誰がために春は来る 第一章

第二話 別世界

 ありかは髪を梳きながら鏡に向かった。壁も天井も白い部屋の中には、鏡台と小さなベッドが二つ、それから華奢な机しかない。それでも部屋の広さだけは十分確保されており、むしろ広すぎて使いようがないくらいだった。もっと物を置けたらいいのだが、そんな金銭的余裕はない。
「今日もまた乱雲さんと?」
 不意に横から声をかけられ、ありかは振り返った。それまで気配などなかったはずだが、いつの間にか母――シイカが傍に立っていた。曇った顔で佇む姿には、少し疲れが見えている。確か先ほど水を飲みに部屋から出ていったはずなのだがと、ありかは軽く頭を傾けた。
「ええ、教育係ですから。あ、でももう一週間経ちましたから、ずっと一緒というわけじゃないですよ。仕事も本格復帰できます」
「そう? でも無理しては駄目よ。少しでも時間があるとなればこき使われるんだからね」
 眉根を寄せたシイカを見上げて、ありかは微笑んだ。シイカがここまで心配してくるのは珍しい。やはりこれだけ若い教育係など前例がないから、心配になるのだろう。
 確かにこの一週間は大変だった。乱雲を一人にすることができず、結果として彼を引き連れたまま仕事を行っていた。しかもまだ部外者扱いの彼を図書庫の奥まで入れることができないため、雑用のようなことばかり引き受けていた。宮殿中を駆け回るような日々はなかなか大変だ。
 けれどもそれも今日で終わり。彼にずっと付き添う必要はなくなった。もっとも、暇をみつけては様子を見に行き、試験対策の勉強は教えなければいけないが。
「大丈夫ですよ、もうこの仕事も慣れましたし。それにこき使われるのはいつものことです」
 ありかはわずかに肩をすくめた。宮殿で仕事が忙しいのは誰もが同じだ。暇だと思われたら別の仕事を押しつけられるなんてことにもなりかねない。だから皆は慌ただしくしている。
「それよりお母様、気を隠して行動する癖をどうにかしてくださいね? びっくりするんですから」
「それはね、感じ取れないあなたが悪いのよ」
「まあ無茶ばっかり。お母様が気を隠したら、誰が捜し出せるんですか? 私には無理ですよ」
 さりげなく話題を変えて、ありかは頬へと手を当てた。ありかや乱雲と同じく、シイカも技使いだった。普通の人間にはわからない『気』を感じ取る力が、技使いには生まれながらに備わっている。人間であれば誰しもが持っている『気』は、その性質や強さが個々人によって違う。また、それなりに実力のある技使いならばそれを隠すこともできた。
 シイカは気を感じ取る能力においても隠す能力においても、この宮殿では群を抜いていた。ありかも得意な方だが、彼女には全く敵わない。
「そんなこと言ってないで、ちゃんと訓練なさい」
「してますよ、でもこれが限界です。私には図書庫の仕事が精一杯なんですよ、お母様とは違って」
 櫛を動かす手を止めて、ありかは立ち上がった。技使いの力は遺伝とは何も関係がないから、母がどれだけ優秀な技使いであっても同じようにはいかない。それを悔しく思うこともあったが今は受け入れていた。むしろ古くさい本に囲まれて生活する今の仕事を嬉しく思うくらいだ。人に気を遣って遣われて疲れ切るくらいなら、本を相手にしていた方がいい。
「それじゃあお母様、私はそろそろ行きますから」
「気をつけなさいね」
「はい。では行ってきます」
 鏡台から登録証とカードを手に取ると、彼女は扉へと向かった。そして冷たい取っ手を握りながら、今日の予定を頭に描き出す。そろそろ乱雲もこの不思議な宮殿内の空気に慣れてきた頃だろう。さらに本格的な規則を教える頃合いかもしれない。そうしなければ、一ヶ月後の試験に間に合わなくなる。
「でも乱雲さんに、この中の仕事が勤まるのかしら? あの人優しすぎて……」
 だがふと不安が頭をよぎり、部屋を出ようとした彼女は足を止めた。ここにはぎすぎすとした空気が、人を蹴落とそうとする悪意が、蹴落とされまいとする熱意が満ちあふれている。こんな場所で生きていくにしては、彼はどうも優しすぎるように思えた。いや、繊細と言うべきか。いつも浮かべているのは穏やかな笑顔。そして時折見え隠れする自嘲気味な苦笑。そのどちらもが、この宮殿には似つかわしくなかった。彼には『外』の世界の方があっている。それなのに、何故こんなところへ逃げ込んできたのか。
「そうよね、それがわからないのよね」
 呟きながら扉を後ろ手に閉め、ありかは廊下へと一歩足を踏み出した。無機質な床に、乾いた靴音が固く響いた。



