という言い訳を思い出す。フェマーは、いやジブルは何を恐れているのだろう? 緩やかに滅びつつある世界の中で、一体何を危ぶむというのか? ニーミナが焦るのならばわかるが、ジブルやナイダートまで追い詰められているというのは理解できない。そのような話も兆候も、ゼイツがいた頃には全くなかった。
「我々を、助けてくれるんでしょうかね?」
「助けてくれるよ! だって女神様だもの!」
 突然、クロミオが声を張り上げた。そこには確かな怒りがあった。ゼイツもフェマーも、瞠目してクロミオを見下ろす。こんなクロミオの表情を見たことがあっただろうか? まなじりをつり上げ、唇を尖らせ、両の拳を握っていた。クロミオの熱い吐息が、白い霧となって寒々とした空気を揺らす。
「女神様はずっと僕たちのことを見守ってるんだ。そして本当にどうしようもない時にだけ助けてくれるんだ。それがウィスタリア様だよ!」
 主張するクロミオに、ゼイツは応えることができなかった。「そうなんですね」と頷くフェマーの声が、しんしんと降り積もる雪の中に、溶け込んでいった。



 ゼイツが奥の棟でラディアスの姿を見かけたのは、フェマーが戻ってきてから数日後のことだった。静かに雪が降る夕刻のことだ。廊下の窓から見える景色は、茜から紫へと染め上げられている。今日も冷え込みは厳しい。クロミオを部屋へと送り届けたゼイツが長い廊下を歩いていると、曲がり角からラディアスが姿を現した。ぼんやりしていたゼイツは、眼を見開いて立ち止まる。
「ラディアス!」
 声を掛けると、そこでようやく気がついたのかラディアスはゼイツの方を見た。よどんで見える双眸には、明らかに疲れが滲み出ていた。忙しかったことは間違いない。ラディアスがその場を動き出す気配がないため、ゼイツは小走りで近寄った。静寂を裂くように彼の靴音が響く。
「ゼイツか、ちょうどよいところにいた」
「ちょうどよいって、何かあったのか? 今クロミオを部屋に置いてきたところだけど」
 よほどの疲労らしい。ラディアスの声には張りがなかった。駆け寄ったゼイツは顔をしかめ、窓枠に手をつく。指先から染み込む冷たさが、ゼイツの思考の濁りを取り去った。ラディアスに会ったら聞こうと思っていたことは山ほどあった。疑問、確認したいことが、幾つも幾つも折り重なっている。だがゼイツがそれを口にする前に、ラディアスが問いを投げかけてきた。
「ジブルの使者には会ったか?」
 硬い声が陰りを帯びた床、壁で反響する。ゼイツの喉を冷たい唾が落ちた。フェマーのあの嫌味に溢れた微笑みがすぐに浮かんで、消える。カーパルと話をしている以外の時間は暇なのか、フェマーは度々廊下や庭を歩き回っているようだった。しかし今日は会っていない。
「フェマーになら、昨日は会った。でも今日は顔を見かけていない。――フェマーがどうかしたのか?」
 尋ねる声に力が入る。ラディアスが聞いてくるということは、やはり何かが起きているに違いない。ジブルの企みを思うとゼイツは複雑な気分になった。祖国が妙なことをしでかそうとしているとは考えたくない。ただ、誰かが動き出せば騒動は免れないだろうということは確実だった。両者の利害が噛み合わないなら、なおさらだ。
 ゼイツが顔をしかめていると、長く息を吐き出したラディアスは一瞬視線を逸らした。そして気難しげに唇を引き結ぶ。しばし沈黙が続いた。返答を促そうかゼイツは迷ったが、そうしても効果はないだろうと判断し、ここは堪えることにする。ラディアスはそういうのを嫌う。しばらく口をつぐんでから嘆息し、ラディアスは辺りを見回した。彼の髪が尾のごとく揺れる。
「実はだな。ジブルの使者がくると同時に、他の人間も国内に入り込んだのではないかと危惧している者たちがいる」
 ラディアスの口から放たれたのは、想定外の事態だった。ゼイツは一瞬だけ息を吸うのも忘れる。「他の人間」と、彼は繰り返した。国境沿いには何もないから、その気になれば誰でもニーミナへと入ることはできる。この天候をものともしなければの話ではあるが。
「あいにくの吹雪でな、目撃証言は少ない。しかし庭で怪しい人影を見たという若者が二人いる。ちょうどジブルの使者が来た頃だ」
 ゼイツが閉口していると、ラディアスは瞳を伏せてそう続けた。ニーミナにしばらくいて実感したことだが、とにかくこの国は警戒というものを知らない。国境沿いに兵が見張っているわけでもないし、どこかに関門があるわけでもない。
 それを考えると、誰かが潜入していたとしても何ら不思議はなかった。実際、ゼイツも簡単にこの国へと入った。教会にも難なく潜り込んだ。奥の棟まで来たのは偶然が重なったからだが。
「その様子だと、何も知らないようだな」
「俺は何も聞いていない」
 ラディアスは諦念の眼差しをゼイツへ向けてきた。眉間に皺を寄せて、ゼイツは頷く。本気でラディアスは疑っていたのか? それにしては素直に話している。単に確認したかっただけなのか。ゼイツが窓枠から手を離し頭を掻くと、ラディアスは相槌を打った。
「まあそうだろうな。で、そのジブルの使者は何か漏らしていなかったか?」
「いや。あいつが口を滑らせることなんて滅多になさそうだ」
「そうか……」
 何かいい含んだようなフェマーの微笑を、ゼイツはまた脳裏に描いた。フェマーから何か掴めたら一番早いのだが、うまくはいきそうにない。もちろん、侵入者がフェマーとは何ら関係ない可能性もある。時期が時期なだけにそうとは思えないが、ナイダートが動いていることも考えなくてはいけなかった。
