white minds 第二部 ―疑念機密―
第一章「戦線調整」6
物音一つしない白い回廊の奥で、アルティードは足を止めた。光を反射して揺らめくように輝く床で、靴音だけが跳ね返る。
「ああ、シリウス。戻ってきたのか」
振り向くまでもなく、背後に突然一人の青年が現れたのがわかった。この空間を歪ませることなく侵入してくる者など、シリウス以外には考えにくい。――いや、以前にあのレーナが同じようなことをやってのけたか。
苦々しい記憶を思い出しつつ、アルティードはおもむろに振り返った。カツリとわざとらしく足音を立てて一歩を踏み出したシリウスが、うろんげな視線を向けてくるのが見える。
「休憩だ。どこにいても疲れるな」
大股で近づいてきたシリウスは、軽く肩を回した。人間とは違いそんなことで疲労は取れないはずなのだが、シリウスは時折そんな仕草をする。人間たちに怪しまれないための動作が癖になっているのだろう。それとも、そうすることで気分が少しでも晴れるのだろうか。彼らにとっては、気持ちの問題が一番重要だ。
「見張りだからだろう? 早々に難儀な大役を押しつけてすまないな、シリウス」
「それを言うなら汚れ役の間違いだろう? 双方から煙たがられる」
嘆息したシリウスが、実のところさほど嫌がっていないことはすぐに読み取れた。彼が本当に嫌がっている時はもっと声に棘がある。そして皮肉の度合いも増す。無論、気にも負の感情が宿る。そればかりはいくら彼でも隠しようがなかった。
「それで苦労しているようには見えないがな」
だが今はそうではない。だからこそアルティードもさしたる気負いなく微笑むことができた。するとシリウスは苦虫でも噛んだかのような顔で頭を傾ける。海に例えられる彼の青い髪がさらりと揺れ、衣の上を滑った。
「煙たがられたところで私には関係ないからな」
「そう割り切れるのがシリウスの強さだ。私には真似できないな」
「冗談はよしてくれ」
ここでたわむれに言葉を交わすのは、シリウスにとっての娯楽の一つだろう。アルティードはそう踏んでいた。人間たちの中では、シリウスは常に息を潜めながら行動している。本音をぶつけるような場所も相手もいない。かといってミケルダたちのような後輩たちの中では、うっかりこぼした一言が大きな波紋を呼ぶことがある。故に、シリウスが好き勝手物を言える場所というのは限られていた。
「ところでアルティード、一つ確認したいことがあるんだが」
と、そこでシリウスの声音がやにわに変わった。どうでもよい愚痴をこぼす時とは違う、神妙な響きを奥底に潜ませたものになる。自然とアルティードの背も正された。いつもの調子で誰の気も傍にないことを確認しつつ、アルティードは相槌を打つ。
「何だ?」
「人間たちには、どこまで話している?」
放たれたのは曖昧な疑問だった。しかし何を尋ねたいのかは、聞き返さずとも明白だ。苦笑を飲み込んだアルティードは、回廊の外へと一瞥をくれる。
「私が直接指示したわけではないが、おそらく何も説明されてはいないだろうな」
アルティードはかすかに口角を上げた。こぼれ落ちた吐息に自嘲気味な色が宿っているのは、気のせいではないだろう。
今までにも何度か機会はあった。空間が歪み、町が消える度に、人々は恐れて説明を求めた。その時洗いざらい説明をすればよかったのだ。だがこの星の歴史について、何の混乱もなく人間たちに伝える術を、彼らは持ち合わせていなかった。不安と恐怖は最も忌避すべき感情だから、増幅させるような言動は避けるべきだ。そう考える者は多く、結局誰もが黙秘を貫いた。
「……まさか何も話さずに巻き込むつもりじゃあないだろうな?」
シリウスの眼光が鋭くなる。言い逃れは許さないと言わんばかりの語気の強さにも、彼の心情は透けて見える。
「それは、神技隊と呼ばれている技使いたちに対する話か?」
「そうだ」
即座に首肯したシリウスから、アルティードはそっと目を背けた。あの人間たちを魔族との戦いに巻き込むのであれば、説明せずにいられるわけがないのは自明のことだ。しかし一体どこから、何から伝えたらよいのか。アルティードには皆目見当もつかなかった。そもそも、人間たちがどれだけ知っているのかも理解していない。
「もちろん、このままでいいとは思っていない。説明しないわけにはいかないだろうな」
誰が、いつ、という明言を避けて、アルティードは答えた。近いうちに魔族がこの星を襲来するのだから、きちんと理解してもらう必要がある。しかしそのための手段がアルティードにはなかった。
「まさか私に押しつけるつもりじゃないだろうな?」
