white minds 第一部 ―邂逅到達―

第九章「再会」1

「これから、私の世界に帰ろうと思うの。しばらく戻ってこられないわ」
 久しぶりに顔を見せたユズの言葉に、アルティードは眼を見開いた。神界の隅にある『庭』に立つ彼女は、後ろで手を組みながら朗らかに微笑んでいる。目映い光の下に立つ彼女の姿は、まさに人間たちの想像する「女神」そのもののように思えた。群青色のスカートを翻し戦場を駆ける姿も彼女らしいが、こうした時にふと何気なく見せる横顔には、また別の力が宿っている。白い回廊を見据える双眸から何らかの決意を感じ取り、彼は言葉を探した。
「それは……」
「お姉様の代わりをしなきゃいけないの」
 振り返ってこちらを見上げてくるユズの様子は、普段と変わりない。快活な彼女を象徴する明るい茶の髪も、瞳も、弧を描く口元もいつも通りだ。それでもただならぬ何かがあると思うのは、『気』のせいなのか。凛として、純粋で、燃えるような彼女の気。感情と共に揺らぐその烈火のごとき気が、今は凪いだように静かだった。
「だから結構時間が掛かりそう」
「代わりということは、転生神キキョウに何か?」
「いいえ、お姉様には何もないわ。そうじゃなくて……そうね、お姉様には何もないけど、でもお姉様は少し目立ちすぎたみたいなの」
 ユズが何を言っているのか、アルティードにはよく理解できなかった。もっとも、彼女の言動を理解できたことの方が少ないかもしれない。他人には得難い知識を背景とした、途中経過を省いた話の進め方には、周囲がどう努力したところで追いつけるはずもない。機会がある度に話を聞いている彼とて同様だった。
「そういうわけだからお姉様にはちょっと休んでもらわなきゃいけないのよ。だからといってあの結界をそのままにしておいたら、まず間違いなく魔族の餌食になっちゃうし」
「それを、ユズが維持するのか?」
 わからないながらも予測のできる部分があり、アルティードは息を呑んだ。『ユズの世界』ではかろうじて地球を包み込む結界が、魔族の襲撃から鍵を守る砦となっている。崩壊したアユリの大結界の代わりを果たす強固な砦だ。ただし、それは何もしなければあっさりと消え去ってしまう脆いものでもあった。
 転生神キキョウはその維持を行いながら、かつ封印結界の『調整』まで行うという途方もないことを休みなく続けているという。彼からすると未知なる世界の話だ。その真似を、いくらユズといえども、できるとは思えない。
「そう。でも本当に結界の維持だけね。その他はこっそりお姉様に頑張ってもらうから。――時間稼ぎなのよ」
 肩をすくめたユズは、空へと一瞥をくれてからゆくりなく歩き出した。その場をぐるぐると回るだけの意味のない行動は、彼女が考え事をする時の一つの癖だ。
 時間稼ぎ。アルティードはその単語を胸中で繰り返す。何のためのとは、決して彼女は言わないだろう。彼女はいつも多くを語らない。一度その点について問いかけてみたことがあるが、「言っちゃ駄目なことになっている」というこれまた腑に落ちない答えが返ってきた。
『見つかってはいけないの。だからできる限り口にしないのよ。全て思い出したお姉様が黙っているのはそのため。私だって、全部聞いているわけじゃないんだから』
 ユズの姉は、『ユズの世界』でただ一人生き残っている転生神だ。闇歴の記憶を取り戻した唯一の転生神でもある、キキョウ。しかし彼女は思い出した事実について決して口にすることはない。記憶を取り戻してからは派手に動くことを控え、神界の奥――図書庫に引きこもったままという話だ。
 それからは動かないキキョウに代わり、妹であるユズが各地、各世界を飛び回るようになった。ユズにとっては、アルティードのいるこの世界は三番目に訪ねた世界にあたるという。少しずつ違う歴史を積み重ねつつある他世界の中で、彼女は常に何かを探している。
「気づかれないようにひっそりと、その時を待つの。その時になったら、私も戻ってくるわ」
 ユズはぴたりと足を止めた。破顔して再び空を見上げる彼女に返す言葉はない。何も知らぬアルティードにできることなど限られていた。彼にできるのは、彼の世界を守ることだけ。それも、できる限り犠牲を出さずに。
