ファラールの舞曲
第五話 「疑念の狭間」 (前)
ゼジッテリカの部屋から一分程歩いたところに、テキアは待機していた。生前サキロイカが使用していた執務室の、その隣にある大きな部屋だ。寝起きだけでなく簡単な食事も可能で、必要最低限の物が用意されている。そこに置かれているのは華美すぎない家具ばかりで、全て生成色を基調としていた。
ゼジッテリカは何度かしか訪れたことがないが、この整然とした雰囲気は実は少し苦手だった。色々な物がある割に、生活の匂いがしなくて落ち着かなくなる。それは今日も同じだった。
「ゼジッテリカ、無事だったんだな」
けれども部屋に入るなり立ち上がったテキアを見ると、いたたまれなさは少し和らいだ。机の上に書類を放り投げた彼は、ゼジッテリカの方へと早足で近づいてくる。ゼジッテリカも小走りで彼のもとへと寄った。後ろからついてきたシィラは、扉のすぐ傍で立ち止まったままだ。その視線を感じながら、ゼジッテリカは頭を縦に振った。
「うん! テキア叔父様も?」
「私はこの通り何でもないよ」
ゼジッテリカが近寄ると、テキアは膝を折って頭を撫でてくれた。あまり他人との接触を好まないテキアだが、時々こうして優しく触れてくる。その感触がゼジッテリカは好きだった。テキアの手は大きくて安心する。
「よかったっ!」
「心配していてくれたんだな」
しかし今日はそれだけではなかった。癖のある髪を梳いていた手をさらに伸ばして、テキアはゼジッテリカの体を抱き寄せた。大きな腕に包まれたゼジッテリカは、予想外のことに瞳を瞬かせる。
テキアがこんな風に抱きしめてくれたことは、今まで一度もなかった。たぶん魔物の突然の来襲で、密かに心配してくれていたのだろう。あまり動揺を表に出さないはずの叔父の愛情に、ゼジッテリカは口元をゆるめた。強ばっていた体からも少しずつ力が抜けていく。
そう、ゼジッテリカにはテキアがいるのだ。
ファミィール家の中に取り残されてしまった、もう一人の人間。最も頼りになり最も信じられ、最も愛すべき存在。そう、シィラの言う通りだ。ファミィール家の娘であることはつまりテキアの姪であること。だからファミィールを否定することは、テキアとの繋がりを否定することなのだ。
今のゼジッテリカがあるのはテキアのおかげなのに。それなのにそれを否定することは、今の自分を否定することと同じになってしまう。こんがらがってよくわからないところもあるが、それは何だかおかしい気がした。
ただこれだけはわかる。ファミィール家の娘であることを、捨てられはしないのだと。
「テキア叔父様、ありがとう。シィラがいるから大丈夫だよ」
ゆっくりテキアの腕が離れると、ゼジッテリカはそう言って後ろを振り返った。シィラは先ほどと同じく、扉に張り付くようにしてたたずんでいた。その顔に浮かぶのは穏やかな笑顔だ。ゼジッテリカのちょっとした迷いなどまるで感じていないかのように、変わらぬ春のような眼差しでこちらを見つめている。
「そうか」
言って立ち上がったテキアは、その視線をシィラへと向けた。そんな叔父をゼジッテリカは見上げた。彼の眼差しはゼジッテリカを見る時とはまた別の、一種の不思議な熱を持っていた。そこに違和感を覚えてゼジッテリカは首を捻る。まるで目だけで会話してるかのような、そんな印象だ。変だった。
するとテキアは彼女を数秒程見つめた後、緩やかに破顔した。驚いたのはゼジッテリカだ。彼が他の人にそんな風に微笑みかけたことは、少なくとも記憶の中にはない。
「ありがとう、シィラ殿」
「いいえ。それが私の仕事であり、願いですから」
「願い?」
だがシィラは全く動じていなかった。あっさりそう答えた彼女は、繰り返したゼジッテリカへと目線を落としてくる。その瞳はやはり穏やかで、ゼジッテリカの心をじわじわと温かくしていった。テキアと同じ色の瞳なのに、まるで宝石のように輝いて見える。その黒い双眸をゼジッテリカはぼんやりと見上げた。
「願いって、シィラ、何それ?」
「そうですねえ、それは秘密、ということにしておいてください。少なくとも今は」
