ファラールの舞曲
第六話 「信じうる理由を」 (前)
夕食を食べ終えたゼジッテリカは、自室へと向かっていた。だが廊下に響く足音は軽やかではない。優秀な料理人の作るものはどれも美味しく、また会話のある食事はとても楽しかった。けれどもゼジッテリカの心には一つの棘が突き刺さっていた。それは抜けるどころかさらに深く潜り込み、焼けるような痛みをもたらしている。
「リカ様、どうかしたんですか?」
「……え?」
「先ほどから様子が変ですよ」
だが自分では精一杯明るく振る舞っているつもりだった。だからシィラにそう尋ねられて、ゼジッテリカは眼を見開いた。顔を見上げれば困ったように微笑んだシィラが、ゼジッテリカのことを見下ろしている。心配しているのかと、聞かなくともわかる表情だった。廊下を行く速度を落として、ゼジッテリカは首を横に振る。癖のある金髪が頬をくすぐった。
「どうも、してないよ」
「嘘ですね。リカ様は嘘が下手です」
「今は、どうもしてない。夕食も楽しかったし」
「では先ほどのことですか?」
シィラは立ち止まった。彼女を振り返るようにして、ゼジッテリカも歩みを止めた。息を呑んだゼジッテリカは、どう答えたらいいのかわからなくてひどく困惑する。
本当はずっと気になっていることがあった。けれどもそれを口にしてはいけない気がして、あえて話題にしなかった。シィラが何事もなかったかのように振る舞っているから、それに倣おうと思ったのだ。傷を掘り返すことのように感じていたから。それなのにこうやって聞かれると困ってしまう。
「……うん」
しかし結局ゼジッテリカは素直にうなずいていた。まだ子どものゼジッテリカがシィラに敵うわけがない。シィラが実際何歳なのかは知らないが、年上なことだけは確実だろう。『あれ』にも動じないところを見ると、ひょっとしたらテキアと同じくらいなのかもしれない。見た目だけなら十代でも通じるのかもしれないけれど。
「やっぱりそうでしたか。すみませんね、あんなところをお見せしてしまって」
シィラは近づいてくるとゼジッテリカの傍で膝を折った。その瞳をやや見下ろす形となったゼジッテリカは、勢いよく首を横に振る。別に謝って欲しいわけではないのだ。ただずっと気にかかっているだけで。
「シィラは、疑われて悲しくないの?」
怖々とゼジッテリカは疑問を口にした。それがずっと心に突き刺さっている棘だった。魔物ではないかと疑われて、平気な人間などいるわけがない。侮辱だと激怒したっておかしくなかった。
けれどもシィラは何てことない顔をして、今もこうしてゼジッテリカだけを気遣っている。それが不思議だった。大人とはそんなに強いものなのだろうか?
「悲しい? ですか」
「うん、私はシィラが疑われて悲しかったよ。だってシィラはこんなに優しいのに」
シィラはゼジッテリカの動揺を読みとって、部屋から連れ出してくれた。食事中つまらないと言えば、あちこちの星に伝わるおとぎ話を聞かせてくれた。シィラは優しかった。それなのに彼女が魔物と疑われるなんて、自分が疑われたのと同じくらいショックだった。ひどく悲しくて痛くて仕方がない。
「優しいからといっていい人ではない、ということを大人は知っているんですよ。上辺だけの優しさの方が後で怖いということも」
するとシィラの手が伸びてきてゼジッテリカの髪を梳いた。母親のような優しい手に、思わずゼジッテリカの瞳が細くなる。だがここでこの気持ちよさに流されているわけにはいかない。ゼジッテリカは視線を床に落とすと奥歯に力を込めた。
「……それは、私も知ってる。私の顔見に来る大人たちがみんなそうだったもん。お父様の顔見に来る人たちも、みんなそうだった」
ずっと与えられてきたのは表面だけの優しさだった。耳に心地よい言葉ばかりが、繰り返し繰り返し並べられた。けれども誰一人ゼジッテリカに触れようとはしなかった。
ただ挨拶をして可愛らしいと褒め称えて、時折贈り物なんか持ってきて。そして影で罵っているのだ。愛想のない子どもだと嘆息しては、これからが思いやられると皆愚痴をこぼしている。それがゼジッテリカの知る大人の姿だった。信用できない大人たちの姿。
