white minds 第一部 ―邂逅到達―
第六章「鍵を握る者」7
「ラウジングさん!」
青葉よりも先に現実へ立ち戻ったのはアサキだった。レーナに動く様子がないのを確かめながら、倒れたラウジングの方へ駆け寄っていく。呻き続けるラウジングに、応える力はなさそうだった。膝をついたアサキがラウジングを助け起こそうとしても、やはりレーナは止めない。肩で呼吸を繰り返しながら微笑んでいる。
「レーナ……」
かすかに名を呼ぶ梅花の声は、きっとレーナには届いていないだろう。青葉は震える梅花の肩を抱き寄せたまま、混乱を落ち着けるために奥歯を噛んだ。梅花がどんな顔をしているのか確かめるのが怖くて、のぞき込むこともできない。この息苦しさは気分の問題なのだろうか。背中を伝う汗の感覚も妙に冴え冴えとしている。
どこかでまた、木々が悲鳴を上げているのが聞こえた。レーナはその場にたたずんだまま、腹部を押さえていた右手をそっと目の前に掲げる。しかしその眼差しはどこを捉えているとも言い難く、ふわふわ辺りを彷徨い始めた。まるで夢から覚めたばかりの子どものようだった。そこでようやく青葉は気づく。彼女は動かないのではなく動けないだけだ。
鮮烈な輝きとでも表現したくなる彼女の気が、不安定に揺らいでいる。炎を映した黒い瞳は、遠目でも明らかに力なく見えた。やはり先ほど刃を生み出したのは奇跡のようなものだったのだ。こうして立っていられる方がおかしい。
「――ああ、来たな」
声もどこかぼんやりしている。振り向く動作も緩慢だ。ふらりと体を傾けるようにして後方を見遣ったレーナの視線を、青葉は思わず追いかける。左手の方、紅の光がたゆたう泉の向こう側だ。目を凝らしていると、さほど間を置かずに茂みがガサリと揺れる。
揺らぐ煙を裂き、かろうじて緑を保っていた茂みからアースが飛び出してきた。一瞬立ち止まった彼は、ざっと辺りを見回す。そして泉のこちら側――青葉たちの存在を認めると、また走り出した。焦げ付いた草原の上を駆けるというよりも、まるで飛んでいるような身のこなしだ。
アサキたちの方へ一瞥をくれてから、青葉はどうすべきか悩んだ。アースがラウジングにとどめを刺そうとしたら、止めなくてはならない。この状況でもだ。そうならないことを祈るばかりだが。
アースが近づいてくるのを、レーナは黙って待っていた。熱気を含む風に煽られて、その長い髪が揺れる。彼女が困っているのか安堵しているのか、表情からでは判断できなかった。わずかに傾けられた頭の上で火の粉が瞬く。
「レーナ!」
焦りと怒りの入り交じった、同時に悲壮感を漂わせたアースの眼差し。それを直視するのは難しかった。ぐっと息を呑んだ青葉は目を伏せる。すると梅花が固く自分の腕を抱きかかえているのが視界に入った。袖を掴む白い指先が痛ましくて、ますます眉間に皺が寄る。
そうやって戸惑っているうちに、アースの足音がすぐそこまで近づいた。何かを口にしかけ、それでも声にならず吐き出されたため息の苦々しさに、青葉の胃も重くなる。そろりと顔を上げれば、まなじりをつり上げたアースの横顔が目に入った。
「すまないアース、この通りの失態だ」
「見ればわかるっ」
不思議に悠然と響くレーナの声。一方、アースの気からは苛立ちがありありと滲み出ていた。憤りと不安が入り交じった彼の声が、青葉の胸にじくりと刺さる。立ち止まったアースは、血に濡れたレーナの手を見下ろした。相変わらずレーナは微笑んでいるのだが、それがいっそう不安を煽るのは何故だろう。
「誰にやられた? 仕留めたのか? 傷は塞いだのか?」
「神ならそこに倒れているよ。まあ、あまり手加減できなかったからしばらくは相当苦痛じゃないだろうか。傷は少しは塞がったんじゃないかと思うんだが」
次々と問いかけるアースに、レーナはまるで人事のような言い様で答える。先ほど手を当てていたのは傷を治すためだったのか。これだけ出血してなお技が使えるというのが信じがたい。
するとアサキがやおら立ち上がった。彼の気からかすかな不快感が滲み出ている。何か言いたげなその黒い双眸が、レーナたちへと向けられた。アサキの足下では、まだラウジングが苦痛の声を漏らしている。上体をかろうじて起こしているが、その額には大粒の汗の球が浮いていた。
アサキの気配に反応したのか、アースが振り返る。同時に、嫌な沈黙が辺りを包み込んだ。口を開きかけたアサキを、アースは睥睨する。全ての文句を押し込めてしまいそうな鋭い視線だった。それでもたじろぐのをどうにか堪え、アサキは舌に言葉に乗せる。
「どんな技を、使ったんでぇーすか?」
それはラウジングに傷を負わせた時のことか。アースは片眉を跳ね上げ無言を突き通した。おそらく質問の趣旨が掴めないに違いない。その代わり、穏やかに頭を傾けたレーナが微笑んだ。
「精神系と破壊系の中間ってところかな」
ただし返ってきた答えは青葉に理解できるものでもなかった。それはアースやアサキも同様らしい。事態をよく飲み込めていない者たちの対峙は、妙な緊張感を携えていた。ただ一人、レーナだけが全ての意図を把握している。破壊系という響きにはおぞましさを覚える。彼女はラウジングを殺すつもりだったのか?
