white minds 第一部 ―邂逅到達―

第三章「望みの居場所」11

「そうです、青葉です。すみません、オレは覚えていなくて」
 若干目を逸らした青葉はそう答えた。覚えているかいないか、微妙な年頃だっただろうから仕方のないことだとは思うが。それでも気まずくはあるのだろう。一方、乱雲は意に介した様子もなく、笑顔で頭を振った。
「いや、いいんだ。――兄さんは、元気にしていたかい?」
「元気は元気ですよ。頑固なのも、変わりません」
 青葉の声が、忽然と硬くなる。父親について語るときだけ、彼はいつもそうだ。苦々しいものを押し隠そうともせず、率直に表現してくる。その真正直さは、梅花にとっては少しだけ羨ましく感じられた。何でも剥き出しにするのがいいとは思わないが、だからといって全てを押し殺すのが正しいとも思わない。
「ああ、やっぱりそうか。きっとオレのことを恨んでいるんだろうね」
 青葉の態度を見て、乱雲は耳の後ろを掻く。さらりとなんて事のないように放たれた言葉に、青葉が息を呑むのが伝わってきた。そこまで見抜いていたのかという驚きだろう。青葉の反応から予測が間違いないことを知った乱雲は、さらに苦笑を深める。
「兄さんは、置いていかれるのが嫌いなんだ。オレたちの父親――君たちにとっては祖父だな、がある日突然姿を消してしまったから。そのことをずっと恨みに思っていたから。だからオレのことも恨んでるんだろうなと思っていたよ」
「そう、だったんですか」
「君にもきっと迷惑を掛けただろうね。すまない」
 謝罪する乱雲を見て、青葉は絶句した。素直に謝られてしまうと受け入れがたいのか、それとも単に感情が追いつかないのか。梅花には判然としない。少しの間を置いてから、青葉はぶんぶんと首を横に振った。その動きに合わせて傘が揺れ、弾かれた雨音のリズムが変わる。
 祖父の話は、梅花も初耳だった。母方の祖父母の話であれば耳にしたことはあるが。そもそも乱雲に関わる情報は、宮殿にはほとんど残されていない。乱雲と少なからず交流があった者たちは固く口を閉ざしているし、そうでなければほとんど知らない様子だった。だから梅花も次第に乱雲のことを尋ねなくなった。
「いや、悪いのは親父です。別に、乱雲さんのせいじゃ……」
 口ごもった青葉は、一瞬だけ梅花の方へ目を向けてくる。気遣っているのかと思ったが、それだけではない眼差しだった。しかし彼女が問いかけるより早く、乱雲の苦笑が空気を揺らす。
「君までそんなことを言うんだな。兄さんはちょっと寂しがり屋なだけなんだ。虚勢を張って生きてきて、疲れてしまってたんだ。オレがこんなことを言うのは変な話だと思うけれど、いつか、許してあげて欲しいと思う」
 そう告げた乱雲の微笑は、誰かの微笑みに似ていた。だがそれが誰のものであるか思い出せない。記憶力には自信があるのに、こればかりは無理だった。困惑した梅花は青葉の方へ一瞥をくれる。怒っているのか悩んでいるのかわかりづらい微妙な表情で、彼は押し黙っていた。父親を許せと言われることは、彼には相当重荷なのだろう。
「……難しいと思いますが」
「そうか、すまない。無理なことを言ってしまった」
 少しだけ寂しそうに乱雲は頷く。仲違いしたままでいて欲しくないという乱雲の気持ちもわかるが、そのわだかまりがそう簡単に解けるものではないことは、梅花にも予測できた。複雑に絡まってしまった糸を解くのはもう無理なのかもしれない。
「いえ、オレの方こそすみません」
 傍にいても、離れていても、家族というのは難しいのかもしれない。他人になりきれないだけ、なおいっそうこじれる。そう考えると幾分気持ちが軽くなった。やや不謹慎な気もするが、冷静になれるのはありがたい。唇を引き結んだ青葉の袖を、梅花は遠慮がちに引っ張った。
「青葉、そろそろ」
「……ん?」
「時間。アサキたちも待っているし、宮殿に報告しないと」
 自分たちが何のためにどこへ向かっていたのか。現実へと思考を戻した梅花はそう囁いた。この場に長居するのは互いのためにならないという意図もあるが、ここで時間を使うと全てが滞ってしまう。帰りも遅くなる。
 宮殿という単語に、乱雲が反応したのが感じ取れた。声を潜めたつもりだったが聞こえていたようだ。わずかに躊躇った後、乱雲は口を開く。
