「水波立つは風故に」

 とうに日は暮れて、冷たい風が通りを撫でていた。幾つかの家からは明かりが漏れており、時折賑やかな声まで聞こえてくる。
「こんな時間に呼び出さなくていいのに」
 襟の合わせに手を掛け、ことは大きなため息を吐いた。足早な歩調にあわせて、かつりかつりと音がする。軽く結わえられた髪も揺れ、着物の背を何度も撫でていた。彼女の他に人影は一つもなく、乾いた空気に単調な足音が反響している。
 すぐに来てくれと使いの子どもが伝えてきたのは、つい先ほどのことだった。何の用なのかはわからない。呼び出してきたのは頭で、使いの子はその内容を知らされていなかった。何事かとあれこれ考えてみたが、どの可能性も切り捨てられない。もっとも、何にしろ彼女は行かざるを得なかった。頭の呼び出しを無視したとなれば、後々何を言われるかわからない。
「本当っ迷惑なんだから」
 風のせいか、どこかで竹竿が倒れる音が聞こえた。何もかもがひどく不愉快だ。裾から入り込んでくる空気も、雲に覆われた月も、全てが気持ちを重くさせた。
 だがそれが呼び出しのせいだけではないことを、彼女自身はよくよくわかっていた。相棒である――否、だった蛍のことがずっと頭から離れていなかった。ふとした時にその顔が、華奢な後ろ姿が思い出されて、胸の奥に小さな痛みが走る。
 任務では決して失敗しなかった彼女が、まさか流行病に倒れるとは思わなかった。あんなに優しくて温かくていい子が、あっさり命を落とすなど……。
「不条理よね」
 まだ十六だったのにと思うと、目頭が熱くなった。けれども頭を振って唇を噛み、琴は真っ直ぐ前を見据える。蛍がいなくなったからといって、落ち込んでばかりもいられない。そんな調子では蛍が安心して成仏できない。そう自らに言い聞かせて、琴はさらに歩みを早めた。風にはためく着物の裾がまた音を立てる。
 寒い。とにかく寒い。昼間はあんなに日が照り暖かかったというのに、やはり夜の冷え込みは辛かった。首を撫でていく湿った風に鳥肌が立ちそうになる。こんなことなら羽織を置いてくるべきではなかったと、彼女は少し後悔した。
「それもこれも、こんな時間に呼びつけたお頭のせいよ」
 愚痴をこぼしながら摺り合わせた手は、気づけばかすかに赤くなっている。それでも帰るわけにはいかない。町はずれにある長屋を目指して彼女は小走りし始めた。
 頭がいるのは瑠璃の国のはずれにある、ぼろぼろの長屋だった。今にも倒れるのではと噂されているそこには、実は知る人ぞ知る秘密が隠されている。
 そのおんぼろ長屋こそ、対術師じゅつし専門の警護団『時雨組しぐれぐみ』の本拠地だった。この瑠璃の国には多くの術師がいて、術師による問題が絶えず起こっている。そういった問題を解決するのが時雨組の仕事だ。もっとも、術師以外の一般庶民はその存在すら知らないのだが。
「見えてきた」
 走り始めてどれくらい経っただろうかと考え出した頃、その長屋が彼女の視界に入ってきた。月明かりも朧気な中で、うっすらと明かりの灯された場所はすぐ目につく。見慣れたおんぼろ長屋を彼女は睨みつけた。あそこで頭はきっと今頃ぬくぬくしていることだろう。呼びつける時刻に関係なく、彼はいつものんびりとくつろいでいる。
 まず何を言おうか。どう文句をつけたらわかってもらえるか。そんなことを考えながら彼女はさらに足を進めた。目的の場所はすぐそこだ。ぼろぼろでも長屋の中の方がまだ暖かいだろう。この冷たい空気を吸うのはもうごめんだと、彼女はもう一度襟の合わせに手を掛ける。
 風がひゅうと泣いた。長屋の前で立ち止まった彼女は、小さく息を吸うと軽く三度戸を叩いた。
「お頭!」
 そしてそう声を掛けると、返答を聞かずに中へと入る。頭の声を待たないのが時雨組の流儀だった。あの頭が迎えに出てくることは、まず考えられない。
「おー琴か」
