white minds 第一部 ―邂逅到達―
第四章「すれ違う指先」5
アサキたちを連れて再び神魔世界を訪れた青葉だったが、その耳に飛び込んできたのは、いまだカルマラの準備が終わっていないという事実だった。これでは何のために急いだのかわからない。仕方なくしばらく白い小部屋の中で待ったが、それでもいっこうに連絡は来なかった。
サイゾウの機嫌がどんどん悪くなる一方だったため、やむを得ず梅花が様子を確かめに行くことになった。彼女がいなくなると、部屋の空気はますます重くなる。沈黙が嫌で喋り続けていたようやサイゾウも、いつの間にか黙り込んでしまっていた。床に座り込んだ青葉は、無愛想な白い壁をぼんやりと眺める。
「まだですかねぇ」
隅で膝を抱えていたアサキが、ぐったりとした声で呟いた。横目で見遣ると、アサキの向こう側ではようがうとうとし始めている。暇を潰す物が何一つないため、会話が途絶えると眠くもなるだろう。壁に背をもたせかけた青葉はため息を吐いた。
「梅花の気はまだ感じないな」
「予想はしてましたが、ひどいでぇーす」
「いくらなんでも待たせすぎだよな。大体、何でオレたちなんだよ。そのためにフライング先輩とピークスが先に行ってるんだろう?」
アサキの向かい側では、サイゾウがうんざりとした表情を浮かべていた。サイゾウは特にこの宮殿という建物が嫌いだし、そこに関わる人間たちのことも嫌っている。梅花と微妙に距離をとっているのもそのためだろうと思われた。青葉の悩みの一つだ。
「何でって、どうせ梅花がいるからだろ? いつもそうだ」
「まあまあサイゾウ、落ち着くでぇーす」
しかめ面で嘆息するサイゾウに、アサキが微苦笑を向ける。シークレットはある種の特別扱いを受けているが、そのために被る問題も大きかった。余計な仕事が増えるのを喜ぶ人間はいない。青葉とてサイゾウの気持ちが全くわからないということもなかった。ただ、梅花が好きこのんでそうした役割を担っているわけではないことも知っているので、文句を付ける気にはなれない。
「愚痴らずにいられるかよ。こういうの、何度目だ? いつも上は好き勝手に――」
その時、戸を叩く音がした。はっとして青葉が壁から背を離すのとほぼ同時に、静かに扉が開かれる。そこから顔を出したのは梅花だった。こうして目の前にいるのに気が感じられないということは、隠しているのだろう。彼女は中にいる仲間たちの顔を順繰り見てから、無表情のまま口を開く。
「まだ上はごたごたしてるみたい。先にリシヤの森へ行って欲しいそうよ。行ける?」
淡々とした口調だったが、何かを押し殺しているのは青葉にもわかった。誰かに何か言われたのか? 顔色こそ戻っているがまだ万全でもないはずなので、心配になる。しかし彼女は不調である素振りは見せず、一度廊下の方をうかがっただけだった。渋々といった調子でサイゾウたちが立ち上がるのを横目に、青葉は確認する。
「こっちは大丈夫だけど、お前こそ平気なのか?」
「それは大丈夫。待たされた分、休めたしね」
肩をすくめた梅花は、ついてこいと言わんばかりに部屋を出た。深入りされたくないのか、それとも彼女も待ちくたびれただけなのか。青葉たちは顔を見合わせてから、その後を追う。
鍵をかけた彼女は、しばらくは無言で廊下を歩いた。その理由はすぐに青葉も察することができた。人通りが増えるにつれて、廊下をすれ違う者たちから好奇の目が向けられ続けたからだ。あからさまではないが隙を見て張り付いてくるねっとりとした視線は、鬱陶しくて仕方ない。
これが常日頃彼女に向けられているのかと思うと、腑の底が熱く重くなる。それとも、青葉たちが一緒にいるのがまずいのか? 名も知らぬ者たちに見張られている状態では何一つ問いかけることもできず、誰もがひたすら黙していた。
