誰がために春は来る 第一章
第六話 最低
ベッドに座りこんだありかは俯きながら嘆息した。日付が変わろうという時刻だが、まだ母――シイカは戻っていないらしい。一人きりの部屋はやや肌寒かった。腕を抱えるようにして、彼女はゆっくりと顔を上げる。
「私、上手くやれてる?」
誰に問いかけてるのかわからない言葉が、自然と口から漏れた。乱雲がヤマトへ赴いてから数日が経った。彼はすぐに回復し、今日も外回りの仕事に駆り出されている。彼女がこっそり総事務局へ報告したせいか、その後ヤマトへは派遣されていないようだった。そのおかげか精神的にも落ち着いてきている。もっとも勉強ははかどっていなかったが。
「ちゃんと隠せてる?」
あれ以来、彼が気になって仕方がない。彼が勉強している時は視線を感じずにすむが、そうでなければその黒い瞳に見つめられる度に鼓動が速まる。
あの後シャープは何も言ってないらしく、噂が広まることもなかった。ただ彼女の思いだけがまるで宙に浮いてるようで、苦しくて仕方がない。
教育係としての仕事が終われば解放されるはず。だが解放されれば彼と共にいる時間は少なくなる。彼は正式なこの宮殿の住人として認められ、彼女の役目はなくなる。一緒にいる理由がなくなる。
彼女は瞳を閉じた。自分でもその日が来るのを恐れているのか待ち望んでいるのかわからずに、この気持ちを持てあまし続けていた。今までの自分がどこかへ消え去ってしまったみたいだ。
「ありか?」
すると突然名前を呼ばれ、彼女は慌てて立ち上がった。扉を開けたままの状態で首を傾げているのはシイカだ。いつの間にか帰ってきたらしい。左手に幾つもの書類を抱えたシイカはベッドへと近づいてくる。
「どうかしたの? ありか」
「えっと」
「気が乱れてるわよ」
シイカのか細い手がありかの額へと伸びてきた。それは懐かしい仕草だった。幼い頃はよくこうして心配かけたものだ。だが今はどう反応していいかわからず、ありかは眉根を寄せる。乱雲のことを話すわけにもいかないし、勘づかれてもいけない。
「お母様、遅かったんですね」
「そうなの、最近忙しいのよね。リシヤの方がなかなか不穏で」
「え、じゃあリシヤに?」
ありかはドキリとした。額から手を離したシイカは、頷きつつベッドに座りこむ。かなり疲れているらしい。落ち着いて見てみると、目元にも疲労の色が強く滲み出ていた。気も、やや乱れている。
リシヤはシイカが飛び出してきた町だ。その事実を考えると、先日の乱雲の様子が脳裏に浮かんできた。シイカはリシヤへと足を運んでも平気なのだろうか? 迫害されるようにして逃げてきた町へ行っても、動揺しないのだろうか? 少し気になる。
「そう、昨日も今日もね。あそこには妙なくらいに結界があるんだけれど、それが何だか弱まってるらしくてねえ。困ったものだわ」
シイカはそう言って手を軽やかに振ってから、数回咳き込んだ。最近咳が多い。それは当人も自覚しているらしいが、検査では何もひっかからなかった。ありかはその背中を撫でながら眉をひそめる。
「お母様、疲れが溜まるとまた体調を崩しますよ」
「でも休むわけにはねえ。仕事しないとここにはいられないでしょう? まだまだ隠居するには早いし」
苦笑するシイカの言葉に、ありかは全く反論できなかった。この宮殿で暮らすためにはそれなりに働かなければならない。そこから解放されるためには、もう少し年を重ねる必要があった。
「そうだ、ありか。確か乱雲さんは明日試験よね?」
すると話題を変えようと思ったのか、シイカはありかの手を除けてそう尋ねた。ありかは首を縦に振ると、どう答えるべきか言葉を選ぶ。
「ええ、明日です」
「大丈夫そうなの?」
「だと……思うんですが。最近仕事が忙しいらしくて」
「あらまあ、若い男性は重宝するからねえ。それじゃあ教育係も大変だわ」