 予想通り、頭は板敷きの上で円卓に向かい、音を立てて茶を啜っていた。いつも通りの恰好にいつも通り行儀のよくない座り方。気のいい笑顔だけが褒められる点か。藍色の羽織を着た頭は、額には白いはちまきを締めていた。これが組の中で一種の目印ともなっている。
「お頭、こんな時間に呼びつけるなんて、どういうつもりですか!?」
「そりゃあ、べっぴんさんと会うなら夜の方が風情があるだろう? んー乱れた着物も色っぽいねえ。どうだい琴、そろそろ俺と一緒に――」
「冗談っ! ってどこ見てるんですか!?」
 彼女は半歩後ろへと下がった。年は一回り以上違うのだが、ことあるごとにこうやって口説いてくるのが頭の悪い癖だ。あまりのしつこさに辞めていった女が多いことも、彼女は知っている。長屋がぼろぼろなままなのも、女遊びがひどいせいだと噂されていた。
「いやぁやっぱりなぁ、若い娘はいいから」
「何度も言ってますがお断りします。それでお頭、一体何の用なんですか? 寒い中わざわざ来たんですから、まさかくだらない話じゃないですよね?」
 襟元を押さえて彼女は声を張り上げた。幾度となく繰り返したやりとりにうんざりしつつも、釘を刺すのを忘れない。すると頭は茶を円卓に置き、やおら顎に手を当てた。そういった仕草は様になるのだが、中身を知っているだけに彼女は複雑な気持ちになる。
「そりゃあこんな夜にお前を一人で歩かせたんだ、当たり前だとも。――琴、次のお前の相棒が決まった」
 頭が躊躇せず口にした単語を、彼女は胸の内で繰り返した。相棒。すぐさま蛍の笑顔が脳裏に浮かび、胸の奥がちくりと痛む。それはついこの間まで蛍だった。二人の仲はずっと続くのだと、特に意識せずともそう思ってきた。それは当たり前のことだった。彼女は軽く唇を噛むと、心を落ち着けるよう一息吐く。
「……そうですか。それで、誰なんですか?」
 できる限り動揺を押し殺して、彼女はそう聞き返した。蛍はもうどこにもいなくて、そして仕事は一人ではできないのだから、我が儘を言っても仕方がない。この痛みが消えるとは思えないが、我慢するしかなかった。
「名前はたつだ。お前より一つ上の、十八の男だ」
 だが別の衝撃が彼女を襲った。予想もしなかった言葉を聞いて、彼女は思わず額に手をやる。
「お、男!? お頭、私女じゃなきゃ嫌だってずっと言ってたじゃないですか!」
 頭を直接揺さぶられたような気分だった。平静でいようという努力は水の泡で、目眩さえ覚える。それでもどうしても叫ばずにはいられなかった。
 男は絶対に嫌だ。時雨組の男にはろくな奴がいないというのが、蛍と琴の一致した見解だった。この好色漢の下でずっと働き続けてきた者たちは、誰も彼もが一癖も二癖も持っている。相手をするのは厄介だし、何より大概女に見境がなかった。礼儀も何も知らない。おそらく、女とまともに言葉を交わすことがほとんどないのだろう。
 だから男の相棒は絶対に駄目だ。ふらつきそうになりながらも、彼女は慌てて板の間へと詰め寄った。しかし頭は口の端を上げただけで何も言わない。彼女の反応を楽しんでいるかのように、腕組みしたまま瞳を細めていた。
「ひどいですよ、お頭っ」
「なあに、心配はいらないって。な、琴。何かされても俺が嫁にもらってやるから」
「そういう問題じゃあありません! お頭、何で――」
 なおも彼女が声を張り上げると、立ち上がった頭はゆっくりと近づいてきた。日焼けした顔に不敵な笑みをたたえて、彼は彼女の顔をやおら覗き込む。と思ったと同時に、彼女の頭にその無骨な手が載せられた。
「もう俺は決めたんだ、変える気はねえ。なあに、大丈夫だ。お前ならあいつとやっていける」
 頭は歯を見せて笑った。そう言われてしまうと彼女には何も言えなかった。頭はこうと決めたら何が何でも突き通す、要するに頑固者でもあった。これを覆すことはない。彼女は何度目かのため息を吐くと、渋々と小さく首を縦に振った。こうなった以上は諦めざるを得ない。
「おうっ、さすが素直でいい女だなぁ琴は。なあ琴、今夜はちょっとぐらい――」
