ファラールの舞曲
第九話 「許されざる感情」 (中)
マラーヤとリリディアムの姿が見えなくなると、ゼジッテリカは大きく息を吐き出した。あんな風に言われてしまったら部屋に戻らざるを得ないだろう。だが本当はもう少し外にいたかった。一人ではないからまだいいけれども、部屋に閉じこもると色々と嫌な考えが次々に浮かんでくるのだ。
殺された人のこと、テキアのこと、護衛たちのことと、色々。気になることはたくさんあって、それらは油断するとゼジッテリカの胸をすぐに埋め尽くした。
魔物を実際見かけたことがないから、それよりずっと周りの者たちの方が気にかかるのだ。いや、本当に気になっているのはシィラのことだろう。一緒にいればいる程疑問ばかりがわいてきて、質問する速度も追いつかない気になる。
「じゃあ仕方ありませんから、戻りましょうかリカ様」
「ねえシィラ」
「はい?」
手を引いて歩き出そうとするシィラを、ゼジッテリカは立ち止まることで引き留めた。不思議そうにシィラが振り返ると、その長い黒髪がゼジッテリカの頭に触れる。絹のような触り心地だが、こればかりは少しくすぐったかった。
「どうかしました? リカ様」
「シィラは怖くないの?」
「え?」
「だって、狙われてるのは護衛なんだよ? シィラだってその中に入ってるんだから」
率直に尋ねると、シィラはその黒い瞳を瞬かせて小首を傾げた。そういう仕草は普段知るシィラよりもずっと子どもっぽく見える。実際彼女が幾つなのかは知らないが、十代半ばの少女のようだった。いや、表情だけならもっと幼いかもしれない。
「それもそうですけれど。ですがそれを言うなら一番狙われているのはリカ様ですよ。リカ様は怖くないんですか?」
けれども不思議そうに聞き返されて、今度はゼジッテリカが言葉に詰まった。怖いはずだった。以前は怖かった。だが今は違う。とはいえその理由を口にするのは少し恥ずかしくて、ゼジッテリカはやや俯くと頼りなく視線を彷徨わせた。窓から差し込む光を反射して、白い床は輝いている。
「……だってシィラがいるもん」
沈黙に耐えられなくて、瞼を伏せたままゼジッテリカはそう告げた。顔が少し熱くなった。素直に答えるというのがこれだけ難しいことだとは思ってもみなかった。普段シィラは平気な顔をして口にしているというのに。
「リカ様」
すると前触れもなくシィラの手が伸びてきて、そのまま優しく髪を梳かれた。完全に子ども扱いな仕草だけれども、シィラが相手だと悪い気は全くしない。ゼジッテリカは慌てて頭をもたげるとシィラを見上げた。
「信頼してくださってるんですね、ありがとうございます」
「シ、シィラ、私――」
「私も怖くはないですよ。私は自分の力を信頼してますから。そうでなければ生きてこられませんでしたし」
それ以上の言葉を、ゼジッテリカは言えなかった。シィラの柔らかい微笑を見ていると、伝えなくとも全てを理解してくれるような気になる。照れも感謝も何もかもを、彼女は受け取って包み込んでくれる。昔を思えばすごく幸せなことだった。だがそれが嬉しいと同時に悲しくもあった。
シィラはゼジッテリカのことを理解してくれているが、ゼジッテリカは全然シィラのことをわかっていない。強くなければ生きてこられなかったというその道のりを、ゼジッテリカは全く知らなかった。どんなものなのか想像もできない。
「それでは部屋に戻りましょうか」
再びゼジッテリカの手を引いて、シィラは歩き出した。今度はゼジッテリカも逆らわなかった。しかし来た道を戻る足取りは幾分か重く、足音もどこか無愛想に廊下に響く。
こうやって甘えられる日々はいつまで続くのだろうか。
そんなことをぼんやりと思いながら、ゼジッテリカは冷たい廊下の先を見つめた。だからその遙か後方に一人、声もなくたたずんだアースがいることには全く気がつかなかった。
気分が晴れないまま夕食の時刻を迎えた。いつもとは違い給仕の女性たち用の食堂にやってきたゼジッテリカは、一人で大きめの白いテーブルについた。
