「月の癒し」
冷たい石の上を歩くのは慣れていたけれど、それでも疲れた足に硬い道は辛かった。ふらふらとした足取りで彼は家を目指す。
月をかたどった街灯はまばらで、明かりの灯らない家々に囲まれたその道は薄暗かった。音もしない。響くのは彼自身の足音と、後は時折遠くから聞こえる虫の音だけだ。
何が……月の都だ。ただ寂れてるだけじゃないか、こんな辺境の国。何でこんな国をみんな称えるんだ?
彼は口の中で言葉にならないつぶやきを発した。焦げたような茶色の髪をかきむしり、彼はうろんげな目を周囲に向ける。
立ち並ぶ家々は皆小さく、しかし技巧の凝らしてあるものだった。お金は相当かかってるに違いないと思うと、彼の口元は皮肉そうにゆがむ。
「俺が……これだけ働いて稼いだ金も、すぐ消えるんだよな、こんなもののために。何が美だ、何が芸術だ」
彼は吐き捨てるようにそう言うと、重たい足をまた進める。
いつか、出てってやる、こんな国。金さえ貯まれば、そう、サイネリアにだって行けるさ。あそこなら商業も盛んだし、ここよりはいい暮らしができる。そうさ、きっと。
彼はそれだけを夢見ていた。親の職業を継ぐ気など、彼にはなかった。
「何が月の都、ユピテイルだ。こんな国、金さえあれば――――」
そこまで言いかけて、彼は立ち止まった。街灯のすぐ下に見慣れない台と看板がある。台の後ろには、頭まですっぽりと布で覆った人らしきものが座っていた。
こんな時間に物売り? それとも乞食? いや……そんな感じじゃない。何だろう……。
彼はゆっくりと近づいていった。街灯の柔らかな光に照らされて、看板の文字が見えてくる。
あなたを癒します。
そこにはそう書いてあった。
癒す……? 何だよ、そりゃ。
さらに近づくと、台の後ろに座っていた何者かが顔を上げた。驚くことに、その横顔は少女のものだった。まだ幼さが残る、十三、四歳ぐらいの女の子だ。
ちょっと年下ってところか……。癒す……ねぇ。
彼はにやりと口角を上げてその少女に近づいていった。相手が男でなく、まして自分より年下となれば恐れることはない。
「いらっしゃいませ」
小さな台の前に立つと、微笑みながらその少女は見上げてきた。白い肌に、金と銀の中間のような色の髪。その薄紫色の瞳には不思議な輝きがある。
顔は悪くない。っていうかかなりいいよな。こりゃあ俺運いいかも。
台に手をつき、彼はその少女をのぞき込むようにした。だが少女は物怖じしない様子で、ただ先ほどと同じように笑みを浮かべている。
「癒しましょうか?」
「いくらで?」
「お金は取りませんよ」
彼は目を丸くした。お金はいらないだなんて、それでは意味がないじゃないか。
怪訝そうにする彼に、少女はくすくすと笑い声をもらす。
「お話、しましょうか」
「……はっ?」
あまりに簡単に放たれた言葉。彼は耳を疑った。それはあまりに予想外すぎて、すぐには理解できなかった。静けさの中、虫の切ない鳴き声がただ二人の間を満たす。
「話で……癒すってか? 何言ってんだ。くだらねぇ、とっとと帰ろ」
期待した俺が馬鹿だった。
彼は口の中で音にならないぼやきを発して、踵を返した。自分が何だかものすごく情けないことをした気がして、ひどく腹立たしかった。だが――――
「昔、ユピテイルという小さな国がありました。そこは月の都と呼ばれる、芸術が盛んな国でした。そこにはたくさんのガラス細工職人が住んでいましたが、その中でも特に綺麗なガラスを作ることで有名な、ある男の人がいました。跡継ぎをと周りが望む中、ある冬の朝、彼にもついに待望の男の子が生まれます。綺麗なブラウンの髪、瞳を持った可愛らしい男の子です。その赤ん坊を、彼はニオと名付けました」
