white minds 第一部 ―邂逅到達―

第十章「不信交渉」8

 宮殿へと戻ってきた梅花たちを待ち受けていたのは、皆の好奇心旺盛な眼差しだった。
「どうだったんでぇーすか!?」
 まず静養室に入るなり飛びついてきたのはアサキだ。元々重い怪我もなかった彼は回復も早く、用があれば率先して動き回る一人となっている。梅花は彼を手で制しながら肩越しに振り返った。先ほどからどこか不機嫌な顔をした青葉は黙りきったままだ。それは目を向けてみても変わらずで、梅花は内心でため息を吐く。
「レーナを呼び出すことには成功したから、あとはシリウスさんに任せてきたの。二人でたぶん上に行ってると思うわ」
 端的に状況を説明し、梅花は手近な椅子に腰掛けた。決して座り心地はよくない小さな椅子だが、ベッドに座るのも憚られるので仕方がない。するとぱたぱたと近寄ってくる靴音が響く。顔を上げれば瞳を輝かせたリンが視界に入った。
「それってつまり交渉成立ってこと!?」
「……交渉の第一段階に入りました、ってことだと思います」
 肩をすくめた梅花に、リンはわかったようなわからないような表情を浮かべる。隣にいるアサキも同様だった。まるで説明を求められているような心地になる。こういった視線に慣れたといえば慣れてしまったが、たまに不思議な気分にはなった。全体像が掴めていないのは梅花も同じなのに。
「シリウスさんはレーナをこちら側に引き入れたいんでしょうし、あの様子を見ると……レーナもそれは悪くない話だと思っている感じです」
 先ほど見たレーナの言動を思い出しながら、梅花は言葉を選んだ。二人の思惑は一致しているように思える。小さな椅子の背に手を添えると、ぎぎっと軋む音がした。
「レーナが? 嘘でしょ」
「信じられませぇーん」
「気持ちはわかりますが、でもレーナの立場になってみてください。魔族から私たちを守りながら神の動向にも注意するなんて大変です。少なくとも神から背後を狙われないって言質をとっておきたいと思うのは当然でしょう」
 たとえその言質が不確かなものでも、形の上ではそうしておいた方がまだましというものだ。大義名分のない行為を上が嫌っているのは、梅花も薄々気づいている。ならばレーナにとってもこの交渉は意味がある。神側に足枷をつけるようなものだ。
 長い髪を耳にかけた梅花は、素早く室内に視線を走らせた。大体の者が神妙な顔をしていたが、そもそも人数が少ない。姿が見られない者たちはシャワーに向かったのだろう。どうにか宮殿のシャワー室を使うことは許可されたものの、使用できる時間が限られていた。人数も多いため、隙間を縫うような利用となってしまう。
「で、そのためにレーナは……どこに行ったの?」
 そこで大いなる疑問にぶつかったように、リンが眉をひそめた。「上に行っている」という表現に違和感を覚えたのか。梅花は苦笑を漏らしながら、軽く頬を掻く。
「たぶん、上です」
「上、って」
「どこでぇーすか?」
「この宮殿の上です」
 これだけで通じるわけもないのだが、そう表現せざるを得なかった。梅花たちジナルの者は、何の意味もなく「上」と呼んでいるわけではない。根拠はないが、しかし確実にこの宮殿の上には何かがある。そこに出入りしている者たちがいる。彼らのことを、梅花たちは「上」と呼んでいる。
「中央会議室から行けるみたいなんですが。この宮殿の上には、言うならば別世界が広がってるんですよ。たぶん」
「ちょっと言っている意味がわからないわね……」
「ラウジングさんたちが住んでいる場所、と言えばいいんでしょうかね。そうですね、つまり、神のいるところです。一種の別世界です」
 目に見えぬ世界があると聞けば誰もが驚き、そして信じようとはしないだろう。しかし現に無世界という異世界を知っているのならば、それと似たようなものと考えれば納得はできるはずだ。無世界へのゲートが決まった場所にあるように、上へのゲートが中央会議室にあるだけなのだろう。梅花はそう考えている。
「そ、そこにレーナは行くんでぇーすか!?」
 ようやく事が飲み込めたらしく、アサキは喫驚した声を上げた。その気持ちはわかる。まだ言質が取れていないレーナにとっては、敵陣に飛び込んでいくようなものだ。そう考えるとアースが怒鳴ったのも当然のことだった。あっさり了承したレーナの方がおかしい。目を白黒とさせているアサキに、梅花は首を縦に振ってみせた。
「行ってると思うわ」
「行って、そこで何をするっていうの?」
 ついで疑問を投げかけてきたのはリンだ。首を捻った彼女は、考え込むような顔をして柔らかい髪を掻き上げる。確かに、シリウスとレーナが納得し合ったのならそれで十分のはずだが。そう簡単にはいかないのが上の厄介な点だった。