「冗談っ! じゃあ私は帰りますね、さようなら、お頭」
 撫でていた手が襟元へと下りてくるのを振り払い、琴は慌てて踵を返した。用はもう終わったのだから長居は無用だ。一刻も早くこの場を離れたい。
 怒りで寒さを忘れられそうだと思いながら、彼女は戸に手を掛けた。背後から聞こえた頭の声は、いつもながら恨めしげだった。



 頭からの呼び出しがあった二日後に、琴は使いの子どもから一枚の手紙を受け取った。そこには次の任務の簡単な内容に加えて、町はずれにある大屋敷へ行けと書かれている。去っていく子どもに大きく手を振りながら、彼女は首を捻った。
「まさか、初任務がこれだなんて……」
 戸を閉めながら彼女は履き物を脱ぐ。手紙に書かれた任務説明は最低限のものだけで、次の任務は札師ふだしの少女を守ること、の一行しか書かれていなかった。だがその重みを理解するにはそれだけで足りた。
 札師――それは術師の使う札を作ることができる、特別な者たちのことを指す。術師は札を使い炎や水を操ることができるが、その札は札師の血でもって書かれた物でなければならなかった。故に札師は貴重な存在で、比較的金持ちも多い。となると単純に考えれば、この町はずれの大屋敷には札師が住んでいるのだろう。
「いきなりこれだなんて、お頭も無茶言うわ」
 肩をすくめながら彼女は板の間へと歩いていった。日に焼けてささくれ立った床には、藍色の羽織が畳んで置いてある。彼女はそれを手に取ると、口の端を上げて勢いよく羽織った。はじめはやや大きかったものの、何年も着続けたため今はすっかり体に馴染んでいる。むしろこれがないと落ち着かないくらいだ。
「仕方ないわよねぇ」
 彼女は羽織の裾を軽く手で叩くと、再び戸の方へと向かう。その藍色の地にはうっすらと、白い紋様が織り込まれていた。それは知る者だけが知る時雨組の証だ。時雨組に属する者だけが持つ羽織は、任務の時の装束だった。
「さあ、頑張りましょうか」
 髪を一本に結い直して彼女は戸を開けた。騒がしい木の葉のさざめきとともに、抜けるような青空が目に映る。昨日に引き続き今日も天気はいいが、油断すればまた夜には冷え込むだろう。任務が長引かないことを彼女は祈った。
 そのまま彼女は大屋敷を目指した。通りを行く人は皆笑顔だ。冬が厳しい分だけ、春の陽気は町人たちの心を明るくする。その中を彼女は颯爽と歩いていった。
 大屋敷は町はずれにあるが、同じはずれと言っても頭のいる長屋と全く別の方向となる。その並外れた大きさは目立つために、彼女も何度か目にしたことがあった。だが近くまで足を運ぶのは初めてだ。
 突然行って何とかなるものだろうか? まさか頭がそこで待っているのだろうか? 簡素な手紙の内容を頭に思い浮かべて、彼女は眉をひそめた。あれだけでは何もわからない。しかし行けと書かれていたのだから行くしかなかった。本当にいつも説明が足りない、とんでもない頭だ。歩きながらぼやくのは憚られたので、彼女は心の中だけで毒づいておく。
 黙々と歩き続けると、目的の大屋敷までさほど時間はかからなかった。足早に歩いたせいもあるだろうが、やはり敷地もかなり大きいようだ。正門までまだありそうだが、屋敷の端はすぐそこに見えた。
「あっ」
 しかし道の半ばで彼女は立ち止まった。屋敷を囲む木の塀、そこに寄りかかるようにして一人の男が立っているのが見えた。もちろんそれだけなら何も驚くことはない。だが彼は藍色の羽織を身につけていた。
 それが意味することは一つ。彼は時雨組の組員、つまり彼女の新たなる相棒ということだ。見覚えのない顔ではあるが、羽織という証がある以上そうとしか考えられなかった。
 他に誰かいないものかと、彼女は辺りを見回した。しかし残念ながら彼以外に人影はなく、もちろん頭らしき人もいなかった。まさかこれ以上の詳しい説明はないということか? 彼女は片眉を跳ね上げると肩を落とした。
「まさか、本当にあれだけで何とかしろってこと? 冷たすぎるわよお頭」
