ファラールの舞曲

番外編 名もない奇跡(後)

 お母さんがどうして眠ったままなのか、それは理解できた。けれどもじゃあどうすれば目覚めるのかは、私にはわからなかった。固く目を瞑ったままのお母さんを見ると、涙がにじみそうになる。シィラさんは治ると言ったけれど、本当なのだろうか?
「その……減った精神を回復させることってできるんですか?」
 彼女がじっとお母さんを見下ろすものだから、不安に襲われて私は問いかけた。振り返った彼女は優しくうなずいて、その手のひらをお母さんの上へと掲げる。
「ああ、元々精神は黙っていても時間が経てば回復する。だがすごく時間がかかるんだ」
「そ、そうなんですか」
「でもそれを一気に増やす技がある。ちょっと見ててくれ」
 彼女の言葉に従ってかざされた手を見ると、そこから淡い光が漏れ始めた。白っぽい、ほんの少し紫がかった柔らかい光だ。それが彼女の手のひらからこぼれて、お母さんの体を照らし始める。
 これが、技。技使いに出会うのも技を見るのも初めてな私にとっては、未知の世界だった。何が起こるのか期待が溢れて、私はその光景を凝視する。するとしばらくも経たないうちに、眠っていたはずのお母さんが小さく身じろぎをした。
「っ!?」
 今まで何をしても、自分からは動こうとしなかったのに。栄養剤を飲ませることさえ難しかったのに。
「お母……さん」
 喉から漏れた声は震えていた。動けない私がその場に立ちつくしていると、白い光がお母さんの体を包みこみ、消える。それと同時にお母さんの瞼がゆっくりと開いた。ぼんやりとした瞳が天井を見上げ、それから様子をうかがうように辺りを彷徨い始める。
「エレッダ?」
 お母さんが私を見つけた。不思議そうに瞳を瞬かせて、ついで私とシィラさんを見比べた。何が起こったのかわからないんだろう。お母さんの中の時間は、きっと倒れる直前で止まっているに違いない。
「お母さん!」
 だから説明する方が先なのに、私は堪えきれずにお母さんの体にしがみついた。この温かさが懐かしい。声が、匂いが、全てが私を満たしていく。けれども怖々と頭に載せられた手が、宥めるようにポンと叩いた。この感触も懐かしい。
「エレッダ? ひ、人様の前よ」
 困惑気味にたしなめる声で、はっと我に返って私は離れた。いつの間にかシィラさんは横へと避けていて、微笑ましいとでも言いたそうに目を細めている。頬が赤くなるのを自覚しながら、私は軽く俯いた。もう子どもでもないのに、恥ずかしいことをしてしまった。
 けれども嫌いだったお母さんのお小言さえ、懐かしいのは確かで。くすぐったさにどんな顔をすればいいのかわからず、私は目尻ににじんだ涙を拭った。こんなに呆気なくお母さんが目を覚ますなんて、夢のようだ。
「気分の方はいかがかな?」
「……あの、あなたは?」
「ああ、われはとある仕事場について調査している者で、シィラという。その関係でエリジーさんを見て欲しいと頼まれてな」
「仕事場――」
 シィラさんの言葉を、お母さんはぼんやりと繰り返す。そして顔を蒼くすると肩を震わせた。その突然の変化に私は息を呑む。がたがたと震えたお母さんは、自分で自分の腕を抱きしめた。
「まさか、それは、あそこですか……」
「おそらく、あなたの言うあそこだと思う。何かあったののだろう? 不都合がなければ教えて欲しい」
 お母さんが唇を噛み、きつく目を閉じた。あそこというのは、たぶんお母さんがずっと働いていた場所のことだ。いつの間にかこの星に根付いていた、怪しい仕事。けれどもお金に困っている人々にとっては、最後の砦のようなものだった。
 たとえ魔物が雇っているのだとしても、死んでしまうよりはましだ。凍え死ぬよりは、飢え死にするよりはましだと、誰もがそう自分に言い聞かせているかのようだった。だから誰かが倒れたという噂が流れても、辞める人はほとんどいない。
