white minds 第一部 ―邂逅到達―
第九章「再会」5
アースの剣が特別鈍っているわけではない。少なくともレーナの目にはそう映った。彼の技術は一流だったし、勘と反射神経を支えに身体能力を活かした動きは、常人には真似しがたいものだ。この辺りは記憶の有無には寄らないものらしい。それでも彼の繰り出す剣を、ことごとくアスファルトは避けていた。
「ちっ」
そのせいかアースにも焦りが見え始めている。ここまで動きを読まれたことなどなかったからだろう。単にアスファルトはアースの癖を研究し尽くしただけなのだが、そんなこと今のアースは知るよしもない。
「アース!」
この二人の戦いに割り込むのは骨が折れることだが、アースが下がるのを待っていては遅い。レーナは一歩を踏み出した。左腕の感覚はまだ鈍いが、全く動かせないほどではなくなった。脇腹の痛みに関しては無視だ。出血していなければいい。体力的にはあまり余裕なかったが、精神量に関しては心配する必要がない。一度に引き出せる量が制限されているのだから当然だ。どのくらいまでなら引き出せるかは不確かだが、『反動』が来る可能性を考えると、決定的な瞬間までは出し惜しみしなければ。もっとも、相手の実力を考えればそんなことが許されるわけもないのだが。
白い刃を構えつつ地を蹴ると、アスファルトの目が一瞬だけ彼女の方へ向けられた。掲げられた右手の動きに合わせて、彼の白い長衣が翻る。その長い指先から吹き出すように赤い筋が生まれた。
「炎竜か」
レーナは瞳をすがめた。炎竜はアスファルトが得意とする技の一つだ。赤い炎がうねりながら辺りを焼き尽くそうとするその姿を、誰かが人間の語る「竜」にたとえたのが始まりと聞く。ただし、彼のはただの炎ではない。直接精神を焼き尽くすような威力は、上位の者だからこそだ。それは精神系の技に近い効果を持つ。
そんなことは知らないはずのアースも何か感じ取ったらしく、炎竜を避けるよう一旦後退した。しかしレーナはかまわず前進した。身に結界を纏わせつつ、右手に精神を集中させる。白い刃の輝きが増すのが、視界の端に映った。
「レーナ!」
アースの警告は無視だ。炎ごと叩ききるようにまずは横一閃。しなる白い刃が竜の胴を裂く。耳障りな高音と共に赤と白の光が瞬いた。レーナは炎が途切れた隙間へと身を滑り込ませ、さらに跳躍する。アスファルトはどちらかというと中距離での戦いを得意としている一方、彼女は近距離から中距離だ。ならば懐に入り込むしかない。少しでも自分に有利な状況を作り出さなければ負ける。
一つ彼女に利があるとすれば、アスファルトは彼女の動きを知らないという点だ。彼女はアスファルトの前で戦ったことがないし、能力を研究されたこともない。彼女が彼の研究所で身動きしていたのはたったの三日だけだ。
「さすがだな」
だがお互いそんなことはわかりきっている。だからアスファルトが彼女の接近をそう簡単に許すとも思えなかった。案の定、半身を引いた彼の左手に黄色い光球が現れる。球といっても上半身ほどの大きさだ。ばちりと火花が爆ぜる音についで、黄色い光が明滅する。
「それはどうも」
レーナは仕方なく身を纏う結界を左手へと集めた。右手の刃は炎竜の胴を薙ぎ払い続けているが、これがなければ辺りは着地する隙間もなくなるので止めるわけにもいかない。もちろん刃の形状をしている以上、複数箇所を攻撃対象とすることは不可能だ。昔ならできたかもしれないが、少なくとも今は無理だった。
迫り来る光球は、結界に弾かれ空気へと溶けた。一瞬のことだった。だが攻撃はそれだけでは終わらない。左手へ絡みつこうとする竜の尾を、彼女は視界の端で捉える。
「レーナ!」
アースの声が後方から響いた。しかしこの炎が邪魔で彼も迂闊には近づけないだろう。多数を相手にする時のアスファルトの戦略だ。噂には聞いていたが、実際経験するとなるほど効果があると納得する。敵の巣に飛び込みつつ瞬殺することで数を無視する自分とは真逆の思考だ。おそらく、アスファルトには持久力があるからだろう。そこがレーナとは決定的に違う。
