ファラールの舞曲

第十話 「ほどけない鎖を」 (中)

 一人ではないお風呂というのは久しぶりで、ゼジッテリカはかなり舞い上がっていた。広い風呂場もいつもはただ寂しく感じられるだけだが、今日は何だか豪華な場所に見える。光を反射するきはだ色の壁も天井も、水音さえも心地よかった。
 だから無闇にはしゃぐのをたしなめられながらも、ゼジッテリカは名前も知らない歌を口ずさみ続けた。室内を満たす白い湯気に、さらに体も心もぽかぽかとしてくる。お気に入りの花の香りが、全身を包み込んでいるかのようだった。
「ご機嫌ですね、リカ様は」
 シィラの何度目かのその言葉に、ゼジッテリカは素直にうなずいた。つい先ほど我が侭を聞き入れてもらったので、今はシィラが髪を洗ってくれているのだ。その優しい手つきが気持ちよくて、ゼジッテリカはくすくすと笑い声をもらした。
 この感覚は懐かしい。懐かしくて温かい。頭を動かすなと注意されては返事する。そんなやりとりを繰り返すのが、ゼジッテリカは実は好きだった。
「なんかこうしてるとお母様と一緒にいるみたい」
 目を閉じながら、ゼジッテリカは上機嫌で言った。たぶんシィラの姿が見えないせいだろう。頭に感じる指先の動きと湯気と香りだけが、今のゼジッテリカにとっての全てだった。だからつい幼い頃のことを思い出してしまう。まだ母が生きていた頃の幸せな生活を、ゼジッテリカは頭に思い描いた。
 あの頃はまだ日々が楽しいと思っていた。皆が忙しかったけれど、それでも安らぎを感じられる時間があった。朧気な記憶しかない頃のことだが、楽しかったという記憶は体に染みついている。だからそれを思い起こさせてくれる今は、思っていたよりずっと至福の時間となった。勝手に母親役にされたシィラは迷惑かもしれないが、今だけは許してもらおう。
「そうですか?」
 だが背中越しに響く声は、予想していたよりも不思議そうな口調だった。苦笑しているわけでもなく、また懐かしんでいる様子でもない。ゼジッテリカはその反応に首を傾げ、振り返りたい衝動を堪えながら思い切って尋ねてみた。シィラにしては珍しいことだ、と。
「うん、そうだけど。……シィラはお母様と一緒に入ったりしなかったの?」
 母親が忙しい人がいるという事実を、ゼジッテリカは聞いたことがあった。もしかしたらシィラもそうではないのかと、ふとそう思ったのだ。だとしたら少し申し訳なく思う。懐かしさに浸って喜んでいたのは、ゼジッテリカだけになるのだから。
「私、母親がいないんですよ」
「……え?」
 けれども返ってきた答えは、予想以上に重たいものだった。思わず気の抜けた声を発したゼジッテリカは、シィラがどんな顔をしてるのか気になり振り返ろうとする。もっともそれを優しい手つきで阻まれて、結局は確認できなかったのだが。
「でも母親みたいな人はいたんですよ」
「そ、そうだったんだ。ご、ごめんなさい」
「いいえ、気にしないでください。私はそれでも十分幸せでしたから、だからいいんですよ」
 シィラは柔らかな声音でそう言ったが、弾んでいたゼジッテリカの心はわずかにしぼんだ。こうやってシィラのことを知ることができるのは嬉しいが、それはどうも楽しいことばかりではないみたいだ。ずっと自分だけが不幸せだという気持ちが強かったが、そうではなさそうだと最近は思っている。
 たぶんきっと、シィラはゼジッテリカよりもずっと辛い日々を知っている。
 そう考えるとシィラについて知るのが、少し怖かった。それを引き出してしまうことにも、聞いて受ける衝撃にも、漠然とした恐怖を覚えた。だからだろうか、シィラに甘えることに少し罪悪感がわいてくる。それを押し殺すようにして、ゼジッテリカは唇を結んだ。
「じゃあリカ様、流しますから目閉じててくださいね」
 それなのにシィラの声はやっぱり優しくて。水音とともに流されていく何かを感じて、ゼジッテリカの心は揺れた。突然の情報に混乱する頭は、まともに言葉を放ってくれそうにない。役立たずだ。
 しかしずっと黙っていたらシィラは心配するだろうと、ゼジッテリカは必死に話題を探した。探し求めて、探し求めて、眉をひそめる。けれども今この空間で浮かんでくるのは、母親のことばかりだった。でもそれは駄目だ。
