white minds 第二部 ―疑念機密―

第一章「戦線調整」10

「いいんじゃないか」
 彼はぽんと彼女の肩を叩いた。彼女の心を縛らずに、それでも繋がりが途切れなかったことは、正直言って嬉しい。彼女が文字を綴る様を思うだけで、彼の心にも暖かな灯がともるようだった。この場で抱きしめられないことが歯がゆいくらいだ。
「ゆっくり書けばいい。それくらいの時間だったらあるだろ」
 そっと手を離せば、彼女は怖々とこちらを見上げた。まるで何かをうかがう子どものような目を向けられ、彼は瞠目する。心臓の裏がちりりと焦げ付いたような錯覚に襲われた。
「うん。だから……その、無世界に戻ったら、便箋を買いたいんだけど」
 逡巡しながら告げられたのは、そんなささやかなお願いで。つい彼は笑い出してしまうところだった。しかしよく考えてみれば、彼女は自分のために何かを購入するということをほとんどしてこなかったのではと思い直す。服とて、売り上げのために青葉が無理やり選んだようなものだ。その他の物も、大抵仕事に支障を来さないためにという理由から購入した。もしかすると、自分のためにお金を使うことに対して罪悪感すらあるのかもしれない。今は金銭的余裕がないだけになおのことだ。
「ああ、買えばいいだろ? それくらいのお金なら何とかなるだろうし」
 それなら背中を押してやらなければ。彼が大仰に頷けば、それでも戸惑ったように彼女は小さく首を傾けた。
「そう……ね」
「どうかしたのか?」
「ううん。ただ、そういう物を買おうと思ったことがなかったから。何がどのくらいの値段で売ってるのかも知らなくて」
 どこか歯に物が挟まったような言い様だった。伏せられた瞳から読み取れるものはないが、彼女の気には躊躇が滲んでいる。瞬きをした彼は考えた。もしかしてそこには、彼についてきて欲しいという遠回しの願望が含まれているのではないかと。そう思ってしまうのは、彼自身の望みの反映なのかもしれないが。
「一緒に買いに行くか? 多少高くても、この間の遊園地のことがあるから誰も文句は言わないだろ」
 結局、彼はそう大袈裟に笑ってみせた。一緒に行って欲しいのかとは聞けなかった。ついつい予防線を張ってしまうのは悪い癖かもしれない。
「――何だか悪いわね」
 しばし視線を彷徨わせてから、彼女は苦笑した。つまり、そういう意図ではなかったのか。若干の落胆を覚えながらも、彼ははたと気づく。絶対に一度は断られると思ったのに、今の発言に拒否は含まれていない。
「青葉には迷惑かけてばかりね」
「どの辺が迷惑なんだ?」
「え? だって」
「どうせ行くところがあるわけじゃないだろ。その、梅花の手助けができるなら、オレはむしろ」
 嬉しい、という言葉を即座に舌に乗せることはできなかった。奇妙な焦りが彼の内で渦を巻いている。不思議そうな双眸がこちらを見上げるのに気づくと、なおのこと喉に声が張り付いてしまったかのようだった。
 口にしたところで伝わるとも思えぬ好意を隠すことに、一体どれだけの意味があるのか。頭の片隅ではそう思っているのに、なかなか素直に声にはならない。確実に捉えられた彼女の変化に、実は動転しているのかもしれない。
「むしろ……?」
「そう、したい。オレが手伝いたいんだ。それならお前もいいだろ?」
 仕方なく彼は言い換えた。彼がそうしたいのだと告げれば、彼女には断れないとわかっている。彼女のためなのだという言い方では駄目だ。仲間のため、家族のためだからこそ、彼女は動けるようになったというのに。ここで流れを断ち切ってはいけない。彼は自らにそう言い聞かせる。
「……そうやってあなたは私を甘やかすのね」
 と、彼女は半ば呆れたように、それでもどこか柔らかさを秘めた眼差しで笑った。予想外の返答だった。冷ややかな宮殿の空気を揺らした声が、脳裏で繰り返される。甘やかすという響きが、重く暖かく胸の奥に染み込んだ。
「わかった、お願いするわ。私センスとかないから、正直に言うと、どんな便箋を選べばいいのかも自信がないの。手伝ってもらえると助かるわ」
 わずかに肩をすくめた彼女は、おもむろに歩き出した。翻った白いスカートが艶やかな廊下に溶け込むように見える。揺れる長い髪を耳にかける仕草には、先ほどまでの戸惑いなど一欠片も見受けられない。彼は慌ててその後を追った。
「おい梅花」
「急ぎましょう? この先にリューさんがいるわ。さっきまでうっすらとしか感じられなかった気が強くなったから、たぶん中央会議室から出てきたところよ。何か話が聞けるかもしれない」