「たぶん他の神に信用されるための何かをするんだと思います」
 自分で言っておいてずいぶん不思議な事態になったものだと、梅花は改めて実感した。あのレーナが何をするのかというのは正直なところ興味がある。が、何をしたところであの頭の固い者たちを説得できることはない気がした。
「シリウスさんは何故かレーナのことも知っているみたいですから、それでいいんでしょうが。でも他の神はそうではないでしょうから、自分たちに害がないかどうかを確認したいんですよ」
「……無謀ね」
 しみじみとしたリンの声が全てを物語っていた。よく見ればその向こう側ではシンが深々と相槌を打っている。先日のミスカーテの毒消しの件もあるから、まだ心証は違うだろうが。それでもレーナが怪しい存在であり、その目的が知れないことには変わりなかった。
「私もそう思いますが、あの二人はそう思ってないんでしょう……きっと」
 それとも、無謀であったとしても成し遂げなければと思っているのだろうか。ミスカーテのことを思い出し、梅花は軽く唇を噛んだ。あの強烈な気を持った魔族が再び襲来する日のことを考えれば、無理だと言って諦めるのは愚かなことなのか。もしかすると、今度はミスカーテだけではないのかもしれない。
「強いわね。強者の考えることってわからないわ」
「……たぶん、誰もリン先輩には言われたくないと思いますが」
 思わず呟いたリンに、すかさず梅花は指摘する。おそらく大多数の技使いが普段リンに対して同様の気持ちを抱いていることだろう。たまたま今回はさらに人間離れ――どころか人間ではないのだが――している者が対象となっているだけだ。
「え、そう? ……まあ、私も梅花には言われたくないわね」
「――じゃあこの話題は止めにしましょうか」
 梅花は小さく嘆息した。この手の話題は深入りしない方が得策だ。青葉が複雑そうな気を放っているのにも気づき、梅花はゆっくり立ち上がる。そして長い髪を背へと流し、かすかに頭を振った。
「とにかくレーナのことはシリウスさんに任せましょう。今の私たちにできるのは少しでも早く回復することです」
 体力的にも、精神的にも。何をするにもそれが肝要だ。ミスカーテと魔獣弾は一旦退却したようだが、あの魔神弾は亜空間に押し込んだだけだった。彼には理性がないようだから、不利な状況にも関わらず飛び出してくる可能性がある。あの触手が再び町を襲うような事態になれば、きっと神技隊は駆り出されるだろう。それがいつのことなのかは、誰も予測することができない。
「梅花らしい正論ね」
 苦笑するリンを横目に、梅花は肩をすくめてみせた。ではどうすればできる限り早く回復するのかというのが、この場合は大問題だ。この宮殿において心安らぐ時間を過ごすことがいかに難しいかは、よくよくわかっていた。



 神界の空気を清浄だと表現したのは誰だっただろうか。白い床に白い壁、仰いだ空も揺らめく真珠色、注ぐ日差しは眩しいほどであり、とにかくひたすら光に満ちた世界だ。初めてここを訪れた者は、この目映さに目がくらむという。
 シリウスに言わせれば、ここはとにかく濃密な場所であった。光が、気が、あらゆるところに充ち満ちている。これほどにもなるとそれは息苦しいと言ってもよいのかもしれない。ひたすら純粋で鮮烈な気も、複数集まれば一種の毒だ。互いが互いに遠慮なく自らの存在を主張している空間は、ともすれば喰らわれる。
「慣れとは恐ろしいものだな」
 しかしほとんどここしか知らぬ者たちにとっては、それが当たり前なのだ。彼らはここを窮屈だとは思ってもいない。するとぽつりと呟いた言葉を拾われたらしく、隣から怪訝そうな眼差しが向けられた。規則正しく響く靴音に耳を澄ませながら、シリウスは「いや」と首を横に振る。後ろで軽く結わえた髪がわずかに揺れた。
「よくもこの閉じた世界で生き続けられるものだなと思ってな」
 相手が同じ神であればまず言葉にしない、素朴な感情だった。誰もが一度は『下』の空気を吸っているはずだと考えると、ここの濃密さが性に合っているのか。それとも外のことを単に忘れているだけなのか。どちらにせよシリウスには信じがたいことだった。久しぶりに訪れる度に再確認するが、彼はここが最も苦手だ。
「ああ、なるほど。しかしここの気がこうなってしまったのは、アユリの結界に加えて雑多な結界を張り巡らしてしまったからだろう? そうでなくとも鍵の真上なのだから、敏感であればあるほど生きづらいな」
 苦笑されるかと思ったが、隣を行くレーナは当たり前といった口調でそう述べた。まるで思考が読み取られたかのような返しには少々喫驚せざるを得ない。そこまで口にしたつもりはなかったのだが。――これだから彼女は怖い。