「中間……?」
「そう――」
不意に、ぐらりとレーナの体が傾いだ。はっとしたアースが伸ばした手が、かろうじてその肩を支える。体勢のせいで傷に響いたのか、彼女の眉根が寄った。わずかに漏れる苦痛の声。青葉は咄嗟に耳を塞ぎたくなった。
「おいレーナっ」
アースの呼び声もきちんと届いているのかどうか。梅花が小さく息を呑む気配を感じ、青葉は意を決した。このままここにいてはいけない。地に縫い止められた足を叱咤して、青葉は無理やり歩き出した。梅花を引きずるようにしてアサキの方へ近づいてく。
「あ、青葉っ。ちょっと」
戸惑う梅花の言葉は無視だ。心配するアースの声掛けもレーナの呻き声も、頭から追い出す。立ち尽くすアサキに向かって、青葉はそのまま進んでいった。アサキの気遣わしげな眼差しが向けられると胸が痛む。きっと今の青葉はひどい顔をしているのだろう。平静さを失った頭では、感情の整理もつかなかった。
「ねえ、青葉ったら。あっ」
そこで不意に梅花の声音が変わった。青葉に抵抗しようとする力も強くなる。はたと彼は立ち止まり、手の力を緩めることなく肩越しに振り返った。ちょうどアースがレーナを抱え上げたところだった。蒼い顔でぐったりしたレーナの双眸が、ぼんやり青葉たちの方へ向けられる。
「オリジナル――」
この状況でなお破顔するのか。緩んだ頬、細められた瞳、かすかに上がった口角。全てが痛々しいはずなのに目を逸らすことができない。しかしレーナの声は半ばかすれていて、言葉尻までは聞き取れなかった。それでも唇の動きから何か読み取ったのか、体を震わせた梅花が大きく頷く。青葉にわかるのは、梅花に何か伝えたいという気持ちだけだ。
アースは一度こちらを睨み付けただけ。それ以上は何も言わずに背を向け、強く地を蹴った。こんな時でも優雅に揺れる赤い布は、瞬く間に煙の向こうへ紛れてしまう。黒い後ろ姿も、濃い煙の中に溶け込んでしまった。
ごうっとどこかで炎が唸り声を上げた。歯噛みした青葉は呼吸を整え、呻き声を漏らすラウジングの方へ視線を転じた。
倒れ伏した白い男たちを飛び越え、アースはとにかく走った。燃え盛る炎も煙も無視して、ただ屍のように転がっている男たちを辿るように進む。これが一種の目印だ。
自分の勘が間違っていないことを悟ったのは、木々が途切れた先に海が見えた時だった。森を抜ける正しい道を選べていたらしい。軽く跳躍すると、彼はそのまま岩と砂で覆われた浜へ降りる。他の星では滅多に見かけない広い海原の側には、幾つもの洞窟がある。そのうちの一つを適当に選んで彼は飛び込んだ。
潮の匂いにどこかほっとしながら、比較的平らな場所を選んでレーナを下ろす。岩壁にもたれかかった彼女の眼差しが虚ろであることには気づいていた。まるで何も映していないように朧気で、頼りなく、辺りをふわふわと彷徨っている。
死にゆく者の双眸だ。彼は今まで何度もそういう人間たちを見てきた。それは自分が手に掛けた者であったり、守れなかった者であったりした。強者も弱者も、いつかは死ぬ。その命は有限だ。わかっていたことなのに、それでもいまだに彼は現状を信じ切れずにいた。片膝をつき彼女の顔を真正面から見つめても、やはり実感が湧かない。
「レーナ」
呼びかける声が重くなる。微睡むように目を瞑ろうとしていた彼女は、静かに面を上げた。血の気を失った唇。あれだけ黒々とした煙の中にいたというのに、真っ白な肌。揺らめきながらも彼を捉えた黒い瞳。全てが幻のようだった。彼はそっと彼女の顔に触れる。
「痛むか?」
大丈夫かとは問わない。返る答えもわかっているし、それが嘘であることも知っている。彼女はかすかに目を細めて「いや」と首を振る。頬を縁取るように揺れた前髪が、彼の手の甲をかすめた。
「カイキたちは?」
次に彼女が口にしたのは仲間たちのことだった。この期に及んで気に掛かるのはそこらしい。その事実が悲しくもあり、どこか腹立たしくもあり、彼はかろうじてため息を飲み込んだ。怒ったところで意味がないのもよくわかっている。彼らが出会ってからの短い間でも、何度繰り返したことだろう。