 駆けよって顔をのぞき込めば、そこには普段の彼女がいた。冷静に物事を見極め、今なすべきことに意識を向けるいつもの彼女だ。けれども、もう彼は肩を落としたりはしない。彼女は徐々に変わってきている。それは素直に喜べることだった。
「ああ、そうだな。早く大事なこと確認して、無世界に行かないとな」
 こんな平穏が続けばいいのに。絶対にあり得ない願いに心中で苦笑しつつ、彼は首の後ろを掻いた。せわしない靴音と話し声が、廊下の向こう側からにわかに感じられた。



「いやぁ、やっぱり持つべきものは優秀な後輩だよなぁ」
 ソファーにどかりと座り込んだラフトは、そう言いながらニヤニヤと笑った。癖のある銀糸をくしゃくしゃと掻く幼い横顔は、幸か不幸か見慣れてしまっている。それを尻目に滝はひっそりと苦笑した。
 幽霊屋敷と呼ばれたこの家との別れも近づいてきている。そんな折に突然フライングが転がり込んできたのは今朝のことだ。どうやら早めに家を引き払ってしまったらしい。相変わらずの無計画さには、もはや文句をつける気にもならなかった。改善を期待しても無駄なものは、確実にこの世には存在する。
「まあ、部屋は余ってますからね」
 本を片手にたたずんだ滝は、大きな窓から外を見遣った。今日はあいにくの曇り空だ。だが風はないため、この時期の無世界としては過ごしやすい気候とも言える。それに気をよくしたのか、フライングの三人はダンたちと一緒につい先ほど買い物へと繰り出してしまった。残っているのはラフトとゲイニ、滝とレンカだけ。ゲイニが今し方煙草を吸いに部屋を出ていったので、ラフトの相手がいなくなってしまった。突然の独り言が始まったのは暇になったからだろう。
「なあなあ、この屋敷はいつまで使えるんだ?」
「ぎりぎりまで大丈夫です。直接持ち主から借りているし、そもそも借り手のつかない幽霊屋敷でしたから」
 答えつつ滝は辺りをぐるりと見回した。歴史を感じさせる柱に壁、天井をあらためて凝視すれば、感慨深いものが湧き上がる。そして何より、古い本独特の匂いはいつも彼を落ち着かせてくれた。ここを離れるのは正直言って寂しい。
「そりゃあ最高だな。で、いつ出発になるんだ?」
 ソファーで足をぶらぶらと揺らしながら、ラフトは頭の上で手を組んだ。まさかの質問を口にされて滝は絶句する。それを知ったから滝たちに頼み込んできたわけではなかったのか。あと数日程度であれば、ラフトたちの財力ならホテル暮らしでも問題はないだろう。
「……ラフト先輩、通信機見てないですね。梅花から発信が来てましたよ。十一月に入る頃になりそうだって」
「通信機? ああ、あの時計の。そんな機能あったのか。もう必要ないと思って、しまいこんだままだわ」
 そう言ってからからと笑うラフトに、もはや忠告する気にもなれなかった。この楽観的な性格はどうにもならないのだろう。それでもここまでやってこられたのだから、おそらく運は良いに違いない。ヒメワのようなくじ運とは違う、別種の運だ。恵まれている人間というのはいるものだ。
「じゃあもう少しゆっくりできるなー。なぁ、滝たちはどこか行きたいところないか? 金ならあるぞ」
「ずいぶん気楽に言ってくれますね」
 好奇心で瞳を輝かせながら、ラフトが身を乗り出してきた。「金ならあるぞ」とは、まず口にできない羨ましい一言だ。
 苦笑を禁じ得ず、滝がぱたんと本を閉じた時だった。居間の向こう、台所の方からレンカの気が近づいてくるのがわかった。やおら振り返れば、お盆を持った彼女がにこりと微笑む。青いカップから立ち上る湯気が、うっすら芳ばしい珈琲の香りを運んできた。
「はい、どうぞ」
 静かにソファーへと寄った彼女は、慣れた手つきでテーブルの上にカップを置いていく。かちゃりと鳴る音の心地よさは格別だ。これが無世界に来てからの彼らの日常の一部であった。するとラフトが軽く鼻歌を奏でる。
「さすがレンカ、気が利くじゃん」
「ちょうどお茶の時間ですから。あ、今アップルパイ持ってきますね。焼き上がったところなので」
 お盆を抱えた彼女は、背を正してまた相好を崩した。そう言われれば今朝そんな宣言をしていたと滝は思い出す。無世界ではどの時期でも林檎が手に入るので、今のうちにと思ったらしい。技がない世界の方が、日々の暮らしでの工夫が進んでいる。無世界では旬のもの以外の食べ物まで手に入るし、移動手段も豊富だ。
「レンカの料理はうまいよなぁ。どこかで修行でもしたのか?」
 踵を返そうとした彼女へと、カップを手にしたラフトが声をかけた。そこで修行という発想になるのがラフトらしい。すると肩越しに振り向いた彼女は悪戯っぽく笑った。