「お前はどこまで知っているんだ」
 思わずため息を吐きそうになりながら、彼は片眉を跳ね上げた。彼女と遭遇し、その存在を知り、別れてから、できる範囲で調べ尽くしたはずだが、それでも彼女が何をどこまで知っているのかだけは掴めなかった。「腐れ魔族」と呼ばれる魔族の持つ知識、また彼の研究所にいた女神の知識は持っているのだろうと予測できるが、まずそれがどの程度なのか推し量れない。どこをどう探ったところでそれを確認する術は見つけられなかった。
「どこまで? さあ。お前と同じくらいは知ってるんじゃないかな」
 まるでからかうような一言と共に、くつくつとした笑い声が漏れ聞こえる。さも嘲笑うかのような行為には、ケイルならば憤るところだろう。しかし彼女相手に怒りを露わにしたところで無意味だし、疲れるだけだとわかっている。
「つまりそれは相当知っていることになるが」
「だからそうだと言っている」
 この自信に満ち溢れた言動も、実力に裏打ちされたものと考えれば「そうか」としか答えようがない。それに彼女がどれだけ弱くなっていたとしても、得られた知識が失われたわけではないだろう。魔族に関するものについてならば、彼女の方が詳しいに決まっている。
「どうやら待ちきれなかったみたいだな」
 すると彼女が楽しそうにそう呟いた。優雅に頭が傾けられると、結い上げられた彼女の髪がたおやかに揺れる。
 白い回廊の前方にある気を感じ取ったからだろう。しかし、まさかそれが誰のものかまでわかっているのか? 彼女はアルティードたちとも顔を合わせたことがあるのか?
「話が早くて助かる」
「ただ居ても立ってもいられなかっただけだろう」
 嘆息したシリウスは少しだけ歩調を速めた。嫌なことを先延ばしにしたくないのは彼も同じだ。さらに進んでいけば、回廊の先に二人の男の姿が見えた。アルティードとケイルだ。どうやらジーリュはこの件に関わるのを拒否したらしい。
「……本当に連れてきたんだな」
 声が届く距離まで近づいたところで、ケイルが苦々しい顔で呻いた。実際に目にするまでは信じたくなかったのだろう。鼻眼鏡を正す仕草はいつも通りだが、その気には若干の後悔が滲んでいる。ジーリュのように顔を合わせることも拒絶すればよかったと、そう考えているのかもしれない。
「わざわざこうしてやってきたのに、その言い草とはひどいなぁ」
 アルティードたちから少し離れたところで彼女は立ち止まった。かつんと甲高く響いた靴音が、張り詰めた空気を強調する。ちらと横目で見た限りでも、いつもの余裕の笑顔を二人に向けている様子だった。この挑発するような態度がなければ信頼も勝ち得やすいと思うのだが、シリウスとしては人事ではないので黙っておく。
「もっと歓迎してくれてもいいのに」
 彼女にあわせて足を止めたシリウスは、まず何から口にすべきかと逡巡した。ジーリュへの話がどうなったのか聞き出したいところだが、彼女を前にそれを言ってよいものかどうか悩ましい。
「勝手に乗り込んできた奴には言われたくないな」
 と、ケイルはあからさまに顔を歪めた。今の言葉を聞く限り、やはり彼女は一度彼らとも顔を合わせているようだ。「乗り込んできた」ということは神界に無断侵入したのか。普通の魔族にはできない芸当だが、神界の入り口が複数あることをシリウスも知っているため、あえてここでは何も言わないこととした。世界と世界を繋ぐ場所は大概一つではない。ただ、それを見つけるのが大変難しいだけだ。
「まあ、あれはそれとして。今回はお招きいただいたから、こうやっておとなしくやってきたんだ」
「まさか、逃げずにおとなしくしているのが証拠とでも言うのか?」
 手をひらひらとさせる彼女に、ケイルは嫌味っぽくそう告げる。ひとこと言ってやらなければ気が済まないらしい。その隣では額を押さえたアルティードが困惑顔をしていた。お互いいきなり喧嘩を売らないで欲しいとその気が訴えている。シリウスも少々頭を抱えたい気分だった。一体どうしてこうなるのか。
「そこは誠意と言って欲しいな。われはお前たちを信じてここまでやってきたんだ」
 視線を巡らした彼女はふわりと顔をほころばせた。その言葉を裏付けるよう、彼女の気からは微塵も敵意が感じられない。もっとも、元々彼女にそんなものはない。目的の害になるようならば仕方なく排除するという姿勢は一貫していた。
「ほぅ」
 そこでケイルは興味深げな声を漏らした。その瞳に何か嫌なものが宿った気がして、シリウスは眉根を寄せる。根拠のない直感だが、ケイルがこのような表情を浮かべる時はろくなことがない。シリウスは素早く周囲へと視線を走らせた。気も探ってみたが、辺りには全く気配がなかった。アルティードの部屋に向かう回廊の途中というせいもあるが、それだけではないだろう。これは前もって近づかないよう警告している。
