薄鈍色のパラダイム

第二話 「冷めたオムライス」

 夜中のアルバイトを終えて、私はぼんやりと商店街を歩いていた。灰を被ったような街の中で、ここだけはいつも光に満ち溢れている。形の悪い野菜を売る店の横を通り過ぎると、歯ごたえがありすぎると評判のパン屋、今にも枯れそうな花しか置いてない花屋、安さだけがウリの肉屋と続く。
 何十年か前であれば確実に潰れてるだろうそれらがいまだにあるのは、ここが捨てられた街だからだ。悪名高いあの企業に支配されていたこの街に、好きこのんで入り込もうとするものは少なかった。それが呆気なく消え去った現在でも、というところは不思議ではあるけれども。
「朝ご飯、どうしよう」
 私は肉屋の前で立ち止まった。準備中の札がぶら下がったシャッターが、風に吹かれてガタガタと音を立てる。この時間に開いているのは量だけが取り柄の惣菜屋のみだ。この商店街の人々はみんなお寝坊さんで、その代わり夜遅くまで開いている。理由は単に、この街の人々もそうだからだ。
 ずっと立ちっぱなしだった足が重い。一度止まってしまうと余計に辛くなる。複雑神経ブロックに慣れてしまうと、日常のちょっとした疲労も途方もないものに感じるのが厄介だった。まるで麻薬だと思う。そこに溺れずにすんでいるのは、触れられることにいまだに抵抗があるからだ。相手が医者であってもこればかりは仕方ない。
「どうしよう」
 寝起きするだけの粗末なアパートには何もない。寝不足でうまく働かない脳の中で、どうしようという文字だけが行ったり来たりする。今すぐ帰って寝るべきかもしれない。眠ってしまえば空腹なんて忘れてしまう。薄いコートの襟を合わせ、私はかろうじて一歩を踏み出した。ちょうどその時だった。
「イブキ!」
 気怠げな周囲の空気を裂くような、よく通る声が聞こえた。振り返った私の目にまず映ったのは、アッシュブロンドの髪だった。素人目にも上等だとわかるダークグレーのスーツに身を包んだ青年が、軽く手を挙げている。それが誰であるのか、一瞬私の頭は理解するのを拒否した。
「……オキヒロ?」
 穏和という文字を貼り付けたような笑顔を浮かべているのは、いつも背中を追っているオキヒロだ。まるで空白の時などなかったかのような言動のせいで、用意していた言葉が全て喉の奥へと押し戻されていく。
「そうだよ。え、まさか僕のこと忘れちゃった?」
「――いや、まさか」
 声に抑揚がないのはどうにもならなかった。かろうじて首を横に振った私は、目の前のオキヒロをまじまじと見つめる。
 スーツ姿という点を除けば、記憶にあるオキヒロとほとんど変わりなかった。ちょっと背が伸びたくらいか。眼差しも、声の調子も、私が知っているものと同じだ。オキヒロの後ろにあの部下がいなければ、時間が撒き戻ったと錯覚していたかもしれない。
「それならよかったよ。久しぶり、元気にしてた?」
「まあ、それなりに」
「痩せたんじゃない? ちゃんと食べてる?」
「一応、食べてるけど」
 オキヒロに身を案じられるとむずむずとする。ソウトの顔が脳裏をよぎり、息苦しくなる。できる限り視線を直接合わせないようにしながら、私は適当にやり過ごそうとした。心の準備がなかったのがまずかった。どうにか情報を引き出そうと質問を考えていたはずなのに、今はどれも思い出せそうにない。
「本当に? あ、よかったらご飯でも一緒に食べない? 実はこれから朝食を取ろうと思ってたところなんだ」
 さらりとオキヒロはとんでもない提案をしてきた。私は不覚にも思い切り目を丸くして、彼を見上げてしまった。咄嗟に財布の中身について考えてしまったのは、馬鹿としか言い様がない。問題はそこじゃあない。この状況で仲良くご飯なんて食べられるわけがない。何か聞き出す前にこちらがぼろを出してしまう。
「いや、でも……」
「ひょっとしてお金の心配してる? 大丈夫、奢るよ。これでもそれなりに稼いでるんだ」
 オキヒロは不器用に片目を瞑った。たまにお茶目な自分を演出するのが彼の癖だった。返答に詰まった私は、横目で部下の方を確認する。
 オキヒロよりも一回り大きいその男は、硬い表情のままその場に突っ立っていた。こちらへと視線を向ける気もないらしい。今までの私の行動には気がついていなかったのか、それともあえて反応しないだけか――。
「ああ、ひょっとして彼のこと気にしてる?」
