エッセンシャル技使い
第三話 「女の子ばかりじゃなかった」
「わ、悪い」
「何に対して謝ってるのさ。これだから君みたいな軽薄な人間は嫌い。ほら、さっさと行くんだろう?」
足を止めたままでいるカイキの横を、僕は通り過ぎた。サンテイスじいさんは何も言わなかった。カイキが心底申し訳なさそうにうなだれているのを見ると、僕の方が悪者みたいに思えてくる。何が失礼なのかもわかっていないだろうに。これだから技使いの男ってのは嫌になる。ちょっとした英雄気取りですぐ調子に乗るのに、女の技使いには過剰反応する。
「長居は無用さ。急ぐよ」
先ほどの少女の顔が、脳裏をよぎった。ここにいるってことは彼女も技使いなのか? 町の人間? それとも流れの技使い? 華奢な肩の掴み心地を思い出すと頭痛がした。あんな体で旅ができるとは思えないから、町の人間だと信じたい。
僕の後を、黙ってカイキとサンテイスじいさんはついてきていた。落ち込んでいるらしいことが、カイキの『気』からじわりと伝わってくる。でもだからといって僕が励ますのはどう考えてもおかしいから、ここは無視だ。それよりも調査のことに集中しよう。
等間隔に並ぶ明かりを横目にしながら、僕は徐々に近づきつつある『気』が幾つあるのか数えようとした。少なく見積もっても四人以上はいるだろうか? だとしたら、あの町長は今まで何回流れの技使いに依頼してきたんだろう。
しばらく進むと、少し大きめの扉が見えた。訓練所正面の入り口と同じで、周囲の壁よりもやや薄い灰色だった。それを目前に僕は立ち止まる。中の気配へと意識を向けてみても、何も感じ取れなかった。ただ『気』があることしかわからなかった。僕が無言で顔を歪めていると、右手から近づいてきたサンテイスじいさんが隣に並ぶ。
「また寝ているのかな。どう思う? 坊ちゃん」
「さあ」
僕が女だとわかっても呼び方は変えないらしい。その辺はどうでもよかったので、僕は素直に頭を傾けた。誰か起きていたらいいなと願うだけだ。いや、せめて揺さぶったら目を覚ましてくれたらいいな、と。
「開けるぞ」
返事を待たず、サンテイスじいさんは戸をゆっくり押し開く。湿った空気に硬い音が染み込んだ。扉の先には、先ほどの室内と似たような光景が広がっていた。違うのは広さとベッドの数だ。人が二人は眠れそうな平たく大きなベッドが、三つ。そこに一人ずつ人間が横になっている。
それぞれのベッドは僕の歩幅で十歩ほどは離れていた。今まで見た部屋よりはかなり大きい。壁際に大きな棚があり、大小不揃いな瓶が幾つも並べられている点も他の部屋とは異なっている。部屋の隅にある明かりは、廊下で見た物と同じだった。
「残念ながら美少女じゃなかったな、若造」
一番近くのベッドへと寄り、サンテイスじいさんは笑った。僕も静かに傍へ近づく。そこで眠っているのは肌の浅黒い、屈強そうな男だった。白いシーツを被り目を瞑っているところだけが同じだ。きっと依頼されて潜入した流れの技使いに違いない。僕らも彼の仲間入りしないうちに帰らないと。
「こいつ、たぶん流れの技使いだろう? 何でこんなところで寝てるんだか」
僕らへと近づいてきたカイキが疑問の声を上げる。ようやく真面目に調査する気になったのか。すぐ傍にいたのが女の子じゃなかったのがよかったんだろう。流れの技使いまで寝ているとなると、訓練の疲れでお昼寝って説は消えた。そんな説、元々なかったようなものだけど。
「おい、起きろって。おーい!」
さらに近寄ってきたカイキは、屈強な男の肩を揺さぶった。頑丈そうだから遠慮はいらぬとばかりに激しい揺さぶり方だ。けれども男は目を覚まさなかった。浅い呼吸を繰り返すばかりで、呻き声一つ漏らさない。何か薬でも盛られているんだろうか? だとしたら一体誰が?