「えー!? 何かずるいっ!」
けれどもシィラがそう答えてくるから、ゼジッテリカは拳を振り上げて頬をふくらませた。テキアだけでなくシィラも少しおかしい気がする。ゼジッテリカの気持ちが変わったせいかもしれないが。
「すいません、リカ様」
シィラは頬に手を当てて、くすくすと笑っていた。楽しんでいる、といった風だ。だが嫌な感じはしない。肩の震えにあわせて揺れる黒髪が、その白い服に触れてかすかに音を立てた。
「もうー!」
それでもこれ以上からかわれるのはごめんと、ゼジッテリカは口を開いた。が、しかし文句の言葉は続かなかった。
「テキア殿」
扉を叩く音と同時に、外からテキアの名を呼ぶ声がした。少し低めの男性の声だ。おそらく護衛の一人だろう。シィラはすぐに扉から離れて、その横の壁際に移った。邪魔になるためだろう。
そう、今そこから誰かが入ってくるのだ。護衛の男が。知らない存在の登場に動揺したゼジッテリカは、慌ててシィラの傍へと移動した。顔見知りではない人は少し苦手だ。
「ギャロッド殿、入っても大丈夫ですよ」
ゼジッテリカがシィラの影に隠れたのを見て、テキアはそう扉へと声をかけた。すると重たい扉がゆっくり開いて、一人の男性が中へと入ってくる。
ギャロッドというのが彼の名前だろう。灰色の鎧に変わった額当てをした、くすんだ銀髪の男だった。体格はしっかりしていて、背はテキアよりも高い。その彼はシィラとゼジッテリカを一瞥してから、テキアの前へと進み出た。
「テキア殿もゼジッテリカ様もご無事で何よりです」
「ええ、私たちは平気ですよ。ギャロッド殿もご無事で何よりです」
「当たり前です。護衛が簡単にうち倒されてどうするんですか。しかもオレは隊長ですよ、テキア殿」
真顔に戻って返答するテキアに、ギャロッドは軽く笑って額当てに触れた。何の隊長だろうかとゼジッテリカが考えていると、屋敷外警備の隊長ですよとシィラがこっそり教えてくれた。
なるほど、ならば先ほどの戦闘について報告しに来たのだろう。ゼジッテリカはシィラの足下にくっついたまま、テキアとギャロッドのやりとりを静かに見つめた。大人の話し合いをこっそり聞くのは慣れている。
「それもそうですね。しかし隊長が直々にやってきても大丈夫なのですか?」
「心配はいりませんよ、副隊長が外にいますから。彼は人付き合いは苦手で性格に難がありますが、腕は確かです」
「それは頼もしいですね」
ギャロッドの言葉に、テキアは切れ長の瞳を細めた。普段とは違う彼のそういった表情には、不思議な迫力がある。だからだろう、ギャロッドが息を呑むと室内に一瞬の静寂が満ちた。何故だか怖い。変だ。不穏な空気を感じ取ったゼジッテリカは、シィラの上着の裾に指をかけた。いつもとは何かが異なっている気がする。
「ですがギャロッド殿、これだけは肝に銘じていてください」
「はい、何でしょうか? テキア殿」
「我々を狙っているのは、一体何者ですか?」
「……魔物、ですが」
「そうです。ですから肝に銘じていてください。彼らが護衛に紛れていないとは、誰も言い切れないということを」
テキアの言葉は、戦慄を走らせるのに十分な力を持っていた。見る間にギャロッドの体が強ばり、その口から引きつった声が漏れる。
ゼジッテリカは思わずシィラの手を握った。咄嗟のことだった。だがシィラの体には変な力が入っていなくて、ゼジッテリカは驚いてその顔を見上げる。シィラの眼差しは先ほどと変わらないまま、ただ真っ直ぐテキアたちへと向けられていた。やはり動じた気配はない。
「つまり、その、テキア殿は、オレも疑っていると?」
しばらくしてようやく、ギャロッドはそう声を絞り出した。かろうじて内容が聞き取れるといった、その程度の声量だった。するとテキアはゆっくりと首を横に振り、右の口角だけを上げる。
「いえ、その可能性があるというだけです。彼らの能力については私たちもよく知りませんので。ですからいつの間にか入れ替わってしまった、ということも考えられるんです。だから気を付けてくださいと」
「ならば――」