嫌な予感を覚えたらしく、シリウスはずいと詰め寄ってきた。うろんげな眼差しを向けられて、アルティードは曖昧に頭を傾ける。神の中で人間たちについて詳しいのは、シリウスかミケルダ辺りだろう。地球の人間についてならミケルダが一番把握していそうだが、説明役をミケルダに任せるのはさすがに荷が重かった。そうなるとシリウスくらいしか考えられない。――神であれば。
「適任だと思うが」
「冗談ではない。お前がそういうつもりなら、私はあいつに押しつけるぞ」
「……レーナか」
神でなければ、おそらく最も適しているのは彼女――レーナだ。今までも彼女はこちらや人間たちの知識を推し量りながら、少しずつ情報を残していた。彼女ならば、あの技使いたちに現状を理解させることができるのではないか。そんな期待を抱かずにはいられない。
「ああ。あいつなら上手くやるかもしれない」
うんざりとした声を出しながらも、シリウスの気は凪いだままだった。前々からその案については考えていたのだろうか。抜け目のない彼のことだから、あり得る話だ。
「どうせもっと情報を引き出さねばならないしな。オリジナルたちに説明してやれといって、ついでにこちらが把握しきれていない事柄まで聞き出すのが得策だ。あいつに説明させるとケイルたちは怒るだろうが、こう言えば納得せざるを得ないだろう?」
「――策士だな」
肩をすくめたシリウスに対して、アルティードはつい苦笑をこぼした。まさかそこまで読んだ上での提案だったとは。今ここでシリウスが必要としているのは、単なる言質だ。
「こうでもしなければ文句ばかりが飛んでくるからな」
すました顔でそう告げるシリウスを、ケイルなら性格が悪いとでも評するのだろう。もっとも、普段彼にどれだけの負担を強いているかを考えれば、これしきのことはさしたる問題ではない。
ケイルやジーリュに文句を言われる隙を作らぬよう、できる限り不安材料を減らしながら、かつ滞りなく準備を進める。人間たちに不用意な懸念を撒き散らさぬよう、それでも覚悟を持って挑んでもらうための時間を作る。どれも難題だ。しかしそれらをシリウスはやってのけようとしている。
「あいつも、あんなとんでもない物が必要な理由を説明できた方がいいだろう」
「なるほどな」
アルティードは深々と相槌を打つ。やはりシリウスには敵わない。彼に頼りきりなのは心苦しいが、この場合は致し方ないだろう。
「では日時と場所についてはアルティードが指定してくれ。その方が角が立たない。まあ、例の住居とやらができてからになるがな」
右の口角だけを上げたシリウスは、見えない『下』を見透かすかのように艶やかな床へと視線を向けた。揺らめくように淡い光を反射する白い回廊は、今日も変わらず真珠色の輝きを纏っている。
レーナが作ろうとしているというとんでもない物、神技隊の住居について、アルティードはよく知らない。魔族の襲撃に備える設備というのがどんなものなのか、想像もできなかった。かつての大戦では、神魔世界に赴くことがすなわち戦場に出ることと同義だった。あの世界に安息の場所はなかった。技を使う者から身を守るというのは、それだけ困難だ。
「下の準備はしばらくかかりそうなのか?」
「さあ。あいつが何をやってのけようとしているのかは、私にもわからない。ずいぶん巨大な建造物を作るつもりらしいが……」
湧き上がった疑問をそのままぶつけてみれば、シリウスも怪訝そうに眉根を寄せた。魔族の攻撃から人間たちを守るとなると、常識的に考えれば結界を利用するくらいしか方法はないはずだ。
「永続的な結界を生み出すには時間が掛かるものだが」
「ああ。だがあいつは……じきにできるとしか言わなくてな。だから焦るなと」
辟易とした声で呻くシリウスを横目に、アルティードは口を閉ざした。シリウスでも聞き出せないのなら他の者には無理だろう。本来なら、何をするつもりかわからない事態など徹底的に避けなければならないのだが。しかしシリウスには彼女を止めるつもりなどなさそうだった。何か算段があるに違いない。
「わかった。では私はいつでも場所を確保できるようにしておこう」
そうとなればアルティードにできることは限られている。レーナの動向についてはシリウスに一任する――何かあれば責任をとってもらう条件で――と合意が得られているのだから、これ以上口を挟んでも仕方がない。
「よろしく頼む」
簡素な返答とともに、シリウスは踵を返した。普段通りとしか映らない背中を見送りつつ、アルティードは目を伏せる。これだけの重荷を課しているというのに、それを感じさせないのは経験故のものか。はたまた覚悟のなせるわざなのか。
遠ざかる靴音の旋律が、白い床で跳ね返った。嘆息するのを堪えて、アルティードもゆっくりと背を向けた。