「やっぱり起きないな」
諦めたカイキが次のベッドへ視線を向けようとし――眼を見開く。その時、突然空気が膨れあがった。僕にはそう感じられた。何が起きたのか、一瞬わからなかった。体が空中に浮いたと思ったら、ついで背中に衝撃が走る。喉から溢れた空気と声が、痛みと共に体を震わせた。ぐらぐらと揺れる視界の向こうで白い光が瞬いている。
「何やつ!?」
かすれたサンテイスじいさんの声がする。誰か来たのか? よくわからないまま僕も立ち上がろうとしたが、途端に酸っぱいものが腑の底からこみ上げてきた。どうも頭を打ったらしい。天井が回って見える。必死に吐き気を堪えつつ、僕はかろうじて上体だけを起こした。
「魔物だっ」
カイキの声がすぐ近くで響く。よく見ると、右手をカイキに掴まれていた。僕の体を引き倒したのはカイキなのか? だがそれに文句を言う暇はなかった。顔を強ばらせたカイキの瞳が見据える先、部屋の隅には、黒々とした何かがいた。
「ま、もの……?」
僕は瞬きを繰り返す。半ば無意識に口から漏れた声はうわずっていた。隅に腰を下ろしているそれは、黒々とした小動物のように見えた。だが異様な長さの耳、そして青々と光る瞳の威圧感が、ただの動物ではないことを物語っている。本当に『魔物』なのか?
涙で滲んだ視界の端では、サンテイスじいさんが構えていた。部屋の真ん中までは明かりが届きにくいため、サンテイスじいさんの白い長衣が薄ぼんやりと浮き上がっているように見える。
「サンテイスさん、気をつけろ!」
「若造、わかっている」
サンテイスじいさんの返事にも余裕はない。僕は口の中が渇いていくのを自覚した。魔物だって? そんなものがこんなところにいるわけがないのに、何故? どうして?
魔物なんかに出くわしたらおしまいだった。普通の技使いが勝てるはずもない。二つ名を持っているような流れの技使いならともかく、僕らみたいな人間に歯が立つ連中じゃあなかった。見かけよりもずっとずっと、危険な存在なんだ。
「こりゃあやばいな」
僕の手を引っ張り上げながら、カイキが立ち上がった。急な動きに頭がついていかなくて、また吐き気がこみ上げる。僕は顔を歪めながら魔物をねめつけた。それは様子をうかがっているのか、部屋の隅に座したままだった。揺れる長い尾が壁をぺしぺしと叩いているのが、妙に間の抜けた光景に思える。
「おいおいおい、魔物とか聞いてないって。しばらく会いたくないからこっち来たのに。あーあ、こんなことなら一緒に行動しておけばよかった」
カイキが何やらぼやいているが、その意味を問う余裕もない。おかしい。何故。信じられない。どうして。頭が疑問ばかり投げかけてくるが、体は危険信号を出し続けていた。一つ何かを間違っただけでも死ぬだろう。肌の内側から湧き上がる恐怖感に、身の毛がよだつ。
まず『気』が違う。黒い生き物の纏う気配の強さが、僕らとは明らかに異なっていた。ひたすら力を誇示しているその『気』には、鮮烈な純度が感じられた。体が震えるほどの混じりけのなさに、僕の呼吸も速くなる。
ぴたりと、尾の動きが止まった。ついで、音もなく魔物は床を飛び立った。僕より早く動いたのはカイキだった。腰からぶら下げていた短剣を引き抜くと同時に、床を蹴って頭上へと剣を突き上げる。
「ちっ!」
無論、当たっているわけもない。カイキも人間離れした反応力だが、それでも魔物には敵わない。天井近くまで飛び上がっていた魔物に、カイキの短剣は届かなかった。獲物を見据えるような青い瞳を、僕は呆然と見上げる。まずい。
黒い毛の間で生々しく輝く、赤い口。そこから表現しがたい咆哮が聞こえた瞬間、僕はほぼ反射的に真上に結界を張っていた。精神を集中させる必要はない。この技にだけは必要なかった。ばちばちっと火が爆ぜる音に混じって、息が詰まるような圧迫感を覚える。掲げた手に熱が感じられた。
「よくやった坊ちゃん!」
何の攻撃だったのか? 体はともかくとして、頭が戦況についていかない。サンテイスじいさんの歓声もどこか遠かった。それでも僕は魔物の姿を求めて視線を彷徨わせる。奴の『気』はまだ天井近くだ。まさか跳んだのではなく飛んでいるのか?