「リカ様は小さいのに大変ですね。それなのに私のことは信じてくださってるんですか?」
シィラはそう言うとくすりと笑った。同時に髪を梳いていた手が離れて、慌ててゼジッテリカは顔を上げる。そうなのだ、その『大人』にはシィラも含まれている。
「だってシィラは変な笑い方しないもん。なんていうか、強ばった笑顔、仮面付けてるみたいな奴。だからシィラは違うの」
ゼジッテリカはまくし立てるようにそう告げた。彼らとシィラは違う。顔色をうかがいに来た大人たちは、もっと違和感のある笑顔を浮かべていた。それに対してシィラの微笑みは自然だ。見ているだけで安心してしまう笑顔を、シィラはいつも浮かべている。そんなところが大好きな母親と同じだった。
「リカ様は純粋ですね。作り笑いも慣れてくれば自然なものになるんですよ?」
「……え?」
そこで不意に立ち上がったシィラはちょっと肩をすくめた。それを見上げたゼジッテリカは、続けるべき言葉を見失って瞬きをする。どういう意味だろう。信じるなと、そう言っているのだろうか? だが混乱は長くは続かなかった。すぐにシィラは悪戯っぽく片目を瞑って、口の端をつり上げる。
「ふふっ、冗談が過ぎましたね。信じてくださって嬉しいですよ。私はリカ様が大好きですから」
「ど、どうして?」
「理由なんてありませんよ。好きだという感情に理由なんてないんです。ただその事実があるだけで」
あまりに率直なシィラの言葉。狼狽えたゼジッテリカはその場で視線を彷徨わせた。好きだとか大好きだとか、そう言ってくれたのは両親くらいだ。テキアはなかなかそういう言葉を言ってくれないから、最近はずっと聞いていない。
何だか急に恥ずかしくなって、ゼジッテリカは首を縮めた。体中がくすぐったくなる。温かさに虫さされがうずいた、そんな感じだった。
「シィラの言うこと、時々難しいよ」
唇から漏れたのは、拗ねたような声だった。最初会った時から他の人とは違うものを感じていたが、今ますますその感覚は強まった。シィラは変だ。会って間もない少女にこんな愛の告白は普通しない。それも理由がないだなんてさらにおかしい。
シィラの顔をまともに見られる気がしなかった。これから寝るまでどうしたらよいのかと、真剣に悩みたくなる。
「あ、シィラにゼジッテリカ様!」
けれども背後からの声が、ゼジッテリカの動揺を一瞬で沈めた。振り返ればそこには、いつか見た赤毛の女性の姿があった。確かマラーヤという名前の護衛だ。シィラはマランと呼んでいたようだったが。
「あら、マランさん、それにリリディアムさん」
するとシィラは案の定、そう声を返して嬉しそうに微笑んだ。じっと彼女を観察してみたが、どう見ても作り笑いには思えない。本当に嬉しそうだ。
ただ彼女が口にした名前は、一つではなかった。不思議に思ってもう一度振り返ってみれば、マラーヤの後ろにはもう一人の女性がいた。ウェーブした鳶色の髪に、同じく鳶色の瞳。背はマラーヤよりも少し低いくらいだろうか。柔らかい素材の防具らしきものを身につけており、その下には護衛には向かない短めのスカートをはいている。
「な、何で私の名前を?」
その女性――シィラが言うにはリリディアムだろう――は近づいて来るなり、眉根を寄せてそう言った。疑わしげな眼差しだった。それを無遠慮にシィラに向けて、あからさまに警戒している。正直ゼジッテリカはむっとしたが、しかしシィラが言葉を発する方が早かった。半開きになったゼジッテリカの口からは、中途半端な息だけが漏れる。
「リストで拝見しましたので」
シィラはそう簡潔に答えた。リリディアムはさらに何か言おうとしたが、マラーヤの手がその肩を引いて強引にそれを阻止する。肩越しに振り返るリリディアムに、マラーヤは首を横に振った。
「リリー、シィラには何言っても無駄だって。このほわほわーとした笑顔ですぐごまかしちゃうんだから」
「ひどいですね、マランさん」
