ファラールの舞曲
番外編 彼と彼女の幻想曲-5
また魔族が別な方法で仕掛けてきたことに、すぐに彼は気づいていた。
護衛が殺されたという場所を訪れれば、それは確信へと変わった。これは魔族の仕業だ。どうしてだと聞かれても、人間相手に上手く説明できる自信はないが。だが人間のなせる業ではないことは確かだった。神に存在を気取られず人間を殺すには、転移が使えなくてはならない。
「テキア殿、ずいぶんまた急ぐのですね」
しかし今、彼の心を急かすのはそのことではなかった。全く関係ないとは言わないが、魔族が別の手に出たから慌てているわけではない。正攻法で下級魔族が戦力にならないとなれば、別の方法を考えてくることは容易に想像できる。
「急いでなどいませんよ」
「いや、急いでいますよ。あなたの返答が素っ気ないことが、何よりの証拠ではありませんか」
隣を行くバンの鋭い指摘に、テキアの皮をかぶりながら彼は苦笑を浮かべた。何故急いているのかといえば、ゼジッテリカの様子を確認したいからだ。
気から無事であることはわかっているが、心穏やかとまでは断定できない。護衛殺しの話がゼジッテリカの耳に入れば、動揺させることは間違いなかった。できるならその前に、この件を片づけてしまいたい。無論それが難題であることは言わずもがなだが。
早足のためか、目的地である食堂まではすぐに辿り着いた。少し歩調を落とした彼は、バンを見やると後ろへ下がるよう目配せする。
ゼジッテリカは知らない人に会うのが苦手だ。それもバンのような見た目からして変わり者であれば、萎縮してしまうだろう。さすがに部屋の外で待っていろとは言えないが、前へは出ないで欲しいところだ。
扉を開けると、それは思いの外大きな音を立てた。そのためか驚いたゼジッテリカが、勢いよく振り返った。青い双眸が彼らを真っ直ぐ捉えている。
ゼジッテリカの傍にいるシィラの眼差しも、ゆっくりとだが彼らへと向けられた。彼女は気から彼らが来るのを予期していたのだろう。浮かんでいるのは穏やかな笑みだ。
「テキア叔父様っ」
喜びに声を上げたゼジッテリカは、しかしすぐにその場で体を強ばらせた。何故かはすぐに予想がついた。後ろにいるこの怪しい男――バンを見たからだろう。
奇妙な服装だけでも十分警戒すべき人物だとわかるが、眼鏡の奥で光る緑の瞳には恐怖すら覚えてしまう。それが一般人にとってのバンという男だった。彼でさえ、バンはある意味危険人物だと警戒している。
「ゼジッテリカ、食事の邪魔をして悪いな」
このままではゼジッテリカの息が止まりかねない。彼は瞳を細めると、ほんの少し二人の側へと寄った。すると強ばった顔のまま首を横に振り、ゼジッテリカは彼を見上げてくる。それでもやはりバンのことが気になるらしい。時折怯えを含んだ眼差しが、彼の後ろへと向けられていた。
「あの、テキア叔父様、その後ろの人は?」
「ああ、そういえばゼジッテリカはまだ会っていなかったね。彼は私の直接護衛をしてくれているバン殿だ」
「初めまして、ゼジッテリカ様」
ゼジッテリカが素直に聞いてくれたため、彼はすんなりとバンを紹介することができた。正直バンに余計なことを喋らせたくないのだ。ゼジッテリカの前であっても、この男が問題発言を止めてくれるとは思えない。それがここしばらく一緒にいる、彼の知るバンという男だった。
「どうも、初めまして」
勇気を奮い立たせたのか、ゼジッテリカが何とか笑みを浮かべてそう挨拶した。その辺りは子どもでもファミィール家の一員という意識があるのだろう。初対面の者に失礼な態度を取らないことは、最低限の礼儀だ。
それとほぼ同時に、シィラが音も立てずに席を立った。その眼差しはゼジッテリカを守るようにも、また彼らに宣戦布告するようにも捉えられる。笑顔であるにもかかわらず、意志の強さを感じさせるのだ。少なくとも“テキア”へと向けていたものでないことを考えれば、バンのせいなのだろう。
ちらりと後ろを見やれば、バンはうやうやしく頭を下げていた。いや、そう思ったのもつかの間、その視線がシィラへと向けられた。怪しげに細められた瞳はどこか妖艶だ。ゼジッテリカの息を呑む音が、かすかに耳に届いてくる。
「どうも、シィラ殿」
粘り着くようなバンの視線を、シィラは柔らかに微笑んだまま受け止めていた。バン相手にこの態度はさすがだ。その異名を知っている者はもちろん、そうでなくとも威圧感があるというのに。それでも彼女はいつも通り、何も感じていないかのような顔をしていた。
けれどもこの二人がこうやって相対することは、テキアとしても彼の本心としてもありがたくないことだった。
バンは彼女に興味を示している。が、彼女の正体がバンに暴かれるのはまずい。何者かは知らないが戦力となる以上、今彼女をこの屋敷から追い出したくはなかった。かといって彼が彼女を庇うというのも、今度は彼が疑われる原因となってしまう。