吐き気に耐えかねて僕が結界を消すと、間を置かずに今度はサンテイスじいさんが跳んだ。白い長衣をはためかせつつ、骨張った手から淡く光る矢が複数放たれる。それは緩やかに降りようとする魔物を捉え――。
「なっ!?」
黒い首筋を貫こうとする直前で、見えない壁に阻まれた。霧散し損ねた薄水色の矢は、壁や床にぶつかり甲高い音を立てる。目映い輝きが四方八方に散って、ますます状況把握が難しくなった。それでも魔物の『気』を、僕は無意識に探ろうしていた。この吐き気と目眩が早く治まればいいのに。立っているだけでも辛い。
「坊ちゃん、平気かっ」
ぐいと体を押され、それがサンテイスじいさんの背であると認識した時には、既に魔物は部屋の逆側の端へ降り立っていた。いつの間にか戻ってきていたカイキは、僕の右手側にいる。魔物と僕らの間にはベッドが二つあった。
「こいつはまずいぞ、若造」
「サンテイスさん、魔物との戦闘経験は?」
「ない。仲間が戦っていたのを見たことはある。坊ちゃんは?」
「あるわけないだろう!」
僕は無名の技使いだ。魔物に出くわした経験なんて、もちろん皆無。そんなことがあったら生きてここには立っていない。それでも悲鳴じみた自分の返答が情けなくて、奥歯を噛む力が強くなった。
獣の姿をした、技を使う謎の生物。それが魔物だ。普段はどこにいるのかも何が目的で出てくるのかもわかっていないが、たまに人間に危害を加えてくる。対抗できるのは技使いだが、それも実力者に限られていた。
「くっそ、オレだけかよ」
魔物を睨みつけて、カイキが舌打ちする。一人でも経験者がいるのは幸いだけど、カイキの表情を見ると楽観視はできなかった。技使いたちを眠らせたのもこの魔物なんだろうか? 一体どんな技を使ったらそんなことが可能なんだろう? 額にも拳にも汗が滲む。
「逃げるぞ」
小声で、しかしはっきりとカイキが囁いた。僕は瞠目する。魔物を目の前にしてそんな選択が可能なのか? この建物から逃げ出すと? 先ほどの動きを見ただけでもわかる。あいつは僕らよりもよほど素早いし、技の精度も高い。無謀に思えた。
「逃げるって、本気?」
「ああ、本気に決まってる。魔物相手に何の策もなく挑むなんて、オレらみたいな普通の技使いには無理だ。特に焦ってる状態なんて最悪だ」
「なるほどな、若造。私も賛成だ」
カイキは魔物を警戒しながらもそう説き伏せてきた。まあ、ここで戦おうとしても負けるのが目に見えてるなら、少しでも可能性がある方をってことか。言わんとすることは理解できる。実現度が悲しいところだけど。
部屋の隅にいる魔物は僕らの動向をうかがっているのか、じっとその場に座したままだった。それだけが救いだった。どうやら僕らをすぐさま殺すつもりはないらしい。ということは、ここに寝ている技使い同様に眠らせるつもりなのか?
疑問が僕の頭をかすめると同時に、カイキが動いた。片膝をついて右手を床に突き立てると、耳障りな音が部屋中に響く。小刻みな振動が足の裏から伝わってきた。
そして、轟音。魔物の前方の床がぐしゃりとひしゃげて、そこから土色の柱が天井目掛けて伸びた。その一部は実際に天井を突き破ったらしく、舞い上がった土やら何やらで視界が曇る。
「今だ!」
掛け声と共に、カイキが走り出す。僕も頭を守りながら続こうとし――でも根拠もなく嫌な予感を覚えて、柱の方へと手を伸ばした。次の瞬間、体を包む空気が一気に温度を上げた。薄い透明な膜越しに、手のひらへと圧力を感じる。
煙でぼやけた視界の中では、柱を突き破った業火が、僕の結界に弾かれて四方八方へと散っていた。眩しい。どこかから、サンテイスじいさんの悲鳴じみた叫びも聞こえる。
「トロンカ!」
サンテイスじいさんの姿を求めて視線を彷徨わせようとしたら、ぐいと首の後ろを引っ張られた。カイキだ。そう思った途端、集中力が切れたのか結界も消滅した。熱い。僕を守っていた薄い膜が消えると、肌で感じられる熱量もさらに増す。無意識に自分だけを包む結界を生み出していたみたいだ。となると、もしかしてサンテイスじいさんも巻き込まれた?
