white minds 第一部 ―邂逅到達―

第八章「薄黒い病」8

「これくらいで取り乱していては先が思いやられますよ」
 土煙の中から、一人の青年が姿を現した。人間のものではあり得ぬ朱色の髪を持つ、痩せ形の男だった。全て黒でまとめられた服が、よりいっそう髪色を際立たせている。
「ミス……カーテ様」
 怖々と振り返った魔獣弾の言動が、その男の立場を物語っていた。泰然とした物腰といいこの気といい、男の実力が相当なものであることは予想できる。シンはちらとレーナの表情を盗み見た。彼女は白い刃を構えたまま、真っ直ぐ魔獣弾たちの方をねめつけていた。その表情は先ほどと変わりないが、そのことが何故かシンの不安を刺激する。
「あの、いくら何でもまだお早いのでは」
「僕ももう少し待つつもりだったんだけど。せっかく神魔の落とし子まで来てくれたのだから、この機会を逃してもいけないと思ってね。それに、正直待ちくたびれてしまったんですよねえ」
 くつくつと笑う男の声は楽しげなのに、不思議と妖艶に感じられて。シンは何故か捕食者に狙われる生き物のような心地になった。ぴりぴりと空気を伝ってくるこの気に、体が危機感を覚えている。砂塵があるおかげで些細な表情の変化まで見えないことが、せめてもの救いだった。それでも十分すぎるほどに、男の気がその感情を伝えてきていたが。
「ミスカーテか」
 レーナのこぼした囁きからは、何の感情も読み取れなかった。だがそこに余裕が滲んでいなかったことが、全ての答えのような気がして。シンは戦慄する。おそらく、彼女も警戒している。
「僕のことを知っていてくれてたんだ、嬉しいな」
 すると朱の髪の男――ミスカーテが穏やかに破顔した。その笑みは一見友好そうでいて、奥に何かを潜ませているようにしか思えなかった。
「お前を知らない奴がいるとは思えないんだがな」
「そうかな? でも僕の存在は知っていても、名を知っている者は少ないと思うよ? 外では名乗っていないから」
 顎に手を添えて笑ったミスカーテは、静かに瞳を細めた。どうやら彼の存在は有名らしい。一体どこで、というのを聞けるような雰囲気ではなく、シンは眉根を寄せた。リンたちもそれは同様なのか、先ほどから黙したままだ。あの魔獣弾でさえ口を挟まずにいる。
「まあ神は知らないだろうな」
 レーナの答えは端的だったが、それはミスカーテを満足させるものだったらしい。神は知らないが彼女は知っている。そのことが何を意味しているのか、シンにはよくわからなかった。魔族なら知っているというのか? ではレーナは魔族の仲間なのか? ……今までの行動を振り返ると、そのようには思えないが。
「君は僕らにも詳しいね。アスファルトから聞いているのかな?」
 問われたレーナは押し黙った。聞き覚えのない名にシンが顔をしかめている間も、口を閉ざしていた。それだけのことが、シンの不安をどんどん煽っていく。
 一方、指先に髪を巻き付けたミスカーテは楽しげな気を放っていた。ぞっとするほど冷たく威圧的なのに、喜んでいることがわかるのが不思議だ。そこまで考えたところでシンは何とはなしに悟る。この冷たさが『魔族の気』なのではないか。人々が負の感情を放っている時とはまた別種の温度だ。
「やっぱり君たちは興味深いなあ。ちょっと僕の研究に協力してくれないかな? ああ、君が興味を示す人間たちでもいいなあ」
 ほくそ笑んだミスカーテの眼差しが自分にも向けられた気がして、シンは固唾を呑んだ。実際はレーナをただ見据えているだけなのだが、「人間たち」というのはおそらくこの場ではスピリットのことを指しているのだろう。研究が何を示しているのか定かではないが、面白いものではないはずだ。