ようやく彼女が口を開いたのは、宮殿を出てからだった。新鮮な空気を求めて青葉が深呼吸していると、ちらと一瞬だけ振り返った彼女は抑揚のない声で話し始める。
「上から来るのはカルマラって人なの。まあ、上には珍しく賑やかな女性よ。戻ってくるのが久しぶりだから伝えることが多いみたいで、時間がかかっているらしいの」
歩調を緩めた梅花の言葉には、引っかかるところがあった。だが青葉がそれを問いかける前に、横を歩いていたサイゾウが怪訝そうに尋ねる。
「戻ってくるって、どこから?」
上の人間が他の街に出向いているという話はあまり耳にしない。ずっと宮殿にいるものとばかり思っていたが、違うのか。リシヤやナイダといった立ち入り禁止区域に行くのなら話はわかるが、しかしそれでは「久しぶり」という表現にはならないだろう。
「宇宙よ」
逡巡することなく、梅花は空を指さした。サイゾウとようが思わず立ち止まる。一瞬遅れて足を止めた青葉も、片眉を跳ね上げた。宇宙。その単語は知っている。簡単な知識ならある。しかしそこへ行くことは禁じられているはずだった。
「……は? 宇宙!?」
「そう。今、この星を出入りできるのは上の一部だけね。カルマラさんはその一人よ」
素っ頓狂な声を上げたサイゾウを一顧だにせず、梅花は何てことないような口ぶりでそう告げる。青葉たちには初耳な事実だが、宮殿の人間にとってはそうではないのか。いつだったか感じた苦い物が、胸の内に広がっていった。
「たぶん、宮殿の外から見ると違いはわかりにくいんでしょうけど。上っていうのは不老不死みたいな人たちのことを言うのよ。彼らは技使いとしての実力は申し分ないし、何年経っても年を取らないし。――上っていうのは、単に地位を指してるものじゃないの。彼らは簡単に宇宙に出ることもできるみたいなのよ」
立ち止まった青葉たちの方を、もう一度梅花は振り返った。彼女の足も止まる。彼らは喫驚の言葉も疑う言葉も放つことができず、その場で立ち尽くした。彼女は困ったようにかすかな微笑みを浮かべ、頭を傾ける。
「暗黙の了解みたいなものだから、宮殿内では誰も言わないけどね。だからここだけの秘密。あそこで実際に上と何度も顔を合わせていたらわかるわ」
「じゃあ、ラウジングさんも不老不死ってこと?」
青葉よりも先に立ち直ったのはようだった。確認する問いかけが、厚い雲の向こうに吸い込まれていく。
「まあ、不老不死ってのは言い過ぎよね。不老は間違いなさそうだけど。そういうわけだから、上の人ってのはあちこち感覚が違うところがあるのよ。こればかりは仕方ないのかもね」
わずかに首を縮め瞳を伏せた梅花は、「行きましょう」と言って歩き出した。青葉はアサキと目と目を見交わしてから、また前へ足を踏み出す。いまだ信じがたいが、それでも妙に納得している部分もあった。ラウジングのあの態度についてわかったようなわからないような、そんな気分だ。
まさか別の種族とでも言うのか? 容姿はほとんど人間と同じだったが……と考えたところで、不思議な髪色を思い出した。あのような深い緑の髪を、青葉は見たことがない。
「すごいね梅花、そんなことまで知ってるんだね」
早足で追いかけながら、ようがそう口にする。その口調には好奇心が滲み出ていた。先を行く梅花は振り返ることなく、邪魔そうに髪を耳にかけている。
「知ってるもなにも、宮殿内の暗黙の了解なのよ。住んでいたら、嫌でも見えちゃうところだもの」
「ふぅん、そうなんだ。他には何かないの?」
「他には……」
大股で歩いた青葉は、梅花の隣に並ぶ。宮殿の大門までもう少しのところだ。彼女は考え込むように宙を睨み付けると、少しだけ歩調を落とした。結果追い越すことになった青葉は肩越しに振り返る。
「どうかしたのか?」
「魔族、って聞いたことある?」
空の彼方を凝視しながら梅花は尋ねた。首を傾げたようは、青葉へ目を向けてくる。視線で問いかけられても、青葉は何も知らない。アサキやサイゾウも同様のようだった。訝しげな顔をしている。
