ファラールの舞曲
第四話 「相見えし敵」 (前)
「魔物が来ると、今し方報告がありました!」
恐れていた魔物襲来の報告。思っていたより早かったそれを、屋敷外警備の隊長であるギャロッドは落ち着いた眼差しで受け止めた。彼が待機しているのは屋敷近くに設けられた簡素な建物の中だ。前線基地と呼ぶには心許ない設備故に、言うならば見張り小屋といったところか。
ギャロッドはくすんだ銀の髪を掻き上げると、対技用の額当てを巻き付ける。ほとんど効力のないお守りのようなものだが、これをしているとどんな戦場でも冷静でいられた。このような時ならばなおさらその効果に期待したくなるというもの。報告を持ってきた背の低い青年へと、ギャロッドは視線を向ける。
「わかった。すぐに第二部隊は持ち場へ行くように。第一部隊はもう交戦中だな?」
「いえ、まだ戦闘は行われていません」
「なに、まだだと? では何故奴らが来たと……?」
「魔物が近づいてくるのを感知した者がいるそうです。おそらく、気に聡い者かと」
「ああ、なるほどな」
予想外の返答に一瞬ギャロッドは顔をしかめたが、しかしすぐに考えを改めてうなずいた。『気』は技使いにしか感じられないものだが、普通の人間でも強さはどうであれ放っている。だからその中で目的の気を探し出すのは、かなり困難な作業だった。しかもそれが得体の知れない魔物の気であるならばなおさらだ。
だが、ここに集いし者たちならばそれも可能となる。中には実際戦闘を行うよりもそういった情報収集能力に長けた者もいるだろう。ならば戦闘が始まる前に魔物の接近を感知できたとしても、何ら不思議ではない。ある意味ではとんでもない実力者だと思うが。
「魔物がどの辺りにいるか、お前はわかるか?」
「いえ、残念ながら私は」
「そうか。とりあえず第一部隊は持ち場のまま待機だ。第二部隊も人数が揃い次第、持ち場へと行くようにと――」
「ギャロッド」
すると背後から突然に名前を呼ばれて、彼は振り返った。声をかけられるまで気配もなかったし、無論入ってくる際の扉の音もしなかった。だがその声に聞き覚えはあったので、彼は特に驚きもしない。
アース。
ギャロッドと同じ屋敷外警備の担当で、その副隊長にあたる男だ。つまり第二部隊の部隊長ということになる。
ほぼ全身黒ずくめといった恰好で、武器は腰の長剣一本。他に身につけた防具はなくと、魔物相手の仕事にしては身軽すぎる程身軽だった。額に巻き付けた布と首元に巻いた布は血のような赤だが、ギャロッドのもののように気休めの意味があるとも思えない。
つまり一言で表すならば変わり者だった。しかし実力はあった。実力試験では二番の成績だったらしい。もっとも彼も一番手も本気を出していなかったようだから、実際にどちらが上かは判断できないが。
「アース殿」
「第二部隊を展開する必要はない」
「な……」
「われが出る。相手は高々数匹だろう? ならば問題ない」
アースの一言は簡素だった。簡素すぎて飲み込むのに時間がかかるくらい、単刀直入だった。言葉を失ったギャロッドは、目の前にいる『化け物』を目を見開いて凝視する。魔物相手に『高々』という表現をする男を、ギャロッドは今まで見たことがなかった。そしてきっとこの任務を終えた後も、そんな男に巡り会うことはまずないだろう。
「そ、そう言われてもだな」
「信用ないか? ならそこにいる男を見張りにつけてもいい」
「いや、そもそも相手が数匹と決まったわけではないのだし」
言いながら馬鹿馬鹿しい台詞だと、ギャロッドは自覚していた。魔物が何十匹も襲いかかってきた日には、確実にこの屋敷は陥落する。
だがそんなことはあり得ないだろう。それは悪夢の中での出来事であって、現実では起き得ない。魔物の姿が確認されることは珍しく、また確認されたとしてもせいぜい一、二が限度だった。もっとも彼らに見つかればほぼ命はないのだから、仕方のないことだとは思うが。
「だが気では二、三といったところだが?」
「……は? アース殿は、魔物の気も?」
「お前はできないのか? ここまで近づいてくればわかる」
「ど、どこまで近づいて来ているんだ!?」
「後五分で屋敷ってところだ。だから長居はできない。行くぞ」
痺れを切らしたのか、ギャロッドの返答を待たずにアースは走り出した。彼の言うことが本当ならば、確かに悠長にはしていられない。ギャロッドは額当てに指先で触れると、控えている男たちに目配せした。
「第一部隊は交戦準備、第二部隊は待機だ。ケレナウスはアース殿のあとをついていってくれ」
「は!」
「りょ、了解です!」
「たぶんあの調子じゃ、ケレナウスが追いついた頃には戦闘が終わってるがな。まったく、なんてところだここは」
口の端に苦い笑みを浮かべ、ギャロッドはつぶやいた。だが心強いことだけは確かで、妙な肩の力は抜けている。
ここにはとんでもない実力者が集っている。当たり前だ。ファラールの今後を考えて設定された破格の依頼料を見れば、流れの技使いなら誰だって心動かされるだろう。実力試験で本気を出さなかった者もいるという話だから、どこに強者が潜んでいるかもわからない。いっそ強者だらけと考えた方がいいだろう。
