white minds　第一部　―邂逅到達―

第二章「迷える技使い」６

　先頭を歩いていた滝が立ち止まった理由は、問わずともわかった。滝の横へと並んだ青葉は、おもむろに耳の後ろを掻く。
　青葉たちの前に立ちはだかったのはカイキだった。前触れもなく空から勢いよく降りてきたカイキは、その後何故だか固まっている。行く手を遮ってはいるが、戦いを挑んでくる気配はない。アサキと同じ顔が青ざめている様を見るのは、不思議な心地だった。
　しかしこの状況を一体どうすればいいのだろう？　相手が襲いかかってこないのにこちらから攻撃するというのも変な話だ。青葉たちは戦いたいわけではない。
「あー最悪。どうして見つけたのがこういう奴らかな。まずいだろ、これ、絶対」
　その場を動くことなく、カイキはぶつぶつと呟く。その視線は一度青葉たちへ向けられた後、落ち着かなく辺りを彷徨っていた。どうも逃げ出す機会をうかがっているようにも思えた。意外だ。だが青葉たちが判断に迷っているのは、そのせいだけではない。考えてみると、アースたちをおびき出してどうするのかというのを聞いていなかった。ラウジングが何か仕掛けるのではと勝手に思っていたのだが、その当人はいない。
「どう考えても巡り合わせが悪すぎるだろう。一旦退却か。いや、アースに知られたら何言われるかわからないし」
　浮かない顔でひたすら文句を言っているカイキは、心ここにあらずな状態だ。困った青葉たちは顔を見合わせた。滝もシンも困惑の色を瞳に浮かべている。こういった事態はさすがに想定していない。カイキを無視して通り過ぎるべきじゃないかという間の抜けた案が、青葉の中で浮上してきた。見なかったことにすればいい。その方がこの場合は双方のためになるような気がする。今のカイキならきっと何もなかったことにしてくれるだろう。きっとそれが正しい選択に違いない。
　しかし、事はそう上手くは運ばなかった。再び青葉たちが目と目を見交わせた時、不意に左手の枝が揺れた。風もないのに葉擦れの音が広がる。青葉が慌てて辺りの気配に意識を向けると同時に、カイキの愚痴が途切れた。
「レーナ！」
　左上を仰いだカイキの顔が、喜びに彩られた。虚ろだった深い紫の双眸に光が灯る。
「来てくれたのか！」
　すとんと木から地へ降り立ったのはレーナだ。一本に結わえられた髪を背中へと払い、彼女はちらりと青葉たちを見やる。そして余裕の滲む笑顔のまま、軽い足取りでカイキの横に並んだ。梅花と同じく体格は華奢だし、気を隠しているから威圧感もないのに、カイキよりも彼女の方が強そうに見える。たたずまいのせいなのか？　カイキは彼女へと目を向け、愛想笑いを浮かべた。
「いやぁ、レーナ助かったよ。オレ一人じゃどうしようもなさそうで、正直どうしようかと思ってて」
　照れくさそうな、ばつの悪そうな声音だった。頭を掻くカイキの方は一顧だにせず、レーナは深々と相槌を打つ。彼女の視線はどこにも定まっていなかったが、それは周囲を探っているようにも思えた。口角は悪戯っぽく上がっているのに、視線の強さからは抜かりない印象を受ける。
「情けない顔をするな。今にもこの世の終わりみたいな気配を感じたので来てみたのだが、正解だったな」
「あれ？　気は隠してたはずだけど？」
「それでも伝わってくるような悲しみだったぞ」
　レーナはくすりと笑った。カイキの言葉に嘘はない。目の前にいる青葉たちにも感じられないくらい、カイキはしっかり気を隠していた。それでは一体、彼女は何を感じ取って来たというのか？　青葉はぞっとする。まさか気を隠していても、彼女の前では無意味なのか？
「なんだよそれ。レーナはたまに意味不明なことを言うよな」
「意味不明とはひどいな。端的に言うと、カイキの気の隠し方が下手ってことだ。ここは亜空間なんだから、もっと慎重にいかないと。感情は、精神は、空間へも作用するんだぞ」
「そういうのが意味わからないんだって」
　レーナのさらなる説明にも、カイキは首を捻っていた。青葉も彼女の言葉は理解できなかった。感情が気に表れるのは技使いの常識だが、亜空間だからというのも、空間へ作用するというのも、何のことを指し示しているのかわからない。
「お前の話は難しすぎるんだよ」
「そうか。それなら仕方ない。呑気にお喋りしている時間もなさそうだしなあ。どうやら二対五になりそうだ」
「……え？」