「いや、聞いたことはないな」
「そう。実はラウジングさんに連れて行かれた亜空間で、レーナたちが魔族っていう単語を口にしていたのよね」
ゆっくり歩きながら梅花はそう続けた。亜空間というと、梅花が負傷した時のことか。彼女の怪我もあったので、その時の状況については詳しく聞いていなかった。歩調を合わせた青葉は彼女の表情を盗み見る。普段と変わりないように見えるが、何か思案している様子も見受けられた。躊躇しているとでもいうか。
「宮殿の奥にある書物にも、時々魔族っていう存在についての記載があるのよ」
不意に風が吹き、青葉たちの間を擦り抜けていった。それでも彼女の言葉ははっきり彼の鼓膜を揺らした。まさか、あれから彼女はずっとそのことについて考えてきたのか? 気持ちにさざ波が立つ。
「詳しいことは何一つわからない。でも、上が恐れているのは、その魔族って存在みたいなの」
抑揚の乏しい、感情の滲み出ていない声が風に運ばれていく。アサキたちは何も言わない。不思議な静寂の中に、彼女の言葉だけが染み込んでいった。
「上が動揺しているのはそのせいじゃないかと思うの。慎重にもなるけど、焦ってもいる。振り回されるだけだと、私たちも危険ね」
梅花の憂う内容はぼんやりとしか飲み込めない。上が傍若無人なのは今に始まったことではない。それに翻弄されているのも変わりなかった。しかし彼女は今までとは違う何かを感じているのか。
「よくわからないけど、気をつけた方がいいってこと?」
「そうね。上も、いつ判断を誤るかわからないから注意が必要ってことよ」
前を見据えた梅花は首を縦に振った。そして「ふーん」と気のない声を漏らしたようへ、微苦笑を向ける。今日は不思議と、こうした柔らかい表情を浮かべることが多い。それを見る度に落ち着かなくなるのは何故だろう。
こうなったのは、乱雲と会ってからだ。何か吹っ切れたのだろうかと予想はしてみるのだが、直接聞くのは憚られてここまで来ていた。こんなに気になるのなら聞いておけばよかったと、青葉は少し後悔する。さすがにアサキたちがいる前でその話はできない。
「気をつけるといっても具体的にはどうしようもないんだけどね。――急ぎましょう」
梅花は速度を上げた。その後は、再び沈黙が辺りを包み込んだ。大門まで辿り着くとそこからはリシヤの森まで飛ぶことになるので、ますます会話が途絶えてしまう。リシヤは元々宮殿に一番近い町であったが、それでも徒歩で行くとなると一日では辿り着かない。けれども空を行けばあっと言う間だ。
リシヤを訪れるのは、青葉にとっては初めてのことだった。想像していたものよりも、そこは鬱蒼とした森だった。かつて町が存在していたとは到底信じがたい、鬱屈とした空気を纏わせている。もう少し晴れ間が広がっていたらましなのだろうが、現時点では決して入りたいとは思わない場所だ。青葉たちが言葉を失っていると、その前方で立ち止まった梅花が小首を傾げた。
「何だか……前に来た時と違うわね」
呟いた梅花は怪訝そうに周囲を見回す。青葉は首を捻りながら辺りの気を探った。比較対象がないのでどうこうと答えることはできないが、特段変わったことはないように思える。気が探りにくいのは空間の歪みのせいだろう。
「どの辺が違うんだ?」
「うまく言えないんだけど……歪みがひどくなっている気がするの」
振り返ることなく、梅花は今度は逆側に頭を傾けた。そう言われて、青葉はもう一度森を睨み付ける。得体の知れない気配が漂っているのは間違いがなかった。以前はここまでではなかったのか? 彼が口を閉ざしていると、どこか落ち着かなさそうに彼女が振り返った。
「準備はいい? 基本的に誰が来ても交戦はなし。変な場所を見つけたらとにかく声を掛けて。勝手に近づいたりしないで。……っていうのが、上からの伝達」