「信じてね。なるほど。ではそれを示してもらおうか」
 一言一言ゆっくり口にしながら、ケイルは胸を張った。その眼差しが何故かやおらシリウスの方へと向けられた。嫌な予感が的中しそうな気配に、シリウスはつい舌打ちしそうになる。だからケイルの相手は嫌なのだ。アルティードに言いくるめられた後のケイルは、どうしてだかシリウスに八つ当たりを仕掛けてくることが多い。
「シリウス、こいつを殺さない程度に痛めつけろ」
 尊大に胸を反らしたケイルが言い放ったのは、想像だにしなかった命令だった。一瞬意味が飲み込めず、シリウスの思考はその場で停止する。それからようやく言葉を噛み砕いたところで「は?」と低い声が漏れた。不本意どころではない指示を一方的に突き付けられたとなれば、これも致し方ないだろう。それでもケイルは涼しい顔をして鼻眼鏡の位置を正していた。
「それは、どういう意味だ?」
「そのままだ。こいつを死なない程度に動けなくしてみろ。この女が何の防御もなく甘んじて受け入れたら信用してやると、そう言ってるんだ」
 ケイルは名案だろうとでも言いたげな顔つきだった。絶対に彼女がそれを受け入れないだろうと信じ切っている目をしていた。おそらくジーリュたちと話し合ってこの提案をすることを決めていたに違いない。まさか信用されるために瀕死になることを受け入れる者などいないと思い込んでいる。その浅はかさにシリウスは頭痛を覚えた。こんなことで彼女がたじろぐと思っているのが間違っている。
「どうしてその役回りが私なんだ」
 深々としたため息を交えつつ、一応反論を試みてみる。そんな鬱陶しい提案をするのなら、自分でやればいい。そこに何故シリウスを巻き込もうとするのか。
 ――無論、想像はついていた。やはりシリウスへの当てつけだ。面倒ごとを嫌う自分への一種の嫌がらせだ。「とんでもない申し出をしてくれたな」というケイルたちの意志が感じ取れる。彼らはいつも異例を嫌う。
「ほう、シリウス。彼女相手に、私にそのような加減ができるとでも? 無理だろう。だがお前になら可能だ」
 うろんげな目を向ければ、ケイルは悠然と言い切った。できないことを自信たっぷり断言するというのもおかしな話ではあるが、単なる言い訳ではない。確かに、この得体の知れない存在を動けなくするだけの技を使えというのは、普通の神には無理だ。彼女が結界も何も使わないのであれば殺すことは可能だろうが、ちょうどよい瀕死にするというのは微調整が必要となる。が、普通はそんな技能は持ち合わせていない。核に傷を負ったケイルにはなおのこと難しいだろう。だからといってアルティードに押しつけるのはさすがに憚られた。なるほど、ジーリュがいなかったのはこのためだったのか。シリウスはそう察する。
「なんだ、そんなことか」
 反論が浮かばずシリウスが閉口していると、彼女は右手をまたひらりと振った。安堵さえしたようなその声音に、ケイルがあからさまに驚嘆する気配が感じられる。視線が軽く泳ぎ、その気に動揺が滲み出た。だから馬鹿なことを言うものではないとシリウスは吐き捨てたくなった。彼女は自分にのみ害が及ぶことに関しては、どこまでも寛容だ。
「それで信用してもらえるというのなら話が早い」
「……お前な」
 にこやかな笑顔が向けられたのを察知し、シリウスは呻きながら左手を見た。案の定、彼女は満面の笑みをたたえたまま小首を傾げてこちらを見ていた。先ほどまでの挑発的な言動が嘘のように、黒の瞳には華やかな喜びが宿っている。
「ほら、どうぞ。われはこの通り逃げるつもりなんてないし」
「本気か」
「本気本気。だってここでお前がわれを殺しても何の得にもならないだろう? ほら、われはお前の姿勢は信用しているし。実力に関しては言わずもがなだ」
「あのなぁ、少しは躊躇しろ。死なないことと、痛みがないことは同じではないんだぞ?」
「そんなことは無論承知だ。いやぁ、われのことまで心配してくれるなんてシリウスは優しいなぁ」
 間延びした彼女の話し方は、こちらの戸惑いを苛立ちにでも変える目的なのか。視界の端に映るアルティードは気の毒そうな顔をしていた。「すまない」とその気が訴えているが、この場合はどうしようもない。ケイルも胸を張って言い切ってしまった以上、この条件を変えることはできないだろう。つまり、後はシリウスが腹を決めるだけだ。

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