「あの日私は気分が悪くなって、少し休ませてもらってたんです。眠っていたのかもしれません。ふと気がついた時には、扉の向こうに白髪の男が立っていました。見えたのは横顔だけでしたが、私よりもずっと若そうでした」
 はじめはゆっくりと、次第に速い口調でお母さんは訴え始めた。その時のことを思い出しているのか、唇も声も震えている。視線は定まらず、腕を抱え込んだ手が白くなるほど力がこもっていた。私は鼓動が速まるのを感じて、胸に手を当てる。
「彼は不思議な小瓶を持っていて、それを顔色の悪い女性に押しつけていました。その女性は同僚でした。数日前から気分が悪いとつぶやいていた人です。小瓶を押しつけられると、彼女は死んだようにその場に崩れ落ちて……私、それで怖くなって、逃げ出すつもりで立ち上がったんです。そうしたら後ろから誰かに引っ張られて」
 お母さんが小さくかぶりを振る。するとシィラさんは相槌を打って、そっと毛布の端を撫でた。
「それからは、覚えてないんだな?」
「はい。どんどん気が遠くなっていって……自分は死ぬんだと思いました。いえ、今目覚めるまでは死んだのだと」
 ああ、やっぱりあそこには魔物が関わっていたんだ。魔物のせいで、お母さんは眠ったままだったのだ。身震いするのを止められず、私は床へと視線を落とした。あそこには今、お父さんがいる。お父さんを含め大勢の人が、まだ働いている。
「お父さんが」
「……エレッダ?」
「お父さんも今、そこに働きに行ってるの」
 頭をもたげて何とか声を絞り出すと、お母さんの顔が凍りついた。私を見る眼差しには、嘘だと言って欲しいという願いが込められている。けれどもこれは現実だ。悲しいけれど事実だ。横を見れば、シィラさんは何も言わずに眉根だけを寄せている。そしてすぐに、その唇からため息にも似た吐息が漏れた。
「今度はそう来たか」
「あの、シィラさん?」
「手口はわかった、ありがとう。それならば力尽くでも何とかなりそうだな」
「え? ええっ?」
 彼女の独り言に、私は目を丸くして首を傾げた。何を言ってるのか何をしようとしているのか、さっぱりわからない。けれども彼女が何かしてくれるのではないかという期待が、私の中を渦巻いていた。だって彼女は技使いなんだから。相手が魔物であっても、技使いならきっと対抗できる。
 するとシィラさんは笑顔を浮かべて、私とお母さんを交互に見た。怯える私たちとは正反対で、彼女の瞳には余裕がある。その細い手が私の肩に触れた。
「お前のお父さんは、もう大丈夫だよ」
「ほ、本当ですか?」
「もうこれ以上被害は出さない。お礼は後でするから、ちょっとここで待っていてくれ。いいか、しばらくここを出るんじゃないぞ」
 彼女はそう言い残すと音もなく踵を返した。あっと思って私が手を伸ばすも、遅い。部屋を出て行くその後ろ姿を止めることはできなかった。呼びかけた声もむなしく部屋に響くだけだ。慌てて玄関へ急いでも、やっぱり彼女の姿は見あたらなかった。
「シィラさん」
 彼女きっと、あの魔物のいる場所へ行ったに違いなかった。お父さんを助けるつもりなんだ。
「エレッダ、あのシィラさんって人は――」
「技使いよ、お母さん。だからきっと大丈夫。大丈夫よ」
 戸惑うお母さんに、私はそう答えることしかできなかった。技使いはそう、救世主なのだ。不思議な力を使うことができる、神様みたいな存在だ。
 大丈夫だと祈りにも似た言葉を繰り返して、私は瞼の裏に彼女の笑顔を思い描いた。



 ずっと寝たきりなせいで立ち上がることも難しいお母さんを、私は支えながら部屋を出た。いきなり何も食べることはできないだろうから、まずは水を飲ませることにする。食事についてはまた後で考えよう。
 井戸からくみ上げた水が、我が家の唯一の自慢だ。ひび割れたコップにそれを注ぎ、私はお母さんへと手渡した。お母さんは嬉しそうに笑い、そっとコップに口をつける。そしてゆっくりと水を喉に流し込んだ、そんな時だった。
「家事だ――!」