 彼女は深々と嘆息した。しかしこうやって嘆いていても仕方がない。もしかしたら彼が詳しい話を知っている、そんな可能性もわずかながらあった。もっとも、今までの経験を考えるとそれはないに等しい気はするのだが。
「仕方ないわねぇ」
 背を凛と伸ばして彼女は再び歩みを進めた。すると足音に気がついたのだろう、彼の双眸がやおら彼女へと向けられた。顔だけ見れば人が良さそうだが、頭という前例があるので油断はできない。
 まず何を口にすべきかと、考える前に彼女はとりあえず微笑んだ。初対面でいきなり食ってかかるのも何だろう。できる限り穏便に、が世を生き抜く知恵というものだ。
「あなたが……竜?」
 簡潔に問いかけると彼はすぐさま首を縦に振った。短く切り揃えられた黒い髪に、穏やかな黒い瞳が印象的だ。よく時雨組で見かける脂ぎった男でも、変態気質な男でもなさそうだった。とりあえず、見た目での嫌悪感がないことに正直彼女はほっとする。これが見かけに限った話でなければいいと、願わずにいられなかった。
「ということは、そう言うお前が琴?」
「そうよ。あなたの相棒になる」
 笑顔で彼女が相槌を打つと、彼は不思議そうに頭を傾けた。まるで何か解せないことがあるかのような、考え込んでいるような、そんな表情だった。何かまずいことでも口にしただろうかと、訝しげに彼女も首を傾げる。少しだけ嫌な予感がした。
「相棒……とかってあるんだ。時雨組に」
「――えっ? ま、まさか、ひょっとしてあなた、時雨組に入ったばかりとか!?」
「ああ、ついこの間入ったばかりだけど」
 竜の返答を聞くと頭痛がしそうだった。思わず額を押さえて彼女は大きく息を吐く。よく考えてみると、こんなに早く相棒が見つかるのもおかしな話だった。同じ時期に相棒を失った組員同士、というのはまず考えにくい。新たな相棒が見つかるか、もしくは同じ境遇の者が現れるまで、しばらく放置されるのが通例なのだ。
 ひょっとしてあの頭は、意気揚々と新たな術師を探しに出歩いたのだろうか? あり得ない話ではない。術師としての腕はともかく、任務の成功率に関して琴たちは優秀な方だった。
「大丈夫か? ……仕事って、そんなに大変なのか?」
 彼女の反応に不安を感じたのだろうか。心配する竜の声がすぐ近くで聞こえた。さらに目眩を覚えて彼女は軽く目を瞑る。どうして頭はこんな男を相棒にしたのか、初任務をこんな難しいものにしたのか。今ここにいたら大声で文句を言いたかった。彼女はゆっくり目を開くと、力なく竜を見上げる。
「大変かどうかはその時によるけど。でも今回のは特に難しいのよ。何と言っても札師が絡んでくるんだし」
 答えながら彼女は大屋敷を眺めた。高い木の塀に囲まれているため屋根ぐらいしか見えないが、広さはかなりありそうだ。部屋数も相当なものだろう。札師の少女はこの屋敷のどこにいるのか? そもそも守るとは、一体何者からなのか? 何も知らされていないことをあらためて自覚して、彼女は口をつぐんだ。このままではまともに仕事ができる気がしない。
「ああ、札師――」
 うなずきかけた彼は、だが途中で言葉を途切れさせた。疑問に思って彼女が頭を傾けると、彼は顔をしかめて辺りを見回し始める。
 何かある。その様子からただならぬものを感じて、彼女も周囲へと意識を向けた。一体何があるのか? いや、それともいるのか? 隈無く視線を巡らしても異変は見あたらなかった。が、不意に妙な臭いを感じて彼女は息を呑んだ。ごくわずかではあるが、まるで何かが燃えるような鼻につく臭いが通りに漂っている。
「まさか……!」
 はっとして二人は大屋敷を見上げた。目を凝らせばかすかにだが、青空に立ち上る細長い灰色の煙が見える。喉からかすれ気味の呟きが漏れた。この臭いと煙に間違いはない。町の人々が一番恐れているもの、その証だ。
 するとそれを裏付けるように、塀の中から悲鳴が聞こえてきた。甲高い叫びに低いわめきが混じり、何を言っているかわからないが混乱していることは明らかだ。ついで数人の足音が聞こえ、わらわらと門から飛び出してくる姿が見えた。