　軽く肩をすくめたレーナは、トンと軽くカイキの腕を叩いた。突然彼女の口から飛び出してきた五という数字に、青葉は首を傾げる。それは一体どこから出てきたのか？　青葉たちは三人しかいない。慌てて後ろを振り返ってみたが、人影はなかった。すると隣にいる滝が、弾かれたように上空を見上げる。
　青葉も滝に倣った。空に、二つの気があった。先ほどまでは存在していなかったはずだが、今ははっきりと感じ取れる。目を凝らすと、薄青の空から二人の女性が降りてくるのがわかった。そのうちの一人はストロングのレンカだ。もう一人はピークスの一員だったと思うが、名前が思い出せない。
「滝！　大丈夫！？」
　風を纏わせ着地したレンカは、髪を揺らしながら近づいてきた。かすかに顔をほころばせた滝は、大きく頷く。彼の横顔に安堵の色が広がるのが、青葉にも容易く見て取れた。これだけわかりやすい表情の変化は、滝としては珍しいかもしれない。
「ああ。大丈夫も何もまだ戦闘は始まってない」
「よかった」
　ついで地上に降りたもう一人の女性も、レンカに続いて走り寄ってきた。赤みのある茶色の髪を軽く結わえた、長身の女性だ。無口な人間が多いピークスの中でも、比較的発言している方だったと記憶している。彼女の方へと一瞥をくれてから、レンカは髪を背へ流した。
「ずいぶん探したのよ。でも空からだと、空間のねじれのせいで何だか地上の様子がわかりにくくて。たまたま男の人が移動したのが見えたから、ジュリと一緒に来てみたの」
　レンカはそう説明しつつカイキの方をちらりと見やった。長身の女性の名前はジュリというらしい。二人はどうやら空から仲間たちを探す方法を選択していたようだ。そこでカイキの動きに気づいたのか。カイキも空から降りてきたので、感知しやすかったのかもしれない。
「そうか、助かった」
　滝は再び首を縦に振った。緊迫した空気が和らぐのを感じながら、青葉はもう一度レーナたちの方へと向き直る。レーナ相手に二対三だと心許ないが、五人いると状況は変わってくる。だが顔を引き攣らせているカイキの横で、レーナは満足そうに微笑んでいた。腰に片手を当てたたずんでいる姿は悠然としている。
「ほら、五人になっただろう？」
「おいレーナ、本当に大丈夫か？　オレはあいつらを相手する自信なんてないぞ」
　一方、カイキは先ほどから何故か弱気だった。得体の知れない敵ではあるが、容姿のせいか少しだけ気の毒になってくる。アサキがこんな風に気弱そうにしていたり狼狽えている姿というのは、今まで見たことがなかった。気遣い上手で頼もしいアサキとは違い、カイキはどうも頼りなく見える。顔が同じでも、表情のせいでこうも印象が変わるとは驚きだ。
「だってあいつら強いだろう、絶対。格好いい技使いや、可愛い技使いが強いってのはオレだって知ってるんだからな」
　レーナの肩を掴んだカイキを見て、青葉は脱力しそうになった。妙に戦いていた理由はそれらしい。そんな話など、青葉は一度も聞いたことがなかった。技使いであるか否かもそうだが、その実力に関しても何が決め手となっているのかわかっていない。カイキの言うような法則があるとは思えなかった。
　青葉はちらりと、横目で滝たちの様子をうかがった。滝もシンもどこか遠い目をしていた。どうも気の抜ける敵だと、眼差しが訴えている。後ろにいるレンカたちの様子までは把握できなかったが、神妙な表情を続けているとは思えない。すると視界の端で、レーナがカイキの手をやんわりはね除けるのが見えた。
「まあ、間違ってはいないな」
「だろう！？」
「でも負けることはないよ。そうだな、どうせならカイキは見学でもしているか？」
　両手を挙げたカイキを尻目に、レーナは右手を前方へ掲げた。その手の中に白い不定の刃が生み出される。一気に空気が変わった。青葉たちの間に緊張が走り抜けた。ふざけた会話もここまでらしい。揺らめく白い刃の向こうでは、レーナが瞳を細めている。本当にこの五人と一人で戦うつもりなのか？　いくら彼女が強くとも、さすがに舐めすぎだ。こちらには滝もいる。
「おいおい本気かよ」
「そろそろ実力の差を知ってもらわないといけないしなあ」
　手を伸ばしたカイキを振り切り、レーナが動いた。青葉は左手へと一旦飛んだ。この狭い場所で五人が同時に動くのには限界がある。まずは少し離れないとろくに剣を使うこともできない。皆が同様の判断をしたらしく、後方にいたレンカとジュリはさらに後ろに、滝が右手に、シンが前方に出たのが確認できた。
　炎の刃を生み出したシンとレーナがまず対峙することになった。体格差は明らかだが、彼女の眼差しは泰然とした色を呈している。シンの炎の剣が迷いなく振り下ろされた。だが身をかがめて地を蹴ったレーナは、青葉の予想に反して刃と刃を触れ合わせようとはしなかった。