彼女は身を捻った。結界の範囲を縮め、左手を覆うように変化させる。これくらいの調整はもはや反射的な行為に近い。透明な膜に触れた竜の尾は弾け、赤い光を撒き散らした。
「噂以上だな」
火の粉の向こうで、アスファルトが笑むのが見えた。彼がどんな話を耳にしていたのかは知らないが、どうせろくなものではないだろう。魔族が何か企むのを見つける度に潰すということを繰り返した結果、大袈裟な異名ばかりが増えてしまった。
「なら素直に帰ってくれ」
左の爪先だけで地を蹴ると、足下を炎竜が通り過ぎる。右手の動きに逆らわず体を傾ければ、目の前を竜の尾が横切った。熱気が肌をかすめる。アスファルトが顔をしかめるのも、視界の隅で捉えた。
勘で動いているわけではなく、ただ気を感じて反応しているだけなのだが、どうやら周囲にはそう見えないらしい。踊っているようだと表現したのは一体誰だったか。気への反応は半ば反射的なものにも近いが、その一連の動作はどうも流動的に映るようだった。かろうじて生まれた炎竜の隙間に身を滑り込ませるようにして、レーナは少しずつ前進する。チリチリと何かが焼ける臭いがした。
「ああ、神も来たからな。さっさと終わらせることにしよう」
と、アスファルトは大きく右手を引く。その気がぶわりと強くなるのを、レーナは全身で感じ取った。まずいと思った時には遅かった。地を這うようにうねっていた炎竜が一斉に頭をもたげ始める。
一斉に。そう、複数だ。いつの間にか炎竜の数が増えていた。
「冗談みたいだな」
何故自分が笑っているのか、レーナ自身にもわからない。四方八方から迫る炎の頭に対して、結界以外の選択肢がないのが普通だ。しかしそれでいつまでたっても攻撃に転じれないし、消耗するのみとなる。だからいつもの彼女なら、多少の負傷はかまわずに刃をふるってその場を抜け出そうとする。
「でも、そうだな、違うな」
しかしレーナは結界を選択した。今ここにいるのが自分一人ではないことを忘れてはいけなかった。そういう意味でも、昔とは違う。
ふいと白い刃が消える。掲げた右手に精神を集中させ、彼女は強度の高い結界を生み出した。肌を焼こうとしていた熱気が瞬く間に遮断され、迫っていた炎竜が結界によって弾かれた。見えない膜越しにも感じ取れる圧迫感は、炎竜にこめられた精神によるものだ。それでも一瞬だけ、結界にぶつかった刹那だけ、それが途切れる。
と同時に、アースの気が動いた。予想通りだった。この機を彼が逃すはずもない。強力な結界により炎竜の頭が弾けた場所――彼女の真後ろへと一気に跳躍してくる。
爆ぜる火の粉が辺りを埋め尽くす中、彼女は結界の形を変化させた。まずは自分の前方だけに集め、盾とする。ぶわりと再び熱気が押し寄せた。それでもかまわず目を瞑り、全ての感覚を周囲の気にだけ集中させる。今必要なのは彼の着地点だ。
「――アースっ」
意図は伝えない。ただ呼びかけるだけ。あとは複雑な炎の軌跡にのみに意識を向け、その動きに合わせて結界を変化、強化させた。まるで意志を持つかのようにうごめく透明な膜は、もはや結界とは言えないのかもしれない。
「失せろ!」
背後でアースが吠えた。彼はそのままレーナの横を通り過ぎ、また跳躍し、長剣を振るう。彼の剣でも炎竜を薙ぎ払うことはできるが、刃が届く範囲のみだ。叩き斬ってもすぐさま手足を伸ばしてくるあの炎相手では、普通はすぐに飲み込まれてしまう。しかし彼ならば足場さえ確保できれば後はどうにかできてしまうとわかっていた。しなやかで強靱な身体能力に関しては、彼の上を行く者を見たことがない。
彼女は目を開けた。瞬く火の粉の向こうで、アスファルトが苦称するのが見えた。そんな彼にアースの一閃が迫る。さすがのアスファルトも炎竜を操りながらアースの動きを避けるのは至難の業だ。
「仕方のない奴らだな」
炎が消えると同時に、アスファルトは大きく後方へ飛んだ。アースの繰り出した剣は、その影を掴まえることしかできなかった。風に煽らた白衣がばさりと大きな音を立てる。レーナは結界を消し去って駆け出そうとし……そこで咄嗟に思いとどまった。左方から迫る気がある。ネオンだ。