「ミスカーテ様、まさか人間を捕らえるおつもりですか?」
 そこまできてようやく慌てた様子の魔獣弾が問いかける。予想外だと言いたげに前に進み出てくる彼の双眸には焦りがあった。つまり元々の予定にはない、ミスカーテの思いつきなのか。
「技使いという存在が興味深いって話しただろう? 地球には質のいい技使いもいるからちょうどいいと思うんだよ」
「――神技隊は渡さない」
 流暢に話すミスカーテの言葉を、レーナの一言が遮る。普段よりもわずかに低いだけなのに、明らかに重い言葉だった。「神技隊を守る」とことあるごとに口にしていた彼女だが、それが本気なのだとシンにも確信できる響きだ。ここに青葉たちがいれば「シークレット」だからと自分を納得させることができるが、しかしそうではない。本当に彼女は神技隊を守りたいらしい。
「そんなに怒らないで、神魔の落とし子」
 ミスカーテが柔和に微笑んだ。そのすらりとした足が一歩前に踏み出されるだけで、圧迫感が増す。揺れる黒い長衣の軌跡は、濁った空気の中でも浮き立つように見えた。
「別に連れ帰るのは君や君の仲間でもいいんだよ? さぞ調べ甲斐がありそうだ。君らだったら、多少串刺しにしても死ななそうだしね」
 指から朱の髪を解放すると同時に、ミスカーテの頭が傾けられる。圧倒的な優位性を確信している者の持つ言動に、シンの喉が震えた。ミスカーテはまずレーナを狙うのだろうか? 彼女が負けたら? 既にぎりぎりなシンたちでは太刀打ちできるはずもない。様々な可能性が彼の頭を駆け抜けた。
 大体、ミスカーテとレーナが戦うのだとしても、魔獣弾が残っている。シンたちが不利なことに変わりがなかった。どくどくと脈打つ心臓が痛くて、シンは歯噛みする。このままでは本当にまずい。誰が死んでも、誰が捕らわれても不思議はない。
「またミスカーテ様は、そんなことを……」
「一度申し子に会いたかったんだ。この手で触れて弄って確かめてみたかったんだよ。いつも話に聞くばかりでね。……ああ、最近話に聞いていたのは君のことばかりだったかな。ねえ、申し子の最後の一人、レーナ」
 ミスカーテは魔獣弾へと一瞥をくれてから、もう一度レーナの方へ向き直った。レーナは白い刃を構えたが、先に攻撃に出ることはなかった。じりじりと近づいてくるミスカーテを凝視しているだけだ。
「君だけ神魔の落とし子って呼ばれている意味、知りたかったんだよ。申し子たちはちゃんと殺したはずなのに、生きているのも不思議なんだ。君なら何か知ってるんだろう? 教えて欲しい」
 にたり、とミスカーテの口角が上がった、その瞬間だった。突如として、シンの横に何者かの気配が生じた。先ほどまでは確かに何もなかったはずの空間に、忽然と白い姿が現れる。口をあんぐり開けながら振り返ったその目に映ったのは、見知った青年だった。
「ラウジングさん!?」
 シンの声と、後ろにいたリンの声が重なった。深緑の髪を振り乱し、肩で息を整えながらたたずんでいるのはラウジングだ。ゆったりとした上衣が、まるで今まで走っていたかのように揺れている。
「――神ですか」
 と、それまで喜びを滲ませていたミスカーテの声音が変わった。そこにあるのは明らかなる侮蔑の色。憎悪の色。いつだったか魔獣弾が似たような気を放っていたことをシンは思い出した。神か否かというのは、彼らにとってはそこまで意味のあるものらしい。
「無事か神技隊?」
 尋ねるラウジングの視線が周囲を彷徨う。彼の内にある焦燥感は、シンにも容易に読み取れた。確かラウジングは魔神弾の方にいたはずだ。あの無差別な攻撃から町を守ろうとしていた。ミスカーテの気配を感じて駆けつけてきてくれたのか?
