マジシャンのいる部屋3  新春編

 コンビニ弁当を片づけると、自然とため息がもれた。今日で四日連続あのコンビニに通っている。そろそろ顔を覚えられたんじゃないのかな、なんて思うとさらに憂鬱だった。
「クレのせいだ」
 私はつぶやいた。
 家に両親がいないのはもう当たり前のことで、今日も残業で遅くなるらしい。新聞でも騒がれているけど、過労死とか大丈夫なのかな? ほんのちょっとだけ心配になってくる。
 でもこの一、二ヶ月、私は夜も一人きりじゃあなかった。ある日突然やってきた変態マジシャンことクレッシェンドが、毎晩家にやってくるのだ。
 ご飯作ってくれるしマジック見せてくれるし。とにかくクレッシェンド――クレといると退屈じゃない。格好が変なのを除けばすごくすごくいい人なんだ。
「クレの料理食べたいなー」
 部屋へと戻りながらも、口をついて出るのはクレのことばかりだった。だってお母さんたちがいない時はいつも来てたのに。それなのにこの四日間、クレは顔を見せないんだもん。
 やっぱり年末は忙しいのかな? 一応マジシャンだもんね。でもクリスマスの時だって暇だって言ってた。急に来なくなるなんておかしいよ。
「ひょっとして実家に帰っちゃったとか? そう言えばクレの家族の話とか聞かないもんなあ。一人暮らしなのかなあ。あー、でも一人だと暇。クレがいたら、何かマジック見せてもらえるのに」
 部屋に入ると、私はベッドに飛び込んだ。冷たいシーツがさらに気持ちを悲しくさせる。時計の音がやけに耳に強く響いた。
 クレが来る前は、ずっと一人だったのに。
 それなのにその頃の自分が何してたのか全然思い出せなかった。昔の私は何してた? テレビ見てた? 漫画読んでた? それとも早く寝ちゃってたとか?
「覚えてないや」
 電気をつけるのも面倒で、私は暗闇の中天井を仰いだ。カーテンの閉まってない窓からは月明かりが差し込んできている。外の木の枝か何なのか、天井にはうっすらと影が映し出されていた。
「今日も早く寝ちゃおうかなあ」
 確か今日でお父さんもお母さんも仕事納めって言ってたし、明日は家にいてくれるはずだ。一緒に大掃除でもしよう。そうだ、自分の部屋も片づけよう。
「クレがいない夜なんてつまんない。早く明日になーれ」
 瞼を閉じても寝られる気はしなかったけど、私は枕を抱きしめた。年末なんて嫌い、とつぶやきながら。



 結局クレと会わないまま、年越しを迎えた。元旦からお母さんもお父さんも忙しくて、私はやっぱり一人になった。
 昼ご飯はどこかで買って食べてね(みやこ)、だって。
「誰さ、元旦から仕事し始めたのって」
 あまりに暇だったので、私は家を出てその辺をぶらぶらとし始めた。最近は近くのスーパーも元日から営業してるらしい。そこなら暇つぶしになるかもしれない。
 本当日本人って仕事好きだよね。誰か一人が始めたらみんな同じことするし。やっぱり仲間はずれにされるの嫌なのかな? 自分だけ休んでると不安になるのかな?
 俯きながらとぼとぼと歩くと、風が頬に突き刺さった。思わずマフラーを口元まで上げる。やっぱり家にいればよかったかもしれない。
「ん? 何?」
 歩き続けると、何やら賑やかな声が聞こえてきた。足早に近づいてみれば、スーパーの前に人だかりができていた。特に小さな子どもが多い。
 催し物かな?
 私はその輪の中に加わった。中へとどんどん進んでいく。
「あっ」
 だけど私は立ち止まって、小さく声をもらした。広場の真ん中には白いタキシードを着たマジシャンがいた。何やら準備してるみたい。けれども私の目を奪ったのは彼じゃなかった。
 クレがいる。
 場を繋ぐためだろうか、傍にいる男の子にトランプを見せて何かしてるのは間違いなくクレだった。あの変な仮面に黒いシルクハット。しかもステッキまでいつも持ってる奴だ。
 そっか、この日のためにきっと練習してたんだ。だから忙しくて来られなかったんだね。
 私は寂しいけれども納得した。白いタキシードの人もまだ若そうだから、たぶん師匠ではないだろう。きっと兄弟子さんだ。
 でも、その日のクレはいつものクレじゃなかった。
 顔は強ばってるし何度やっても失敗ばかり。成功したのはシルクハットから薔薇の花を取り出すのだけだった。クレがいつも見せてくれるお得意の奴。
 こんなの、クレじゃない。
 いても立ってもいられなくて、私は逃げるようにそこを後にした。駐車場を抜けて歩道まで出ると、後ろから大きな拍手が聞こえてくる。
「え?」
 私は振り返った。でも拍手を受けてるのはクレじゃなかった。白いタキシードを着たマジシャンが、嬉しそうに何か喋っている姿が見える。
 本当はクレだってすごいのに。
 何だか泣きたくなってどうしようもなくて、私は俯いた。こんなに悲しかったのは、久しぶりだった。