 外から誰かの叫びが聞こえた。野太い男性の声が、静まりかえっていた通りに響き渡る。この家は壁が薄いから、大きな声なら筒抜けなのだ。私は慌てて玄関へ駆け寄ると扉を開けた。この辺りには空き家くらいしかないから、人はまばらにしかいない。けれども道の向こうには、口に手を当てた男の人の姿があった。
 目を凝らせば、そのさらに向こうから煙が上がっているのが見えた。黒々とした煙が、重たい雲に混じるよう空へと伸びている。あの方向には覚えがあった。
「お母さん、ちょっと見てくる!」
 私はお母さんの返事を待たずに外へと飛び出した。説明はできないけれど確信があった。きっとシィラさんが何かしてくれたのだと、魔物を何とかしてくれたのだと。そんな希望が私の胸を照らしていた。
 だってずっと目覚めなかったお母さんさえ無事だったんだから。あんな風にあっさりと、目を覚ましてしまったんだから。
 道を進むと、家から顔を出す人たちの姿が見え始めた。皆騒ぎを聞きつけたのだろう。けれどもそんなことよりも、私にはもっと大事なことがあった。向こうからこちらへと歩いてくる影が一つある。煙たい通りの中をのろのろとした足取りで来るのは、間違いなくお父さんだった。
「お父さん!」
 大声で呼べば、お父さんは顔を上げた。何が起こったのかわからないという顔で、それでも私を見ると笑顔を浮かべる。大きくて優しい、私が知ってるお父さんだ。魔物のせいでおかしくなってもいない。
 私はさらに急いで、お父さんのもとへと駆け寄った。体中を煤で汚したお父さんは、勢い余って転びそうになった私を抱き留めてくれる。周囲の視線も気にならなかった。お母さんのお小言が頭をよぎるけれど、嬉しさには勝てない。
「良かった、お父さん。無事だったのね」
「ああ、大丈夫だよエレッダ。突然火事になって慌てたが、不思議な女の子が助けてくれたんだ。私たちを皆、外に出してくれてな」
「女の子? それ、シィラさんよ!」
 やっぱり彼女が助けてくれたんだ。裏切られなかった喜びに、私の体は小さく震えた。技使いは本当に何でもできるんだ。魔物が相手でも怯むこともないなんて。
「ただ頭がぼーっとしてな、詳しいことは覚えてないんだ。煙でも吸ったのかな」
「ねえお父さん、その女の子は?」
「女の子? ああ、彼女ならこれを私に手渡すと、いつの間にかいなくなっていたよ。何か言ってた気がするんだが、覚えてないんだ……」
 首を捻ったお父さんの手には、小さな革袋があった。今朝出て行く時は持っていなかった物だ。革袋なんて豪華なもの、ここしばらく見かけたこともない。小さいけれどしっかりとした作りの袋だった。
「――シィラさん」
 革袋をお父さんから受け取り、私は掲げてみた。よく見るとその端の方に小さく情報料と書かれている。そういえば彼女はあの時、お礼がどうのこうのと言っていたような気がする。それにこの重み。
 私は慌てて袋を開くと、その中をのぞき込んだ。日の光もわずかにしかなくて、中はよく見えないけれど。でも金色のコインのような物が数枚入ってるのがわかった。ここらでは滅多に見かけない、珍しい硬貨だろうか。
「どうかしたのか? エレッダ」
「……お父さん、私、夢でも見ているのかな」
 コインの入った革袋。目覚めた母、帰ってきたお父さん。これが夢でも十分幸せだと、思える程の奇跡だった。ずっと悪いことばかりが続いて、意地悪ばかりされていて、この世には悲しいことしかないのかと思ったこともあった。
 でもお母さんがいる、お父さんがいる。見も知らぬ私を助けてくれる人がいる。世界にはちゃんと光があったんだ。
「エレッダ?」
「お父さん、家に帰ってもびっくりしないでね」
 お母さんが目を覚ましたことを、どうやって伝えようか。私は革袋を抱きしめると空を見上げた。立ち上る黒い煙は、まだその勢いを失っていなかった。



 魔物が雇っているという噂の仕事場。そこが火事で消えてからしばらくが経った。お父さんは職探しで忙しいし、お母さんも以前のように動けるわけじゃあない。決して生活が楽になったわけではなかった。革袋に手をつければ美味しい物が買えるけど、そう簡単に使う気にもなれないし。