「レーナ、アース!」
左手から水の球が複数、アスファルトを追うように放たれた。もちろん単純な攻撃がアスファルトに届くわけもなく、幾つかは結界に弾かれ、幾つかは地面に落ちて霧散する。熱された土が水を吸い、じゅわりと白く空気を濁した。
「何故か助けてくれたみたいだし状況よくわかんないけど、レーナを連れて行こうとするのなら黙ってらんねぇな!」
走り寄ってくるネオンの姿を、レーナは視界の端に捉えた。アスファルトの治癒の技のおかげで元通りのように見える。さすがに体力や精神量は回復していないだろうが、傷らしいものは見当たらなかった。
「反抗期かな」
地に降りたアスファルトが気怠そうに首を捻った。その表情に焦りはない。まだ彼に余裕があることはもちろんレーナもわかっていた。いや、本気を出すと加減ができないからあえて抑えているのだろう。本来の彼の力が五腹心級であることは彼女もよく知っている。この程度で済んでいるのは『傷つけたくない』という意志の表れだ。
「覚えていないというのは困りものだな。まあ、私の申し子だ。多少のことでは死なないか」
つまり傷つけてもやむを得ないと判断されるのはまずい。レーナは静かに瞳をすがめた。そうなってしまったらこちらも覚悟を決める必要がある。頑固なアスファルトを追い返すためには、それ相応の打撃を与える必要があった。生ぬるく精神系のみで攻撃などやっていられない。――破壊系による『核』への打撃が必要だ。
彼女は素早く周囲へ視線を走らせた。焼け焦げた大地に着地したアースが、何かをうかがうようにこちらを見遣ったのもわかった。その空気を感じ取ったのか、構えたネオンも彼女の方へと一瞥をくれる。
「死にはしない。負けもしない」
レーナはかすかに微笑んだ。こぼれ落ちたのは祈りにも似た言葉だった。この場を制するのは、おそらく、最初に決断した者だ。額に巻いた布に軽く触れてから、彼女は長く息を吸い込んだ。
何度目かの爆煙に、大地が揺れた。建物の残骸が崩れる音がして、砂塵が巻き上がる。瞳をすがめたリンは腕で顔を覆った。
「これじゃ離れることも近づくこともできないわね」
先ほどからこれの繰り返しであった。シリウスの接近を拒むよう、ミスカーテは派手な攻撃を繰り返した。周囲を焼きつくさんばかりの炎と、大地を割って現れる土の柱。そしてその隙間を縫うように何かの瓶を投げつけてきていた。それは単なる火炎瓶であったり、何か得体の知れない成分の詰まった煙であったりとまちまちだ。その度にリンは風を操り、怪しい煙を右手に追いやっていた。正直に言えばそれでも不十分だろうし、今後ミリカに何らかの影響がないとは言い切れない。単に今現在、右手に人の気配がないからというだけの選択肢だ。しかし今はそれが精一杯とも言える。
「リンっ」
と、背後から迫る気があった。はっとした彼女の後ろに回りこんだのはシンだ。彼が振るった長剣の刀身を、赤い光が包み込む。それは迫る黒い光を一刀両断した。
「シン、ありがとっ」
今のは魔獣弾の攻撃だろう。ちょうど今彼らはミスカーテと魔獣弾に挟まれる形となっている。いつの間にか魔獣弾がミスカーテとは逆の位置に現れたことに気づいたのは、最初の火炎瓶が炸裂した時だった。怪しい煙かと思って風を操ろうとしたリンの背後に、黒い矢が迫った瞬間だ。
「気をつけろよ」
「わかってる」
その時もシンが助けてくれた。先ほどと同じように赤く光る剣を手にして、黒い矢を薙ぎ払った。その動きを見る限りでは、少なくともどこか負傷しているようには思えない。剣の光が変化している理由はわからないが、あの黒い技に対する効果は増しているようだ。
「小賢しいですねっ」
と、魔獣弾の恨みがましい声が響いた。ちらとそちらを見遣れば、魔獣弾に向かってイレイが黄色い光弾を放っていた。そろそろ体力の限界ではないかと思うのだが、イレイもカイキも果敢に魔獣弾に噛みついている。少しでも気を引こうという涙ぐましい努力のように見えた。神技隊を守るという目的は、彼らにとってそれほどまでに重いのか?