「そんな大層なことはしてませんよ。お世話になった人が小さな料理屋をやっていて、少しお手伝いしていただけです」
 その話は滝も何度か聞いていた。バインとヤマトの間、街からは外れたところにある小さな料理屋に、幼い彼女は出入りしていたらしい。風邪を拗らせて薬草を探していたところ、山菜採りに来ていたその女性と遭遇したのがきっかけだったようだ。それまでレンカはずっと独りだった。
「へーなるほど。その料理屋仕込みってことか」
 ラフトは特徴的な童顔をくしゃっと崩して相槌を打った。そして置かれた青いカップにそろそろと手を伸ばす。
 小さな頃からの癖で、彼女は大体料理を作りすぎるらしい。それはこういう予想外な事態には役に立った。フライング五人分が増えたところで、彼女なら難なく食事を準備してしまうだろう。だからこそ滝も住人が増えたことに対してこれといった心配をせずにすんでいる。あとは寝床をどうにかすればいいだけだ。
 そこまで考えたところで、神魔世界での生活のことが脳裏をよぎった。梅花の通信では、住居の整備が大まかに整うのが十一月になるということだった。それ以上の情報は、あの時計型通信機では伝えきれない。もっと詳細が知りたいなら直接顔を合わせる必要がある。だがまだ彼女はこちらには戻ってきていないようだった。
「じゃあアップルパイを切って持ってきますね。ほら、滝も座って」
 心が無世界を離れかけたところで、レンカにそう促された。はっとした滝は本を小脇に抱えつつ、ラフトの向かいに腰を下ろす。ソファーが軽く音を立てた。
「いやぁ、でも本当によかった。思ってたよりも早く追い出されちゃったから、どうしようかと思って。カエリはすっげー怒るし」
「そりゃあそうでしょうね」
 滝もカップへと手を伸ばした。深い青の色味が気に入って、ホシワと相談して買ったものだ。何年前の話だろうか。もうずいぶんと昔のことのように思える。この半年に色々とありすぎたせいだろう。だがこれも、無世界を離れる時には手放さなければならない。神魔世界に持って行けるものは限られている。せいぜい一人で抱えられる分だけとなると、そのほとんどが身につける物になりそうだった。シークレットは特別車を使ってもよいと言ってくれたが、甘えるのも気が引ける。
「だって、まさかこんなに待たされることになるとは思わなくてな。前はあんなに急がせたのによー」
 珈琲を口に含む直前まで、ラフトの文句は続く。上の意向に振り回されている自覚はあるので、そう言いたくなるのもわかるのだが。予測できるのだからもう少し対策すれば、きっとカエリにも怒られずにすむだろうに。
「あの家お気に入りだったんだけどなぁ」
「もしかして、決められた五年が終わっても、そのまま住むつもりだったんですか?」
 尋ねてみたのは単なる好奇心だったが、滝は少しだけ後悔した。聞いたところでもはや意味のない質問だ。それでもラフトはぱっと顔を輝かせ、大きく首を縦に振る。
「おう、もちろん。滝は違うのか? ここ、気に入ってるんだろう?」
「まあ気に入ってはいますよ」
 視線を逸らした滝はカップに唇を寄せた。神技隊としての五年が終われば、その後の選択は自由だ。無世界に残ることも、神魔世界に戻ることも許されていた。自分ならどうしただろうとつい考えてしまうのは、感傷的になっている証拠かもしれない。
 それはもしかすると、これから待ち受ける事態の重さからの逃避なのだろうか。この日々があまりに平穏なものだから、先日までの戦いが全て夢だったのではないかと時折思ってしまう。ミスカーテという魔族の毒で長いこと倒れていたというのに、それさえも今は現実感がなかった。神魔世界に戻れば、きっと容赦のない状況が待ち受けているのだろう。また頭痛に悩まされる毎日が来るのかもしれない。
「じゃあさー」
 滝が珈琲の香しい匂いを堪能したところで、ラフトはカップをテーブルに置いた。揺れたソーサーが音を立てると同時に、雲の合間からふいと日が差し込む。陽光を浴びて、ラフトの銀の髪が輝いた。滝が瞬きをすれば、ラフトは天井辺りを見上げながら唇を尖らせる。
「滝はこの世界にもう満足したか? オレは足りないなぁ」
 ラフトのぼやきは半分独り言のようだった。滝はつい黙り込む。自分は何かに満足したことがあるだろうか? おそらく、そんなことは一度たりともなかった。いつも、何かが欠けているような気がしていた。しかし、そんな本音をここでぶつけるわけにもいかない。

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