white minds 第一部 ―邂逅到達―

第一章「影の呼び声」1

 異常な『気』を察知することには、慣れていたはずだった。それなのに見逃したのは、心地よい春の陽気に負けていたせいだ。
 微睡みから抜け出した青葉あおばは『異変』に気がついた途端、深く考えずに走り出した。反射にも近い。慌てたせいで上着を忘れてきたが、寒いと感じるような気温でもなかった。大通りから脇道に入り、さらにその奥の路地裏まで足を踏み入れても、涼しいと思う程度だ。
 まだ午睡中だった仲間たちを置いてきたのは正解だったと、青葉は独りごちる。起こすのが面倒だったからというのが理由だが、こんな狭い場所では人数がいても身動きが取れない。短い黒髪を手で適当に整えながら、彼は汚れたダンボールを飛び越える。
「まあ、それにしたって、何も言わずにってのはまずかったかもな」
 自嘲気味な言葉が漏れるのは、彼が目指す先にも仲間がいるためだ。自転車やバイクが目につく狭い路地の向こうには、三つの『気』があった。そのうち一つは、仲間の一人である梅花うめかのものだ。異常事態に気づいて一人で探りに行ったのだろうか? それならば起こしてくれてもよいのにと思うが、自分の行動を振り返ると強くも言えない。
「いや、あいつの場合は常習犯だし」
 駆けながら、彼は頭を振った。障害物が次々と現れるため走りにくい。何度かペットボトルを盛大に蹴飛ばしてしまった。しかし幸いなことに、迷惑そうに脇へと避けていた通行人は、奥へと進んでいけば見あたらなくなった。もちろん、異変を察知したからではないだろう。一般人は『気』を感じ取ることができないから、気づけるわけがないのだ。
 人間ならば誰もが持っている『気』と呼ばれるもの。把握できない普通の人間にとっては存在しないも同然だが、青葉たち『技使い』にとっては違う。何気なく辺りの様子を視界に入れるがごとく、さほど意識しなくてもその情報は手に入る。第六の感覚と言ってもいいかもしれない。不思議と個性もあるのだが、感情も反映されてしまう、ある意味厄介なものだ。
 そして何より重要なのは、技使いのそれは普通の人間とは異なるということだ。わかりやすいのは強さだろう。技使いは大概強い気を有している。だから技使いであれば、気の持ち主が技使いであるか否かはすぐにわかる。相手が実力者の場合は、隠していなければという条件付きだが。今、青葉が目指しているのも、そういった強い気であった。
「何でもなきゃいいんだけどな」
 取り越し苦労であればかまわない。だが、この無世界むせかいで技使いの気が三つも集まっているのは異常だ。青葉たちが元々住んでいた神魔世界しんませかいであれば珍しくもないことだが、こちらの世界には通常技使いは存在しない。気ままに空を飛び回る子どもや、ついうっかり山を焦がしてしまう迷惑者もいないのだ。
 それなのに技使いが集まっているというのは怪しい。また違法者だろうか? もし違法者ならば取り締まらなくてはならない。それが彼ら神技隊しんぎたいとしての役目だ。そのために派遣されたのだから。
「一日に二度も遭遇だなんて大漁だな」
 それでもつい皮肉を口にしたくなる。青葉たちは午前中にも一働きしたばかりだった。その疲れと安堵がありうたた寝してしまったのだが、完全に油断だった。また梅花一人に仕事をさせてしまう。
「あーくそっ。間に合えばいいけど」
 だが幸いにも、案じている時間はそう長くはなかった。細い道を駆け抜けて突き当たりを右へ折れた先に、小柄な少女の後ろ姿が見えた。緩やかな風に煽られた黒髪に遮られ、表情は見えない。けれどもその背中から、また『気』から、明らかな緊張が伝わってくる。
「おい梅花!」
 すぐさま走り寄ろうとした青葉は、少女――梅花の向こう側にいる青年たちを目にして喫驚した。そこには若い男が二人、立ちはだかっていた。おそらく青葉よりも年下だ。そのうち背の低い方の手がうっすら光を帯びているのを、青葉は信じがたい思いで見つめる。まさか技を使おうとしているのか? いつ誰が通りかかるともわからないこんな細道で?