「万が一誰かが襲ってきたら、どうやって身を守るんだって話だな」
「とにかく結界でも張ってろってことかしらね。本当にまずい場合は、上に逃げるしかないわ」
苦笑した梅花は空を指さした。確かに、最悪の状況になったらそうするしかないだろう。森から離れることができれば技が使える。万が一迷ったとしても合流することができる。そんな事態が生じて欲しくはないが。
「了解。困ったら上だな」
青葉は頷いた。梅花は皆が異論を唱えないのを確認してから、おもむろに歩き出す。やはり不調を感じさせない凛とした足取りだ。それがいっそう彼の不安を煽った。彼女が普段通りなのは、そう装っているからであることが多い。彼が嘆息を堪えていると、颯爽と進む梅花の後にようが続いた。
「途中で分かれ道があるんでしょ? どうするの?」
「そこまで辿り着いたらどちらへ進むか決めるわ」
飛び跳ねながら歩くようは、辺りをきょろきょろと見回している。その後を慌ててサイゾウが追いかけ、首根っこを掴んだ。放っておくと何をしでかすかわからないとでも思ったのだろう。苦笑しながら青葉も後を追った。新鮮な空気を吸い込むのは今が最後のような気がして、つい深呼吸する。背後から、アサキがついてくる気配を感じた。
空間の歪みなどものともせず、木々も草も生い茂っている。長く伸びた下生えが小道の方まで迫り出してきていて、ずいぶんと歩きにくい状態だった。このままではそのうち道がわからなくなるのではないか。土の上には小石も転がっていて、不用意に走ると躓く可能性もある。
足下を睨み付けながら、青葉は首の後ろを掻いた。よつきたちはこんなに歩きにくいと言っていただろうか? 記憶にはないが、青の男の話が中心だったので単に聞きそびれただけか。こんな所で戦闘になったのなら、さぞ苦労したことだろう。足場の悪さに青葉が顔をしかめていると、額に何か冷たいものが落ちてきた。
「うわっ」
「どうかしたんでぇーすか?」
額に触れた青葉は、手のひらを目の前に掲げてみる。どうやらただの水のようだ。雨滴が木から落ちてきたのだろうか。そういえば、今朝は神魔世界も雨が降っていた。窓のない部屋に閉じ込められているうちに止んだようだが、いまだ灰色の雲が空を覆っている。
「いや、滴が落ちてきて。……また降ってくるんじゃないよな?」
気遣わしげなアサキを横目に、青葉は空へ手のひらを向けた。曇天であることは変わりないが、次々と滴が降り落ちてくるようなことはなかった。やはり木の葉にでも残っていた水滴だろう。鈍色の空を見上げてみても、頬に雨粒が当たることはない。
「こんなところで雨に降られたら困りまぁーすねぇ」
「でも違うみたいだな」
「よかったでぇーす」
アサキと笑い合った青葉は、そこで違和感に気づいた。こんな会話を交わしていたら、普通は梅花が何か言ってくるはずだ。遅れるなだの、油断するなだのと。青葉は弾かれたように前方を見遣った。そして、息を呑んだ。
「くそっ」
予感は的中だ。そこに、梅花とサイゾウ、ようの姿はなかった。細々と見える小道の向こうでは、枝と木の葉が揺れているだけ。走り出そうとした青葉は、だが途中で立ち止まった。蹴り上げてしまったらしい小石が、道の上で数度跳ねる。下生えを揺らす風に瞳をすがめつつ、彼は振り返った。
「なあ、アサキ――」
口からこぼれた言葉は、嘆息に変わった。先ほどまで、確かにそこにいたはずのアサキの姿もなかった。それどころか森の入り口も見当たらない。生い茂る木々の向こう側がどうなっているかは把握できなかった。日の光もろくに入り込まぬ世界が広がっていることだけが、かろうじてわかる程度だ。
「おいおい、またこれかよ」
皆とはぐれたのは間違いない。亜空間での出来事を思い出し、青葉は眉をひそめた。この消えかけている道を辿るしかないと考えるだけで、胸中で渦を巻いていた不快感がいっそう重苦しくなった。