少女が紡ぎ出した物語に、彼は思わず足を止めた。
「な、何なんだよ、お前……」
彼の声は震えていた。少女が奏でた名前、それは紛れもなく彼のものだった。立ち去ることも、詰め寄ることもできない彼のことなど気にかけず、少女は話を続ける。
「でもニオは、周囲の期待をことごとく裏切り続けました。ガラスなんて嫌いだ。ニオはよくそう言って家を飛び出していました。十五になってもそれは変わらず。皆、ニオを跡継ぎにとはもう言わなくなりました。ただ彼の父だけが、息子に継がせようと頑張っていました。そんなとある日、仕事の帰りに、ニオは道ばたで怪しい少女を見つけます。『あなたを癒します』という言葉に惹かれた彼に、少女は言いました。お話ししましょう、と」
柔らかな微笑みを浮かべる少女に、彼はこわごわと視線を向けた。虫の音も今は聞こえない。ただ少女の鈴のような声だけが、夜の静けさに広がっていた。
「……お前、名前、何だよ」
彼が口にした言葉は、言おうとしていたものとは違っていた。だがしかし、彼はどうしてもそれを聞かなければならないような、そんな気がしていた。少女は彼を見つめて、微笑みかける。
「やっと聞いてくれましたね。私は、アルメリーア」
「変な名前」
「あなたも、ですよ」
少女、アルメリーアは小さく声をもらして笑った。彼は困惑した顔でただその様子を見やるだけ。笑い声がおさまると、少女はおもむろに頭の布をはずした。金と銀の中間の色をした長い髪が露わになる。それは背中の中程まであり、見るからに指通りが良さそうだった。彼は思わず頬を赤らめる。
「少女はニオの過去を語り出しました。もちろんニオは驚きます。でも、何も驚くことはないのです。その少女は、月の精だったのですから」
「寝言は寝て言えっ」
物語の続きを口にする少女に、彼は冷たい言葉を浴びせた。しかし少女はなおほがらかに微笑みながら、その薄紫色の瞳を彼に向けている。
「型どおりの言葉じゃつまらないですよ?」
「うるさいっ!」
彼はもう、怯えてはいなかった。不思議なことに、少女の名を聞いた時からそれはなくなっていた。何故かは、彼にもわからなかったが。
「どんなに歩いても、月は追いかけてきている。そう思ったことはないですか?」
「え?」
「ないですか?」
「……小さい頃はな。でもあれは月がものすごく遠くにあるからなんだろ?」
突然の問いに、彼はとまどいながらもそう答える。少女はゆっくりと立ち上がった。
「そうかもしれませんし、でもそうじゃないかもしれません」
「え?」
彼は、少女につられて空を見上げた。薄紫色の瞳の先には柔らかな輝きを放つ月がある。暗い夜空の中で、それは確かな存在感を放っていた。
「見守るというのは、難しいですよね。つかず離れず、その距離を保つというのは……」
つぶやくような少女の声には悲しみも、寂しさもなかった。けれどもそこに含まれている色はどこか儚かった。彼はその金とも銀とも言えない髪に目を移す。
月だ。
彼は何となくそんなことを思った。月の精なんて馬鹿らしいと思ったけど、でも彼女は月の体現者だと、そんな気がした。
少女がうつむく。揺れる髪があまりに綺麗で、彼は目が離せなかった。その美しさは言葉には表せない。
ああ、美しいものを作りたいってのは……きっとこのせいなんだな。
彼の中で、何かがはまった。すると不意に以前言っていた父の言葉がよみがえってくる。
『言葉にはできない、けれども何とか表現したい。そういう時に、俺は無性に何かが作りたくなる』
何故そんな手の込んだものを作るのかと聞いた時に、返ってきた答えがそれだった。その時はよくわからなかったけれど、でも今なら理解できた。