「まさか神までお出迎えとは嬉しいですね」
 一欠片もそう思っていない気を撒き散らしながら、ミスカーテは形ばかり微笑む。粉塵を運んできた風に乗って、朱色の髪がなびいた。
「僕はプレイン様直属のミスカーテ。どうぞお見知りおきを。ああ、君は名乗らなくていいよ。どうせここで死んじゃうんだから」
 ぶわりと、ミスカーテの気が大きく膨れ上がった。今まではあえて抑えていたのだと告げるような、あからさまな変化。息苦しい圧迫感がさらに強まっていく。
 隣に立つラウジングの喉が鳴るのが、シンの視界に入った。変わらず劣勢であることを確信するのに、時間は掛からなかった。



「ずいぶんと人数が減ったねー」
 汗を拭いながら笑うミツバに、梅花は無言で相槌を打った。全壊した家屋が増えているせいで見晴らしはよくなっているが、その分足場はひどい。深呼吸すると粉塵のせいで咳き込みそうになる。そんな中いまだ立っているのは、限られた者たちだけだった。
「まあ仕方ないだろ。あっちの方がやばそうだし」
 ミツバに呼応するよう、ダンが声を上げて笑う。彼の笑顔が強がりだとわかっていても、それを指摘する者はこの場にはいなかった。切羽詰まっているのはどこも同じだ。それでもどうにか乗り切らなければと判断したからこうなった。
「梅花はここに残ってよかったの?」
 迫り来る黒い鞭を察知して、ミツバが結界を張る。透明な膜に突撃してきたそれは、ばちりと音を立てて大きく跳ねた。しかしそれが消え去ることはない。――何故ならそれは、魔神弾の体の一部だからだ。
「ええ、この場にも一人精神系の使い手はいた方がいいでしょう」
 結界が消えるのを見計らい、梅花は右手を前へと突き出す。手のひらから放たれた青白い矢が、のたうつ黒い鞭に突き刺さった。それでようやく鞭のようなものは消える。光の粒子となって砂塵に溶け込んでいくのを確認し、梅花は息を吐いた。この工程を何度繰り返したことだろう。そろそろ飽きてくる。
 何者かが、スピリットの方に現れた。その圧倒的な気のおかげで、混乱した戦況でもすぐさま把握することができた。もっとも、現れたのが一体何者なのかはわからない。まるで空気を伝うように感じられる緊張感、圧迫感に酔いでも起こしそうだった。それくらい途方のない気など今まで感じ取ったことがない。
 これは一大事だと判断した滝は、即座に決断した。魔神弾の動きが読み取れるようになり、対処方法が単純作業となりつつあったこともその後押しとなった。滝の指示で、ストロングの一部がスピリットのもとへ向かうことになった。予想外だったのは、それまで魔神弾の意識を引き付けてくれていたアースたちまでいなくなったことか。
「あー最初に青葉たちを行かせたのまずかったんじゃない?」
 梅花の背後で荒い息を繰り返しているのはサイゾウだ。精神系も使えず、武器も持っていない、結界もさほど得意ではない彼は、ようの支援に徹している状態だ。気にも比較的聡いようは、結界も得意な方だ。しかし体の動きは素早くない。そのため、サイゾウがその補助をする形となっている。
「それはそれで必要よ。ピークスがもたないわ」
 再び黒い鞭が近づいてくる気配を察知し、梅花はまた右手を振り上げた。今度は結界で弾くような必要もない。精神を集中し、意識を研ぎ澄ませ、青白い矢を生み出す。それを真っ直ぐに放てば、伸びてきた鞭を串刺しにすることに成功した。「お見事」というダンのおどけた声が、よどんだ空気を震わせる。
「梅花、よく精神もつね。普通はへばるよ」
「精神容量だけが取り柄ですから」
「いや、それだけじゃないでしょう? まあ助かってるけど」
 この場に残ったのはダン、ミツバ、サイゾウ、よう、梅花の五人だけ。本当にぎりぎりの人数だ。青葉とアサキはピークスの、滝とレンカはスピリットの援護へ向かってしまったし、背が高く力のあるホシワは怪我人の介抱に行っている。いつの間にかラウジングたちの姿は見えなくなっていたが、それを当てにするつもりはなかった。この場はこの人数で乗り切るしかない。魔神弾のでたらめな攻撃をできる限り引き付けながらも撃破することが、梅花たちの勤めだ。
「右手、今度は火の技です」
「よっしゃ、オレに任せておけ!」
 今度は黒い鞭とは別の気配を感知する。梅花が淡々とそれを伝えると、拳を振り上げたダンが大きな一歩を踏み出した。彼が振り上げたその手のひらに、青い光球が生み出される。水系の技だ。
「燃やされてたまるかよ!」
 勢いよく放たれた光球が、迫る炎の玉にぶつかり奇妙な音を立てる。何かが蒸発する音に混じって空気を震わせる、技と技がぶつかり合った際に独特のこの高音。今日だけで何度耳にしただろうか。こんなに長時間に渡って戦闘するなど初めてのことだった。
 体力に関してはすこぶる自信のない梅花だが、それをうまくダンたちがカバーしてくれている。おかげで気の察知、精神の使用に集中することができた。そうでなければ今頃彼女は使い物にならなかっただろう。そういう意味でも、この人選は正解だった。
「粘り勝ちするからなっ」
 声高に宣言するダンの頼もしさに、ミツバとサイゾウが笑顔になる。梅花は静かに首を縦に振った。気持ちから負けることだけは、絶対に許されなかった。

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