神魔世界に戻った際、まず顕著に違いを感じるのは風の冷たさであることが多い。地を踏みしめた青葉は軽く身震いした。額に滲んでいた汗が急速に引いていく。
「やっぱり、こっちは冷えるな」
ゲートの入り口は宮殿から少し離れた場所、草原の中にある。そこに降り立った途端、乾いた涼やかな空気が全身を包み込んだ。足裏から伝わる土の感触も、無世界に広がる道とは違う。すると、ついで地へと足を下ろした梅花の声が鼓膜を揺らした。
「そうね。昨日は雨だったみたいだから余計かも」
彼が左手へと双眸を向ければ、彼女はゆっくりと周囲を見回していた。彼はついと視線を落とす。確かによく見てみれば、周りの下生えに所々水滴が残っている。雨が止んだばかりのようだ。無世界と神魔世界ではもちろん天候が連動するわけもないので、何の用意もなく大雨に遭遇した時が困りものだった。
「そうみたいだな。昨日じゃなくてよかったな」
ゲートの傍ではすぐに結界を張って雨をしのぐ方法も使えない。偶然雨の日に当たった時はずぶ濡れになることもあるという。今日はどうにかそれは免れたらしかった。
「……結果的にはね」
彼女は軽く相槌を打った。昨日のうちに神魔世界に戻るつもりだった彼女を、止めたのは彼だ。わざわざ夜に出掛けることもない、と。急く気持ちもわからないわけではないが、夜では確認できるものもできないのだからと引き留めた。
神魔世界に出向く目的は一つだ。正式に呼び戻されるのがいつになるのか知りたいと、リューに確認をお願いしたのは五日ほど前のことだった。しかし即座に返ってきた答えは、「全く予測がつかない」という頼りないものだった。
それは一体どういう意味なのか。目処すらわからないのか? 仕方がなく、梅花は自分で乗り込んで確認することを決意したらしい。それはいいとしても、思い立ってすぐ動くのも彼はどうかと思うのだが。
「ところで青葉、一つ聞きたいことがあるんだけど」
昨日のやりとりを思い返していると、突然ぐいと服の裾が引っ張られた。思わぬことに瞠目しながら左を見遣れば、彼女は真っ直ぐ左方を指さしている。
「私の目がおかしくなっているのでなければ、あちらに何か白い物が建ってない?」
困惑を孕んだ質問に、彼は瞳を瞬かせた。一瞬、何を聞かれたのかわからなかった。はっとして彼女が指す方へと目を向ければ、確かに白い物が見える。所々はげた草原と、やせた木々しかないはずの場所に、奇妙な建造物がたたずんでいた。距離があるため大きさは定かではないが、以前にゲートを利用した時にはあんなものなど見た記憶がない。
「……建ってるな」
「蜃気楼とかではないわよね」
「実在してるように見える」
あれは一体何なのか? まだあの辺りはヤマトやウィンの管轄でもないだろう。そうなると宮殿絡みのものということになる。まさかあれが住居だろうか? 彼は顔をしかめた。そうだとすると、宮殿から中途半端に離れているのが気に掛かる。何より、いきなり建っているというのが腑に落ちなかった。それならリューが目処を伝えてくれてもよさそうだ。
「……まあ、あれを含めて聞いてみましょう」
梅花も同様の結論に至ったらしく、仕方がないと言わんばかりにそう告げた。裾を掴んでいた手が知らぬ間に離れていたことを残念に思いつつ、彼は昨日から抱いていた疑問を口にする。
「ところで、聞くって誰に?」
リューに確認しても無意味であることは明白だ。ならば誰に問いかければよいのだろう。まさかあのシリウスという神に尋ねるわけにもいかない。
「まずはミケルダさんを捕まえて情報収集かしらね――」
不意に吹き込んだ風が、梅花の髪を煽った。白いスカートもはためいた。一斉に揺れる草木のさざめきに、彼女の声は瞬く間に飲み込まれる。青葉はかすかに眉根を寄せた。宮殿の内情に関することで最も頼りになるのはミケルダだと、どうやら彼女は思っているらしい。二人の関係がどういったものなのか聞いたことはなかったが、それなりに親しげであることは言動から読み取れた。どうしても面白くないと感じてしまうのは仕方がないか。
「何かわかればいいんだけど」
髪を手で押さえた梅花がそう答えた、ちょうどその時だった。忽然と、宮殿の方に強い気が現れた。熱さと勢いの感じられる、正の感情をたたえた気。これは青葉も感じ取ったことがある。
「……ミケルダさんの前に、なかなか厄介な人に見つかったみたい」
宮殿の方へと顔を向けた梅花は微苦笑を浮かべた。やはり勘違いではなかったようだ。この気の持ち主はおそらくあの自由人――カルマラのものに違いない。
見つかったと梅花が表現した意味はすぐにわかった。宮殿にあったはずの気は、迷うことなく真っ直ぐこちらに向かってきた。この速度は空でも飛んでいるのか?