「その時、というのは」
「もちろん秘密」
「またか」
「ええ、ごめんなさい。でもきっとあなたにもわかるわ。その時が来れば、わかる」
 振り返ったユズは、アルティードの目をひたと見据えて頷いた。明るい茶の髪が、陽光を反射して輝く。いっそう眩しさを覚えて彼は瞳をすがめた。彼女の強さを何度羨んだことだろう。だがその強さを彼女が持ち得ていなければ、茨の道を突き進むこともなかったに違いない。
「全てが集う時が、確かにあったはずなのよ。私たちの世界では失われてしまったその時が。今度こそ、それを見逃したくないの」
 どこまでも抽象的なユズの言葉に、アルティードはひたすら相槌を打った。理解できなくとも彼女が真剣で、必死で、一途であることはよくわかっている。そのために彼女は全てを投げ出す覚悟でいることも知っていた。――彼女は後悔しない未来を求めている。
「だからそれまで、ここはあなたに任せるわ」
「それは責任重大だな」
「地球神代表になるって聞いたわよ。それなら、私が頼まなくてもやってくれるわよね?」
「……耳が早いな」
 くつくつと笑い声を漏らすユズから目を逸らし、アルティードは嘆息した。しばらくこの神界を離れていたはずなのに、一体どこで聞きつけてきたのか。
 五腹心が転生神リシヤによって封印された後、転生神たちは全員姿を消した。そしてこのいかんともしがたい状況と多くの負傷者を残して、大戦は終わった。無論、大戦の後処理はまだまだ続いているし、考えなければいけないことは山ほどある。どこを目指して歩けばいいのかもはっきりしない。そんな中でアルティードが代表に選ばれたのは、単に選択肢がなかったからだ。他に該当する者がいない、ただそれだけだ。宇宙で自由に動ける者はできる限りそちらに回した方がよいとなるとなおさらだった。
「大丈夫、あなたならできるわ」
「それは君の世界の話かな?」
「違うわよ。今目の前にいるあなたの話よ。あなたの責任感と冷静さ、これでも評価しているのよ?」
 一歩アルティードへと近づいたユズは、ふんわりと笑う。どこか試すような眼差しが向けられているのは、真正面から見なくともよくわかった。しかし不思議だ。自信に満ち溢れた彼女の言葉を聞いていると、本当にそれらしい気持ちになってくる。彼女が常々主張している『言葉には、音には力がある』という口癖のせいだろうか。そうあって欲しいという願いも込められているのかもしれない。
「だから弱気な顔は止めて。あなたもあなた自身を信じて。その思いは、これからあなたの下につく者たちにも伝わるのよ? 自分を欺くぐらいに胸を張って。それが、上に立つ神の役目よ」
 耳が痛いとアルティードは苦笑した。すると片手をひらりと振って、ユズは肩をすくめる。こうやって光の下で微笑む彼女こそ、本当は上に立つべき者ではないか。一瞬そんな考えが頭をよぎったが、彼はすぐさまそれを否定した。こんなに激情的で向こう見ず――否、向こうを見過ぎているのか――で一途な女神を頂点に置いたら、下の者はあっという間に疲弊してしまうだろう。彼女に必要なのは自由な立場だ。
「ご忠告ありがとう」
 アルティードはそっと目を伏せた。だが彼女の言うことが間違っているとも思わない。これからどんな荒波が待っているのかわからぬ中で、上に立つ者にできることがあるとすれば堂々としていることくらいだ。後はその時その時最良と思われる判断をするしかない。
「帰ってきた時、あなたがどんな顔してるのか確かめるのが楽しみね」
 悪戯っぽいユズの声に、返す言葉は見つからなかった。どこまでも周囲を振り回す女神に、敵う気にもなれなかった。



 肺が焼け焦げるのではと錯覚するほどに、呼吸をする度に全身が痛んだ。視界の中で白い光が弾けているせいで、目を開けているはずなのに状況がよくわからない。
「リン、大丈夫か?」
 それでも耳は正常に働いていたらしく、自分の名を呼ぶ声ははっきりとした。もっとも、大丈夫かと問われると大丈夫と答える以外の選択肢をリンは持っていなかった。足下がふらついているのは、先ほど地面に叩き付けられたためか。立ち上がった途端視界が白んだのは、頭が揺さぶられたせいかもしれない。それでも幸いなことに精神の方は安定していたし、気を探ることもできた。