「青葉?」
 梅花が振り返った、その次の瞬間。青葉は声を掛けたことを後悔した。背の高い方の男が、今が機会とばかりに動き出した。地面を強く蹴り上げ、男は拳を振り上げる。
「梅花っ」
 青葉の叫び声が狭い路地に響く。はっとして身を捻った梅花の脇腹を、男の拳が掠めた。彼女の薄手のコートが翻り、男の手に絡みつく。そのせいで体勢を立て直しきれずに、彼女の体が傾いだ。青葉が手を伸ばすも、届く距離ではない。
 男の手はそのままコートを掴み、勢いを利用して梅花の背を壁へと叩き付けた。駆け寄る青葉の耳に、嫌な音がこびりつく。男の手がさらに振り上げられる様を見て、青葉は躊躇うことなく跳躍した。
 飛び上がった青葉に気づき、梅花はそのままぴたりと壁に背を張り付かせた。彼女への追撃を試みていた男の目も、青葉へと向けられる。避けるか受けて立つか、男は一瞬迷ったようだった。その隙を青葉は逃さなかった。技を使うつもりはない。狙うはコートを掴む男の手。
 まずは拳で男の肘を一撃し、手のひらが開かれたところで脇腹に膝蹴りをお見舞いする。呻き声と鈍い音がした。それでも青葉は気にせず、体勢を崩した男をさらに蹴り上げた。その硬い手応えと重量感から、それなりに鍛えられている体だと判断する。たまらず後方へと吹っ飛んだ男は、そのまま地面の上で一回転した。
「ダン!」
「ちょっと待って青葉っ」
 たたずんでいた背の低い男と、梅花の声が重なった。前へと一歩踏み出しかけた青葉の体に、細い手がしがみついてくる。勢いを止められ彼は肩越しに振り返った。顔を歪めた梅花がすぐ背後にいる。強く握ったせいでますます白くなった彼女の指先を、彼はちらりと見下ろした。
「何で止めるんだよ」
「いいから落ち着いて」
 服を掴んでいる手を引きはがそうとしても、梅花は頑として離そうとしない。仕方なく青葉は、倒れている男の方へと視線を転じた。腕を押さえて呻いている男を、小柄な男が困った顔で支えている。二人は仲間なのだろう。これといった特徴のない服を着た、一見するとそこら辺にいる単なる若者だ。ただし、その気の強さは技使いのものに間違いない。
「彼らは、私たちと同じ神技隊よ」
 続く梅花の言葉に、青葉は耳を疑った。同じ神技隊と言われても、にわかには信じがたかった。それならば何故襲ってきたのか? 何故梅花と対峙していたのか? 神技隊の仕事は、無世界へと不法侵入した違法者たちを取り締まることだ。梅花を違法者と間違えたにしても、話も聞かずに攻撃してくるのはおかしい。大体、彼らは技を使おうとしていた。公で技を使うことを、神技隊は禁じられている。
「同じ神技隊? まだそんなこと言ってるのか。って、いてて……」
「ダン、大丈夫? 折れてないよね、これ」
「折れてたら治せよ、ミツバ」
「もう、いきなり無茶するからだよ」
 会話を交わす謎の男二人――梅花曰く神技隊のようだが――を、青葉はじっくり観察した。背の高い方がダン、低い方がミツバというらしい。よく考えてみると、ミツバの容姿はこの世界ではあまり一般的ではなかった。淡い金髪に緑の瞳というのは、この辺りではあまり見かけない。もっとも神技隊であれ違法者であれ、容姿は決定打とはならない。この世界に本来住んでいる人間ではないという点では同じだ。
「こいつらが神技隊だって言うなら、どうしてお前を襲ってるんだよ」
 青葉は首を捻りながら、服を握る梅花の手をゆっくり解いた。今度は抵抗されなかった。彼がすぐに攻撃に移ることはなくなったと判断されたのか。彼とて好きこのんで戦おうとしたわけではない。ただ、彼女が危険に晒されていたという事実は疑いようがなかった。彼がいなかったらどうなっていたのか、考えたくもない。彼女はゆっくり進み出て、彼の隣に並んだ。