 するとオキヒロは勘違いしたらしい。おもむろに背後を振り返ると、手をひらりと軽やかに振った。違うとも言えない私は咄嗟にうまい返答をすることができず。呻きにも似た吐息だけが空気を揺らす。
「マツヨシ、先に帰っていてくれないか? 僕はこの子と朝食を取ってから戻るよ」
 知らない人がいては私が話しづらいと、そう思ったんだろうか? それとも別の意図があるのか? マツヨシというらしい部下に向かって、オキヒロは笑顔でそう告げる。
 しかしその発言はマツヨシにも予想外だったようだ。先ほどまで我関せずという顔だった彼の眉根が寄り、瞳に剣呑な色が満ちる。その唇が動くことはなかったけれど、不満であることは私の目にも明らかだった。それなのにオキヒロは意に介した様子もなく破願している。
「お願いだから先に帰っていてくれ。まさか女の子との食事の邪魔をするなんて、野暮なことはしないだろう?」
 オキヒロが懇願すると、仕方ないと言いたげにマツヨシは首を縦に振った。こんな流れになってしまうと、私にはもう断るための言い訳が見つからない。「冗談じゃない」と突っぱねるには遅いし、不自然だ。お金も理由にはできない。いつ鳴ってもおかしくないお腹では、食欲がないという嘘も危険だった。
「じゃあ行こうかイブキ。何が食べたい?」
 当たり前のように歩き出したオキヒロは、私の手を取った。子どもの頃のように自然な動作に、私は文句を告げることもできない。仕方なく、手を引かれたまま歩き出した。
 オキヒロが連れて行ってくれたのは、女の子が好きそうなお洒落なレストランだった。町から車を少し走らせたところにある、山の麓に建てられた小綺麗な店だ。
 車なんて久しぶりに乗った。ガソリン価格の高騰に一般人が耐えられなくなって何年だろうか? 豪華な玩具になってしまった愛車を恨めしげに眺めていた父の姿も、今は記憶から薄れつつある。
「何でも頼んでいいよ」
 席に着いたオキヒロは、開口一番にそう言った。よほど稼いでるらしい。どうせならうんと高いものを頼んでしまおうかとも思ったけど、結局昔から好きなオムライスを注文することにした。無駄遣いはしないようにと気をつけているから、これを口にするのも久しぶりだ。
 一方、オキヒロが頼んだのはトーストセットというシンプルなものだった。そういえば朝は食欲がないからと朝食を抜きがちだったなと、今さらながら思い出す。同時に胸が痛くなった。
 懐かしんではいけない記憶が溢れ出す。家族がいて、裕福ではないけれども生きていくのには困らなくて、たわいない話をしたり愚痴を言ったりする友達に囲まれたあの頃が、灰色の今を押し流そうとする。戻らない日常が恋しくなった。苦しい。
 だから近況を尋ねるオキヒロの言葉に困って、私は愛想笑いを浮かべながら頻繁にガラスのコップを手に取った。問われるのが辛くて聞き返しても「仕事ばかりさ」という曖昧な答えが返ってくるのみだ。
 沈黙が痛い。早く料理が運ばれてこないものかと、オキヒロの視線を感じながら私はコップを両手で何度も包んだ。痛みをやり過ごすのには慣れたと思っていたのに、それは体だけだったみたいだ。こうして面と向かってしまうと、平静ではいられない。
「ねえイブキ」
「な、なに?」
「ちょっと聞きたかったんだけど。今はあの辺に住んでるの? 引っ越したの?」
 何気ないオキヒロの問いに、私の手が一瞬止まった。でも幸いなことにちょうどそのタイミングで、店員が料理を運んできた。懐かしいオムライスの香りに、空っぽだった胃が早く早くと急かし始める。トーストを目の前にしたオキヒロは、くすりと笑い声を漏らした。
「冷めないうちに食べちゃおうか」
「……うん」
 頷いた私はスプーンを手に取った。オキヒロの視線が一挙一動を追っているように思えて、妙に緊張する。オキヒロは何を考えてるんだろう。それとも何も考えていないんだろうか? 違和感などないはずの会話に何か見いだそうとしている私が、一人おかしいんだろうか? 過去と推測に追い立てられているようで、思考がひたすら渦巻く。
「ねえイブキ」
 またオキヒロが話しかけてくる。顔を上げずに返事だけした私は、オムライスをほんの少し口にした。小綺麗で可愛らしい店にぴったりの、上品な味だった。ふんわりした卵が口の中でとろける。甘い。
「ソウトのこと、聞いたんだけど」