「私は、見守られて、でも見守っています。もちろん、あなたも」
「アルメ……リーア……?」
顔を上げた少女は、はにかむように微笑むと手をさしのべてきた。彼は恐る恐るその手を握る。
「癒されましたか?」
「……っ!?」
何故かものすごく悔しくて、彼は口をつぐみそっぽを向いた。少女のもらした笑い声が彼の耳に染み入っていく。
「あなたを、癒したかったんですよ? あなたが、好きだから」
「……はっ!? って、お、俺、お前のこと全然知らないぞっ!?」
「私はよく知っています。私は、あなたの器に魅せられた一人ですから」
少女は手を離した。彼は呆然と、空っぽになった自らの手に目を落とす。にわかに風が吹き、彼の髪を乱暴にかき乱した。
「……器?」
「あなたの目覚め、待っています」
走り去る足音に、慌てて彼は顔を上げる。しかし時既に遅く、少女の後ろ姿は闇の中に溶け込んでいくところだった。声を上げる暇すらなかった。彼は途方に暮れ、脇に目を移す。すると少女が使っていた台も何もかもがなくなっていた。
「……ま、幻?」
彼のつぶやきが、静かな夜にぽつりと残された。
気怠い体に何とか力を入れて、彼は起きあがった。ベッドのきしむ音とともに立ち上がり、彼は窓の外を見る。
昨日の夜、どうやって帰ってきたのか彼は全く覚えていなかった。ただ少女との出会いだけが鮮明すぎて、夢に見る程だった。
「何だったんだ……一体」
彼がぼやくと同時に、戸を叩く音がする。ぎしぎしと鳴る床を踏みしめて近づくと、重々しい動作で、彼はその戸を開けた。
「ニオ、起きたか」
「父さん……」
彼は背の高い父を見上げた。同じブラウンの髪、瞳を持つその姿は、しかし彼よりもずっと整っているように感じられる。
「聞いたか? 昨日の晩、姫様がお生まれになったんだ」
「姫?」
「ああ、それはそれは美しい姫様だそうだ」
彼は首を傾げた。そう言われればもうすぐ生まれるとかそんな話を聞いたような気もしたが、だが今まですっかり忘れていた。どうせもうじきこの国を出るのだからと考えていたせいだろう。
「で?」
「肌は白くて、金とも銀とも言えない綺麗な髪をお持ちだそうだ。一度お目にかかってみたいものだなあ」
彼は、息を呑んだ。心臓が高鳴るのを、抑えられそうになかった。どこか遠くを見ているような父に向かって、彼はおずおずと口を開く。
「と、父さん、その姫の、その……目は?」
「何言ってるんだニオ、まだ目はお開けになってないだろう」
「じゃ、じゃあ名前は?」
「アルメリーア様だそうだ」
手が、震えた。彼は父に知られないように衣服の裾を力一杯握り、ともすれば揺れる体に何とか力を込める。
じゃあ、昨日のあれは何だったんだろう……。
幽霊? って死んでないか。じゃあ魂? ……よくわからない。
彼の頭をいろんな思いがぐるぐると渦巻いていく。
「というわけだから、今日からまた作品作りに入るからな」
「え?」
目を丸くして彼が見上げると、父のあきれた視線とぶつかった。彼は首を傾げる。
「知らないのか? ニオ。王家にお生まれになった人に、職人は作品をお送りするのが慣習なんだぞ? 見習いだろうがなんだろうがな」
父がにやりと笑うのを、彼は見逃さなかった。
「俺にも作れって?」
「作らないのか?」
彼の脳裏に、ふと美しい少女が浮かぶ。金と銀の中間の髪に、薄紫色の瞳を持つ少女が。
「……作る」
返った答えは小さかったが、しかし父の耳には届いたようだった。頭を乱暴になでられ、彼は不満そうに唇を尖らせる。
作品完成の後、彼はその奇妙な形の、しかしどことなく少女を思わせるその器に、『月の癒し』と、そう名付けた。