「宮殿に行くのか?」
「はい。ゲートの件での報告が。それに、リシヤの森に派遣されている他の神技隊の動向も知りたいですし。……最近不穏続きなんです」
 何が起こっているのか隠しても仕方ないだろう。むしろ、ある程度は知っておいてもらった方がよいかもしれない。相槌を打った梅花は首をすくめた。今後も、無世界でさらなる異常事態が発生する可能性はある。すると瞠目した乱雲は息を呑み、ついであからさまに顔をしかめた。
「――リシヤの森か。あそこには注意した方がいい。ありかも一度倒れたことがあるんだ」
「お母様が?」
 梅花は瞳を瞬かせた。母が仕事でリシヤにも出向いたことがあるという話なら耳にしたことはあったが、それは初めて聞いた。
「ああ。突然前触れもなく気を失ったんだ。治療の必要もなく自然に目を覚ましたんだが、結局原因はわからなかった。疲労のせいということにされたが、気をつけた方がいい」
 その時のことを思い出しているのか、乱雲の気に苦いものが滲み出ている。原因もなく突然倒れるというと、梅花にも心当たりがあった。リシヤの森ではなかったが、宮殿――特に中央会議室の前――では時折経験することだった。それこそ疲労や精神的不調が原因だと思い込んでいたが、何か遺伝的なものだったのか? 梅花は曖昧に頷く。
「わかりました。気をつけますし、仲間にもそのように伝えておきます」
「ああ」
 それが、別れの合図となった。頷いた梅花は軽く一礼すると、まだ何か言いたげにしている青葉の袖をもう一度引っ張る。これ以上話を長引かせたくはない。きっとアサキたちも心配している。
「それでは失礼します」
「――梅花」
 足早に歩き出しすれ違おうとしたところで、乱雲に呼び止められた。足を止めざるを得ない何かを孕んだ声音だった。梅花が振り返ると、さらに進みかけていた青葉が慌てて立ち止まる足音がする。水溜まりを踏みつけたのか、跳ねる水音が鼓膜を震わせた。傾けられた傘の下から、彼女は乱雲の目を見る。
「自立したとしても、たまには帰ってきていいんだぞ」
「……え?」
「何かあれば相談にも乗る。困ったことがあれば協力する。これでも神技隊だしな」
 切なさをほんの少し含んだ、それでも穏やかな微笑を、乱雲は浮かべていた。咄嗟に返事をすることができずに、梅花は逡巡する。ここで「はい」と素直に頷くことは難しかった。それでも「結構です」と突き放すのも憚られた。それならばどうすればいいのか。
「考えて、おきます。いつか、もし、その必要があった時には」
 ここで全ての答えを出す必要はないのだと、保留にするだけの気持ちの余裕が、今の梅花にはあった。いつかもしレーナのように「意味があったと思える」ような瞬間が来たら、その時また考えればいい。梅花はぐっと喉に力を込めると、再び軽く頭を下げた。そして青葉の腕に触れ、歩き出す。
 背中に注がれる視線はあえて気にしないようにした。これから宮殿に赴くことを考えれば、今はただ心を鎮めることだけに集中した方がいい。まだ何か言いたそうにしている青葉へと微笑を向け、梅花は話の続きを封じてしまう。全てはもう少し落ち着いてからだ。
「レーナには感謝しなくちゃいけないかしらね」
 音になるかならないかといった程度の声で、梅花は呟いた。謎かけのような会話の中のあんな一言が、まさかここに来てこんなに響くとは、予想外だった。レーナがそのことを予期していたのかどうかは知らないが、おかげで助かった。敵なのに感謝するという話もおかしいが。
 いや、敵とも断定できないのか。それを判断するのも今は保留だ。彼女は何かのために動いているが、その目的はいまだ知れない。
 わからないものをわからないまま抱えるのは辛いことだが、今はそうするより他なかった。梅花は真っ直ぐ前を見据え、息を吐いた。



 日が昇りだした頃から雨が降っていた。風に吹かれ洞窟内へ侵入してくる飛沫から逃れようと、カイキたちは奥へ引っ込んでいる。しかしアースだけは一人、入り口傍で長剣を抱えていた。気づいたらいなくなっていたレーナを待ち受けるためだ。雨音が邪魔をするので、この位置にいないと帰りが察知できない。気を延々と見張っているのは、彼は苦手だった。