ちょうど今、いつもの食堂は点検中だという。これから毎日屋敷の中をあちこち点検して回るのだそうだ。ここは扉も薄く外にも出やすいためか、扉の外には屋敷内担当の護衛が数人立って見張っている。
「食事って雰囲気じゃあありませんねえ」
ゼジッテリカの食が進まないためだろう。そうつぶやいて苦笑するシィラを、ゼジッテリカはちらりと見上げた。シィラはここでは食事を取っていない。食べないのかと聞いたところ、夜食べるからいいのだという答えが返ってきた。たぶん念のためだろう。
護衛はそんなことまでしなければならないのだろうか? だいたい彼女が夜どうしているのかも、ゼジッテリカは知らなかった。全く寝ていないなんてことはないと思うが、十分睡眠を取っているわけではなさそうだ。
入浴時はたまにマラーヤが代わりの役目を果たしてくれていたが、それも屋敷外護衛となってしまったからにはどうなるかわからない。女性の護衛は少ないのだ。もっとも、だからといってあのリリディアムが傍に来るなんてことは考えたくないけれど。
「ねえシィラ」
「はい?」
今度こそ聞こう。そう思って振り返ってみたが、笑顔を向けられると肝心なことが上手く喉から出てこなかった。音にならない息が漏れるだけで、開閉する唇はまともな言葉を紡ぎ出してはくれない。困った。しかしこのまま黙っているわけにもいかない。仕方なく別のことを聞こうと諦めると、今度はあっけなく言葉を放つことができた。
「魔物って、何でここを襲ってくるんだろう思う?」
こんなことなら聞けるのにと思うと、少し悲しかった。何故だかシィラのことを聞くのは躊躇われるのだ。シィラが積極的に話してこないせいかもしれない。いや、そもそも護衛とそんな話をするべきではないという意識のせいかもしれない。とにかく一番気になっていることが口に出せなくて、やや気分が重かった。
「その話なら以前にしましたよね?」
シィラは記憶を掘り返すがごとく、目線を天井へと向けた。確かに、何故魔物に狙われているのかは前に聞いた。皆の不安を煽るためにはここを襲うのが手っ取り早いからだと、そう説明してくれた。しかしよく考えてみれば、では何故不安を煽るのかがわからなかった。シィラは当たり前のような口調だったが、ゼジッテリカには予想もできない。
「そうなんだけど。でもみんなを不安にさせたい理由がわからないの!」
斜め後ろのシィラを見上げて、ゼジッテリカはそう主張した。もしかしたら技使いにとっては当たり前のことかもしれないが、ゼジッテリカはただの子どもなのだ。いや、無論ファミィール家の娘という立場ではあるが。
「ああ、それですか」
シィラは納得したように軽く相槌を打った。それから困ったように視線を彷徨わせると、小さくうめいた。まずいことを聞いてしまったのだろうか? ゼジッテリカは不安になって顔を歪める。別にシィラを困らせたいわけではないのだ。簡単に答えてくれると思ったから、まさかそんな反応が返ってくるとは予想もしなかった。
「理由はですねー、簡単に言いますと――」
するとしばらくしてから、シィラはそう説明を始めた。どうやら言いたくないのではなく、どう言おうか考えていたらしい。そうわかって安心すると、ゼジッテリカはスプーンを皿の上に置いた。元々進んではいないが中断の意思表示だ。
「彼らはですね、精神――つまり心のエネルギーを欲してるんです。それは彼らのエネルギー源ですから」
「え、そうなの?」
「はい、そうなんです。心のエネルギーなので、別に喜びでも悲しみでも何でもいいんです。それに誰のでもかまわないんですよ、たくさんあれば」
「へえー」
シィラは時折考えるように天井を睨みながら、そう説明してくれた。実際は相当簡略化して話してくれているのだろう。確かに難しいことは理解できそうになかった。魔物のことなんて危険な奴らとしか知らないのだ。いきなり色々言われても飲み込みきれない。
「ですがみんなを楽しませるのって、かなり難しいですよね?」