「直接会うのは確か初めてでしたね。既におわかりかと思いますが、バン=リョウ=サミーです」
「ええ、そうですね。初めましてバンさん」
ため息をつきたいのを堪え、挨拶するバンの横顔を彼は眺めた。対してシィラの返答は普通だ。それに快くしたのかバンはうなずき、自分の話は終わったとばかりに彼へと視線を送っていた。複雑な思いに彼は苦笑し、それからゼジッテリカを一瞥する。
完全に食事の手を止めて、ゼジッテリカは困惑していた。それがバンのせいなのかそれとも護衛殺しの件を知っているせいなのかは、これだけでは判断できない。前者だけならいいのだが、屋敷内が後者の話でざわついていることを考えると、楽観視はできなかった。
「残念ながら、例の騒ぎのことならもうご存知ですよ」
そんな彼の懸念に、あっさりとシィラが答えを出した。おそらくはここに来るタイミングから全てを推し量ったのだろう。いや、彼女のことだから彼の気や態度から全てを読みとったのかもしれない。どちらにせよ、それは彼自身がよくやることと同じだった。普通の魔族でもまずできないことだ。
「そう、ですか」
彼は彼女の微苦笑を横目にしたままゼジッテリカをちらりと見やった。噛まれた唇はかすかに震え、その動揺を静かに伝えてくる。心配した通りの事態になっていたわけだ。ゼジッテリカの食事が進んでいないのも、そのためだろうか。
「大変なことになりましたね。私も気を引き締めなければなりません」
「ええ、そうですね」
自然と彼の声も落ちたが、それはテキアの立場として考えても違和感はないだろう。そう思いつつも彼女の反応が気になり、彼はその笑顔に視線をやった。柔らかい微笑みではあるが、その奥に感情が透けるような表情。いや、わざと透けさせていると考えるべきか。
得体の知れない者であるにもかかわらず、つい好感を抱きがちな微笑だった。彼でさえそうなのだから、ゼジッテリカが懐くのも当たり前だ。そう考えると、自然と口の端が上がっていた。ならば“テキア”がそうだとしても、おかしくはないはずだ、と。
「それは頼もしいですな、シィラ殿。あなたのような実力者が本気になれば、この事件などあっという間に解決でしょう」
しかしそこでバンが口を挟むと、場の空気は一変した。落ち着きかけていた雰囲気は、あっという間に壊れてしまった。バンの瞳は怪しく光りながら、シィラを捉えている。まるで獲物を狙う獣の眼差しだ。
対する彼女は困ったように眉をひそめて、一瞬だけ“テキア”を仰いだ。それは助けを求めているようにも、また彼の内心を探っているようにも見える。彼女の正体を探るために、バンを連れてきたとでも思われているのか。だとしたら心外だった。
「バンさん、それは買いかぶりです。私にそのような実力はありませんよ」
「またご謙遜を。あなたが実力試験で手を抜いていたことは、見る者が見れば明らかですぞ。今度じっくりお手合わせ願いたいくらいです」
この二人の対決をどう収めればいいのか。彼が頭を悩ませているうちに、楽しげなバンの手が彼女へと向けられた。長い袖がゆらゆらと揺れて、静かな室内に衣擦れの音が染みこむ。彼女はその手を見やると、困ったように嘆息した。そして軽く肩をすくめて口を開く。
「それはあなたも同じなのではないですか? いえ、上位の方でしたら皆そうですね。あの試験で全力を出す必要性はありませんから。それとですね、残念ながら私は無駄な争いを好みませんので」
どうやら対決を避けたいのは彼女も同様のようだった。正体を隠したいのだから当たり前だろう。第一、護衛同士が争っても何一ついいことはないのだ。謎の技使いに興味を示すのはわかるが、だからといって無駄に体力や気力を消費するのはいただけない。
「心根穏やかな方なのですな」
するとそうつぶやいたバンが、彼の前を横切り一歩前へと出た。そして半身を引いた彼女の手を取り、薄い笑みを浮かべる。まさかここで何かをするつもりではないだろうが、それでも彼の体は自然と強ばった。
彼女はどう出るのか? 瞳を細めて見守れば、彼女はバンの手を払いのけるつもりはないようだった。様子をうかがっているというところか。
「バンさん?」
「これはお近づきの印です」
バンはそう囁くと同時に、彼女の手の甲にそっと口づけを落とした。それは今まで見たどの口づけよりも優雅で、それなのに戦慄を覚えさせる何かをはらんでいた。
彼は目を見開いたまま、しばしその場で硬直する。それはゼジッテリカやシィラも同じだった。まさかこう来るとはバン以外は誰も考えていなかったのだ。動揺させるのがバンの狙いなら、完全に成功だろう。
「あ、あの……」
