薄鈍色のパラダイム
第四話 「脳改造者」
日が沈もうという時刻にもなると、この辺りの治安はますます悪くなる。油断せず辺りへと視線をやりながら、私は薄いコートの襟を立てた。雑然としたビルの合間を吹き抜けていく風が、意志を持ったように頬へと突き刺さる。昼間にアスファルトを焦がさんとしていた太陽がいなくなると、この一帯は一気に熱を失った。
猫一匹いない路地裏には、形容しがたい臭いがたちこめていた。たぶん何かの薬品の臭いが混じっているせいだろう。そういう会社も確かに多かった。足下に転がる鉄の棒を跨ぐと、私は歩調を速める。
先ほどビルの上から見かけたのは、オキヒロの部下――マツヨシだった。彼がこの先のビルへ入っていくのを、この目でしっかりと確認した。左手にある大きな建物は食品工場の成れの果てだけど、右手の雑居ビル群はもう使われていない。マツヨシが入っていったのはその一つだ。
何かあるのだろうか? 彼が一人で行動しているというのも変だ。彼はいつもオキヒロの後ろにいる。まるでオキヒロを監視でもしているかのように、片時も離れることがない。
普段と違うということは危険ではあるがチャンスだ。しかも私は先日脳改造の調整を終えたばかり。筋力増強剤こそ使っていないが、複雑神経ブロックの効果はまだ切れていなかった。
トウガの施すこれらの違法医療は、ただの違法医療ではない。普通はこんなに長持ちしないし、注射だって何本も必要となる。
でもトウガは「超能力」を使っていた。ほんのわずかな距離だけ触れることなく物を動かす、ほんの少しだけ電気を走らせることができる。派手さには欠ける能力だけれど、使いようによっては大きな壁を越えることができた。これは彼の特殊な違法医療を受ける者たちだけが知る秘密だ。
私はもう一度、マツヨシが足を踏み入れたビルへと一瞥をくれた。マツヨシの姿が見えなくなってから一時間は経過していた。それでも彼が出てくる気配はない。他の誰かがそこへ入る様子もなかった。そもそもこの路地はほとんど人通りがない。
「あそこに何があるんだろう」
口の中だけで小さく呟くと、私は眉根を寄せた。ビルとビルの隙間に隠れているのもそろそろ限界だ。意を決して中を覗くしかないか。この感じでは何か取り引きしているとか、そういうわけでもないらしい。ひょっとしたら、どこかへ通じる抜け道でもあるんだろうか? この辺の雑居ビルならあり得る話だ。
周囲に人気がないことを確認して、私はそのビルへと近づいていった。半分ほど開いた扉は錆び付き、長いこと手入れされずに放置されている様子だった。その奥はひたすらの暗闇。ビルの中には明かり一つないらしい。おそらく電気も今は通ってないのだろう。足を踏み入れるのも躊躇うような有様だ。
私は深呼吸をすると、唾を飲み込み歩き出した。脳改造の調整が終わった今の私は、夜目もよく利く。少なくともマツヨシよりは有利だ。
足音を立てないようビルの中へ入り込むと、埃っぽい臭いがした。咳き込みたいのを我慢して、私は辺りへと視線を配りながらゆっくり進んでいく。
動物の気配もない。歪んだ窓枠と窓の隙間から、悲鳴のような風の音が聞こえてくるだけだ。その窓からわずかに外の明かりが漏れているけれども、隣のビルの壁が近いせいで本当にかすかでしかない。
このビルはどうもさほど広くはないようだ。慎重に進んでみたが、ただ砂っぽい床が広がっているだけだった。廃材も何もない。床に何か仕掛けがないかと目を凝らしても、それらしきものは見あたらなかった。あと怪しいものと言えば、二階へと続く階段だけだ。
マツヨシはこの上にいるんだろうか? それとも見逃しただけでどこかに抜け道があるんだろうか? しばし迷った私は、覚悟を決めて階段へと足をかけた。
よく目を凝らすと、所々埃が乱れた跡がある。誰かがこの階段を使ったのは確かだ。それがマツヨシかはわからないが、上に何かあるのは確実だろう。私には何の利もないものだったら、その時は引き返せばいい。
感覚のアンテナを張り巡らすような気持ちで、私は階段を上った。足音や息づかいには特に注意を払った。できるだけ埃を乱さぬよう、気配を悟られぬよう、異変を見逃さぬよう、一歩一歩上っていく。
それでも私の耳へと届くのは風の鳴き声だけだった。あまりに集中したせいで頭の奥がじんとする。脳改造は限界を取り払う、つまり安全弁を外すもの。その状況が続けばいつか何かが破綻を来す。
もう少しで二階だ。そう思った時、ぴちゃりとどこかで水の落ちる音が聞こえた。外は雨など降ってない。おそらく水道は止められている。それなのに何故? はっとした私は、その音の源を求めて首を巡らそうとし――。
