white minds 第一部 ―邂逅到達―
第五章「打ち崩された平穏」4
「滝にい!」
目指していた先に見知った姿を見つけ、青葉は名を叫んだ。生い茂る緑が疎らになったその向こうに、滝が座り込んでいる。辺りの木々の数も減っているおかげで、今までよりも見晴らしがいい。
声を掛けられ初めて気づいたとばかりに、滝は顔を上げる。珍しいことだった。青葉が滝たちの気を感じ取れたということは、逆も成り立つはずなのに。何かあったのだろうか? 仲間たちが後ろからついてきていることを確認しつつ、青葉は歩く速度を緩める。
「滝にい、何かあったんすか?」
「青葉か」
ちらと視線を寄越してきた滝の顔色は悪い。その理由は、近づけばすぐにわかった。滝の目の前ではレンカが倒れ伏していた。彼女の横にはストロングのホシワ、そしてラウジングがたたずんでいる。二人とも沈鬱な面持ちだ。何が起こったのかはわからないが、何かが起きたことだけは確かだった。立ち止まった青葉が首を捻っていると、追いついてきた梅花が横に並ぶ。
「……ラウジングさんもいるんですね」
梅花は神妙な顔で辺りを見回した。確かに、いつの間にかラウジングまで合流しているのは意外だった。見回せばストロング、フライングの面々が揃っている。皆が皆ぐったりとした様子で座り込んでいた。
「ああ、結界が修復された気配を感じ取ったのでな。駆けつけてきたんだが」
言葉を濁したラウジングは、眉間に皺を寄せた。その表情を見る限りでは、原因についてはわかっていないようだ。青葉たちが駆けつけてきた理由もそれだった。突然結界が修復された気配を梅花が察知した。あまりに突然のことだったので、異変が起こったのではないかと確かめにきたのだが。
「ラウジングさんもでしたか」
やや残念そうに目を伏せ、梅花は相槌を打つ。ラウジングも何が起こったのか把握していないことを察したのだろう。それが伝わったのか、ラウジングはますます苦い顔をした。ついで気まずげに首の後ろを掻き、倒れ伏しているレンカを見下ろす。
「ああ。辿り着いたら彼女が倒れていてな」
「そうだったんですか。何か、関係があるのでしょうか」
「……さあな」
梅花の呟きに答えたのは、ラウジングではなく滝だった。その声音に投げやりな響きが混じっていることに気づき、青葉は瞠目する。滝のこういった様子は珍しい。喫驚せざるを得なかったが、自身に立場を置き換えてみたら納得はできた。いや、そう考えると今の滝は至極冷静と評するべきかもしれない。
「――ちょっといいですか?」
滝の反応を訝しく思ったかどうかはわからないが、軽く眉根を寄せた梅花はレンカの傍で膝をついた。そして慎重な手つきでその肩に触れる。異を唱える声はなかった。梅花は一度軽く目を瞑ってから、レンカの長い髪を退けてその頬まで手を伸ばす。
「梅花?」
何をしているのかと問いかけた声が、静まりかえった森の空気に染み込んだ。梅花はそれでも黙していた。頬から手を離すと、今度は頭に触れる。口を挟めない空気を纏わせながら、じっと何かを探っているようだった。
「精神が乱れてますね。というか、減ってます」
梅花が顔を上げたのは、程なくしてからだった。抑揚の乏しい声が青葉の鼓膜を揺らす。瞬時には「減っている」という意味がよく理解できず、彼は首を傾げた。後ろにいるアサキたちと目と目を見交わしても、誰もが怪訝そうな顔をしている。
精神が減る。そのこと自体は稀な現象ではない。技を多用すれば――それが特に強い技であれば――精神は消費される。精神が減ると疲れを覚えるし、体を動かすのも億劫になる。精神を使いすぎると、技を使うこともままならなくなる。減った精神を取り戻すためには、十分な休息が必要だった。しかし、レンカがこんな場所で技を使ったとは思えない。減るはずがないのだ。
「相当ですね、これは。倒れるわけです」
「おいおい、倒れるまで減るってどういうことだよ」
青葉は耳を疑いつつ、梅花の隣に片膝をついた。そしてレンカの気をよくよく探ってみる。小さい、ということはすぐに把握できた。技使いの気としては異常な状態だ。ここまで精神が減った人間というのは初めて見るので、ピンと来ない部分もある。レンカが倒れていなければ「隠している」と思うくらいだった。
「私に聞かないでよ。わかるのは現状だけなんだから。ただ間違いなく、これは異常な減り方ね。無理やり使われてしまったみたいな乱れ方だと思うの」
梅花はちらとだけ青葉の方を見た。不服そうな顔がどこか子どもっぽくて可愛い、などと口にしたらこんな時に不謹慎だと咎められかねないので黙っておく。それよりも彼女に尋ねるのが癖のようになってしまっているのを反省すべきだろう。「何でも知っている」扱いされるのは嫌なはずだ。
「いや、現状だけで十分だ。精神が減って倒れているってことは、戻れば問題ないんだな」
そこへ滝が割って入ってきた。彼の声には少しだけ安堵が滲み出ている。俯いた青葉は、横目で滝の様子をうかがった。真顔なのは変わらないが、不自然な口元の引き攣りが消え、肩の力が抜けているのがわかる。やはり不安だったのだろう。「そのはずです」と答える梅花の表情も少し和らいだ。
