white minds 第二部 ―疑念機密―
第二章「茫漠たるよすが」4
「あ、ほらほらそこ。もう着いちゃった」
そこでリンの声が一段と高くなった。ぱっと顔を輝かせて小走りで塀へと寄っていく姿は、年相応に見える。
「……ん?」
だが門の前に辿り着いたところで、シンは首を傾げた。気のせいだとは思うのだが、既視感を覚える。腰よりも少し高い程度の塀が庭と道を区切っているのは、よくある造りだ。その門の前に小さな箱が据え付けられているのだが、それに見覚えがあった。小鳥を模した飾りが特に印象的だ。
彼が首を捻っているうちに、リンは軽い足取りで門の奥へと進んでいく。何かの野菜が収穫されたばかりの庭は、小さいながらも生活感に溢れていた。
「お母さんいるー?」
意気揚々とした声で戸を叩いたリンは、そのままゆっくりと扉を開けた。鍵は掛かっていないらしい。不用心だと言いたくもなるが、この辺りは民家も少ない。おそらく知り合いばかりなのだろう。不審者の心配をする必要はないのかもしれない。
彼女が力を込めると、深い緑色の扉がぎぎっと音を立てた。それなりに年数は経っていそうだ。するとその向こうからどたばたと誰かが走り寄ってくる気配がした。リンが「あっ」と声を漏らす。
「お母さん危ない!」
ついでがらがらと何かが崩れる音が続き、シンは思わず額を押さえた。この音にも既視感がある。仕方なくゆっくりリンの方へと近づいてみれば、玄関の向こうで空き箱が散乱しているのが見えた。
「もうお母さん、だから玄関は広くしておかなきゃって――」
「リン、帰ってきたの!?」
たしなめるリンの言葉を、甲高い声が遮った。がばっと空き箱の山から女性が立ち上がるのがシンの目に映る。リンよりも少しだけ背が低いが、面差しには似たところがあった。彼女は目一杯瞳を見開いて、胸の前に掲げた手をわなわなと震わせていた。
「うううう嘘っ。だって、え、幻? 夢?」
「ごめん、夢じゃないし蜃気楼でもないから落ち着いて? はい、深呼吸深呼吸」
リンの背中越しに見るその女性には、案の定見覚えがあった。あれは……確か、宮殿に神技隊として招集される前のことだ。本当にその直前の頃だ。
「いや、まさか」
シンは口の中がからからと乾いていくのを自覚した。否定したい思いと、じわじわと蘇る記憶の板挟みで、鼓動が速くなる。あれはそうだ、妹と共に挨拶に出向いた時だった。
「落ち着けるわけがないじゃないの! あ、リュンクならちょうど京華ちゃんと一緒に旅行に出ていて――」
「あ、お兄ちゃんいないんだ。だから静かだったのね。あーよかった。じゃあ今のうちに荷物あさっちゃうから。勝手に上がるね」
リンは笑顔のまま、慎重に箱の山へと近づいていった。その足取りに慣れを感じるところを見ると、こういったことは日常茶飯事なのだろう。
「実は色々あって早くこっちの世界に戻ってくることになったんだけど、宮殿の側に住まなきゃいけなくなっちゃったのよね。だからちょっと私物を持っていきたいの」
わかりやすく狼狽える母へと、リンは大雑把に説明していく。不安要素をできる限り排除した、嘘にはならない程度の情報だ。おそらく心配させまいという配慮だろう。今の一連のやりとりだけでも、リンの母が動揺しやすい人間であることは容易に読み取れた。
そこでリンは何かに気づいたようにこちらを振り返った。そしてどこか気恥ずかしそうに、すまなさそうに首をすくめる。
「ごめんなさいシン、騒がしくて。上がってく? 中はたぶん片付いてると思うんだけど」
「いや……それをまたいでくのは気が引けるからな。ここで待ってる」
シンは笑いながら首を横に振った。散乱したあの空き箱をどうにかしてからでないと、さすがに家の中にお邪魔する気にはなれなかった。と、そこでようやくリンの母も第三者がいることに気づいたようだ。今の反応からすると彼女は技使いではないらしい。そもそもよく考えれば彼らは気を隠していないのだから、技使いなら近くまで来たことに気づいていたはずだ。
「あ、あら、お客さん? 嫌だどうしよう、また恥ずかしいところ見せちゃった」
おろおろするリンの母の双眸が、はっとしたように見開かれた。それが決定打となった。どうやらシンの見間違いではなかったようだ。そんな偶然などあるはずがないと思うのだが、勘違いではなかったらしい。
「えっと、もしかして……」
「あ! ごめんねお母さん、紹介もしなくて。同じ神技隊のシン。ウィンも見てみたかったんだって。ということでほらお母さん、この空き箱片付けて。シンも困るから。どうせまたたくさん買い込んじゃったんでしょう?」
朗らかに笑ったリンは母の背をぐいと押し出し、玄関奥の廊下へと進んだ。リンの母は何か言いたげに、それでも言葉を探しあぐねて口をぱくぱくとさせていたが、やにわにふっと頬を緩めた。その眼差しが確実に自分を捉えていることに、シンは動揺を覚える。