「あ、乱雲さん」
 図書庫へと向かって歩いていると、前方に見知った背中が見えた。ありかは歩調を速めつつ声をかける。振り返った乱雲は朗らかに微笑むと、軽く片手を上げた。
「ありかさん、おはようございます」
「おはようございます。乱雲さん、もう朝食は取りましたか?」
「ええ、おかげさまで食堂の使い方も覚えたので。でもまだまだ把握できないことばかりですよ。順応性がないのかなあ」
「そんなことないですよ。ここに来たばかりの人はみんなそう言いますから。乱雲さんだけではないです」
 照れたように頭を掻く彼へと、彼女は控えめな微笑を向けた。そういった話ならよく聞く。あまり宮殿の外へ出たことがない彼女は実際に確かめたわけではないが、もっと外は自由で気ままな世界だと聞く。決まりというものが乏しいのだ。だから宮殿での生活に慣れるには、やや時間がかかってしまう。
「あ、そうだ。昨日言い忘れたのですが」
 彼の隣に並ぶと、彼女は軽く手を叩いた。朝目覚めた時に言おうと思っていたのに、準備をしているうちにすっかり忘れてしまっていた。
「何かあったんですか?」
「今週末に実力試験があるそうです。乱雲さんも参加することに決まりましたから、お伝えしようと思って」
「実力試験?」
 彼は首を傾げた。聞き慣れない単語だったのだろう。ありかは頷きながらどう説明すべきか考える。いつもそうなのだ。自分が当たり前だと思っていたことが当たり前でないことに、彼と接していて気がついた。互いに、それこそ見知らぬ世界で生きてきたようなものだった。説明する言葉一つとっても、その問題は絡んでくる。
「この宮殿には外回りと呼ばれる仕事があるんですよね。そこに就くのは、一定以上の実力を持った技使いだけなんです。そのラインを超えているかどうかを確かめるのが実力試験」
「外回りの仕事、ですか?」
「はい。宮殿を出て行う仕事は全てそう呼ばれているんです。よくあるのが違法な結界の除去とか、各町の長からの要請による応援とか。あ、ワープゲートの見張り番もそうですね」
 彼の表情を盗み見ながら、彼女はそう説明した。彼の顔に理解の色があれば大丈夫だが、訝しげに眉根が寄れば言葉を付け足す。最近は慣れてきたのか、彼が疑問に思うだろう単語も予想がつくようになってきた。そういう場合は最初から詳しく説明しておくのが手っ取り早い。
 そんな風に彼の様子をうかがいながら言葉を継いでいると、一つ気づくことがあった。ふとした拍子に彼の瞳が寂しげに細められるのだ。それは話の内容とは関係なく、また会話している場所にもよらない。まるで何かを思いだしているかのように……実際思い出しているのだろう、儚い気配ともいうべきものが彼から滲み出ていた。ただ彼が何を考えているか、問いかけたことはない。
「ああ、なるほど。あ、でもオレなんかがそんな仕事に就いても大丈夫なんですか? その……オレはまだ正式には認められていないんですよね?」
 しかし続く彼の疑問が彼女の思考を遮った。彼女は安堵させるように相槌を打つと、右手の人差し指を立てて軽く振る。
「それは心配いりません。外回りの仕事は『上』の秘密主義にはひっかかりませんから、誰でもできるんですよ。私もあまり重要なことは任せてもらえないんですが、外回りは時々行ってますし」
 彼女が笑いながら説明すると、さらに彼は不思議そうに首を傾げた。何か問題があっただろうかと、彼女は内心で困惑する。自分の口にした言葉を思い返してみても、彼が疑問に思うことはないはずだった。
 上の秘密主義に関しては、彼もこの一週間でよくわかっているはずだった。誰もが何もわからずに、しかし見えない規則に囚われるように、疑問を口にせずにいる。この宮殿に住む――外ではジナル族と呼ばれているのだが――者たちでさえ、自分たちが何のために縛られているのか理解していない。無論、上が何のためにそんな規則を作り出したのかも知らなかった。ただ自分よりも上の者の言葉を、黙って聞いているだけだ。その先の先の先にある本当に一番『上』が何を考えているのかは定かでない。しかしどこかで情報が制御されているのは確かだった。ただ詮索すればよくないことが起きるのだと思い、皆はそのことに対して口をつぐんでいる。
「……ありかさんでも、重要なことは任されていないんですか?」
 躊躇いながら問いかけられて、ようやく彼が何を訝しげに思っているか理解できた。思わず足を止めてしまった彼女はくすくすと笑い、口元に手を当てる。彼は何を勘違いしているのだろう。それもこれも教育係などという不相応な仕事をもらってしまったためか。
「乱雲さん、私はここでは相当の下っ端ですよ? 確かに乱雲さんに向かって偉そうに色々喋ってますが、実際は本質的なことは何も知らないんです。ただ生まれた時からここにいるから、ここの規則が染みついてるだけで」
 彼もつられて立ち止まった。そして振り返って彼女を見ると、目を丸くする。その様が、動揺ぶりがおかしくて、彼女の口元はさらに緩んだ。
 きっと彼にとっての『上』が今は彼女なのだろう。そう考えると不思議な気分だった。彼女はずっと皆の言うことを聞くばかりで、自分が何かを言い渡すことなどほとんどなかった。まだ二十にもならない、ほんのちょっと技が使えるだけの少女に任されることは少ない。人よりも古文書の解読が得意だから図書庫の仕事をしているが、それだって言われた通りに解読をしているだけ。何故その本が重要なのかはわからなかった。けれども彼女より何も知らない彼にとっては、彼女が上の存在なのだろう。
「だから乱雲さん、これからは私のことはありか、って呼んでくださいね」
「え、ええっ?」
「私も乱雲、って呼びますから」
「あ、え、その……」
「駄目ですか? あ、違う。駄目?」
 彼女は悪戯っぽく笑って彼を見つめた。彼はこれから、この窮屈な宮殿で生活しなければならない。ここに順応しなければならない。しかし、このぎすぎすとした空気に染まって欲しくなかった。少しでものびのびとして欲しかった。何故ここへ来たのかはわからないが、それでも彼の繊細な何かを壊したくはなかった。ならばせめて彼女といる時だけでも縮こまらないで欲しい。『上』の数など、できるなら少ない方がよかった。
「いや、そういうわけには……」
「私が教育係だから? 大丈夫、そんなの一ヶ月くらいのことよ。あ、どうしても嫌だって言うなら教育係として命令するからね」
 彼女がそう告げると、渋々と彼は頷いた。その様子がまるで困った奴だなと言っているみたいで、彼女は少し嬉しくなる。それがきっと普通の反応なのだろう。
「じゃあ私は食堂へ行くから。乱雲はこのまま真っ直ぐ進んでいつもの勉強部屋に行ってね。私も後で向かうから」
「え……あ、ああ」
 呆然と立ちつくす彼を横目に、彼女は歩き出した。十字になった廊下を左に曲がり、食堂へと繋がる階段を目指す。彼はまだその場に佇んでいるようで、その『気』が動き出す様子はなかった。
「これくらいしないと駄目よね、きっと」
 彼女は自分に言い聞かせるよう呟いて、意気揚々と歩いた。はためく長いスカートが足に絡みつくも、重くは感じられなかった。