「……そこまでわかるのか」
そこでぽつりと感嘆の声を漏らしたのはラウジングだった。青葉は顔を上げる。ラウジングの表情からはありありと「自分にはわからなかったのに」という衝撃が読み取れた。上の者としては複雑なのだろう。神技隊などには負けないという自負でもあったのかもしれない。すると視界の隅にいた梅花が、何とも言い難い微苦笑を浮かべ小首を傾げた。
「たまに、いるんです。精神を使い果たして倒れる人が」
泰然とした声音から導き出された一つの可能性に、青葉は片眉を跳ね上げた。慌てて梅花の方へ視線を転じると、彼女は再びレンカの顔をのぞき込んでいる。その伸ばされた手の白さが妙に目についた。
「たまにいるって、それってお前のことじゃないよな」
確認の言葉を放つと、梅花は頭をもたげ眉をひそめた。
「どうしてそうなるのよ。……精神の容量は、こう見えても大きいから」
「それを使い切るくらいに無茶してないよなって質問なんだけど」
明らかな否定の言葉が返らなかったことに、青葉はさらに不安を覚えた。梅花が何かに詳しい時は、実体験である可能性も考慮しなければならない。
すると彼女はほんのわずか目を逸らし、「一回だけ」と白状した。彼は大きなため息を吐く。倒れた人を見たことがなければ彼女も判断できないだろうから、「精神を使い果たす」などという奇特な状態の経験者が最低でも二人は存在することになる。宮殿というのはなんて場所なのか。
「宮殿の人間だと、まあ時折そういうことが。――上の方が使い果たすなんてことは、おそらくないでしょう」
話も逸らしたいのか、梅花はそう続けてラウジングを見上げた。腕組みしたラウジングは「まあ」とだけ答えて頷く。だから気づかなくても仕方がないという意味なのか。
「この件については、カルマラに報告に行ってもらっている」
ラウジングはそう付言した。カルマラというとあの自由気ままで傍迷惑な女性のことか。先日の苦い経験を思い出して青葉は反応に悩む。あの時はさんざんな目に遭った。梅花が戻ってくるまでの時間が長かった。そんなカルマラに任せて大丈夫なのだろうか。
「そうだったんですか。……あの、ラウジングさん、つかぬ事をうかがいますが」
手を離した梅花はゆくりなく立ち上がった。ふわりと広がった白いスカートが、青葉の横で揺れる。
「ラウジングさんやカルマラさん以外の上の方が来てる、なんてことはないですよね?」
梅花はさりげなく辺りを見回した。彼女が何を案じているのかわからず、青葉は瞳を瞬かせる。視界の端で、滝も同じように怪訝そうにしていた。腕組みしたままのラウジングが頭を傾けたところを見ると、宮殿内だけで通じる何かということでもないのか。
「それはどういう意味だ?」
「かすかに気配を感じるんです。それも複数」
逡巡なく梅花は告げた。そう言われて青葉は辺りの気を探ったが、神技隊の他に誰かの気配らしきものは感知できなかった。周囲の結界が修復されたので、歪みの影響で感じ取れていないという可能性もないはずだが。
「まさか……」
それでも思い当たる節があるのか、ラウジングの口元が引き攣った。辺りを見回すその眼差しには疑念と不安が入り交じっている。ラウジングとカルマラ以外の上の者。まだ他にも上の者が関わってくるのかと、青葉は頭を抱えたくなった。今まで上の者とは顔を合わせたこともなかったのにと考えると、不思議な気持ちになる。最近のこの動きは何なのか。
「今は感じ取れません。でも結界が修復される前には、かすかにありました」
「つまり、気を隠していると?」
「その可能性があるんじゃないかと。もしそうなら、スピリット先輩たちが心配ですね」
唇を引き結んだラウジングに、梅花は躊躇いながらそう答えた。頭上で繰り広げられる会話に違和感を覚え、青葉は立ち上がる。どうして急にスピリットの名前が飛び出してきたのか。二人だけでわかり合ってもらっても困る。
「それ、どういう意味だよ」
率直に問いかけると、ラウジングは言いづらそうな顔で梅花を横目に見た。口にしたくないらしい。梅花は仕方がないと言いたげに眉根を寄せる。
「……彼らは、私たちの安否よりも、結界を重視するかもしれないってこと」
「彼ら?」
「そう。ラウジングさんやカルマラさん以外の上の人たち。だから心配なの」
梅花は明言を避けたが、言わんとすることは何となく伝わって来た。青葉の背筋を冷たいものが這っていく。そもそも、上の者というのは神技隊らのことをあまり考えてはくれない。自分たちの身は自分たちで守らなければ。
「取り越し苦労で終わればいいんだけど。――何もないって、大丈夫だって、ラウジングさんは言い切れますか?」
梅花は真っ直ぐとラウジングを見据えた。その奥にある何かを見透かそうとしているのか、それとも既に見透かしているのか。青葉はふとレーナの双眸を思い出した。今のラウジングの心境は、あの時の自分たちと同じではないか?