 それにナラリカたちの意地悪が収まったわけじゃあなかった。生活が苦しいのはみんな同じ。つまり、以前とほとんど変わりない生活だ。でも私はもう落ち込んだりしなかった。私は誰も知らない奇跡を見たのだから。
「あら、エレッダじゃない」
 だから買い物途中に、ナラリカに声をかけられても動じなかった。振り返った私を、ナラリカは意地の悪い笑顔で見てくる。前の私なら重たい気分になるところだ。
 でも今の私は違う。あの人の笑顔は優しかったなと思い出しながら、私もそれを真似してみた。私に奇跡が起こせるとは思わないけれど、自分の心を温めることならできる。
「何? ナラリカ」
「あなたのことだから何も知らないでしょうし、特別に教えてあげるわ」
「特別に? 嬉しいな」
「……この間の火事なら、あなたも覚えているでしょう?」
 ナラリカの顔が怪訝そうになったのは、私が顔を曇らせなかったからだろう。それでも言葉を続けてくるところをみると、相当言いふらしたい情報に違いなかった。私はぼろぼろの籠を持ち直して、大きくうなずく。
「もちろん、覚えてるわ。魔物がいたって噂の所よね」
「そう、それ。実はあれ、あの救世主がやったみたいなのよ」
「救世主?」
 その単語を聞くと胸がどきりと打った。でも気づかれたくなくて平静を装って首を傾げると、ナラリカは大きな瞳を輝かせる。何度も見た表情だ。
「あんた、そんなことも知らないの? あのファミィール家を救った救世主のことよ。あの火事が起きた時、薄紫の光を見た人がいるのよ。あれは間違いなく救世主の力! ファラールだけでなく、こんな小さなゲーダァにも来てくれるなんて。さすが救世主よね。噂では背の高い綺麗な女性だって言うし」
 胸の前で手を組んで、うっとりとした眼差しでナラリカは言った。その目はもう私を見ていない。けれども私も、謎が全て解けたような気がしてそれどころじゃあなかった。
 魔物を倒して、ファミィール家を救った女性。特別な力を持つ技使い。ファラールの救世主。それなら私も聞いたことがあった。名前は確かシィラではなかった気がするけれど、彼女が救世主なら全ての奇跡に説明がつく。渦巻いていた疑問も、全てが解けていった。
「ちょっとエレッダ、聞いてるの?」
「え? あ、聞いてる聞いてる。ありがとうナラリカ、教えてくれて」
 今回ばかりは、本当にナラリカに感謝だ。そう思って微笑むと、ナラリカの顔が奇妙に歪んだ。得意げな様子もなく、どちらかというと困惑気味な眼差しだ。
 結局違和感に堪えられなかったのか、そう、という気のない言葉だけを残して、彼女はあっさりと去ってしまった。金髪をなびかせて歩いて行く背中を、私は黙って見送る。こんな後ろ姿は初めてだった。
 これならナラリカとも上手くやっていける気がする。少なくとも彼女と目が合うだけで、憂鬱になることはないだろう。全てが不幸の象徴に見えていたのは、私自身にも原因があったのかもしれなかった。私はずっと、不幸せなことばかりを目で追っていた。
「そっか、救世主かー」
 心が軽くなったようで、私は軽く伸びをして空を見上げた。相変わらずぼんやりとした天気で、鬱蒼とした雲ばかり。けれどもよく見ればその隙間から日の光が漏れ、うっすらと筋を描いていた。よく目を凝らさなければ見えないけれど、気づいてしまえばそこから視線を外せなくなる。
「きっと今日こそ仕事が見つかる。明日はお母さんももっと良くなるし、町も元気になるわ」
 根拠のない自信が、私の中に満ち溢れていた。けれどもそれが虚しいことだとは、私には到底思えなかった。
 この世界には素敵な奇跡が溢れている。そのうちの一つに、私はきっと向き合うことができたのだろう。そしてこれからももっと、出会えるようなそんな気がした。

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