 だからゼジッテリカはしばらく口を閉ざして、それ以外の何かを必死に思い浮かべた。髪からしたたり落ちるしずくが、肩の上で跳ねる感触がある。
「あ、あのね、シィラ」
 そこでふと良い案が浮かんで、ゼジッテリカはそう口を開いた。濡れた髪を手で梳いてくれるシィラは、はい、とだけ言葉少なに答えてくる。ゼジッテリカは瞼を持ち上げると、視界を遮ろうとする水滴を手で拭いた。
 そうだ、思い出がないなら作ればいい。今懐かしめないのなら、後に懐かしめればいい。それはゼジッテリカには、これ以上ない名案のように感じられた。自分が天才にでもなったかのように、気分が高揚してくる。
 そのためにはゼジッテリカが憧れていたことを、シィラと一緒にするだけでよかった。それは至極簡単なことだった。けれどもそんな簡単なことをするだけでずっと、幸せな日々を懐かしむことができるはずなのだ。それならきっとシィラも寂しくなくなる。
「私、ずっと憧れてたことがあるんだ」
「憧れてた、ですか?」
「うんっ。私ね、ずっとお母様と一緒にお菓子作りたかったの。クッキーとか焼いてさ」
 ゼジッテリカは意気揚々と答えた。時折使用人たちの間で交わされる会話から、ずっと心にかかっていたことだった。親と一緒に何かをするというのは、どれだけ楽しいのだろうかと。憧れのあまり、ゼジッテリカはその光景を描いてみたことさえあった。それは一度も実現しなかったのだが。
 もちろん、シィラが護衛であるとはわかっている。護衛がお菓子作りなんて変な話だと、理解はしている。でも傍にいるなら一緒に作ってもよいのではないかと、そうゼジッテリカは思っていた。たぶん料理中だろうが何だろうが、魔物が現れればシィラはすぐさま対応できるだろう。それなら何も問題はないはずだった。
「では明日一緒に作ってみますか?」
 するとシィラはあっさりと、そう提案してきた。あまりにすんなり受け入れられたものだから、思わずゼジッテリカは後ろを振り返った。白い湯気に包まれた中でも、シィラの黒い瞳ははっきりと見える。その綺麗な瞳が真っ直ぐ、ゼジッテリカを見つめていた。
「本当?」
「厨房の隅を借りましょう。きっと許してもらえますよ」
「う、うんっ! やりたい!」
 ゼジッテリカは首を縦に振った。結局ただ我が侭を言っただけみたいになった気もするが、シィラも楽しんでくれれば別にかまわなかった。とはいえ本当に楽しんでくれるかは定かではないが……それでも嫌がってはいないはずだと信じたい。
「何を作りましょうかね」
 そうつぶやくシィラを、ゼジッテリカは目を細めて見つめた。
 危険であるはずの日々は、幼い頃と同じくらいに色鮮やかに感じられた。



 静かな廊下の端に、テキアとバンはたたずんでいた。窓から外をぼんやりと見ていたテキアは、今にも雨が降りそうな雲を肩越しに睨みつける。特別意味はないはずだが、雨というのはどうも憂鬱になるものだった。記憶にも上らない何かを刺激されるようで、不思議と気分が落ち着かなくなる。
 もし普段のテキアを知る者がいれば、こんな状態の彼を訝しく思うところだろう。しかしこの場にいるのは彼と、その直接護衛のみだった。
 廊下を通り過ぎる者は、今のところ皆無だ。それもそうだろう。この廊下はファミィール家の者が使う浴室へと続く道なのだ。そこを通りかかる者はせいぜい、準備や掃除をしにきた使用人くらい。それも今は姿がなく、故に静寂が辺りに満ちていた。
「テキア殿」
 すると沈黙に耐えられなくなったのか、隣に立っていたバンがそう声をかけてきた。壁に背をあずけた彼は、長めの髪の先を手櫛で整えながらテキアを見ている。その眼鏡が軽く光を反射した。
 ここ最近の様子でわかったことが、どうやらバンは沈黙が苦手らしい。有名な技使いとしては珍しいことだったが、彼はどちらかといえば饒舌な性格だった。もしかしたらこの派手な恰好も、話題を切らさないための小道具なのかもしれない。もっとも、そうだとしたら相当の徹底ぶりだが。
「バン殿、何か?」
 テキアは切れ長の瞳を細め、再び窓の方へと視線を向けた。バンの表情に嫌なものを感じたからだ。どうもこの男には悪い癖が多い。聞かれたくないことを口にし、そして場を乱すのが好きなようだった。それともそういうのを好む振りをして、情報収集しているのか。どちらにせよたちが悪い。