「……え？」
　青葉は目を疑った。ほんの一瞬のことだった。舞うように体を回転させた彼女は、軽く右手を振るった。それだけのことに見えた。しかし次の瞬間には、シンはその場に膝をついていた。空を切った炎の刃が、火の粉を飛ばしながら空気へと溶けていく。彼女はさらに半回転しながら伸び上がるように地を蹴った。白い刃の切っ先が、どうにか立ち上がろうとしたシンの左腕をかすめる。
　何が起こったのか理解する時間はなかった。声を出す暇もない。青葉が炎の刃を生み出すのと、レーナの刃が滝に向けられるのはほぼ同時だった。滝の手には既に黄色の不定の刃が握られている。雷系の技だ。
「滝！」
　後方からレンカの警告する声が響く。剣を構えようとした滝へと迫ったレーナは、やはり刃を交えようとはしなかった。再び踊るように体を捻った彼女の鼻先を、滝の剣がかすめる。いや、そう思った次の瞬間には、滝の手から刃が消えていた。そのまま回転した彼女の白い刃が、よろめいた滝の肩を斬りつける。
「滝にい！」
　声を上げながら、青葉は走り出した。こちらから動かなければ駄目だと、直感が叫んでいた。肩を押さえて地へと転がった滝にには目もくれず、レーナはまた動き出す。今度は青葉の方へと向かってきた。相手の顔が顔なのでやりにくいにもほどがあるが、そんな言い訳をしている場合ではない。不敵な双眸に見据えられながら、青葉は軽く跳躍した。
　今まで以上に精神を集中させる。間合いは問題ない。気合いを込めると、不定の刃がひときわ大きくなった。レーナの動きも目で捉えられる程度だ。
　青葉が剣を振るおうとした瞬間、レーナの右手がほんの少し傾けられた。その手の中にある白い刃がかすかに震えたのを、肌で感じ取る。だが気づいた瞬間、左手に鈍痛が走った。鉛のように重くなった左腕のせいで、空中で体勢が崩れる。振るった剣の軌跡も変わった。それは前方に迫る彼女の頭上を通り過ぎただけ。かすめられた黒髪が数本、彼の目の前を舞った。
　しまったと思うも、もう遅い。勘のみでそのまま左へと体を捻ってみたが、右足に襲い来る鋭い痛みが絶望的な状況を伝えてきた。左手は痺れたように動かないのに、右足も重くなっていく。
　傾きかけた視界の中で把握できたのは、身をかがめていた彼女が飛び上がる姿、そしてその手の刃が長く伸びている様だった。まるで蔓のように細長く伸びた白い刃は、しなりながら彼女の動きに合わせて舞う。それは剣とは思えないしなやかな軌道を描いていた。
「くそっ」
　かろうじて転ぶことなく着地した青葉は、左足と右手で体を支えた。右足まで痺れのような不快感に襲われている。痛いのか重だるいのかも判然としない。わかっているのは、思うように動かせないという事実だ。
　もう既に、レーナの視線は青葉には向けられていなかった。次の狙いはジュリのようだった。駆けるレーナの長い髪が、場違いなくらい優雅になびく。額に巻かれた布の端も、軽やかに踊る。
　伸びた白い刃の切っ先を、ジュリの生み出した結界が弾いた。ようやく青葉にも、レーナが何をやっているのかわかってきた。彼女はただあの不定の白い刃を振るっているだけだ。ただし、それは本当に「不定」だ。おそらくは彼女の思う通りに伸びては縮み、しなっているに違いない。その動きが読みにくいのは、彼女がやたらとよく回転しているせいだった。
「何なんだよ」
　重りのような右足に手を添えながら、青葉はどうにか体勢を整える。あれは異常だ。あんなにでたらめな動きをしているのに、相手の攻撃が見えているわけがない。距離が測れるわけがない。おそらく、見ているのではない。感じている。気だけで相手の動きを、技の軌道を把握している。言葉で説明するのは容易いが、まず間違いなく人間業ではなかった。
「冗談だろう？」
　青葉の口から苦笑が漏れた。ジュリへと迫ったレーナの刃が、結界を貫通する姿が見えた。薄い透明の膜が消し飛び、白い刃がジュリの肩先をかすめる。がくりと力の抜けたジュリの体をそのまま左手で突き飛ばし、レーナは身を翻した。黒い双眸は既にレンカへと向けられている。
「あなた、何者なの？」
　結界を張りながら立ち尽くしているレンカが、緊迫した声で尋ねた。そこでレーナは動きを止めた。軽く頭を傾けつつ、右手の刃をまるでおもちゃで遊ぶように伸び縮みさせる。青葉は気が遠くなるのを感じた。「化け物」という単語が頭をよぎる。そういった表現をできるだけ使いたくはないのだが、そう思ってしまうほどにレーナは強かった。