「だ、大丈夫です」
 何度か瞬きをしているうちに、徐々に視点が定まってきた。視界にも色が戻り、周囲の状況が把握できるようになる。リンは声の主――滝の方へと目を向けた。数歩前にたたずむ彼の手には、上から借りた細身の長剣がある。いや、よく見るともう一本の短剣を左手に携えていた。そちらには見覚えがない。記憶を掘り起こしながらもう一度目を瞑り、開けると、滝は小さく息を吐く。
「だが、あの瓶が触れただろう?」
 そう問われてリンは思い返す。先ほど魔獣弾に吹っ飛ばされる前のことだ。確かに、青い光を纏った瓶が、体をかすめたような気がする。しかし痛みの他は特段の変化はないように思えた。手を開いたり握ったりを繰り返しながら彼女は首を傾げる。
「そのはずですが。もしかしたら、この服が守ってくれたのかもしれません」
 思い当たる節があるとすればそれだ。あの瓶が触れたのは戦闘用着衣だった。軽い技なら弾くことができるくらいだから、かすめる程度であれば瓶の効果を防ぐことができるのかもしれない。あの瓶がどのように作用するのか正確なことは知らないが、精神に影響があるのは間違いなさそうだった。
「それならいいんだが」
 滝がちらと振り返る。頷いたリンは砂埃を叩きながら周囲へと視線を走らせた。辺りはひたすら瓦礫ばかりで、今ミリカのどの辺に立っているのかも定かではない。いや、倒れた仲間たちから離れたことだけはわかった。そのために移動したのだから当然だ。
「とにかく、精神は何でもなさそうです」
 体について言及しないのはあえてのことだった。擦り傷だらけなのは見なくてもわかるし、少し動くだけでもあちこちが痛む。出血するような怪我がなさそうなことは、せめてもの救いだろう。血を失うと精神がうまく体中に行き渡らないらしく、技が使いづらくなる。もちろん、そうでなくとも多量の出血は危険だが。
「……そうか」
 何か察した様子の滝の向こう側では、魔獣弾とカイキたちが交戦していた。こうして呑気に会話が交わせるのは、カイキとイレイが魔獣弾の気を引いてくれているおかげだった。彼ら自身も既にぼろぼろだというのに、まだ魔獣弾に食らいついている。神技隊を守って欲しいというレーナの言葉に、律儀に従っているのだろうか?
「じゃあそういうことにしておく」
 苦笑した滝の視線が、リンを通り越してその背後へと向けられる。後ろにある気配については、リンも既に気づいていた。ぐっと唇に力を入れてそちらへと一瞥をくれれば、崩れた噴水の向こう側に座り込むレンカの姿が見える。彼女を中心にさざ波のような気の流れが生まれていた。
「ラウジングさんのことはレンカに任せよう」
 滝は一言、それだけを告げた。レンカが使っているのは治癒の技だ。リンの位置からでは見えないが、レンカの傍にはラウジングが倒れているはずだった。ラウジングの体を黄色い刃が貫き、ついで黒い矢が次々と突き刺さったのはリンも目にしていた。魔獣弾の使う黒い技が厄介なものであることは理解している。今回ばかりはラウジングも危ないかもしれない。
「そうですね」
 できる限り感情を乗せないよう口にした返答は、前方から轟く耳障りな高音に掻き消された。皆、満身創痍だ。あちこちに置き去りとなったシンや北斗、サツバ、ローラインは大丈夫だろうか? 確認したい思いはあるものの、それよりも今は目の前にいるあの厄介な魔獣弾をどうにかしなければならなかった。カイキたちだけでは勝てないのは明白だ。
 ぐっと奥歯に力に込めて深呼吸をする。肺に空気が入り込む度にちりりと胸の奥が焼けたような痛みが走るのは、よくない兆候だ。体のどこかに無理がかかっている時の証。それでも今は、その無理が必要な時だった。誰かを失ってから後悔するのはもう嫌だ。
「――リン」
 不意に、滝の左手が伸びてきた。突き出されたのが短剣であると理解するのに、寸刻の間が必要だった。受け取ったリンはそれをまじまじと見下ろす。そしてうかがうように滝を見上げた。彼が左手に持っていた、装飾の乏しい小振りの短剣だ。近くで見つめてもやはり見覚えがない。しかし手にしているだけでじんわりと伝わる何かがあった。うまく説明はできないが、ただの武器ではないことが肌から伝わってくる。重量以上の何かを纏っている。