「火事だ!」
 誰かが叫んだ。よく見れば飛び出してきた者たちは皆、一様に喪服姿だった。誰かが亡くなっていたのだろう。呆然としていた琴は我に返ると、躊躇することなく駆け出した。胸騒ぎがした。予感があった。一刻も早く屋敷に入らなくてはと、彼女は何も言わずに塀の中へと急ぐ。そんな彼女の後を慌てて竜がついてきた。
「あの、すみません!」
「なんだい、火事だよ! 誰か火消しに伝えておくれ!」
「札師の少女はどこですか!?」
 飛び出してきた一人の女性を、強引に琴は掴まえた。額に汗を浮かべた四十過ぎのその女性は、はじめこそ混乱して怒声を上げたが、札師と聞いて見る見る間に青ざめていく。その厚い唇が震えた。
「泣き疲れて……確か奥の間で眠って」
 それを聞くなり琴は屋敷へと向かって走り出した。逃げ出す人々の波を掻き分けつつ、中へと無理矢理突き進む。それでも火に怯える者たちは、見慣れぬ彼女の存在に目もくれなかった。呼び止める者もいない。
 ちらりと後ろへ視線をやると、何も言わずとも竜はしっかりついてきていた。彼女の突然の行動に置いてけぼりになる者は多い。そのことだけを考えても、なかなか決断力はあるらしかった。彼女が口の端を上げると、彼はわずかに眉根を寄せる。
「琴、札師の少女って――」
「これは誰かの陰謀よ。火事になれば術師以外は誰もが逃げ出すもの。火なんてすぐに広まるからね」
 彼女は奥へ奥へと目指して駆けた。屋敷の中は既に悲惨な状況に陥っていた。火の元がどこかわからない程、あちらこちらへと燃え移っている。倒れた障子から火の粉が舞うだけでなく、濃い煙が充満して人の姿もまともに見えなかった。
「奥の間ってことはまだまだ先ね」
 手遅れにならなければいい。そう思い彼女が呟くのと、彼が札を取り出すのはほぼ同時だった。気配が変わったことに気づき肩越しに振り返ると、彼は手にした緑の札を前へとかざす。
「貫け風よ!」
 声が響き、札の文字が光を帯びた。突如生み出された風が、真っ直ぐ屋敷の中を突き抜けていく。それは炎さえも寄せ付けずに、細長い一本の道を生み出した。風が作り出した仮初めの道だ。
「なかなかやるのね」
 そう言いながら彼女は走り出した。降りかかる火の粉を手で払い除けて、懐から青い札を取りだす。そしてそれを指先に挟んだ。弱った床がぎしぎしと悲鳴を上げるも、気にせず彼女は力ある言葉を唱える。
「水よ我が楯となれ!」
 声に応じて札の文字が輝いた。その途端ちりちりと肌を焼くようだった熱さが、瞬く間に和らいでいく。背後から竜の気配が近づくのを確認して、彼女はさらに前へと進んだ。あとは足下に気をつけるだけだ。
「なるほど、熱気よけか」
「そう、なかなか便利でしょう?」
「慣れてるな」
「まあ、これでもそれなりの玄人だから」
 奥の間の見当をつけて二人は駆けた。屋敷の大きさはとんでもないものだが、造り自体は珍しいものでもない。おそらくこの先に取り残された札師の少女がいるのだろう。彼女は瞳をすがめて辺りへと視線を走らす。この火を放った何者かよりも早く、辿り着ければいいのだが。
「やーっ!」
 刹那、かすれた悲鳴を耳が拾った。まだ幼い子どもの、甲高い叫び声だった。その方へと双眸を向け、琴は大きく息を吸い込む。そして横にあった襖を迷わず蹴り開いた。風の通り道から外れたため、一気に煙が周囲を覆う。その灰色の世界のさらに奥へと、目を細めながら彼女は飛び込んだ。
 何者かが息を呑む気配があった。踏み込んだ先、そこにいたのは黒装束の男だった。濃い煙に溶け込むような恰好だが、息づかいでその存在が知れる。いや、その部屋にいたのは男だけではなかった。五つに届くかという幼い子どもがその傍で泣きじゃくっている。その髪は世界から浮き立つかのような、輝かんばかりの銀だった。