「やはりか」
しかし、それができずに硬直した。
「お前、脳改造者だな」
声は真上から聞こえた。目だけをそちらへ向けると、階段横の扉の陰に人影があるのが見えた。その長い腕の先にある光る何かが、私へと向けられているのも。
「俺をいつもつけていたのはお前か?」
その声はマツヨシのものだった。その手にあるのはナイフか何かか。彼が腕を一振りでもすれば、それは私の首へと難なく到達するだろう。しかも私はまだ階段を上りきっていない。最悪だ。この距離になるまで気づかなかったなんてと、動悸が激しくなった。まさか。
「あの水音に気づくってことは、そういうことだろう?」
マツヨシも、脳改造者。どくどくと打つ心臓が私へと危険を伝え続けている。同じ脳改造者であれば、明らかに私の方が不利だった。元々の体格が違う上に、最悪な状況に置かれている。
「答えろ」
「――そうよ」
黙りを決め込もうかと思ったけど、徐々に威圧的になる声を聞き、それは諦めた。ここで判断を誤ってはいけない。でもこの次にくる質問なら、容易に予想できた。歯を食いしばった私は、次の行動に移る決意を固める。
「どこで脳改造を受けた?」
「さあ、どこでしょう?」
私が後ろへと足を踏み出す――つまり、落ちるのと、ナイフが動くのはほぼ同時だった。結んだ髪の数本を、銀の軌跡が絡め取っていく。転げ落ちるように階段を下りた私は、一階へ辿り着くとすぐさま跳ね起きた。ブロックのおかげで痛みはない。刹那、先ほどまで私がいた場所に、何かが突き刺さって弾かれた。
「矢!?」
針金にも見えるそれには矢尻がついていた。毒でも仕込んでるのではないかと考えると、背筋が冷たくなる。まさか私を殺すつもりなんだろうか? いや、それなら先ほどそうしていたはず。じゃあ何が目的なんだろう?
「避けたか」
でも悠長に考えてる時間なんてない。床を蹴って後退すると、間髪入れずにマツヨシが飛び降りてきた。何の苦もなく着地した彼は、単なる脳改造者ではないだろう。おそらく筋力増強も行っている。なるほど、単なる筋肉質な男じゃあなかったわけだ。
しかも彼が着ているのはあの灰色の防刃繊維のコート。一方の私は、まだ今日は筋力増強剤を使っていない。武器もベルトからぶら下げたナイフ一本だけだった。
「俺から逃げられると思うのか?」
威圧するようなマツヨシの双眸に、私はもう一歩後ずさる。「無理するなよ」と一昨日呟いたトウガの顔が、不意に脳裏をよぎった。明らかに私の判断ミスだ。このまま捕まったら何をされるのか、想像もしたくない……。
さらに一歩下がると、マツヨシも同じように近づいてくる。こちらを警戒しているのか、一気に詰め寄るつもりはないらしい。扉の位置はちょうど私の左斜め後ろだった。ただそこまで辿り着くには数秒は走る必要がある。彼に背を向けるのは危険だった。
一秒でも彼の気が逸れたら、何か物音でもしてくれたら、それが最初で最後のチャンスだ。私はやや腰を落としてマツヨシの顔を睨みつけた。気持ちで負けていたら終わる。このビルさえ抜け出すことができれば、後はどうにかなるかもしれないのに。
「イブキ」
不意に、緊迫感のない呼び声が聞こえた。それはもちろん、マツヨシのものではなかった。オキヒロの声だ。はっとした私は思わず顔を上げる。
次の瞬間、鈍い痛みが頭を貫いた。悲鳴を上げる間もなく、続いて熱を持った何かが腹部に突き刺さった。膝から崩れ落ちた私の目に映ったのは、埃を被った暗い床だ。倒れたのだろう。でもお腹の辺りは熱いのに、床の冷たさは全く感じなかった。
「イブキ!」
「オキヒロ殿」
「手荒に扱わないって言っただろう!?」
「しかしオキヒロ殿、彼女は脳改造者です」
オキヒロとマツヨシ、二人の声が二重になって聞こえてくる。これはトウガの調整を受けている時と同じだ。と考えたところで、目の前に白いものが転がっているのが見えた。
「ああ……」
それはカチューシャだった。私の脳改造の要となるそれは、今は無惨に歪んだ姿で煙を上げている。もう使い物にはならなさそうだ。
「やっちゃった」
何が起きたか理解して、私は微苦笑を浮かべた。マツヨシの放った何らかの跳び道具が、カチューシャを打ち抜いたのだろう。先ほどから続く頭痛はそのせいだ。徐々に痛みだけでなく、吐き気もしてくる。
「イブキ!」
誰か――おそらくオキヒロだろう――が駆け寄ってくる足音が聞こえた。でもそれさえ、今の私には薄布越しの世界のことに思えた。視界から次第に光が失われて、思考が徐々に鈍くなる。反響するような音だけが私の中に届き、あとは痛みと熱が体を支配していた。