ラウジングは否定も肯定もしなかった。それが答えだった。梅花は小さく息を吐くと、肩を落としつつ滝の方へ一瞥をくれる。
「滝先輩、スピリット先輩やピークスを迎えに行ってもいいですか?」
意を決したように梅花はそう問うた。滝は一瞬「何故自分に尋ねるのか」と言わんげな顔をしたが、ラウジングの視線に気がついたのか小さく頷く。ラウジングにはラウジングの立場があるだろうから、無闇な返答ができないのだ。青葉としては、ここで止めて欲しいというのも本音なのだが。
「レンカ先輩をこのままにしておきたくはないんですが」
「いや、スピリットたちの方でも何が起きているかわからないからな。それは気にするな」
「ありがとうございます」
「ただ、この周囲がどうなってるかはまだわからないぞ。大丈夫か?」
滝はそう確認しながら青葉へと視線を転じてきた。梅花なら「大丈夫」と返すのはわかっているからだろう。青葉が答えあぐねていると、案の定梅花は即座に頷く。
「気の見晴らしはよくなったので、先ほどよりは探しやすいと思います。どうしても見つけられない場合は戻ってきますから」
今にも歩き出しかねない梅花の腕を、青葉は慌てて掴んだ。スピリットたちが心配なのはわかるが、彼女が倒れるような事態に陥るのは様々な意味でまずい。よくわからないことに巻き込まれる頻度で言えば、彼女の方が上だった。
「ちょっと待てよ、まさか一人で行く気か?」
釘を刺した青葉を、梅花は横目で見た。そこに不満の色はなかった。珍しくもほんのわずかな逡巡が、黒目がちな瞳に浮かんでいる。
「いくら私でも、ここでそんなことは言わないわよ」
さすがにそれは止められると学習したのか。だがようやく通じたと喜んでいいのかどうか、青葉には判断できなかった。ここまで来るのが長かった。彼が継ぐべき言葉を選んでいると、梅花はおずおず口を開く。
「一緒に、来てくれるんでしょう?」
端的な確認の問いかけに、青葉は一瞬息を止めた。「もちろん」と即答すべきなのか「そういうのは相談してからにしろ」と怒るべきなのか、ますますわからなくなった。彼は乱雑に髪を掻きむしってから肩の力を抜く。このタイミングでこんなことを言ってくるなんてずるい。それでも背後で漏らされたアサキの笑い声が後押しとなった。
「当たり前だろ」
状況を考えればどうしようもない。それ以上の良案が、青葉には思い浮かばない。ならば返答は一つだ。梅花の小さな頭にぽんと手を乗せ、彼は微苦笑を浮かべる。すると気恥ずかしいのか困惑しているのか不安なのか、梅花はつと視線を逸らした。そこはかとなくばつが悪そうなのは「巻き込んだ」とでも思っているのか。
「すぐにシンにいたちを迎えに行こう。ってことで滝にい、ラウジングさん、オレたち行きます。ここはよろしく頼みます」
手を離した青葉は軽く頭を下げた。その際ほんのわずかな間だけ、滝と目が合った。彼の双眸には「任せる」と書いてあった。顔を上げた青葉は相槌を打ち、アサキたちの方へ振り返る。ラウジングはいまだ複雑そうな気を放っていたが、無言のままだったので素知らぬ振りをした。
「行くか」
「行きましょーう!」
場違いに元気なアサキの返事に、青葉は笑みをこぼした。それにつられてか、遠くから「いってらっしゃーい」というラフトたちの明朗な声が響く。どことなく気の抜けた掛け合いが、重くなりがちだった空気を揺らした。
歩き始めた青葉は少し歩調を落とし、梅花に先頭を譲る。彼ではどこへどう進めばいいのか全くわからないので仕方がない。本当なら横に並びたいところだが、道にもなっていない下生えを掻き分けなければならないのでそうもいかなかった。
「――ありがとう」