 空気が重くなる。薄暗い廊下に黒く焼き付けられた二人の影を、ゼイツはなんとなしに見下ろす。誰かが死ぬようなことだけは起きませんようにと、祈りたくなった。何かあればきっとウルナはまた遠い目をするのだろう。そして彼らから離れていく。そこまで考えたところで、はっとしてゼイツは顔を上げた。
「そういえばラディアス、ウルナがどこにいるか知らないか? 今日は見かけてないんだが」
 まさかもう何かが起きているのではないか? 最近忙しくしていたとはいえ、夕刻になるまでウルナと顔を合わせないというのは珍しかった。ゼイツは落ち着かなくなり視線を彷徨わせる。するとラディアスはやおら腕組みをし、苦笑を漏らした。
「ウルナならルネテーラ姫と一緒に聖堂にいるはずだ。今日は聖堂の手入れの日だからな」
「え?」
 ゼイツの中を駆け抜けた緊張が、一瞬で霧散する。思いも寄らぬ説明に彼は目を丸くした。聖堂と聞き、あの不思議な紫の花弁が思い浮かんだ。神聖と思える場でも手入れが必要なのか。当たり前のことのはずだが実感が湧かず、彼は首を捻る。
「手入れって、そんな日が決まってるのか」
「年に数回だ。だから今日は夜まで帰ってこないだろうな。あれは時間がかかる」
「そうだったのか」
 何だか気恥ずかしくなり、ゼイツは目を逸らした。焦りを覚えた自分が馬鹿みたいに思えてきた。無論、ルネテーラが一度さらわれていることを考えると、取り越し苦労なのはよいことだ。つい長く吐き出した息が、白みながら空気へ馴染んでいく。
「心配して損したって顔だな」
「いや、俺は別に」
 ラディアスは笑った。ますますばつが悪くなり、ゼイツは首の後ろを掻く。全てが筒抜けのようだった。ゼイツは別の話題を探そうと窓の外を見やる。もうほとんど日は届かなくなっており、地上と空の境が曖昧だ。だが先ほどよりも雪が弱まっているように思える。この調子だと夜には止んでいるだろうか? そんなことを考えると同時に、どこかの扉が開く音が、廊下を通じて伝わって来た。曲がり角の向こう側だ。
「誰だ?」
 ゼイツの視界の隅で、ラディアスが顔を歪める。言葉の割に、その瞳には確信の色が満ちていた。ゼイツは喉を鳴らす。奥の棟にいる者は限られていた。ウルナとルネテーラが聖堂にいて、クロミオが自室にいるとなると、残るのは一人だけだ。自然とゼイツの顔も強ばる。
 優雅な靴音が、冷たい空気の中を反響しながら近づいてくる。ゼイツとラディアスはその場を動かず待った。たわいない話でもすべきかとゼイツは考えたが、思うように喉から言葉が出てこない。そもそも、ラディアス相手に雑談というのは、この状況でなくとも難しい。そうしているうちに廊下の向こう側、曲がり角からフェマーが顔を出した。
「ああ、ここにいらっしゃった!」
 フェマーは二人がここにいることを予想していたようだった。嬉しげな声を上げると、早足に近づいてくる。それまでは部屋にいたはずだから会話が聞こえていたとは思わないが、要注意だ。大きなマント、赤茶色の髪が優雅に揺れる様を、ゼイツは肩越しに見つめた。いつも通り、フェマーは一見人当たりのよい笑顔を浮かべている。だがその垂れ下がった瞳の奥には、深いものが見え隠れしていた。
「こんにちは。ってそんな怖い顔をしないでください」
 近づいてきたフェマーは、彼らから数歩離れたところで立ち止まった。ゼイツはフェマーへと向き直り、意識的に口角を上げる。それでも歪な笑みとなっているだろう。ラディアスが何も言わないため、仕方なくゼイツは口を開いた。
「怖い顔だなんて……」
「ああ、寒さのせいですかね。ところで、クロミオ君を知りませんか?」
 フェマーは微笑みつつ首を傾げた。またクロミオに会おうとしているのかと思うと、ゼイツの胸がざわつく。できるなら近づいて欲しくない。関わって欲しくない。背中越しに、警戒するラディアスの視線もそこはかとなく感じられた。瞳を細めたゼイツはもう一度窓枠へと触れる。
「クロミオなら、今は部屋にいると思うが。眠いって言ってたから寝てるかもしれない」
「ああ、そうですか。では明日にでもしましょうかね」
 暗に会うなと告げると、あっさりフェマーは引き下がった。意外だった。残念そうに眉尻を下げたフェマーは、物わかりよく相槌を打つ。ラディアスがほっと息を吐いたのがゼイツには感じ取れた。するとフェマーは用件はそれだけだったとでも言いたげに、すぐさま踵を返そうとする。
「クロミオに何か用が?」
 慌ててゼイツは声を掛けた。振り返ったフェマーは足を止め、揺れるマントの裾を押さえる。深い茜色から紫へと変わりつつある光に照らされ、彼の双眸は妖艶な輝きを帯びていた。ゼイツにはそう思えた。衣擦れの音が、痛々しい静寂を強調する。
「大したことじゃあないですよ。では私はこれで。カーパル殿との話もありますしね」
 笑顔のまま軽く手を振り、フェマーは再び歩き出す。軽やかに遠ざかる背中を、ゼイツは無言でねめつけた。情報を漏らすつもりはないということか。弄ばれているような心地になり、胸の奥に重いものが落ちる。「いかんともし難い奴だな」と、ラディアスがぼやく声が聞こえた。ゼイツは首を縦に振ると、冷たい窓枠から指先を離した。

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