 元旦の夜も、クレはやってこなかった。私は部屋の窓から顔を出して、外をぼーっと眺める。
 今日のクレはどうしちゃったんだろう? 何で失敗ばっかりだったのかな。やっぱり、人前は苦手なのかな? 自分は駄目だっていつも言ってたし。
 寒いけれど窓を閉める気にはなれなかった。もしかしたらクレが突然、やってきてくれるかもしれない。最初の時と同じように、ふっと突然この部屋に現れるかもしれない。
「いや、違う」
 私は立ち上がった。窓を閉めると時計を確認する。今は七時、お母さんやお父さんが帰ってくるまではまだ時間がある。急いで階段を下りるとコートを羽織り、私は外へと駆けだした。
 クレは、きっとあそこにいるはずだ。
 白い息を吐いて私は走った。体育の授業でだってこんなに一生懸命になったことはないかもしれない。
 でもクレは、きっとあそこにいるはずだ。今もいるはずだ。私を最初に見かけたといったあの川原。そうだ、初めてあった時、クレはスランプだったって言ってた。
 頬に突き刺さる冷たい風も今は気にならなかった。ただひたすら川原目指して全力で走る。何度かよろめきそうになったけど、それでも走り続けた。
 いた!
 小さな川原、その真ん中にクレが座り込んでいた。薄暗くてわかりづらいけど、でも頭の形はシルクハットに違いない。こんな時間にそんな格好でいるのはクレだけだ。
「クレ!」
 私は力一杯叫んだ。影がびくりと反応して、立ち上がった。
 やっぱりクレだ。
 振り返ったその顔には見慣れた仮面、そして手にはステッキが握られていた。
「み、みやちゃん?」
「クレの馬鹿! 何で来てくれないの? 一人でこんなところで落ち込んでさ。すっごい心配するじゃない」
 石段を駆け下りると、目を丸くしたクレは私をじっと見つめた。信じられないって顔だ。仮面つけてたってそれくらいはわかる。
「どうしてみんなに向かって、私の前でやったみたいにしないの?」
 そう言うとクレは体を強ばらせた。ステッキを握る手の力が強くなって、不自然な位置でそれが止まる。
「みやちゃん……見てたの?」
「見かけたの。ねえクレ、私は知ってるよ? クレがすごいってこと。クレのマジックが一流だってこと。だから自信持ってよ。みんなにも見せてあげてよ」
「無理だよ」
 クレは力無く笑った。首を横に振って悲しそうに笑った。部屋でマジックを見せてくれる時とは違う、すごく切ない表情だ。
 そんな顔しないでよ、私まで泣きたくなるじゃない。
「きっと明日も失敗する」
「しないよ! じゃあ明日は私のために見せて。私だけのために、いつもみたいに」
 ステッキを持った手を、私は握った。薄い手袋をしてるけどすごく冷たい。きっと長いこと外にいたんだ、落ち込んだまま。
「みやちゃん?」
「明日行くから。だから他の人見ないで私だけ見て。いつもみたいに笑顔で得意げに、薔薇取り出してよ」
 堪えきれずに涙が溢れ出した。何で私までこんなに悲しいのかわからないけど、それでも止まらなかった。手でこすろうとするとそれを押しとどめて、クレの指が涙をぬぐう。こういう仕草はやっぱりキザだ。
「わかった、じゃあ明日はみやちゃんのためにマジックをするよ」
 そう言う声はさっきみたいな悲しげじゃなくて、すごく優しくて温かだった。私は何度も何度も、首を縦に振った。



 次の日、約束通り私はスーパーの前にいた。特別な会場が用意されてるわけでもない店の前、小さな台に乗って白いタキシードのマジシャンが立っている。
 その傍にクレがいた。
 いつもの黒いシルクハットに奇妙な黒い服、ステッキ。そしていつもの笑顔だった。
 クレの手が動く。シルクハットを手にとって抱え、悠然とお辞儀をする。兄弟子らしいマジシャンは準備をしていて、まだマジックをする様子はなかった。
 何も言わずにクレはシルクハットから赤い薔薇を取り出す。それをくるりと一回転させると、一瞬で白い薔薇になった。
「おおっ!」
 それまで遠巻きに見ていた買い物客から声を上がった。喜んだ子どもが近づいてくる足音がする。それでも私はじっとクレを見つめていた。
「見て見てー手品」
「手品だ!」
 数人の子どもが私の前に飛び出した。クレはにこりと微笑んで今度はシルクハットからトランプを取り出す。子どもたちの歓声が上がった。けれどもクレが時折見てるのは、私だけだった。
 そう、これは私のためだけのマジックショー。
「でもやっぱりその仮面は変態だと思うけど」
 聞こえないよう小さくつぶやくと、笑いを堪えるのが大変だった。得意げな指使いもどことなく変態っぽい。でもね、クレはやっぱりこうでなくちゃ。
「すごーい!」
「すごいすごいっ!」
 小さな拍手が続いた。私も小さく拍手した。周囲からも大人たちが集まってきて、後ろに人だかりができはじめる。
「やったね、クレ」
 笑顔を向けると、クレは白い一輪の薔薇を空高く放り投げた。それは花びらをピンクへと変えながらゆっくりゆっくり落ちてくる。まるでドラマのスローモーションみたい。
 私はその薔薇を、受け取った。

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