「リン、来るぞ」
するとぐいと左腕を掴まれる。今度は滝だ。彼は先ほどからミスカーテのいる方向をねめつけていた。爆煙のせいで残念ながらミスカーテの姿は捉えられない。少なくともリンたちの目では無理だった。ただあの鮮烈でおぞましい気を感じるのみだ。それでも萎縮せずにすんでいるのは、彼女たちの前方に青い背中があるからだった。
シリウスと名乗った一人の神。あのミスカーテを前にしても全く動じる様子のないその姿から、実力はラウジング以上であると察せられる。何より気がすさまじい。おそらくある程度は抑えているのだろうが、それでも滲み出しているのは春先の風を思わせる力強く明るい青々とした色合いだ。それが時折、夜の大河を思わせるものに変化する。
「まったく、いい加減にして欲しいものだな」
リンたちの視線を感じたわけではないだろうが、そこでシリウスは大仰に嘆息した。背後で聞いていてわかったことだが、実に口は悪い。先ほどからミスカーテのやることなすことに悪態を吐いている。仕草には気怠さが溢れ、一見やる気はなさそうだ。それでもあの場を動かないのはリンたちを攻撃に晒さないためだろうし、大技を使っていないのも、おそらくミリカの町をこれ以上破壊しないためだろう。時折放つ技の選択からそんな意図が感じられる。
「あの変態魔族は心根まで黒いらしい」
シリウスのぼやきと共に、今度は青い風が巻き起こった。これが精神系の技らしいと、ようやくリンも把握できるようになった。精神系の技を食らうと技が使いにくくなる。ミスカーテが使うような精度のものであれば、それだけではすまないかもしれない。だが慌てる必要はなかった。今度もあっさりと、シリウスの生み出した結界がそれを弾き返す。薄い膜にぶつかった青い風は、そのまま光の粒子となって空気へ溶け込んでいった。
「持久戦のつもりかな」
自分たちがいなければシリウスはもっと自由に動けるのではないか。そう思ってこの場の離脱を目論んだりもしたが、魔獣弾がいるためそれもそう簡単にはいかない。いや、それだけではない。リンたちが動けば、そこを目掛けてミスカーテが技を放ってくる。結局シリウスもそれにあわせて動く羽目になる。これでは単にシリウスの運動量が増えるだけで意味がなかった。
「本当に腹が立つわね」
リンは小さく呻いた。できる限り足手まといにならないよう振る舞う術を考えたいのに、良案が浮かばなかった。そもそも体も精神も限界が近いのかもしれない。長時間の戦闘で集中力が落ちてきている。思考力だって落ちていて当然だろう。
と、背後の気配が変わった。はっとして振り返るのと、魔獣弾の気が膨らむのは同時だった。魔獣弾の放つ青い風が、後退しようとしたカイキ、イレイの体を包み込む。
「ちょっと!」
リンは悲鳴を飲み込み、咄嗟に右手を掲げた。カイキたちの声にならぬ叫びが辺りの空気を揺らす。二人を包んでなお勢い留まらずに迫る風は、半分無意識に生み出した結界が防いでくれた。透明な膜に弾かれて空気に還っていく青い光は、何も考えなければ綺麗とすら思える。しかしこれに晒されたらまともに技が使えなくなるだろう。体力もわずかなこの状況で、それはほとんど命取りだ。
「これはまずいわね」
思わずそんな声が漏れた。カイキ、イレイが地に伏す音が耳に痛かった。その向こうにたたずむ魔獣弾の得意げな笑顔は、あまり直視したくはないものだ。リンはこくりと喉を鳴らす。こうなったらもう魔獣弾の相手をするしかないのか。いくら武器があるとはいえ、肝心の体力が限界ではまともに動けない。リンは歯噛みした。こんなことならもっと体を鍛えておくべきだったなどと後悔したところで遅いのだが。
「ミスカーテ様の毒が回ったようですね。三人同時ということは、あまり体格差は関係なさそうですね」
微笑む魔獣弾の声と、背後で何かが落ちる音が重なった。はっとしたリンは背後を振り返る。
「滝先輩!」
地面に落ちて跳ねたのは上から借りたあの長剣だ。ついで滝が片膝をつく。まさかとリンは眼を見開いた。魔獣弾の声が脳裏で繰り返される。先ほどカイキとイレイが倒れたのも、ミスカーテの毒のせいなのか? 青い風に巻き込まれたからではなかったのか?
「遅効性というのもなかなか面白い」
一歩一歩、地を踏みしめるように魔獣弾が近づいてくる。こうなったらもう動けるのは彼女とシンしかいない。無理は承知で気力を振り絞るしかない。もちろん、滝をこのままにしておいてよいのかどうかも気がかりだった。ただ精神や技が使えなくなるといった毒ではなさそうな印象だ。命の関わるものであるなら、一刻も早い治療が必要だろう。