「あいつらは全員無事だ」
ろくに動けないがという一言は省略した。白頭巾の男たちはほぼ打ち倒しているから、それでも問題はないだろう。後で迎えに行けばいい。動けなくとも炎に巻かれて死ぬほどの愚かさは持っていないし、たとえ神技隊に見つかったとしても殺されることはないはずだ。そういった類の覚悟を、あの技使いたちは持っていない。
「そうか」
レーナは表情を緩める。いつもよりずっと弱々しい微笑を直視するのは難しかった。わずかに目を逸らした彼は、それでも離れることができずに耳をそばだてる。努めてゆっくり繰り返している呼吸音は、痛みを堪えている時のものだ。
「ありがとうな、アース」
今にも消え入りそうな小さな声。彼は恐る恐る彼女の瞳をのぞき込んだ。深い黒の中にある感情は読めないのに、それが自分にだけ向けられているという事実に満足してしまう。用意した言葉ではどれも足りず、彼は固唾を呑んだ。今になってようやく、彼は自分が何を欲していたのか気づいてしまった。
「アース、本当にすまない」
震える彼女の唇に親指で触れる。それ以上言葉が紡がれないようにと力をこめれば、彼女は不思議そうに瞬きをした。彼は謝罪が欲しいわけではない。後悔させたいわけではなかった。
「いいから、余計なことを喋るな」
大量の血を失った体は徐々に冷えてきている。おそらく、意識を保っている方が不思議なくらいなのだろう。それでもこうして話ができるのは、彼女の精神力故だ。
「お前が謝るな。こんなことになったのは、我々のせいだろう」
無謀な道を突き進む彼女に必要なのは強さだったのに、彼らがそれを失わせてしまった。あの時、毒を浴びるのは彼らのはずだった。彼女がそれを肩代わりする結果となった。
「それは違う」
だがいつもすぐに彼女は否定する。青白い顔でゆるゆる頭を振られると、彼は継ぐべき言葉を失った。繰り返されてきたやりとりだ。
「あれは、自分が弱くなったことを失念したわれが悪いんだ。元々、われは弱くなっていた。ますます弱くなっただけだ」
ミスカーテの毒だと、かつて彼女は言った。対技使い用に作られている毒。その実験場は、地獄のような場所だった。出会わなければよかったのだろうか。そうであれば、彼女がこんな風に力を失うこともなかったのに。
「われは自分のためにアースたちを巻き込んだだけなんだ。すまない」
「いいから謝るな」
「それに、われが死んだら――」
「もう喋らなくていい」
彼女が口にする「死」などという単語を耳にしたくない。現実を拒否していると言われたとしても、そこは譲れない。少しだけでも、その瞬間を先延ばしにしたかった。この声が、眼差しが失われるとは思いたくなかった。
「アース……」
そっと名が囁かれる。慈しみだけではない何か柔らかな感情の滲んだ声。同時に伸びてきた白い指先が、彼の黒い袖を捕まえた。かろうじて引っかかる程度の力で掴まれると、頭の芯がじわりと痺れたような錯覚に陥る。彼女は何か口にしかけてから、別の言葉を選んだようだった。
「嘘は、吐かないようにしてた」
彼女の視線から逃れたいのに目が離せない。震える唇が紡ぐ言葉に、気持ちも絡め取られる。何を口にしても伝えたいことにはほど遠くて、そのせいで喉はかすかに空気を震わせるばかりだった。彼が息を呑んでいると、彼女はかすかに、悲しげに破顔する。
「でも言えないことがいっぱいあった」
「……ああ」
それはわかっていた。彼女がいつも何か躊躇っていることにも気づいていた。だが詮索はしたくなかったし、追い詰めたくもなかった。いつかは聞けるはずだと信じていた。
「わからないということが、とても辛いんだって、知ってたんだけどな」
自嘲めいた声音に、彼の胸は軋む。そんな顔をさせたいわけではない。懺悔が聞きたいわけでもない。引き延ばされる時間を、そんなもので埋めたくはない。ならばどうすればいいのだろう。