文句を言っても無駄だと諭すマラーヤに、シィラは微苦笑した。そのやりとりをうかがっていたゼジッテリカは、そろそろとシィラの隣に寄る。
マラーヤは一度会っているからまだいいが、リリディアムがどんな人なのかまだわからなかった。いや、今の反応からすればあまりいい印象がしない。意識しなくても勝手に動きがぎこちなくなり、ゼジッテリカはシィラの後ろに下がった。怖い大人は嫌いだ。
「ひどいも何も。だってあんた、人間くさい香りがしないんだもの。まるで天使か何かみたい」
「あら、空想好きな方だったんですね、マランさんは」
「うるさい! あんたがそんな白っぽい恰好してほわほわしてるのが悪いんでしょうが」
「ほわほわしてるつもりはないんですが」
肩を怒らせるマラーヤと、頬に手を当てて破顔するシィラは対照的だった。しかし魔物と言われるよりは天使と言われる方が、ゼジッテリカも何となくうなずける。シィラが浮世離れしているのには同意だ。ならば天使かもしれないと疑った方が違和感がない。
「ああ、あなたがマランの言う直接護衛さんでしたか」
するとリリディアムは口角だけを上げて、数歩近づいてきた。口は笑っているが目は笑っていない、その典型のような表情だ。長い髪を掻き上げてリリディアムは瞳を細める。マラーヤ程ではないにしろ長身の彼女は、シィラよりも頭半分近く背が高かった。その分迫力があり、ゼジッテリカは小さく震える。
「直接護衛がこんな小柄な方だとは思いませんでしたわ」
リリディアムはシィラの頭からつま先まで視線を往復させた。確かに、大勢の護衛の中にあってシィラの小ささは結構目立つ。
一般人の中ならばそれほど低いわけでもないだろう。だがやはり流れの技使いとしてやっていくなら、それなりの体格も必要なはずだった。しかもシィラは小さいだけでなく華奢だ。これで戦うとなると、技使いとしての能力が相当高くなければ無理となる。
「よく言われます。見た目で判断される方が多くて助かりますよ。その方が油断していただけますから」
「なっ――!?」
しかしシィラは言われる一方ではなかった。笑顔のままやんわりと反撃した彼女は、頬に手を当てた指を口元へと持っていく。
ゼジッテリカは瞳を見開いた。よく思い出してみれば、ギャロッドに疑われた時もシィラは冷静に反論していた。シィラは見た目通りただほわほわとしているだけではないのだ。実力試験で十番目の成績を誇る技使いは、きっと頭も良く回るのだろう。
「屈強な方がリカ様の隣にいたら、すぐ護衛だってばれてしまいますでしょう? 便利ですよね、そう見えないのも。リカ様を怯えさせずにもすみますし。それにひょっとしたら、魔物さんも早く尻尾を出してくださるかもしれませんしね」
そう言って笑うシィラに、リリディアムは返す言葉がないようだった。何となく勝ったような気分になって、ゼジッテリカの顔もほころんでいく。シィラはゼジッテリカを守ってくれる直接護衛なのだ。そう簡単にやられてもらっては困る。
「ああ、そう言えばリカ様にご紹介してませんでしたね。こちらリリディアムさん。屋敷内と屋敷外の情報伝達を担当されてる方なんですよ」
そこで取って付けたように、シィラはリリディアムを紹介した。情報伝達というのが具体的にどんな仕事かはわからないが、どうやら直接魔物と戦闘する役目ではなさそうだ。だからそんな恰好をしているのかと、ゼジッテリカは納得した。
「ご紹介ありがとうございます、シィラさん。そして初めまして、ゼジッテリカ様。それでは私、そろそろ仕事に戻りますので。あまりお話しできなくて残念ですが、これにて失礼いたしますわ」
すると場が悪いと踏んだのか、リリディアムはそう告げると一礼して踵を返した。そしてマラーヤの横を通り過ぎて足早に去っていく。あっという間のことだった。その小さくなる後ろ姿を、ゼジッテリカたちは静かに見送る。置いていかれたマラーヤは呆れたように肩をすくめて、首の後ろを掻いた。
「美人相手だとすぐこれだもんなあ」
嘆息するマラーヤのつぶやきに、ゼジッテリカとシィラは顔を見合わせた。先ほどの雰囲気が嘘のように、辺りには爽快感が漂っていた。