 この少女が札師だと、琴は聞かずとも確信する。札師はみな銀の髪を持っている。それは術師であれば誰でも知っているような確かなことだった。おそらく男もそうなのだろう。その少女の腕を掴み、引きずろうとしている。
「待ちなさい!」
「ま、まさか時雨組か!?」
 琴の声に男は眼を見開いた。そして慌てた様子で後ずさると、無理矢理少女を抱え上げようとする。無論、それを琴は許さなかった。懐に隠し持っていた小刀を、鞘ごと男へと投げつける。それは見事布に覆われた額へと命中し、男はたたらを踏みつつよろめいた。
「何を――」
 緩んだ男の手から少女が解放された。放り出された少女は、その勢いのまま畳の上を転がっていく。その隙を逃さず、すぐさま竜が駆け寄った。男が呻くその横で、竜は涙する少女を抱きかかえる。これで一安心だ。
 ごうっと、どこかで火が唸り声を上げる。時間はあまりない。燃え始めた畳を蹴り上げ、琴は男に体当たりした。体勢を立て直そうとしていた男は、それも叶わず襖ごと後ろへと倒れ込む。彼の頭のすぐ後ろでは折れた屏風が炎を上げていた。男の口から小さな悲鳴が漏れる。
「ひっ」
 琴はひるむことなく男の上に飛び乗ると、左手でその首元を押さえつけた。首まで覆われていた黒い布ごと畳の上へと縫い付ける。男の顔が強ばった。彼女はその双眸から目を離すことなく、意識せずとも用意していた札をその額に貼り付けた。
「なっ――」
 引き攣った声を漏らす男に向かい、彼女はいつものように微笑みかける。そして締めとなる言葉を、躊躇することなく囁いた。
「水よ出でよ」
 札の文字が輝き、彼女の力ある言葉に従う。為す術もなく顔面を水に覆われ、恐怖とともに男はすぐさま気を失った。悲鳴も何も残さぬ、実に呆気ない幕切れだった。男の意識がないのを確認してから、彼女はそっと札をはがす。
 背後からは勇ましいなという苦笑が、火のはぜる音に混じって聞こえてきた。彼女は振り返って肩をすくめると、ほんの少し悪戯っぽく笑った。



「いやぁ、まさかこんなに早く解決するとは思ってなかったよ、琴。さすがだな」
 長屋で茶を啜っていた頭は、開口一番そう言った。気楽な声音の分だけ、苛立つ言葉だった。琴は半ば呆れた眼差しでそんな頭を見やる。
 黒装束の男は、今も長屋の隅で気を失っていた。縄で縛られた状態では動けもしないし術も使えないはずだ。目が覚めたとしても問題ないだろう。頭もそう判断しているようで、もはや黒装束の男へは目もくれていなかった。
「それ、どういう意味ですか」
 できる限り低い声で彼女は静かに尋ねる。男を捕まえて報告しに来たというのに、いきなりこの言いようはあんまりだ。しかも詳しい説明もなしに、あんなところに放り出したのだ。これで終わってからも同様では、さすがの彼女も堪忍袋の緒が切れるというもの。
「そう怖い顔するなよ、琴。なあに、簡単なことさ。その千鳥ちどりちゃんの父親が札師なんだが。それがついこの間、不幸にも亡くなってなあ。それで札師の数が減ったもんだから、娘を狙ってるって話があってよ。ちょいと揺さぶるつもりで時雨組が動くって噂を流してやったんだよ。そしたらまあ、こんなに早く出てきてくれるとは」
「つ、つまり私たちは囮ですか!?」
 彼女は力一杯声を張り上げた。道理で男は二人を見てあんなに焦っていたのか。おそらくは時雨組に保護される前にと考えての行動だったのだろう。藍の羽織を見た途端あれだけ狼狽えたのも、こういう理由があったのだ。
 だが、それならそれできちんと説明してくれれば話は早いだろうに。そう思いながら握った拳を振るわせる琴の後ろには、張り付くように札師の少女――千鳥がくっついていた。
 大屋敷をつれだしてからずっと傍を離れていない。すぐに泣き止みそれ以上わめくこともなかったが、無言のままずっと足下にしがみついていた。さぞ怖い思いをしたのだろう。そう思うと余計に頭の言葉が許せなくなる。
「策だと言ってくれよ、琴。そんなに怒っちゃあせっかくのべっぴんさんが台無しだ」