「テキア殿は彼女をどう思いですか?」
 どことなく悪戯っぽい口調のバンに、どう答えたものかとテキアは眉根を寄せた。無論その『彼女』というのが誰を指し示すのかは明白だ。今この場にいない、そしてゼジッテリカと共にいる人物。しかしそう確信しながらも、テキアはバンをまた一瞥して頭を傾けた。
「彼女というのは、シィラ殿で?」
 確認すれば、バンは全身を使うように首を縦に振った。その長い袖が揺れて衣擦れの音を立てる。テキアがほぼ全身黒に近い服なのとは対照的に、バンはひたすら派手だった。もしその名を知らなければ、戦闘には不向きそうな恰好を怪訝に思うことだろう。
「ええ。最も疑わしく、最も得体の知れない存在。しかしいまだに動き出す気配のない方です」
 バンはそう答えると口角を上げた。こんな彼にこう言われていると知れば、普通の人間なら激怒するはずだ。しかし彼女ならばたぶん苦笑するだけだなと、そうテキアは確信していた。彼女は自分がどう思われているのかをよく知っている。その点では、ある意味バンと似た者同士だった。
「バン殿までそう仰るのですね。もし彼女がゼジッテリカを狙っているなら、機会などいくらでもあるでしょう」
「しかし、より最適な機会を狙っているとしたら?」
 無難な答えを返せば、なおバンはそう問いつめてきた。テキアは腕組みをすると首を傾げ、意味がわからないとでも告げるように眉根を寄せる。本当はそれくらいわかるのだが、それを自分で言う気にはなれなかった。だからテキアはバンを促す。
「というと?」
「より衝撃的で印象的な機会を狙っているなら、と考えれば? それこそ皆の前で八つ裂きとか、ですかね」
「バン殿は空想家ですね」
 八つ裂きなどと言われて、さすがにテキアも失笑した。おそらく当人もわかってはいるのだろう。それとて、彼女にはいつだったって可能なのだ。技使いが一般の人間を手にかけようと思えば、それこそ恐ろしい程容易い。それは魔物が普通の技使いに対してそうなのと、ほぼ同じだった。そこにはどうしようもない壁があるのだ。
「取り越し苦労であると?」
 バンはそう尋ねてにやりと笑った。全てを見透かしていてなお聞いてくるその態度は、実はテキアも嫌いではなかった。それぐらいではないと生きていけない世界もあるのだ。おそらくバンも、そういう世界に住んでいるのだろう。彼の名声はその実力のみから来るのではないのだ。そんなことを思いながら、テキアは首を横に振る。
「機会は待つものではなく作るものですよ。より衝撃を与えたいのならば、ゼジッテリカの首を皆の前にさらすだけでもいいでしょう。それでも十分効果があります」
「なるほど、それもそうですな。しかし、それにしてもテキア殿は恐ろしいことを平気で仰る。ゼジッテリカ様の前とは別人のようですな」
 相槌を打ったバンは、くつくつと笑い声を漏らした。その拍子にずれた眼鏡を正す姿を、テキアは横目で見つめる。バンに言われなくとも、ゼジッテリカに甘いことくらい自覚はあった。そしてそれを知りつつも、バンはからかうことを止めようとはしない。つまり、二人とも互いに理解してはいるのだ。
「姪の前で怖い顔をしても仕方ないでしょう。それに、あくまでたとえです」
「ええ、わかっています。テキア殿」
 全て戯れだなと、テキアは内心で苦笑した。つまりバンも暇なのだ。もう既にそれなりの時間が経過しているのに、ゼジッテリカたちが出てくる気配はない。ゼジッテリカがあれだけはしゃいでるとなると、いつもより入浴時間は長引くだろうと思われた。しかしそれでもテキアは、そこを動くつもりがなかった。シィラにはああ言ったが、念のためだ。
 突然のことに人手を割くわけにもいかないとなると、今一番時間があるのはテキアだった。できる限り屋敷内にいた方がいい身としては、以前よりずっと仕事量は減ってしまっている。それ故死ぬ程忙しかった一頃よりは、ずっと時間が取れていた。ほぼ四六時中バンと一緒では、心の方は安まらないが。
「それにしてもやはり女性の入浴は長いですね」
 にやにやとした顔で、バンはそう口にした。それを無視してテキアは嘆息すると、また窓から重たい雲を眺めた。

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