ご近所さんと同居人
第五話 「告白」
葉の囁きに混じって足音が聞こえたのは、どれくらい経った頃だろうか。服に染みが付かないよう手で涙を拭い、瑠美子は顔を上げた。泣いたためにぼんやりとした視界に、人の姿がかろうじて映る。まだ距離はあるが、人間であることには間違いなかった。慌てて瑠美子は立ち上がり、スカートの裾を直す。
周囲の風景に紛れ込みそうな草色の服。だが綺麗な青銀の髪はその存在を主張し、緩やかに風になびいていた。彼女ははっとして息を呑む。あれはソイーオだ。
「ど、どうしてソイーオさんが」
彼が何故こんな所にいるのか。疑問に思うと同時に逃げたくなって、彼女は辺りへと視線を彷徨わせた。こんな姿を見られたくない。だがもし彼女だと気づかれていたなら、ここで逃げるのは変だった。避けられたと思われるのは困る。
「どうしよう」
泣いていたことがばれるだろうか? 自分の顔がどんな風なのかわからず、彼女はその場でおろおろとした。しかし無情にも、彼が近づく気配は増すばかりだ。いや、それどころか小走りする足音まで聞こえてくる。彼女は仕方なくのろのろと視線を上げた。走り寄ってきた彼は、少し息を切らせていた。
「ルミコさんっ」
「ソ、ソイーオさん、どうしてここに?」
「それは、僕の方が聞きたいんですが。僕はちょっと、この腕輪の能力を試してみたくて。それで人のいないところにと思って」
どうやら人気のない場所を求めていたのは同じらしい。彼女は何とか微笑を浮かべると、「そうなんですか」とだけ答えた。まさかそれが同じ日の、同じ時間になるとはなんて偶然だろう。いるのかいないのかすら定かでない神様を、彼女はつい恨みたくなる。
うかがうような眼差しをして、彼は眉根を寄せた。そしてかすかに躊躇した後、彼女の顔をのぞき込んできた。近い。涙の跡を見られたくなくて、彼女は思わず後退りする。木々の揺れる音だけが満たす中、また空から甲高い鳥のさえずりが聞こえてきた。
「ルミコさん……何かあったんですか?」
彼は端的に尋ねてきた。数度しか会ったことのない彼にも、やはり彼女の様子はおかしく映るようだ。何と返事したらいいのか困惑して、彼女は小首を傾げた。
「いえ、何でもないですよ」
「何でもないわけ、ないでしょう。それとも僕には言えませんか?」
「そ、そういうわけじゃあないんですけど」
まるで彼だから言えないのかと聞かれたようで、彼女は首を横に振った。しかしこう答えれば、では何があったのかと聞かれるのが普通だろう。うまく誘導されてしまった気がする。瑠美子は瞼を伏せて思案した。
異世界人としての話ならば、彼にも関係ないわけではない。しかし流されてきてすぐの彼に、悲観的な情報を与えるのは躊躇われた。魔法を封じる腕輪をつけられただけで、十分彼には負担となっているだろう。いや、見知らぬ世界にいるということ事態が、苦痛なはずだった。ここでさらに彼を落ち込ませるのは、やはり気が引ける。
「そういえば」
「……はい?」
「いつもと違う恰好ですね。この世界では見かけたことない服です。僕の世界では一般的なものでしたけれど」
「お、お見合いがあったんですっ」
そこで突然話を変えられて、慌てて彼女はそう答えていた。答えてからしまったと後悔し、内心頭を抱えたくなる。言い訳したい気持ちになって、つい口走ってしまった。これではお見合いで何かあったのだと、告げているようなものだ。案の定、何か想像したのか彼の顔がわずかに曇る。
「そこで、辛いことが?」
「な、何もないですよ。ちょっとその、失敗しちゃって。そう、そうなんです。私って人付き合い下手だから」
「人付き合いが下手な人が、初めて会った僕に、食べ物をくれたりしないと思いますが」
乾いた笑いを浮かべると、彼は鋭いところをついてきた。どんどん逃げ道が潰されている。墓穴を掘っているだけな気もするが、彼は追及するのが上手いのだろう。彼女は観念すると、肩を落としてため息をついた。いくらこの世界に慣れていないとはいえ、彼の方が年上なせいだろうか。ごまかせる気がしない。
「相手の方が、異世界人に偏見を持ってたみたいで。私のことを言ってたわけじゃあないんですけどね。でもそれが耐えられなくなって、飛び出して来ちゃったんですよ」
ならばできるだけ衝撃を与えないように、柔らかく伝えればいい。彼女は近くの草むらへと視線を向けて、できるだけ重く聞こえないようにそう告げた。そう、悪いのは彼女だ。勝手にカハティスの言葉に傷ついて、逃げ出してきたのは彼女だ。自分に自信がある人ならば、あんな発言など一蹴できただろう。強い女性ならば。
「偏見ですか?」
「図々しい異世界人は嫌いみたいで」
「ルミコさんは図々しくないでしょう」
「何の役にも立たないのにヌオビア人の顔するのが、図々しいみたいなんですよ。ソイーオさんみたいに特別な力がある人なら、いいんでしょうけれど」