 図書庫での仕事に一段落つけると、ありかは急いで勉強部屋を目指した。そこには主に勉学に励む子どもと、乱雲のように試験勉強に取り組む大人が集っている。もっとも現在大人で試験を控えているのは、彼くらいのものだったが。
「乱雲、調子はどう?」
 部屋へと入り彼の傍に寄ると、彼女はそう問いかけた。白い壁に白い天井、机が幾つか並んでいるだけの簡素な部屋には、彼と数人の子どもたちがいる。いつもより静かなのは、子どもたちも試験を控えているためだろう。
 彼は椅子に座ったまま彼女を見上げると、困ったように微笑んで首を横に振った。それがこの口調に対する反応なのか、勉学に対するものなのかはわからない。彼女は彼の隣にある椅子を引いて腰を下ろすと、机に向かった。そこには一冊の問題集が載っている。何度も使われたためか、かなりぼろぼろになっていた。
「この問題集難しすぎたかしら?」
「いや違うよ。オレが物覚え悪いだけで」
 うーんと彼女が唸ると、彼は慌てて手をぱたぱたとさせた。やや口調がぎこちないが、一応命令を守ろうとしているようだ。そう考えると何だか嬉しくなる。本当は命令無しで実行してくれればいいが。
「そんなことないわよ」
 彼女は問題集から目を離して顔を上げた。だが彼の視線はもう彼女へ向けられてはいなかった。その先を追ってみると四歳くらいの男の子の姿がある。必死に本を読みながら眠い目をこすっていた。
 まただ。彼女は胸中で呟いた。この勉強部屋にいると、彼はいつも小さな男の子を目で追いかけている。おそらく規則が頭に入らないのもそのためではないだろうか。彼女は嘆息すると、わざと音を立てて問題集を閉じた。
「え、あれ?」
「乱雲、本当に勉強する気あるの? あなたここにいるとずっとよそ見してばかりじゃない。そんなに小さな男の子が気になるの?」
 音に気づいて振り返った彼は、彼女を見つめて慌て始めた。怒っているのが伝わったのだろう。「いや、その、それは」と言葉にならない言い訳を繰り返して、口を何度もぱくぱくとさせている。
 彼に妙な嗜好があるとは、彼女は考えたくはなかった。だがこうも勉強に集中できないのでは、何か対策を講じなければならない。少なくとも部屋を変える必要はあるだろう。後で空いた部屋があるかどうか、総事務局に問い合わせなくてはならない。
「何か理由でもあるの?」
 そのことを考えて重い気持ちになりながら、彼女は静かに問いかけた。しどろもどろになった彼は、部屋の隅から隅へと視線を彷徨わせている。それでも何も言わずに待っていると、彼は意を決したのか細く息を吐き出し、真っ直ぐ彼女を見つめてきた。彼女は固唾を呑む。
「オレ、ずっと小さな男の子の面倒見てきたんだ。だからつい癖で目で追っちゃうんだ。何か危ないことしてないかなって」
「……え?」
「甥っ子の面倒、見てたんだ。なのにオレ、置いてきたんだ。何も言わずに飛び出してきたんだ。だから、どうしても気になっちゃって」
 唐突な彼の告白に、彼女は口にすべき言葉を失って凍りついた。寂しげで痛々しい声が、強く耳に残った。

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