シイカはくすくすと笑ったが、ありかは笑える気分ではなかった。乱雲のことを、試験後のことを考えるだけで胸が痛くなる。そして自己嫌悪に襲われた。
「それじゃあ早く寝ないとね。教育係がぼんやりしてたらまずいでしょう?」
そう言ってシイカは立ち上がり、書類を手にしたまま机へと向かった。ありかはその後ろ姿を物憂げに眺めた。
「じゃあ乱雲、私は仕事に戻るけど頑張ってね」
試験会場となる小さな会議室の前。立ち止まったありかは、できる限りの笑顔を浮かべて手を振った。扉を半開きにしたままで、乱雲は肩越しに振り返る。その顔にはわかりやすいくらい不安が表れていた。
個室で試験官と二人きり。その場で採点、そして結果報告。それが移住者試験の方法だった。聞かされた彼の顔が青くなったのも無理はないだろう。そこには教育係も入ることを許されず、肌に突き刺さるようなピリピリとした空気だけが流れていると聞く。
「ああ、頑張ってくるよ」
「終わる頃には戻ってくるから」
「うん、待ってる」
乱雲はほんの少しだけ口角を上げた。囁くような声にも不安を押し殺そうとする笑みにも、鼓動が小さく跳ねた。重症だなと彼女は自覚する。
彼が試験に合格すれば、二人を結びつけていた教育係という楔はなくなる。彼は一人前と認められ、彼女は普段の生活へと戻る。そんな当たり前のことが、どうしてこんなに気にかかるのか。心配になるのか。複雑な気持ちが外に出ないよう努力するのは大変なことだった。
部屋の中へと体を滑り込ませる彼を、彼女は手を振りながら見守った。別れ難そうに中へと進んだ彼は、ゆっくり後ろ手に扉を閉める。ほとんど音はしなかった。白い壁の中へと埋もれた扉を彼女はじっと見つめる。
ここが開かれた時、全てがわかる。彼女は大きくため息を吐くと、もと来た廊下を歩き始めた。結果がわかるまで二時間程かかる。それまでにできる限り図書庫の仕事を済ませなければならなかった。教育係に選ばれたからといって、優遇してくれるようなことはない。
けれども図書庫に行っても、仕事がはかどるわけもなくて。嘆息しながら時計を見上げる。そしてまた書類へと目を落とし、しばらくもしないうちにため息を吐く。仕事場にこもった彼女は、そんなことを繰り返していた。
時間感覚のない部屋の中でも、時計の音がやけに耳につく。人工的な明かりの下で書類を捲りながら、彼女は何度も天井を仰いだ。もしここに窓があれば日が燦々と輝いている頃だろうか? 試験時間はもう終わったはずだ。採点中のはずだ。そんなことを思いながら、彼女は机の上を指で叩く。
「駄目ね、私も」
このままここにいても仕方がないと、彼女は判断した。もしかしたら採点が早く終わるかもしれない。もしかしたら彼がもう待っているかもしれない。
そう言い聞かせるよう胸中で呟くと、彼女は立ち上がった。慌てたためか、後ろへ押し出された椅子が耳障りな音を立てる。しかしそんなことは意に介さず扉まで寄ると、彼女は壁際のパネルに手を置いた。音を立てずに電気が消え、部屋の中は瞬時に暗くなる。彼女は取っ手を探り出して扉を開け放った。そして薄暗い廊下へと飛び出す。歩調は速かった。
「乱雲」
自然と口からこぼれた名前に、思わず彼女は苦笑した。自分はどうかしてしまったのではないかと思う。まるで病気だ。仕事も手に着かなくなる、たちの悪い病気。
慣れた道を早足で歩き続け、彼女は小さな会議室を目指した。この宮殿には幾つも会議室があり、外から来た人なら間違いなく目指した場所へは辿り着けない。だがここで育った者には、それは容易なことだった。幼い頃から間違えては叱られ続けて身に凍みたものが、本能に染み込んだものがその判断を可能にする。
「あった」
乱雲と別れた会議室の前へと、再び彼女は戻ってきた。相変わらず無愛想な白い壁に白い扉。廊下の空気さえどこか拒絶的で、季節に似合わない冷たさを含んでいる。