複雑神経ブロックが効いているはずなんだけどなあ。ああ、それともその効果の及ばない深いところまで何かが突き刺さっているのか。内蔵には効果がないってトウガ言ってたっけ。その神経までは弄ってないって。
「イブキ、イブキ!」
オキヒロの悲鳴じみた声が何重にもなって追いかけてくる。死ぬんだろうかとぼんやりと考えた瞬間、体がふわりと浮くような感覚があった。薄暗い視界の中に、かすかにオキヒロの顔が見える。
「オキ……ヒロ?」
「イブキっ」
どうやら全く目が見えないわけではないようだ。ひょっとして脳改造の効果がなくなったせいだろうか? 薄闇の中でも煌めくように浮き立つアッシュブロンドの髪が、ぼやけながらも近づいてくるのがわかる。
「生きてるね、よかった」
オキヒロが柔らかく微笑む。私はどうも彼に抱きかかえられているらしい。すると思ったよりもすぐ近くから、マツヨシの声が聞こえてきた。
「彼女は脳改造者です」
「それはわかったから」
「本当にですか? ことの大きさがわかってますか? 彼女は我々の後をつけていたんですよ?」
「それはいいんだよ、そうし向けたんだから」
私はどうにかオキヒロの顔を見上げ続けた。そうし向けたとはどういうことだろう? ともすれば意識を手放しそうになる中、私は必死に考える。マツヨシの方を見ているオキヒロの横顔には、明らかな怒りがあった。あまり見たことのない表情だ。
「そう、し向けた……?」
「ん? ああ、ごめんねイブキ。聞こえちゃってた? 別に悪意があったわけじゃあないんだ。僕からはなかなか行けなかったら、だったら代わりにイブキに来てもらおうと思って」
「ど、どういう意味?」
オキヒロが私をまた見下ろす。鈍った思考では、彼の眼差しが伝えようとするものが理解できなかった。声もかろうじて聞き取れている程度だし、頭痛も徐々に強くなっている。体も重い。
「イブキと一緒にいたいってことさ」
オキヒロは微笑んだようだった。ではどうして突然いなくなったりしたんだろう? 純粋な疑問が浮かび上がり、嫌な予感が胸の内を渦巻き始める。瞬きをすると、歪んだ視界がさらに曇っていった。
「わからない? ――手紙、届いてなかっただろう?」
「てが、み?」
「僕からの君への、恋文って奴かな」
さらりとオキヒロが口にした単語は、この場に相応しくないものだった。あまり役立っていない瞳を私はめいっぱい見開く。その途端、頭が割れそうな痛みが後頭部に走った。喉の奥からかすれ声が漏れる。それでもどうにか呻き声を上げることなく堪えると、オキヒロはゆっくりと瞳をすがめた。
「たぶん、ソウトが破り捨てたんだろうな。声かけようと思って近づいた時も、何度も阻まれたし」
ぼやくように言うと、オキヒロは肩をすくめた。え、という間抜けな声が、私の唇からこぼれ落ちた。オキヒロは何を言ってるんだろう? ソウトが破り捨てたって、何の話だろう? 阻まれたって、どういうことだろう?
違和感がさざめくように私の内側に広がっていく。するとオキヒロの顔がわずかに近づき、顔を覗き込まれた。揺れたアッシュブロンドの髪が私の頬を撫でる。
「気づいてなかったの? イブキは鈍いね」
「鈍い、って……」
「ソウトは僕と同じで、イブキのこと好きだったんだよ」
全ての音が消えたような気がした。オキヒロの言葉だけが頭の中でぐるぐると回り始めた。重なり合いながらも私の中に溜まった声が、冷静になろうとする思考を押し流していく。
「普通に姉が好きってレベルじゃなかったね、あれは。イブキの前では普通にしていたかもしれないけど。彼がいる限り僕はイブキには近づけなかったよ。子どもの頃はともかくとして」
「え、え、え?」
喉から勝手に声が漏れる。ソウトの笑顔が遠ざかっていく。別世界の出来事のようで理解が追いつかなかった。やや遠くでマツヨシのため息が聞こえたような気がしたけれど、正直それどころではない。すぐ目の前にあるオキヒロの瞳を、真正面から見据えるしかなかった。
「泣かないでよイブキ。それとも傷が痛む? ああ、ごめん。傷に障ったのかな? そうだよね、早く医者に診せないと」
どうも勝手に涙がこぼれていたらしい。けれどもそれが何によるものなのか、私にはわからなかった。痛いし、熱いし、苦しいし、呼吸もしづらい。脳改造の強制遮断のせいだろうか? 自分の体が自分のものでないかのようで、思うように動かすこともできなかった。
「大丈夫だよ、イブキ」
オキヒロの顔がやおら離れ、その指先が目尻の涙を拭った。私は全てを拒否するような気持ちで、そのままゆっくり目を瞑った。