それでもついつい愚痴っぽくなるのは、心が弱っているせいなのか。口にしてしまってから自分の言動を振り返り、彼女はげんなりした。これでは慰めてくれと言外に叫んでいるようなものだ。つくづく駄目な人間だと自己嫌悪したくなる。彼女はまた小さくため息をついた。
「ルミコさんが役に立たないなんて、そんなことないですよ。あんなに美味しい料理が作れるのに」
「ありがとうございます、ソイーオさん。そのお気持ちだけ受け取っておきますね」
やはり彼は優しい言葉をくれた。そうさせたのは彼女だ。ゆるゆると首を横に振り、彼女はほんの少し瞳を細める。まだ彼と目を合わせる自信がなかったから、足下しか見られなかった。時折ざわざわと揺れる草の上に、彼の影が濃く色を落としている。
「僕は慰めてるつもりじゃあないですよ。本当に美味しかったし、嬉しかったんです」
途端、彼の語気が強まった。今まで聞いたことがない響きに、彼女はゆっくりと視線を上げる。怒らせてしまったのだろうか? 見上げた彼の双眸には、強い光が宿っていた。込み上げる不安に彼女が頭を傾けると、彼の唇が小さく開かれる。
「ディーターさんがいなくて、知らない世界が怖くて仕方なくて、どうしようもなかった時。ルミコさんがいなかったら、僕はつぶれていたかもしれないんです」
「そ、そんな大げさですよ。あんなおにぎりだけでっ」
「でも僕は嬉しかったんです。ここで生きていていいんだって、言われたみたいで安心したんです。帰れないとわかって、これからどうしようかと、途方に暮れていたところだったんですから」
それは初めて聞く言葉だった。不安そうではあったけれど、予想していたよりも彼は落ち着いていたから、そこまで落ち込んでいたとは知らなかった。あのおにぎりが、まさかそこまで喜ばれていたなんて、思ってもみなかった。すると不意に彼の顔が歪み、悲しそうに視線が落ちる。
「だから役に立たないなんて、そんなこと言わないでください」
絞り出された声は、かすかに震えていた。彼女は眼を見開いて、とにかく力一杯首を縦に振る。考える暇もなかった。彼を落ち込ませたくなかった。やはりこんなことは口にすべきじゃあなかったのだ。
ルロッタたちの前では絶対言わないようにしようと、彼女は強く誓いを立てる。何故見合いから逃げ出したのかと聞かれても、本当のことは隠しておこうと。
「ルミコさん」
「は、はいっ」
彼の双眸がまた、彼女へと向けられた。吹き付ける風に彼の青銀の髪が、彼女のスカートが揺れて、大きな音を立てる。頬を叩いた黒髪が、彼女の視界を一瞬覆い隠した。だからその時彼がどんな顔をしていたのか、彼女には見えなかった。
「じゃあヌオビアの人でなければ、引け目を感じずにすみますか? 異世界人とだったら、お見合いしてくれますか?」
「――え?」
「僕と結婚してくれますか? ああ、こちらに来たばかりですから、僕にはまだその資格はないんでしたっけ」
突然のことに、彼女は言葉を失った。彼が何を言っているのかわからず、止まりかけた思考をどうにか働かせようと努力する。何故突然、結婚という単語が飛び出してきたのか。体を硬直させたまま、彼女は必死に考えた。
見合いと言ったからか。
どのくらいの時間頭を捻っていたのかわからないが、彼女はそういう結論に達した。ヌオビアではお見合いは軽いものだが、きっと彼の世界では違うのだろう。ひょっとしたらお見合いに失敗したこと自体を、相当重く受け止めているのかもしれない。
ならばどう答えればいいのかと、彼女はまた視線を彷徨わせた。まさか文化の違いがこんな所で問題を引き起こすとは、想像もしていなかった。なかなか彼女が答えられずにいると、彼の放つ空気がわずかに緩む。彼女がおそるおそる目を合わせると、彼は柔らかく微笑んでいた。
「すぐに答えなくていいですよ、ルミコさん。落ち込んでいたところ、急にすいません」
「あ、あの、ソイーオさん――」
「ルミコさんの力になりたかったんです。元気になって欲しかったんです。でも勘違いしないでくださいね、今のは本気ですから」
甲高い鳥の声を背にして、彼はさらに口角を上げた。見たことのない表情に、彼女は呆然としたまま彼を見つめる。底知れぬ何かを感じさせる双眸は、目を惹いて止まなかった。すると彼は微笑したまま、彼女の横を擦り抜けていく。
「ソイーオさん」
「僕はそろそろ戻らないと、ディーターさんが心配するので。ルミコさんも帰った方がいいですよ。遅くなれば、きっと皆さん捜しに来ますから」
振り返ることなく、彼はそう言い残していった。小さくなる背中を見送りながら、彼女は瞬きを繰り返して小首を傾げる。乾いた涙の跡を指でなぞると、今さらながらとんでもないことを言われた気がして、急に鼓動が速くなった。胸が痛い。立ちくらみを起こしそうになる。
「早く帰った方がいいのか、わかるけど」
だが混乱した頭のままでは無理だ。彼女はため息をつくと、風に乱れた髪を手で梳いた。もう少しだけここにいようと、もう少しだけ頭を冷やそうと、小さくつぶやきながら。