「玄関が片付いたらシンも上がって? 私はさくっと必要な物を最低限見繕っちゃうから。それが終わったら、ジュリの家に行きましょ?」
リンは箱の山越しに声をかけてくる。一人でぐいぐい話を進めていくのは相変わらずだ。それはこのそそっかしい家族に相対するうちに身につけたものなのだろうか。
「お母さん、箱潰すのは後でいいから、とにかく道だけでも作ってね」
ぱたぱたと足音を立てて奥へと入っていくリンの姿を、シンは黙って見送った。騒々しい空気が静まれば、一気にいたたまれなさが押し寄せてくる。やけに心臓の音が強く響くように感じられ、背中を汗が伝った。
「ごめんなさいね。今片付けますから」
リンの母はにこりと微笑むと、側にある空箱を一つ拾い上げた。大きさからでは一体何が入っていたものなのか予測もできない。ただリンの買い物好きは母譲りなのだなと、漠然と感じ取るくらいだ。そう思うと何故だか少しだけ気持ちが和む。
「心配しなくても、京華ちゃんは元気よ」
けれどもついで放たれた一言に、シンの鼓動はどくりと跳ねた。やはりと思うと同時に、申し訳なさが胸に染みる。
京華。それはパートナーのもとへ行った妹の名だ。妹が一体誰と一緒になったのかもろくに把握していなかった兄であることを、眼前に突きつけられたようだった。ほとんど入れ違いで神技隊に選ばれたからというのは理由にはならない。彼はあの時既に重圧から解放された気でいた。
「そうですか」
今のシンの様子は、リンの母の目に一体どう映っているのだろう。この女性は、彼が全てを知った上でこの家にやってきたと思っているのだろうか。
「ええ、とってもよい子で助かってるわ」
箱を抱えたリンの母はふわりと笑った。それが記憶の中の彼女とは違っていることを、この時になってシンはようやく思い出す。
彼が挨拶に行ったあの日、彼女たちは皆どこか狼狽えていた。落ち着かなかったし、心ここにあらずだった。肝心の妹のお相手とやらも、動転して支離滅裂だった。その理由が「家族が倒れたから」だと知ったのは帰り際のことだ。京華が教えてくれなければ、疑問と違和感を抱いたまま去ることになっただろう。自分が拒絶されているのだとさえ考えたかもしれない。彼にとっては、一つの忘れたい記憶だった。
「あなたのおかげね。リンも元気そうだし」
素直に喜びを表現するリンの母へと、返す言葉は見つからなかった。助けられているのはこちらだと告げることは、現時点では無理だった。
苦痛な時間というものには何度も覚えがあったが、滝にとってこれはかつて経験したものとは別種の苦しみだった。ため息を飲み込む努力を一体どれだけ重ねてきただろう。隣にレンカがいなければ、数回はこぼしていたかもしれない。
「ここで最後みたいね」
皆がそれぞれの故郷へと戻ったため、取り残された滝たちは仕方なく建物を見て回っていた。二階三階の部屋は聞いた通り同じ作りだったし、四階はまだ未完成のようだった。最後に一階へ降りてきたのだが、そこで問題が生じた。
「そうだな」
食堂や大浴場がある一階の廊下の突き当たりには、大きな空間が存在しているようだ。そこにレーナたちがいるのは気で感じ取れた。このまま引き返してもよいのだが、その先に何があるのかは気になる。大体、ここまで来ているのはあちらにも伝わっているはずだ。あからさまに避けているというのも大人げない態度だと思う。だが、気は進まない。
「何があるのかしら?」
「ちょっと、のぞいてみるか」
けれどもずっと避け続けるのも不可能だ。決意した滝はそうレンカに声をかけ、ひっそり喉を鳴らす。彼女が断らないことはわかっていた。ただ彼の決心がつかなかっただけだ。
廊下の奥にある扉は、逆側の端にあった扉と似ていた。左右に開く形だ。彼はかろうじてわかる程度の窪みに指を掛け、ゆっくり力を込める。見た目よりも重量感のある扉が、静かに開いた。
その先も白だった。何もないただひたすら広い空間が、一面の白。それは雪に覆われた晴天下の草原にも似ている。滝はつい瞬きをしながら辺りを見渡した。物一つ置かれていない空間は、天井まで真白で統一されている。
「な、何なんだここは」
「何だと思う?」
思わず独りごちると、左手から声が返ってきた。廊下よりも一段とよく音が響くのは、床の材質でも違うのだろうか。
固唾を呑んでやおら視線を向ければ、壁に片手をついたレーナがこちらへ顔を向けたところだった。相変わらずの余裕の笑顔だ。彼女から少し離れたところにはアースたちもいる。ただ彼らはちらと視線を寄越しただけで、すぐにそっぽを向いた。
「まあそう固く考えるな。中でも技が使える空間が欲しいだろう? それで作ってるんだ」
レーナが手の甲でこんと壁を叩くと、小気味よい音がする。滝は思わず顔をしかめた。一体どういう理屈からそのような発想に至ったのだろう? 中で技など使ってどうするのか。わからず滝が首を捻れば、続いて入ってきたレンカがぽんと手を打った。
「それって、もしかして。訓練用ってこと?」