テキアにそう言い切られて、ギャロッドはちらりと後方を振り返った。その眼差しの先にはゼジッテリカが……否、シィラがいた。ギャロッドが何を言いたいのか、聞かなくてもわかる眼差しだ。ゼジッテリカがよく知る大人の瞳。疑念と怯えと繕いに満ちた、一番見たくない感情。思わず瞳を閉じて、ゼジッテリカは固唾を呑んだ。
「ならば一番注意しなくてはいけないのは、直接護衛の方では?」
静かに紡ぎ出されたギャロッドの言葉に、ゼジッテリカの体は震えた。こう面と向かって疑いを口にする男を、ゼジッテリカは初めて見た。何故そんなことを言うのか。当人の前であえて言うのか。考えただけで怖くて仕方なくなり、さらに強くシィラの手を握る。
「私を疑っておいでですか? ギャロッドさん」
それなのに平然とした様子でシィラはそう尋ねてみせた。驚いて目を開ければその口元には微笑が浮かんだままで。おそらくギャロッドも困惑したのだろう。彼は両手を挙げてひらひらさせると、苦笑しながら首を横に振った。
「いえ、そういうわけでは。ただ狙う側の立場に立てば、あなたと入れ替わるのがもっとも有効な手かと思いまして」
そう言われてみればギャロッドの話にもうなずけるところはあった。もっともその可能性を考えただけで、ゼジッテリカの顔は真っ青になるが。
シィラが魔物だなんて考えたくもない。ずっと一緒にいたのだ。手を握ってすがったりしたのだ。その相手が魔物だなんて、言葉にさえしたくない。
「確かにそうですね。ですがもしそんなことがあれば、もうリカ様の命はありませんね。それにあなた方のも」
シィラがどう答えるのかと待ってみれば、彼女は恐ろしいことを口にして小首を傾げてみせた。ギャロッドに負けず劣らずとんでもない発言だ。ゼジッテリカはどうしたらいいのかわからず、しかしシィラの手を離すこともできなくて視線を彷徨わせた。
怖い。怖くて仕方がない。大人たちはこうやって常に他人を疑っているのだろうか? 昔サキロイカが気難しい顔をして嘆息していたのを、ゼジッテリカは不意に思い出した。きっとサキロイカも誰かに疑われ、誰かを疑っていたに違いない。
「あーそれもそうですね。すいません、試すようなことを口にして」
そんな中ギャロッドはあっさりそう言って、恥ずかしそうに頭を掻いた。その仕草には取り繕ったところがない。どちらかというとぎこちないくらいの素朴な動きだった。そのことにゼジッテリカがほんの少し安堵していると、シィラは楽しげに笑い声を漏らした。彼女は握られていない右手を口元に当てて、柔らかく瞳を細める。
「いいえ、それくらいの方が頼もしいです。ただリカ様が怯えてしまわれるので、そういう発言は場を選んでくださいね?」
そして彼女はそう告げると、あっと言う間もなくゼジッテリカを抱き上げた。一瞬のことだった。あまりのことにゼジッテリカは慌てる。
忙しかった父親だけでなく、テキアにだってしばらくそんなことはされていない。記憶にあるのも六歳の誕生日を迎える以前のことで、その時よりずっとゼジッテリカは大きくなっていた。第一、シィラはそこらにいる使用人の女性よりも細いのだ。このままではつぶれてしまう。
しかし意外にも力があるのか、ゼジッテリカがバランスを崩してもシィラが倒れるようなことはなかった。器用に抱え上げたまま、シィラはゼジッテリカの顔を覗き込んでくる。
「リカ様、そろそろ夕食の時間だと思うのですが」
シィラはそう言って微笑みかけてきた。つまり、この場を逃げてもいいという合図だ。きっとゼジッテリカの動揺を察してくれているのだろう。だからゼジッテリカは素直に、首を縦に振った。
「うん……食べる。シィラは一緒に食べてくれるの?」
「はい、リカ様がお望みであれば」
シィラの答えに満足したゼジッテリカは、その首に手を回すとテキアたちの方を見た。ギャロッドは困惑気味だが、テキアはほっとしたように破顔している。ゼジッテリカのよく知るテキアだ。そのことに安堵して、ゼジッテリカは軽く手を振った。
抱き上げられている恥ずかしさもこの際は我慢しよう。柔らかい腕に包み込まれて、ゼジッテリカは瞳を細めた。