「それはラウジングが持っていた短剣だ」
 端的な滝の言葉に、リンは思わず息を呑んだ。つまり上から借りた武器と似たようなものか。いや、実際にラウジングが使っていたということは、さらに上の力を持っていても不思議はない。
「ラウジングは動けそうにないから、リンに渡す。オレは長剣の方が得意だから、リンが使ってくれ」
 それ以上は説明の必要がないと言わんばかりに、滝は前方へと向き直った。彼が精神を整えているのは、間近にいればわかることだ。またあの戦場へ向かうつもりだろう。それも当然だ。カイキたちもきっとそろそろ限界だ。彼らの実力が自分たちと極端に変わるものではないことは、何となく実感している。――レーナとは違う。
「リンはリンのタイミングで判断して動いてくれ。オレなら大丈夫だから。決して無茶はするなよ……って言っても無駄なのはわかってる。でもその短剣を預けた意味は察してくれよ」
 滝は振り返らなかった。だからそう告げた時どんな顔をしていたのか、リンにはわからなかった。それでも少しおどけたような、それでいて何かを押し隠したような声、気から感じ取れるものはある。だから駆け出した滝をすぐさま追いかけることができなかった。その大きな背中を見送りながら彼女はもう一度深呼吸をする。風に煽られた砂塵が、瓦礫の上で渦を巻いた。
 またチリチリと胸が痛む。まさか魔獣弾の瓶の影響だろうか? いや、単に身体的なものかもしれないと、彼女は頭を振った。弱気になるのはいけない。精神量はともかくとして体力的にはさほど強くはない自覚があった。痛みや疲労を無意識に無視する時、こうなることが多い。何でも精神で補おうとする反動のようなものだ。
「でも今は……」
 それでも仕方がないと、リンは短剣を握りしめた。これは切り札だ。魔族たちに深手を負わせることができる、この場ではほとんど唯一に近い武器の一つだ。しかもこれがリンの手に渡ったことを、滝以外は知らない。
「やるしかないのよね」
 訪れるかもわからない機会をうかがえと、それまで耐えろと、滝は言外にそう告げてきた。それを信頼されていると取るべきかは微妙なところだ。何せ、今ここに選択肢はない。レーナたちがいつまであのおぞましい魔族を引きつけていてくれるのかもわからないのだ。
「……っ!」
 そこまで考えたところで、リンは固唾を呑んだ。「オレなら大丈夫」の言わんとすることが、ようやく飲み込めた。ここは任せろと、そう言いたいのか。
「嘘、ですよね……」
 それはつまり、ここを離れろということか。『あちら』へ行けということか。胃の奥がきりきりと痛み出し、リンは歯噛みした。あの鮮烈な気を思い出すだけで心臓が潰れそうな心地になる。しかし滝がそう判断した理由も推測はできた。この戦局を左右しているのはあの男――ミスカーテだ。
 ミスカーテと名乗る魔族については、とにかくとんでもない奴だということしかわからない。いや、もっと最悪なのは、レーナよりも強いということだ。レーナが刺された時はこちらの呼吸も止まるかと思った。傷が浅かったのか、それとも何かの技を使ったのかその後も彼女は戦闘を続行していたが、それでもいずれミスカーテが勝利するだろうという思いは拭い去れなかった。
 魔獣弾とは比べものにならぬ、圧倒的な力。底冷えするような鋭い気。ただあの男がそこに存在しているというだけで感じられる威圧感。今だって、彼が技を放つ時には周囲の空気ごと揺さぶるような何かがこちらまで伝わってくる。
 レーナたちだけでは勝てない。だからといって自分たちにできることがあるとも思えないが、しかしリンにはこの短剣がある。『上』が隠し球としていた武器だ。相手がたとえあんな魔族でも、効果があると信じたい。
「無茶するなよって言いながら手渡してくるとか。滝先輩もいい性格してる」
 決意を胸に秘め、リンはそっと瞳をすがめた。渦巻く砂塵の向こうで、黄色い光が瞬くのが見えた。

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