「何だか人違いをしてるみたいなのよ」
 顔をしかめた梅花は、座り込んでいる二人へと目を向けた。すると聞き捨てならないとばかりに、ミツバが緑の瞳を細めて唇を尖らせる。
「人違いって、今朝は僕らを襲おうとしたでしょう! その顔を見間違えるわけないよ!」
「――こんな感じなのよ」
「なるほど」
 肩をすくめた梅花の背中を、さりげなく青葉は確認する。血が滲んでいる様子はないが、痛むのかやや体勢が不自然だ。あれだけしたたかにぶつけたのだから、それなりの衝撃だっただろう。彼女は顔に出さないからわかりにくい。これは即誤解を解いて帰るべきかと、青葉は気持ちを入れ替える。
「今朝っていったらオレたち、違法者の取り締まりをしてたよな」
「ええ」
 青葉は朝のことを思い出す。数日間追いかけていた違法者たちを、早朝ようやく捕らえることができたのだ。異世界へと逃げ出してやむにやまれず技を使っているというよりは、金儲けのために技を利用しているあくどい三人組だった。計画的にあちこちで犯行を企てては、神技隊に見つかる前に逃げ出すというのを繰り返しているようだった。その三人を元の世界――無世界へと送り届けて戻ってきたのがつい先ほど、お昼過ぎのことだ。
「本当に? だって同じ顔で同じ背丈だったし」
 青葉たちを見上げつつ、ミツバはまだ怪訝そうな顔をしている。よほど似ていたのか? そんなわけがないのにと訝しげに思いつつ、青葉は唸った。こんな美少女がそこらに何人もいるわけがない。いたらすぐに目につく。だからこそ、ミツバも「見間違えるわけがない」と言ったのかもしれないが。
「今朝のことは知りません。私たちは第十八隊シークレットです。ミツバ先輩」
「あれ? どうして僕の名前を?」
 ミツバが首を傾げると、そのせいで姿勢が崩れたのか、支えられていたダンが顔を引き攣らせる。嘆息した梅花は長い髪を背へ流し、ちらりとだけ青葉を見た。その視線の意図することがわからず、青葉は眉根を寄せる。だが彼が問いかける前に、彼女は口を開いた。
「私は以前、神技隊を選抜する立場にいましたから。ですから、あなたたち第十六隊のことも知っています。それに、先ほど名前を呼ばれてましたよね」
 梅花の説明に、「あーそっか」とミツバは相槌を打った。どうも気の抜けた青年だと、青葉は内心でため息を吐く。声の高さを考えると、少年と呼んだ方がいいかもしれない。しかし第十六隊ということは、この無世界に派遣されて四年目に突入していることになる。十歳で神技隊に選ばれるなどということはないから、やはり青年か。
「選ぶ側にいたってことは、僕らのことも知ってるんだ?」
「はい。ミツバ先輩もダン先輩もザン出身ですよね」
 さらりと答えた梅花に、ミツバとダンは眼を見開いた。それも彼女の記憶力のなせる技であることを、青葉は知っている。普通はこんなにすんなりとは出てこないだろう。ただでさえ異世界に派遣されるということで、覚えることはたくさんあった。いまだに青葉も色々不自由している。勢いと笑顔で何とかごまかしていることも多い。
「選抜時には、あなたたちのリーダーと会ったこともありますよ」
 梅花はそう付け加えた。それは青葉も初耳だった。彼女はかつて選抜する側にはいたが、実際に選ばれた神技隊との接触はなかったはずだ。当時まだ十代前半であった少女に選抜されていたと知れたら、さすがに心証がよくないだろう。そういった理由だと聞く。
「え? 本当に?」
「四年も前の話ですし、あちらが覚えてるかどうかは知りませんが」
「えーそれじゃあ証拠にならないよ」
「そうですね」
 顔をしかめているミツバに対して、梅花は淡々と答えている。相変わらずの愛想のなさだと、青葉は胸中で苦笑した。そんな風だから余計に誤解を招きやすいのだ。冷静沈着無表情であることが、いつもよい結果を導くとは限らない。印象の影響力は大きい。