 でも今度こそ本当に、私は手を止めてしまった。視線はオムライスに固定したまま、息までも止めてしまうところだった。スプーンを取り落とさなかっただけましだろうか。痛い沈黙が広がる中、私はゆっくりとオキヒロを見る。
「その様子だと、本当みたいだね」
「だ、誰から聞いたの?」
「久しぶりに戻ったら家に誰もいなかったから。それで近所の人に尋ねたんだ」
「そう」
 もっともらしい返答に、とりあえず首を縦に振るだけで精一杯だった。ソウトの件について、詳細を知る人は少ない。それをきっかけに心労、過労で次々と両親が倒れたことで、より悲劇の色合いを濃くしたせいもある。
 あの時よくしてくれた近所の人が軽々しくその話を口にするとは思えないが、相手がオキヒロならあり得るだろう。私たちとオキヒロが仲良くしていたことは、それこそ周囲の人はよく知っている。
「犯人は――」
「まだ捕まってない」
「そう、なんだ」
 だから私は追っていると、そう告げたいのをどうにか堪えた。その先にオキヒロを見つけたのだと。オキヒロが突然姿を消したのは、ソウトが殺される半年前のことだ。家出をほのめかす書き置きがあったため、誰もがそうだと納得していた。アルコール依存症の父親との二人暮らしに、ついに耐えられなくなったのだと。
 でも本当にそうだったんだろうか? その時既に何かが始まっていたんじゃないだろうか? 今の私にはそう思えてならない。オキヒロの笑顔を見ても、胸の奥にある違和感が拭えなかった。私はオキヒロから目を逸らすと、そっと窓の外を見る。
「それは、大変だったね。もしかして、そのせいであの家を……?」
 気遣わしげなオキヒロの声が、静かな店内に染み入る。他に客がいないのは救いなのかそうでないのか。横目でオキヒロを一瞥してから、私はオムライスの端をスプーンでつっついた。せっかくの好物なのに冷たくなってしまいそうだ。
「今、イブキは一人なの?」
 答えに窮していると、オキヒロは続けてそう尋ねてきた。心底案じているような声音に、希望が頭をもたげそうになる。いや、希望なのか絶望なのか、それさえももうわからない。私はかろうじて頷いた。
「もし、よかったら、僕のところに来ないかい?」
 思わぬ言葉に、私はついオキヒロを凝視した。彼はスープのカップに手をかけて、私をじっと見つめている。穏やかな緑の双眸に、何故だか全てを見透かされているような気になった。喉が鳴る。
「不自由はさせないよ」
「でも、うん、遠慮しておくわ。ありがとう」
 先ほどの話では、オキヒロは仕事の関係であの町から離れたということだった。嘘か本当かはともかく、今は一人なのだろう。生活にも余裕はあるのだろう。それはオキヒロの身なりを見ればわかる。
 オキヒロの家にソウトの死に関する手がかりがあるかもしれないと、一瞬だけ考えた。でもこのタイミングは危険だ。何も準備がない。それこそ罠かもしれないのに、いきなり飛び込むのは愚かだった。
 私は何気なくオキヒロの手元を見る。トーストの横にあるのはは小さなサラダくらいだ。ただ湯気の立つカップから漂う珈琲の香りは、私が好きなものだった。そういえばオキヒロも同じだったなと、そんなどうでもいいことを考えて落ち着こうとする私は馬鹿だろうか? 馬鹿だろう。墓穴を掘ってるも同然だ。懐かしんだって何も変わらないのに。
「そっか、それはとても残念だよ。少しは力になれるかと思ったのに」
「もう、私は昔の私じゃないのよ」
 そんなことを考えていたせいだろうか。それとも別の理由からだろうか。自分の口から飛び出した言葉に、正直私自身も驚いた。でも一度言ったことを取り消すことはできない。いたたまれずに目を逸らすと、私はスプーンを置いてガラスのコップを手に取った。
 水を喉の奥に流し込むと、少し頭が冴えた気がした。今のはたぶん、失言だった。オキヒロがどういう風に捉えたのだとしても、口にすべきではなかった。
「そうだね、年頃の女の子にかける言葉じゃなかったね。無神経でごめん」
 オキヒロは不思議な方向に解釈すると、そう謝ってきた。私はやはりうまく返事ができずに、かろうじて曖昧な微笑みを浮かべるに留める。
 冷静になろう。全てはそれからだ。判断も動くのも何もかも、それからでないと駄目だ。私は心の中で何度もそう唱えて、ゆっくり目を伏せた。冷めてしまっただろうオムライスを見下ろすのは、子どもの頃以上に悲しかった。

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