「そんな言葉には乗りません」
 頬に触れようとしてきた手を、ぴしゃりと琴は払い除けた。本当に油断も隙もない。子どもの前でも遠慮がない。隣では竜が苦笑を押し殺しているが、彼には目もくれず彼女は文句を続けた。この怒りは簡単に収まってくれそうにない。
「私たちが遅れたらどうするつもりだったんですか!?」
「いや、琴ならやってくれるって信じてたからよ」
「またそんな都合のいいことを」
 きっとこの頭は口から生まれてきたに違いない。いや、手からかもしれないが。とにかく信用できないと琴は再確認した。どうしてこんな男の下で働いているのかと、考えれば考える程疲れてくる。
「怒るなって、琴。……しかし、それにしてもやっぱりあいつらも考えてるなあ。こんな下の下の奴を使ってくるとは。おかげで尻尾が掴めなかった」
 すると突然真顔になった頭は、倒れている黒装束の男を見た。琴もつられて視線を向け、頭の言葉を反芻しながら唇を噛む。
 札師か否かを決めるのは全て血だ。だからこそ狙われることも多く、捕らえようとひそかに狙っている者も多いと聞く。この男はその下っ端の一人で、札師を狙う輩はまだまだ他にもいるのだ。つまりこの幼い少女は、これからもずっと身の危険にさらされることになる。ただ札師に生まれた、それだけでこんな目に遭うなんてあんまりだ。
「千鳥ちゃん、どうするんですか?」
 琴は千鳥の頭を撫でながら静かに尋ねた。大屋敷は火事のせいでしばらくは使えそうにないし、守ってくれるはずの親類もごたついているだろう。すると頭はやおら振り返り、気のいい笑顔を浮かべた。既に考えてあると、そう言いたげな顔だった。頭は額のはちまきに手をかけると、千鳥へと一瞥をくれる。
「あの屋敷じゃあ危険から守れないからな、俺たちでしばらく預かるということになってる。まあ三月もないだろうが、頑張ってくれ。新しい住まいができるまでだ」
 あっさりと言い放たれた言葉に、琴は目を丸くした。それはつまり琴たちの仕事ということか。彼女らが面倒を見るということか。札師を守るという任務は、もうしばらく続くという意味なのか。しかもあれだけの大屋敷に住んでいた少女を、みすぼらしい長屋に住まわせると。
「ちょ、ちょっと、本気ですかお頭!?」
「ほーら、千鳥ちゃんも懐いてるみたいだしな。いいだろう? ああ、竜も新しい住まいに案内してもらえ。あの長屋はぼろだが暖かくていいぞー。快適だ」
 さらに琴は声を詰まらせた。頭のいる長屋とは別に、彼女たち組員の住む長屋が町の中には幾つかある。そこに千鳥と竜を連れて行けと、そう頭は言っているのだ。部屋はそれぞれ一応別なものの、変人揃いの時雨組の中でやっていくのは骨が折れた。蛍がいなくなり苦労が増えたというのに、さらにそこで任務まで続けろとは無体だ。
「お、お頭……」
「え、俺って琴たちと一緒に住むんですか?」
「おう、そうさ。一応部屋は別になってるけどな、でも行き来は簡単だ。ほーら、琴も蛍がいなくなって寂しくなったところだろう? 千鳥ちゃんが一緒でいいじゃないか」
 琴は笑った。笑うしかなかった。確かに、寂しいとこぼしている場合ではなくなった。さらなる苦難が待ち受けているだろうが、確実に気は紛れる。
「ではお前たちを五の組に任命する。初任務継続、よろしく頼むな。琴、竜」
『――はい』
 爽やかに笑う竜と疲れた笑顔の琴、そして何故か嬉しそうな千鳥の声が重なった。見事な調和だった。返事をした三人は顔を見合わせ、また同時に笑い合う。
 悪くはないかもしれないと、そう胸の内で琴は呟いた。無理矢理な方法ではあるが、仕事を続ける上ではうまい手かもしれない。ほんの少し気持ちが軽くなった気がしたけれど、調子に乗るから頭には内緒だ。
 琴はそっと千鳥の手を握った。何も言わずに握り返す手は、小さくともほんのり温かかった。

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