「そうですねって、君さあ」
「客観的にはそう判断されるでしょう」
 せめて少しでも微笑んでみせたらいいのにと、青葉も思わないわけではない。そうでなくとも身元を証明する物がない以上、信用してもらうのは難しい。青葉とて、目の前にいるこの二人が本当に神技隊なのか、いまだ信じがたい気持ちだった。「梅花がそう言うのだから間違いはないだろう」と思えなかったら、違法者として扱っていたかもしれない。
「ダンはどう思う?」
「さっきの奴はやたらと笑顔だったから別人じゃないか? っていたた……」
「もう、またそんな根拠に乏しいことを」
 呻くダンを、困惑顔のミツバが支え直す。堂々めぐりのような気がしてきて、青葉は頭痛を覚えた。神魔世界へのゲートにでも案内すれば信じてもらえるだろうか? しかしおとなしく一緒に来てくれるかどうかもわからない。そんな風にあれこれ青葉が考えていると、ダンの肩を掴みながらミツバが立ち上がった。
「……まあ、今は僕たちを攻撃する気はないみたいだよね」
「そもそも、そんなつもりはないですから。公で技を使うことは禁じられていますし」
「さっきは使ってきたのに?」
「だからそれは違う人です」
 同じやりとりを繰り返してきたのだろう、梅花はややうんざりとした声音で対応する。表情だけは変わらないが。青葉も何か答えなければと思ったが、喧嘩腰な文句しか浮かんでこなかったので止めた。火に油を注ぐだけだ。梅花は言葉を重ねることに疲れたのか、それきり黙り込んでいる。
「なあミツバ、もう戻ろうぜ。オレはこんなだから戦わずにすむなら好都合だ」
 沈黙が広がりそうになる中、へらへらと笑ったダンが左手をひらひらとさせた。長い前髪を邪魔そうに除けてから、彼はミツバの頭を叩く。小気味よい音がすると同時に、ミツバは思い切り眉根を寄せた。しかし不平を口にすることなく、ため息一つ吐いてから青葉たちへと向き直る。
「そうだね。ダンにしては賢い選択じゃないかな」
 軽口を叩いたミツバの目は、笑っていなかった。不審の色がうかがえる。青葉は喉元まで出かけた言葉を、すんでのところで飲み込んだ。腹の底からふつふつと怒りがわき上がってくるのを自覚しつつ、堪える。
 そろそろ他の仲間たちが異変に気がついてもおかしくなかった。騒ぎが大きくなり人目につく前に、一旦両者とも引いて頭を冷やした方がいいだろう。青葉は黙って梅花の手を引く。すると、踵を返そうとしたミツバが不意に尋ねてきた。
「ところで、名前を教えてくれる? 僕らだけ知られたままって不公平でしょう」
「梅花です」
「――青葉」
 躊躇うことなく即答した梅花に、渋々と青葉も続いた。勝手に勘違いして襲ってきたのだから、不公平も何もないと思うのだが。しかし再び言い争いになっても仕方ないので、ここは黙っておく。ミツバは何度か名前を小声で繰り返してから、大きく首を縦に振った。
「わかった。一応、こっちのリーダーに確認を取ってみる。君たちに誠意があるなら、朝日が昇った時にここで落ち合おうよ。話はそれからってことで」
「私はかまいません」
 梅花は平静な様子で頷いたが、青葉は思わず顔を強ばらせた。「誠意があるなら」という言い様は高圧的だ。よほど信用がないらしい。それでもおとなしく引き下がろうとしているのは、実力だけは認めてもらったと解釈してもいいだろうか。嬉しいことではない。
「じゃあなー」
 黙って背を向けたミツバの横で、にやにや笑ったダンが左手を振った。どっと疲れを覚えた青葉は、苦笑を保つだけで精一杯だった。

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