振り向くことなく、梅花は一言そう告げた。それを素直に受け取るのは何か間違っている気がして、青葉は考え込む。今ここで必要な言葉は何なのだろう。
「いや、仕方ないだろ。他にいい案があるわけでもないし。……シンにいたちが危ないかもしれないんだろう?」
梅花とて我が儘を言いたいわけではないはず。だがそう動かざるを得ない理由があるに違いない。引っかかっているのはそこだった。どうして突然そこまで気にかけ始めたのか。何故ラウジングは言い淀んだのか。まだまだ青葉の知らない上の秘密がありそうだ。
「そもそも、そのラウジングさんたち以外の上ってどういうことだよ」
青葉が率直に尋ねると、梅花は少しだけ後方を気にして――おそらくラウジングとの距離だろう――から、長い髪を耳にかけた。
「どうも、上がごたついてるみたいなの。たぶん、もう一つの陣営が動き出してるんだわ」
「もう一つの陣営?」
「ラウジングさんたちじゃあない方。滅多に『下』に来ることはないんだけど、どうも今回のは相当危機感を持ってるみたいね。動き出してるらしいってミケルダさんも言ってたし。そっちの陣営は、こう言っちゃうと怒られるかもしれないけど、私たちのことあまり気に掛けてくれないのよ」
上にも勢力図みたいなものがあるようだ。今までは漠然と、誰か一人の意志で全てが決定されているように思っていたが、そう簡単なものでもないのか。と、納得しかけたところで聞き覚えのない名が登場したことに気づき、青葉は首を捻った。話の流れからすると上の者のようだが。
「ミケルダって誰だ?」
怪訝に思って尋ねると、「あっ」と梅花は声を漏らす。青葉が知らないのを失念していたと言わんばかりの声音だった。彼女としては珍しい。宮殿ではそれだけ身近な存在なのか。動揺したらしく彼女は思い切り小枝を踏みつけたようで、ぱきりと乾いた音がする。
「上の中で、頻繁に下にも来てる人よ。カルマラさんたちの知り合い」
実に淡泊な説明に、青葉は気のない声を返した。なるほど、やはり宮殿内ではよく見かける上の者ということか。
「じゃあそのミケルダって人もラウジングさん側なんだな」
「そうね。上の派閥が実際にどうなってるのかは私も知らないんだけど、仲は良さそうだからそうだと思うわ」
上の者が仲良くしていると聞くと、どうも違和感があった。先ほどのラウジングの態度が頭に残っているせいかもしれない。青葉が小さく唸っていると、ようが後ろで「面白いねー」と言って笑う声が響いた。脳天気なのは相変わらずだ。思わず気が抜けて肩をすくめると、「どこが面白いんだよ」とサイゾウが悪態を吐く。予想外の事態続きでサイゾウも苛立っているらしい。
「ところで梅花はどこに向かってるんでぇーすかぁ?」
口喧嘩が始まるのを恐れたのだろうか。アサキが一際陽気な調子でそう質問した。速度を上げつつあった梅花は肩越しに振り返り、右手を指さす。
「もちろん、気が集まっているところよ」
気など集まっているだろうか? そう言われて急いで青葉も精神を集中させてみる。先ほどのように妙な結界に阻まれることはないため、把握しやすい……はずだった。しかし感じ取れたのは朧気な気配だけで、つい眉間に皺が寄る。よくこれに気がついたものだ。
「――オレには漠然としか感じ取れないんだが」
「アサキは全くわかりませぇーん」
「僕はちょっとだけ、ちょっとだけ!」
「オレにはさっぱりだよ」
青葉に続いてアサキ、よう、サイゾウが口々に申告する。梅花は何とも言いがたい曖昧な微苦笑を浮かべ、また前方へ視線を戻した。「慣れの問題よ」と囁いているのが聞こえるが、そうではないだろう。彼女が嘘を吐いているとは誰も思わないところが、それを裏付けている。気の察知能力の差だ。