「それはもういい。もういいんだ」
首を振った彼は、そのまま彼女の唇を親指でなぞる。そうかこれを塞いでしまえばいいのかと思い至った時には、体が動いていた。軽く唇に触れる程度に口づければ、袖から彼女の手が離れる。血の味がした。彼はかまわず彼女の肩を左手で捕まえ、もう一度唇を重ねる。それがまだ温かいという事実に、胸の奥のさざ波が和らいだ。
「アー……ス」
わずかに唇を離すと、吐息が彼の頬をくすぐる。間近からのぞき込んだ瞳は何故か泣きそうに見えた。彼は少しだけ距離をとると、耳朶から顔の輪郭を辿るよう、指を這わせる。
「われが欲しいのは、そんな言葉じゃない。お前に、ただこうして触れていたかっただけだ」
「どう、して」
尋ねる声も、血の気の乏しい唇も震えている。彼女は今にも泣き出しそうな顔で、何かを堪えるように無理やり笑った。今まで見たどの表情より辛そうなのに、かわいそうだと感じないのは何故なのか。ふつふつと湧き上がるどこか嗜虐的な感情のやり場がなくて、彼はそっと手を放す。
「こんな時に、そんなこと言うなんて。ずる、い。ひどい。アース、もう、ずるい。何で」
きゅっとひそめられた眉の下で、黒い瞳が揺れる。所々かすれた言葉は弱々しかったが、再び伸ばされた指先は先ほどよりもしっかりと彼の袖を掴んだ。まるで縋り付くような指先についで、俯いた彼女の額が彼の肩に触れる。
「もう、これ以上縛らないで」
彼女の懇願の意味がわからない。だからといってこのままにはしておけなくて、彼は怖々と彼女の体を抱き寄せた。ますます血の臭いが鼻につく。くたりと腕の中に収まった細い体の心許なさに、また冷たい不安が背筋を這い上ってきた。
「よくわからないが、悪かった」
耳元で告げた謝罪もあまり意味はないだろう。何が駄目なのか彼には理解できない。それでもぎこちなく華奢な背を撫でていると、徐々に彼女の呼吸が浅くなっていることに気がついた。はっとした彼は腕の力を緩め、また彼女の顔をのぞき込む。
「レーナ?」
緩く閉じていた彼女の目蓋が、ゆっくり持ち上げられる。急に力を失った眼差しが、ぼんやりと彼を捉えた。もう一度呼びかけようとすると、彼女はやおら口角を上げる。
「ああ、それも含めて、覚悟したんだって、思い出した。そうだった」
「……は?」
「思い出したら、限界が来たらしい。すまない、アース」
彼女はふっと頬を緩めた。綻ぶような穏やかな微笑に、彼は返す言葉を失う。今にも眠ってしまいそうな穏やかさとは裏腹に、ますます血の気を失った肌にぞっとした。微睡むように破顔したまま、彼女は音もなく手を下ろす。
「先に行っている」
何てことのない軽い挨拶のような囁き。それだけを残して、彼女は目を閉じた。宙に浮いていた指先が地へと触れた途端に、その体が唐突に消える。白い光の粒子となって、空気へ溶け込んでいった。一瞬のことだった。
突然手の中から消えた感触に、彼は息を呑んだ。まるで今まで何も存在していなかったかのような空虚さだけが、そこに残されている。いや、全てがなくなったわけではない。彼女がもたれかかっていた岩壁には、よく見ると赤い染みがこびりついていた。
「レーナ――」
呼びかけだけが、虚しく洞窟内に響く。こんな光景を、彼は見たことがあった。魔物の最後によく似ていた。彼らはいつも何も残さず消えてしまった。その呆気なさに初めのうちは驚いたが、いつの間にか慣れてしまっていた。――だがそれは見知らぬ者だったからなのだと、今ならわかる。
「そうか、本当に、人間ではないんだな」
我々もという言葉を、彼は飲み込んだ。そしておもむろに立ち上がった。まだ頭の芯がどこか痺れている。それでもいつまでもこの場に留まってもいられなかった。いや、留まりたくなかった。
「迎えに行かなくては」
きっと待っているだろう、仲間の元へ。彼はよろめくように振り返った。