不思議な高揚感を覚えながら、ギャロッドは口角を上げた。ケレナウスの慌てた足音が、その横をすり抜けていった。
屋敷を囲む塀には、要所要所に数人の男たちが配置されている。そのうちの一カ所、最も東側に辿り着いたアースは、狼狽える警備の男たちを無視して空を仰ぎ見た。灰色の雲の中に三つの黒い点が見える。魔物だ。しかも全員が全員人型を取っていて、手応えがありそうな印象だった。
魔物に喧嘩を売られることが多いアースの経験からすると、人型のまま襲ってくる奴らの方が強いことが多かった。獣の姿は移動には便利なようだが、対人間となると不便があるらしい。それでも獣型を維持しようとする奴というのは、見た目の迫力を利用している輩だ。要するにこけおどしというわけだ。
「ア、アース殿っ」
「うるさい、黙っていろ。来るぞ」
まず地上に降り立ったのは、赤髪の男だった。冗談じみたように全身赤一色にまとめたその男は、瞳だけが金色でやけに目立つ。その口の端がつり上がるのをアースは確認した。はなから戦闘態勢というわけだ。彼は腰の長剣を抜き去ると、右手に構える。
男が跳躍した。それは飛んでいると表現してもいい程の跳躍だった。アースは低い体勢のまま上空を一瞥すると、剣を横薙ぎに振るう。
手応えはあったが、浅い。身を翻して地を蹴り上げると、足下を黄色い光弾が通り過ぎていくのが見えた。おそらく雷系の技だろう。その主である男の左腕には傷があったが、肌が裂けた程度だった。やはり浅かったかと彼は舌打ちする。
「アース殿!」
「これくらいで怯むな。次が来るぞっ」
慌てる警備の男たちに、アースは怒号を浴びせた。アースに当たり損なった光弾は地面に落ちて爆ぜ、耳障りな音と焦げた臭いを辺りに撒き散らす。その中心は抉れ、煙が立ち上っていた。しかしアースはかまわず地に降り立った。そして背後から迫り来る魔物の手刀を、紙一重のところで避ける。
遅い。どの動きも遅い。
アースは男の勢いを利用して腹に肘鉄を喰らわせると、左足を軸にそのまま半回転した。男の体勢は崩れたまま。その腰目掛けて剣を横薙ぎにすれば、今度こそ確かな手応えがあった。
くぐもった悲鳴が上がった。すぐにアースは後方へと飛んだが、血しぶきがかかるのは避けられなかった。頬にかかった飛沫を腕で拭い、彼は周囲を一瞥する。
この魔物はもう片づけたも同然だ。まだ息があったとしても、始末は他の警備の男にやらせればいいだろう。だがやや離れた所に今降り立った魔物は、それなりの実力者のようだった。白髪を束ねた青白い肌の青年で、夜空に溶け込むような深い青の衣服に、白銀色の留め具がよく映えている。
しかし何よりもその眼差しが、冷たいながらも鮮烈でアースの目を惹いた。しかも先の一匹をあっという間に片づけたアースを見ても、驚いた様子が全くない。浅はかな一匹が先走ったということなのだろう。つまり計算内なのだ。
「面白い」
アースは口の端を上げると剣についた血を払った。そんなことをしなくとも切れ味は落ちないが、以前の癖が体に染みついてしまっている。この剣はつい数ヶ月前近くの星で、馬鹿みたいな安値で売られていたのを気まぐれで買ったものだ。しかしその質は値段をつけるのが恐ろしくなるくらいのものだった。無名の業物といったところだろう。
「だが一人残ったあいつが面倒そうだな」
だからこの剣がある限り接近戦に関して心配はなかった。けれども遠くから攻撃されるとなれば少し話は違う。一人空に浮かんだままの魔物を、アースは見やった。
灰色の雲を背にして静かに構えているのは、水色の髪に黒のマントを着込んだ幼い青年だ。無論魔物の年が見た目とは違うことをアースは知っている。だから油断はできなかった。地に降り立ち、飛びかかる隙をうかがっている白髪の男の方がまだかわいげがある。視線を鋭くする白髪男を見て、アースはさらに口角を上げた。
「人間風情がっ!」
それを挑発と受け取ったのかどうか。白髪男は一気に跳躍するとアースへと飛びかかってきた。先ほどの男よりも動きは速い。けれども速すぎるということもない。落ち着いて一投目の光弾をかわしたアースは、剣を振るいながら左手を空へと尽きだした。
刹那、轟音が鳴り響く。護衛の男たちの声なき悲鳴が伝わってくるようだった。
だから面倒なのだと、アースはひとりごちる。空から降り落ちてきたのは無数とも思える炎の矢だった。結界でも張らなければ無傷とはいかなかっただろう。護衛の男たちを守る結果になったのは、本当にたまたまだ。
「さっさとこいつを片づけないとな」
迫り来る白髪男の刃を剣で受け止め、アースは瞳を細めた。男の刃は技によるもので、青く輝く不定の剣だ。アースのものが対技用の業物でなければ、剣ごと切り伏せられていただろう。それだけの強さの技を、魔物は平気で使う。だから人は魔物を恐れるのだ。
「無様だな」
アースが強く一歩を踏み込むと、白髪男は慌てて後方へと下がった。読みがいい。アースの剣は空を切り、耳障りな音だけをかすかに残した。剣が技の力を帯びる時のそのちょっとした徴候だ。
「この人間風情が!」
白髪男の剣がひときわ強く輝いた。だがそれでもアースの瞳に、恐れの色は宿らなかった。