「やっぱりまだだったみたいね」
扉は閉まったままだったが、中から乱雲の気を感じた。彼はまだここにいる。ありかは壁に背を預けて大きく息を吐き出した。聞こえないはずのペンの音が聞こえてくるような気がする。
受かっていますように。彼がこれ以上傷つくことがないよう、落ち込むことがないよう。
落ちていますように。離ればなれになりたくないから。ただの他人にはなりたくないから。
相反する気持ちを抱えて、彼女は自らの腕を抱いた。シイカから譲り受けた空色の上衣が触れ合って、さらさらと音を立てる。自分の濁った気持ちとは裏腹なその服を、彼女は静かに見下ろした。これは全てを見通すシイカにこそ似合うもので、常に迷っている彼女には不釣り合いに思える。
「本当、嫌になっちゃう」
彼女は強く唇を噛んだ。彼と出会って自分の嫌なところばかりが目に付くようになった。それまで信じてきた自分という存在が、全て粉々になってしまったようだった。
腕を抱えたまま彼女は待った。廊下を行く人々の視線を無視して待ち続けた。床の一点を凝視したまま、濁った思いを押し隠すようにじっと冷たい壁にもたれかかる。そうしていると、少しは渦巻く思考も澱みが薄らぐような気がした。
「あれ?」
そうやってどれくらい経っただろうか。乱雲の気が揺れたことに気づき、彼女は顔を上げた。それまで全く変化のなかった気が、ほんの少しだけ不安定になっていた。
「乱雲?」
彼女は壁から背を離して扉を見つめた。その奥で何が行われているのか、一体何を言われているのか。彼女には知る術がない。
終わったのだろうか? 息を呑みつつ、彼女はそのまま待ち続けた。扉が開くまでの時間が長く感じられた。実際は数分だったのだろう。しかしまるで何時間も待たせられているかのように思えた。次第に鼓動が高鳴っていく。
受かったのか? 落ちたのか? 自らに問いかけてももちろん答えは返ってこない。彼女はスカートの裾を強く掴んだ。すると白い扉が、ゆっくり音もなく開いていく。
「乱雲」
彼女はそっと声をかけた。中から足取り重く出てきたのは乱雲だった。俯いた顔がそろりと上げられて、覇気のない黒い瞳が彼女の姿を捉える。
「あ、りか」
「乱雲?」
「悪い、オレ、落ちちゃった」
「え?」
言葉少なに彼は語った。そして自嘲気味な笑みを浮かべた。よく見かけていた頼りない微笑なのに、いっそう力無く痛々しく目に映る。伸ばしかけていた手を彼女は下ろした。今は触れてはいけない気がして、強ばった指先がかすかに震える。
「もう一ヶ月だけ延長だってさ。今度は少し仕事も減らしてもらえるみたい」
「ほ、本当?」
「悪い。また迷惑かけることになるんだよな」
「そんな、の」
「本当に悪い。次は頑張るから」
彼女はそれ以上何と言っていいのかわからなかった。自分の気持ちもわからなかった。あと一ヶ月は彼と共にいられる。その事実が嬉しくもあり、しかし落ち込む彼の姿は胸に突き刺さって仕方がない。
気にしないでと、傍にいられて私は嬉しいのだと、そう言えたらどんなによいか。そう言えたら、きっと彼の胸に宿った重みも少しは軽くなるだろう。迷惑をかけているという意識が和らぐかもしれない。
だが言えない。そんなことを口にしたら、彼は困惑してしまう。そしてひょっとしたら教育係を止めさせられるかもしれない。
「次は頑張るから、またよろしくな」
「え、あ、うん」
「じゃあオレ、次の仕事が入ってるから」
彼は彼女の横を擦り抜けた。重い足取りのまま去っていく姿を、彼女は瞳を細めてじっと見つめる。かけるべき言葉を探し出せず、ただ見つめることしかできなかった。口元に苦い笑みが浮かぶと同時に、呟くような声が漏れる。
「私って最低」
覚える胸の痛みさえ滑稽で煩わしかった。彼女は血が滲むくらい、唇を噛んだ。