「シィラ殿は、女性として扱われるのは慣れてませんかな? こんなに麗しいのにもったいないことです。それもまあ流れの技使いならば、仕方のないことですが」
バンは片目を瞑って口角を上げると、ようやくシィラの手を離した。彼女は珍しくも対応に困っているようだった。普段ならば困っている振りだと判断するところだが、今回はそうではなかった。それは彼女の気が証明している。
どうするべきなのか。まるでそれを問いかけるように、彼女の双眸が彼やバン、ゼジッテリカへと次々に向けられた。彼女が困っている様というのは初めて見る。それだけバンの行動は予測不可能だったのだろう。混乱させるのがバンの意図なのかと、彼も疑いたくなる程だ。
けれども予想外な行動をしたのは、バンだけではなかった。突然何か思い立ったのか、ゼジッテリカが声を発することなく立ち上がった。そしてそのまま勢いよくシィラの腰にしがみつく。
テーブルの上からフォークが落下して、甲高い音を立てた。突然抱きつかれたシィラは、体勢を崩して慌てて左手をテーブルについている。対応しきれなかったということは、よほど彼女も驚いているのだろう。
「リ、リカ様?」
「シィラは私のなの!」
ゼジッテリカの主張には、バンも目を丸くしていた。だがすぐに“テキア”は、頬を緩めることができた。ゼジッテリカもシィラを助けたかったらしい。そう考えると、微苦笑まで浮かんできた。何はともあれこれで彼が頑張る必要はなくなったのだ。直接護衛同士の対決はゼジッテリカが止めてくれる。
「おやおや、ゼジッテリカ様もぞっこんのようですな。シィラ殿、あなたは罪深い人ですね」
「からかうのは止めてください、バンさん。リカ様も、行儀が悪いですよ? ほら、フォークも落ちてますし」
彼女の口調は、まるで母親か何かのようだった。そのためか叱られているにもかかわらず、ゼジッテリカの顔もほころんでいる。嬉しいのだろう。ついでゼジッテリカは、彼女にしがみついたまま首を縦に振った。
普段殺伐とした空気の中にいるだけに、微笑ましさに彼の心も軽くなった。またそんなやりとりを見ていると、ついつい彼も注意しなくてはいけない気になる。彼は切れ長の瞳をさらに細め、口を開いた。
「ゼジッテリカ、シィラ殿にあまり甘えすぎるなよ。仕事の邪魔になっては意味がないのだからな」
「いいんですよ、テキア様。これくらいなら平気ですから」
室内に穏やかな空気が流れ始めた。そのことに心底安堵しながら、彼は不思議な気分をも味わっていた。何故自分が彼女の心配までしなければならないのか。ただ利用だけするつもりが、バンの好奇心のせいで厄介ごとが増えている気がする。しかしそれなのに、悪い気はしないのだ。
「シィラ殿、くれぐれも無茶はなさらないでくださいね。ゼジッテリカの我が侭に付き合っていてはあなたが大変ですから」
「あら、テキア様が心配なさってくださるんですか? それは光栄ですけれど、私は大丈夫ですよ。私がそうしたくてやってるんですから」
そんな思いを密かに込めて、彼は彼女に忠告をした。どちらかといえばバンの前で無茶をするな、と告げる方が正しいだろう。だがさすがに当人の前でそんなこと言うわけにはいかない。ゼジッテリカの名前を出すのは、いささか心苦しいが。
彼も彼女の正体を探ろうとしているのに、バンに探られるのは困る。まるで人間の子どもがする恋愛みたいだなと、彼は内心で苦笑いした。ただ怪しまれているだけならば、彼は何も困らない。既に彼女は多くの護衛に怪しまれているし、それでも彼女は役目を果たしてくれているのだ。
けれどもバンは別だった。何をしでかすかわからない男というのが、彼のバンに対する印象だった。流れの技使いの中ではその実績から有名だが、全てが綺麗な話ばかりではない。バンの攻撃に耐えかねて彼女に何か行動を起こされては、彼も困るのだ。
「テキア殿はゼジッテリカ様だけでなく、シィラ殿にも甘いのですな」
「……バン殿」
「おや、失礼を。ではテキア殿、そろそろ行きませんかな? ゼジッテリカ様もこのように元気だとわかったのですから、ギャロッド殿にその後の状況を確認しなければ」
だからバンにそう言われて、正直彼はほっとしていた。攻撃の矛先が彼自身へと向くだけのような気もするが、自分のことならばごまかすのは楽だ。一方彼女への探りを、彼がどうにかするわけにはいかない。それはまた別の問題を引き起こす可能性がある。
「ではゼジッテリカ、早く食事を済ませて部屋に戻りなさい。シィラ殿、ゼジッテリカを頼みます」
彼は首を縦に振ると、ちらりとゼジッテリカを見下ろした。この小さな姪のためにも、バンをこの場に長居させない方がいいだろう。バンは誰にとっても厄介者なのだ。
これからこんな気苦労が続くのだろうか。そんな密かな心配事を抱えて、彼はすぐさま踵を返した。続くバンの足音が、今日ばかりはひどく恨めしかった。