「われは、今はレーナでしかない」
　答えるレーナの声音は神妙だ。わかるようでわからない返答に、レンカも首を捻ったようだった。突然現れたこの少女は、本当に人間なのだろうか？　根本的な疑問が青葉の脳裏をかすめる。彼女たちの正体について、深くは考えてこなかった。勝手に技使いだと思っていたが、違うのかもしれない。
「これでわかっただろう？　お前たちは弱すぎる」
「いや、お前が強すぎるんだよ」
　不敵に笑ったレーナに反論したのは、何故かカイキだった。青葉は声の方――頭上へとやおら視線を転じる。本当に見学し続けるつもりだったらしいカイキは、いつの間にか木の上へと避難していた。枝に座ったまま足をぶらぶらとさせたカイキは、仲間の優勢を目にしているのに複雑そうな表情だ。
「信じらんない動きだな」
「おいおい、カイキ。一体何のために――」
「お前、アースよりも強いんじゃない？」
　レーナの言葉を遮り、腕組みしたカイキは真顔でそう言った。アースの強さに関してはよく知らないが、シンたちの説明を思い返す限りではカイキの言う通りな気がする。青葉の推測が正しいなら、彼女の感覚は理解の範囲を超えている。強いという一言で括っていいとも思えない。青葉は横目でレーナの方をうかがった。
「うーん、それは強さの定義によるな。まあ、その話はともかくとして、今の神技隊は弱いよ。弱くて脆い。残念ながらな」
　カイキの疑問に対する返答は曖昧なままに、レーナは青葉たちへと一瞥をくれた。彼女の言葉が胸の奥深くに突き刺さった。言い返したいのに、どの反論も声にはならない。技使いの中ではかなりの実力者であると、ずっと自負してきた。滝の力は折り紙付きだし、シンや青葉もそこに並ぶとされてきた。もちろん戦闘のために特殊な訓練を受けてきたわけではない。しかし、それでも弱くはなかったはずだ。それなのにどうして今こんなことになっているのか？
　悔しい。情けない。腹立たしい。これ以上の敗北があるだろうか？　青葉は右の拳を握った。声を荒げても惨めになるだけなような気がして、叫ぶこともできない。手足の重さがますます鬱陶しく感じられた。
「だから、このままではオリジナルたちは……ん？」
　そこで、不意にレーナは空を見上げた。つられた青葉も顔を上げた。青空には依然として薄雲がかかっているばかりで、これといった変化は見られない。青葉たち以外の気配も感じられない。レーナの気を引きそうなものは見あたらなかった。青葉は空からレーナの方へと視線を戻す。
「空間の歪みが変わった。動き出したな」
　レーナは青空を睨みつけながら、そう独りごちた。歪みとはあの空間のねじれのことか？　そんなものまで感じ取ることができるのか？　青葉の背中を冷たい汗が伝っていく。彼女の見ている世界は、彼らが見ている世界と同じなのだろうか？　気が感じられる技使いとそうではない人間に決定的な差があるように、彼女との間にも大きな隔たりがあるように思えてくる。
「空間の歪み？」
「様子が気になるので見てくる。カイキ、後は任せる」
　足を揺らしながら首を傾げたカイキに向かって、レーナはそう言い残した。そして返答を待たずに踵を返した。細い足が軽く地を蹴ると、ふわりとその体が空に浮く。カイキの気に動揺が滲み出たのが、青葉にも伝わって来た。
「おいレーナ！」
　呼び止めるカイキの声もかまわず、レーナは瞬く間に空の彼方へと飛んでいった。舌打ちしたカイキは枝の上で立ち上がる。彼の焦りを象徴するような葉のさざめきが、青葉の鼓膜を揺らした。
「置いてくなよっ」
　ついで、カイキの体を緩やかな風が包み込んだ。追いかけるつもりだ。青葉は制止するための言葉を、すんでのところで飲み込んだ。ようやく滝、シン、ジュリが体を起こしたところだ。レンカはまだ動けるとはいえ、ここで不必要に戦闘をする意味はないだろう。負けたままなのは悔しいが。
　青葉が歯噛みしていると、カイキは枝から空へと飛び上がった。小さくなっていく彼の背中を見送り、青葉は大きく息を吐く。左腕と右足はまだ上手く動かせない。この感覚は以前レーナにやられた時と同じだった。おそらくは精神系の技による効果なのだろう。
「行ったわね」
　レンカの静かな声が辺りに広がる。うまく答えあぐねた青葉は、力無く足先を見下ろした。自己嫌悪にも近い敗北感に打ちのめされ、意味のない舌打ちをしそうになる。それを堪えるために青葉は再び奥歯を噛んだ。始終変わらず続く葉擦れの音が、妙に疎ましく感じられた。