「ちょっとカイキ」
「助かったが、道が一本になっちまった」
僕はカイキの方へとどうにか向き直り、マントを掴んでいる手をはずした。顔を歪めたカイキが向かう先は、訓練所のさらに奥の方だった。魔物の姿は見あたらないが、あちこちで何かが燃えている。一番目立つのは元来た方の扉の前だ。これでは確かにカイキの言う通り、奥へと進むしかない。
僕もカイキに後れまいとすぐに走り出したが、足がもたついてなかなか速度が上がらなかった。何より魔物の居場所が気になって、つい辺りを見回してしまう。あいつはどこへ行ったんだ? 先ほどまであったあの鮮烈な『気』が感じられない。すると一番よく燃えている辺りに、何か白い物が落ちているのが見えた。それがサンテイスじいさんの長衣であることに気がつき、喉の奥から悲鳴が漏れる。
「ひっ……」
「いいから走れ! 考えるな!」
足を止めそうになる僕に向かって、カイキが声を荒げた。それができるなら僕だってそうしたかった。でも頭が追いつかない。混乱の出口を求めて勝手に思考する。
咳き込みながら顔を上げた僕は、魔物が柱の向こうから飛びだしてくるのを目にして、さらに眼を見開いた。この状況を意にも介していないのか、赤い光を映して妖艶に煌めく瞳は、僕らの方を見てもいない。
いや、違う。魔物が見ているのは寝ている技使いだった。シーツに火がついたのか、どんどんと燃え盛ろうとしているベッドの一つを、そいつは見つめていた。このままだと死んでしまうだろう。火に気がついて起きる様子もないというのは、深い眠りで済ませられる話なのか? 助けられるなら助けたかったが、僕らにその余裕はなかった。自分の命を守るだけで精一杯だ。
僕が奥歯を噛んだ途端、魔物は動いた。だが僕らの方へではなかった。床を蹴ってベッドの傍へと移動したその黒い体を、白い光が包み込む。
「――え?」
僕は目を疑った。黒い魔物がいた場所に、紫色の髪に黒い服の男が突如として現れた。瞬きをしてもそれは消えなかった。驚いたせいか、自分の足に躓いて体勢が崩れる。どうにか転ばずにすんだのはカイキにマントを引っ張られたせいだ。そのかわり、首もとがしまって息苦しくなる。
「ぐえっ」
「トロンカ今だ急ぐぞ!」
涙で白んだ僕の視界で、紫髪の男がベッドの上に手をかざしている。するとシーツの炎は瞬く間に消えた。水系の技か? もしくは風系? どちらにせよかなりの精度だ。
「そうだ、走れ坊ちゃん!」
その時、頭上からサンテイスじいさんの声が聞こえた。先ほどと変わらぬ調子だった。天井を見上げると、ずぶ濡れになったサンテイスじいさんが飛び降りてくる姿が目に入る。黒こげになった髪が痛々しい。長衣を脱ぎ捨てたせいか、ずいぶんと軽装だった。
「サンテイスじいさん!」
「坊ちゃんの結界は完璧だな。あいつの火はしつこいぞ」
僕らの後ろに着地したサンテイスじいさんは、そう言ってにたりと笑う。僕の気持ちも軽くなった。吐き気が落ち着いたおかげもあって、ようやく足がまともに前へ進むようになる。
その間、あの謎の紫髪の男は、次なるベッドへと近づいていた。そのシーツに燃え移っていた火も、少しずつ勢いを増しているからなのか? どうやら寝かされている人間に焼死されては困るらしい。
それをいいことに、僕らは奥へと向かう扉を目指した。もちろん、男の動きには注意を払い続けたままだ。男の手の一振りで、またすぐさま火は消し去られている。苦もなさそうだ。男はシーツを捲って中の人間が無事であることを確かめてから、僕らの方へ向き直った。
青々とした冷淡な眼差しに見据えられると、戦慄が走った。生き物を見ている目ではない。でも扉まではあともう少しだ。カイキの方へ一瞥をくれると、その腕がちょうど取っ手に伸ばされているところだった。押し開けられた扉の先は、明かりの乏しい薄暗い世界だ。先ほどの廊下と似たつくりの細い道が続いている。
もう少しだけ待ってくれ。意味なんてないだろうけど、心の中で祈る。でも残念なことに、鮮烈な『気』が動き出すのを、僕の感覚は捉えた。まずい。部屋を出かけた僕が慌てて男の方を振り返った時、彼はもうその場にいなかった。『気』を追って、僕は部屋の天井を見上げる。
喉から声にならない息が漏れた。まず認識できたのは、男の紫色の髪。そして重なり合うように落ちてくるサンテイスじいさんの姿だった。いつサンテイスじいさんが飛び上がったのかもわからない。男の動きに反応していたのか? 鈍い音と共にサンテイスじいさんの体を下敷きにして、紫髪の男が床に降りた。
名前を呼ぼうとしても、やっぱり声が出なかった。体を反転させようとする僕のマントを、またカイキが引っ張る。それでも僕の目は二人から離れなかった。片膝をついた紫髪の男が、うつぶせに倒れたサンテイスじいさんの背中へ小瓶を押しつけている。空っぽのように見える瓶は、うっすら光を纏っていた。
「走れっ」
カイキに引きずられるように、そのまま僕の体は廊下へと飛び出した。転ばないようにと気をつけるだけで精一杯だった。返事もできず、ただひたすら足を動かす。
「いいから前を向け!」
カイキが叫ぶ。それでも、僕の視線は部屋の中に釘付けになったままだった。幸いなことに、紫髪の男がすぐに立ち上がる気配はない。残念ながら、サンテイスじいさんもぴくりとも動かない。二人の姿が遠くなるのを、僕は視界の端で捉え続ける。不揃いな足音が、通路の中で響き渡った。寒々とした空気が喉に凍みた。