 彼女が何も言わずに姿を消すことは、残念ながらそう珍しくはない。空を飛ぶこともせずに姿をくらましてしまう彼女の行方を追うのは、彼には困難であった。何故そんなことが可能なのか問うと、「転移の技が使えるから」とだけ説明してくれた。高度な技には違いないが、聞いたことはない。その技を使うと、どうやら空間さえも容易に超えてしまうようだった。まったくもって彼女の実力は計り知れない。そもそも住んでいる世界が違うのだろう。
 待ち構えていた人物の帰還に気づいたのは、カイキたちが退屈な時間に飽きてあくびをかみ殺していた時だった。雨の奏でる旋律が変わったことに気がつき、アースは剣を置いて立ち上がる。ほんのわずかだけ、気も感じ取れた。間違いない。
「うわ、こっちもこんな雨とはひどいな」
 小走りで駆け込んできたレーナの腕を、アースは無言で掴んだ。勢いを止められた彼女の体が傾ぐのも構わず、彼はそのまま腕を引き寄せる。あいている方の手で雨の滴を払った彼女は、いつもの微笑を保ったまま彼を見上げてきた。ほとんど抱き寄せているような距離だが、全く動じていない。
「ああ、アース。おはよう」
「言うことはそれだけか」
「えーと、ただいま?」
 小首を傾げたレーナは、何故かそこではにかんだ。アースは目眩を覚えそうになりながら、盛大にため息を吐く。彼女の帰りに気づいたイレイたちが「おかえりー」と口々に言う中、アースは継ぐべき言葉を考えた。勝手に出かけることに関しては、もう止めても無意味だと実感している。しかしそれでもどれだけ危ない橋を渡っているのかは口にせざるを得ないし、行き先も問わずにはいられなかった。
「レーナ、どこに行ってたんだ?」
 気は全く感知できなかったので、無世界だろうという予測はついた。もっとも、神魔世界にいても技も使わず気を隠していたらアースにはわからないが。レーナは掴まれたままの腕をちらと見てから、逆側に頭を傾ける。
「オリジナルのところ。と、ついでに他にも」
 端的な答えが示すところは明白だ。やはり一人で無世界に行っていたらしい。もう一度嘆息してから、アースはその場に座り込んだ。腕を引かれたレーナも仕方なそうにその場に膝をつく。一体、何度このやりとりを繰り返せばいいのだろう。
「先日、われが言ったことはもう忘れてるのか。いや、お前のことだから忘れているわけがないな」
「あーうん、忘れてはいない。でも、今、行かなければと思ったんだ」
 わずかに視線を逸らしたレーナの横顔に、洞窟内に吹き込んできた雨飛沫がかかる。アースはそれを拭うようにそっと手で触れた。白い頬は冷え切っている。長時間外にいたことを悟り、彼は顔をしかめた。もう少し体調の悪さも、体力のなさも自覚して欲しいところだ。
「今? どうしてもか?」
「うん。オリジナルには、消えてもらったら困るんだ。オリジナルに泣かれると辛いし、苦しい。だから耐えきれずに行った。すまない」
 ほんの少し目を伏せてから、レーナはおずおずと見上げてくる。素直に謝られるとそれ以上追及しづらくなるのは、イレイたちの「それくらいにした方がいい」という視線のせいもあるだろう。この問答を続けていたら、そのうち「いじめるな」という忠告が降ってくるのもわかっている。経験済みだ。
「心配かけたいわけではないんだ。悪い」
「……仕方がないな。今回のことはいい。しかし、少しは気をつけてくれ。万全とは言いがたいんだろう?」
 アースはレーナの手を解放した。それでも頬に触れた指先は離せなかった。彼女はほっとしたように顔をほころばせてから、またわずかに頭を傾ける。揺れた前髪の先が、彼の指にもかかった。
「うん、まあ、それは。万全になることはないわけだし」
「だから気をつけろと言っているんだ。この間も結局は首を突っ込んできただろ」
「あれは、さすがに忠告しないとまずかったからなぁ」
 協力すると決めた時からわかっていたことだが、レーナの行動の基準は「必要か否か」だ。必要と思えば、どんなに危うい状況でも成し遂げてしまう。それを可能とする実力があるのがまた厄介だった。つまり、彼女の無茶を防ぐためには先回りしないといけないわけだ。何が「必要」なのかを前もって読み取らなければならない。しかしそのための情報が圧倒的に不足していた。