「……そうだね。誰かが喜んでても、そのせいで誰かが悲しんでるってことあるもんね」
そう告げられて、ゼジッテリカは少し視線を下げた。誰かが成功したことを考えただけでも、それを喜ぶ人もいれば妬む人もいる。お金が絡むとなおさらだった。ファミィール家はその顕著な対象だ。
勝手に憧れたり嫉妬したり恨まれたりと、皆が抱く感情は様々。そんな人々の瞳をずっとゼジッテリカは見てきた。だから皆が幸せになるのがいかに難しいかは、よくわかっている。
「そうなんです。だから彼らは皆を喜ばせるのではなく、恐怖に陥れようとするんですよ。皆を不安にさせるのはずっと簡単ですから」
「あ、そっか!」
そこまで言われると、ゼジッテリカも簡単に理解することができた。確かに不安にさせるのならそう難しくはない。今の屋敷の中を見ればそれは明白だった。もし魔物が心のエネルギーを欲してるなら、確かに不安を煽る方が楽だろう。その考えは正しい。
「わかったよシィラ、ありがとう! シィラって何でも知ってるよねー」
急に嬉しさが込み上げてきて、ゼジッテリカはまたシィラを見上げた。けれどもシィラは何故だか少し寂しそうだった。軽く伏せられた瞳はかすかにだが揺れていて、口元には微苦笑が浮かんでいる。何か負の感情を押し殺したような、そんな表情だ。その様子にゼジッテリカが怪訝そうに首を捻ると、シィラはゆるゆると首を横に振った。
「そんなことないですよ。肝心なことはわかってないんですから」
「……え? な、何がわからないの?」
動揺したゼジッテリカの声はうわずった。褒めたつもりだったのに何故だか傷つけてしまったらしい。きっと、それはシィラの最も痛いところなのだ。
それに気づいておろおろしていると、シィラは一歩近づいてきてゼジッテリカの頭を撫でた。癖のある髪を梳く手つきが気持ちいい。だが今はそれに喜んでいる場合ではない。ゼジッテリカはおずおずとシィラの目を覗き込み、どう慰めようかと悩んだ。
「そうですねえ、自分のこととか、でしょうかね」
「え?」
「ふふっ、いえ、冗談ですよ」
シィラはそう付け加えたが、しかし冗談とは思えなかった。口をぱくぱくとさせていると、終わりとばかりに微笑んでシィラの手が止まる。何か言わなければ。そう思ったがすぐに言葉は出てこなかった。今までまともに他人と話したことがなかったから、こういう時に何と口にすればいいかわからない。
「あ、あのね、シィラ」
それでも何とかひねり出そうと名前を呼んだら、奥にある扉が開く音がした。慌ててそちらを向くと、扉を押し開けたテキアの姿が目に飛び込んできた。ゼジッテリカは目を丸くする。彼がここに来るなんてことは誰からも聞いていない。
「テキア様」
ゼジッテリカより早く、シィラがその名を呼んだ。それに対してテキアは柔らかく微笑んだ。その笑顔に少しだけ、ゼジッテリカの心は軽くなる。
テキアが笑っているのを見るのは好きだった。気難しい顔をしているよりその方がずっと似合う。空気が変わりそうな気配がしたからだろうか、シィラの様子も心持ちか嬉しげだ。
「食事中にすいません」
だがテキアが食堂に入ってくると、ついでやってきたバンの姿も見えた。直接護衛なのだから当たり前だが、それでもゼジッテリカの心は一気に沈んだ。彼は苦手だ。彼の怪しい笑顔を向けられるだけで体が固くなる。それなのについてくるなと言えないところが苦しい。
「どうかなさったんですか? テキア様」
「たまにはゼジッテリカと食事を、と思いまして。ちょうど時間があきましたので」
「え? 本当っ!?」
立ち上がりかけたゼジッテリカを、シィラの手が何とか止めた。誰かと一緒に食事というのは楽しくて好きだ。特にテキアとは久しぶりだからなおさら嬉しかった。これでバンがいなければ最高なのだが。
「よろしいでしょうかね?」
「いいですよね? リカ様」
「え? あ、もちろんだよっ!」
近づいてきたテキアの顔を見上げて、ゼジッテリカは大袈裟な程首を縦に振った。バンはできるだけ視界に入れないようにしようと、ひっそりと決意を固めて。