「お前はいつもそうだな。そんなに我々が信用できないのか」
「いや、そういうわけではなくて……」
 言いよどんだレーナが微苦笑を浮かべると同時に、奥にいた誰かが立ち上がった気配がした。おおかた予想がついたので一顧だにせず黙していると、重たげな足音がずんずんと響く。
「もう、それくらいにしなよアース。レーナいじめたらかわいそうだよ」
 近づいてきたのは案の定イレイだった。彼はレーナに関してはとことん甘い。いや、イレイだけに限らないか。アースは彼女に触れていた手を下ろし、首を鳴らした。
「いじめてなどいない」
「でもさー、レーナと僕らが出会ってまだそんなに経ってないでしょ? それなのに信用しろってのは無理な話でしょー」
 イレイは頬を膨らませつつ、アースの隣に座り込んだ。イレイの言い分ももっともだが、一方で肝心なことを忘れている。ならば何故こちらは全面的に信頼してしまっているのかという点だ。彼女からはまだ何一つ聞いていないに等しいのに。
「おいおいイレイ、われは別に信用してないわけじゃないぞ。ただ、知らないだろうなぁと思って」
 レーナは困ったように微笑みながら片手をひらひらとさせた。そう、アースたちは何も知らない。何かあるごとに尋ねているのだが、一つの知識は十の謎を引き連れてくるので途方に暮れていた。一体、いつになったら全てを理解する日が来るのか。
「だってーレーナは教えてくれないじゃないっ」
「話してはいるだろう? 順番にって」
「そうだけど。でもまだまだ足りないよー。僕だってもっともっとレーナが何考えてるか知りたいんだよ」
 唇を尖らせたイレイは、レーナの上着の袖を掴んだ。子どものような仕草だが、体格が体格なので可愛らしいとも言えない。困惑顔の彼女をアースが眺めていると、今度は洞窟の奥から別の声が響いた。
「おいイレイ、今度はお前がレーナを困らせてるぞ」
 苦笑混じりのこの声はネオンのものだ。イレイは「あっ」と眼を見開いて、弾かれたように手を放す。イレイの気持ちもわかるので、アースは無言を押し通した。彼女を戸惑わせたいわけではないが、それでも何もわからないまま行動するのはそろそろ限界だ。ラウジングという男の眼差しを思い出し、アースは奥歯を強く噛む。「魔族」と口にした時のあの憎悪を宿した双眸は、放っておくと危険だ。
「すまない。別に、話したくないわけではないんだ。ただどこから話していいのか困っていてな」
「一つ話をする度に僕らが質問するからでしょう? わかってるよ」
 レーナは自分の頬へと手を当てる。彼女と自分たちの間にある決定的な差を、いつもアースたちは感じていた。自分たちは何者なのか、どうして今このような状況に陥っているのか、知るためには途方もない知識がいるらしい。それを一つ一つ紐解いていくための時間が、彼らには不足していた。時の流れは待っていてくれない。
「何だか知らないけどレーナが命懸けなのもわかってる。僕はレーナに生きてて欲しいから協力してるだけだよ。だから、ゆっくりでいいから教えてよ」
 いつでもイレイの言葉は真っ直ぐだ。「ありがとう」と口にして微笑むレーナを見ていると、イレイの素直さがいっそう羨ましくなる。しかしアースには無理だった。この重く濁った感情をぶつけないようにするだけで、押し殺すだけで精一杯だ。彼は漏らしかけた苦笑を飲み込む。
「本当にありがとう」
 レーナは腕を下ろしてかすかに俯いた。すると再び風に運ばれて吹き込んできた雨が、その頬を濡らす。身じろぎすらしなかった彼女にかわり、アースはまたそっと手を伸ばした。冷えた白い頬を包み込むようにすると、視線が交わる。
 ふわりとほころぶように微笑もうとした彼女は、だが途中で何かに気づいたように目を逸らした。たまに彼女はこういう反応をするので気になっている。しかし思い切って尋ねることもできずにここまで来ていた。はぐらかされた時の落胆を思うと容易には口にできない。
 知れば知るだけ、近づこうとすればするだけ遠ざかる気がするのは何故なのだろう。彼は結局「少し休め」と当たり障りのない言葉を掛けるに留めた。喉の奥へと消えていった言葉たちの行く末は、意識の外へ追いやって。

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