「ま、そんなところだな。武器だって試しに使ってみたいだろう?」
つまり、ここは技の実験場なのか。思わず滝は周囲へ視線を巡らした。もしかすると、外装と同じものが使われているのかもしれない。だからやたらと白いわけかと合点がいく。廊下や部屋と違うのもそのためだろう。
一方、武器という言葉は引っ掛かったままだ。滝の脳裏をよぎったのは、上から借りたあの剣だった。通常の剣では魔族に致命的な一撃を与えることができないが、上の物は違う。
「武器?」
「ああ、対魔族用の武器だ。この星の人間はそういうのは持っていないだろう? あれなしに、魔族に対抗するのは至難の業だぞ」
その聞き捨てならない単語をレンカが繰り返せば、レーナは悠然と首肯した。それでもレンカは戸惑ったように小首を傾げている。
「え……まさかそれを、レーナが用意してくれるってこと?」
放たれたのは予想外の疑問だった。確かに、上はこれ以上滝たちの装備について協力してくれるつもりはなさそうだった。借りた武器とて未調整だという話だ。上に期待できないとなると、レーナに頼る他なくなるのだが……。
「もちろん。そうじゃないとお前たち死ぬだろう? まあ無論、われが作ったものなど使いたくないというのなら無理強いはしない。ただ、人間が使う程度の普通の技では、魔族にはさしたるダメージはないからな。それは覚えておいて欲しい」
半信半疑な滝たちへと、レーナは深々と頷いた。どうも本気だったようだ。特別な武器が必要であることは、今までの戦いでも嫌という程実感している。精神系の技は効果があるようだが、他の技では動きを止めることはできても決定的な一撃とならない。
「作れるのは剣だけなの?」
「いや、形態は問わない。あれは精神を込めた物質を直接相手にぶつけることに意味があるから、各々の扱いやすい形が一番だ。それぞれの精神にあわせることができれば、最も威力を発揮する。そこまで目指すとなると調整を繰り返す必要があるがな」
レーナはよどみなく説明した。なるほど「未調整」というのはそういう意味なのかと、滝は納得する。それにしても、レーナと相対していてもレンカは普段と変わりないのが不思議だ。気にも動じる色が見られない。元々レンカはどんな人間に対しても態度の変わらない方ではあったが、それは相手がレーナでも同じなのか。
「そういうわけだから、必要だと思えば声かけてくれ」
ふわりとレーナは微笑んだ。自分が信用されていないことに関しては、どうも慣れきっているらしい。それでもこうして丹念に何度も厚意を示されると、滝としてはどう反応するのが正しいのかわからなくなる。信用してしまいたいと思うのは、楽になりたいという心境からなのか?
「武器を含め、魔族と戦うのもコツがある。われが信用できないならシリウスにでも聞いてくれ。あいつなら人間の技使いがどんな風に魔族と戦っているのかも知ってるだろう」
笑顔で相槌を打っているレーナの後ろから、一瞬だけアースが睨み付けてくるのが見えた。彼らにとっては面白くない話に違いない。レーナがいるから黙っているだけだろう。しかし滝はあえて気づかない振りをした。ここで諍いを起こすのは得策ではない。
「そういえばシリウスさんはいないのね」
そこで今気づいたとばかりに、レンカが辺りを見回した。案内と内部の観察が終われば、てっきりレーナのところに戻るのだと思っていたが。どうやら違ったようだ。するとレーナは首を縦に振る。
「あいつなら、お前たちが来たからわれも悪さをしないだろうと思ったらしく、一度神界に戻った」
笑顔を崩さず、レーナは手をひらりと振った。そのあんまりな言い様に滝は絶句する。彼女は自分を悪し様に言うのも抵抗がないらしい。
「悪さをしないって……」
「彼らにとっては、われなんて依然として得体の知れない奴だろうさ。わけのわからない理屈で動いていると感じてるだろう。一応明日一通り話をすることになっているが、それでもどこまで通じるのやら……」
手を下ろして大仰に肩をすくめたレーナは、わざとらしいため息を吐いた。だがそれよりも滝には聞き捨てならない単語があった。
「明日?」
今の口ぶりは、明日に決められた何かがあるかのようだった。また神技隊には内緒で上の者と話し合うのだろうか? すると顔を上げたレーナはきょとりと目を丸くし、首を傾げる。まるで子どものような反応だった。
「お前たち、まさか何も聞いてないのか? 明日あの宮殿とかいう建物で、説明会が開かれることになっているんだが」
レーナの明瞭な声が白い空間に染み渡る。説明会という可愛らしい響きが、どうにも滝にはぴんと来なかった。しかし宮殿で開かれるとなれば、くだらない話であるはずもない。滝は思わずレンカと顔を見合わせた。
「そういえば、後で説明されるみたいなことをシリウスさんが言っていた気が……」
レンカの呟きではたと気がつき、滝も記憶の中からその一言を拾い上げる。シリウスはそれがいつのことなのか明言していなかったが、まさか明日なのか?
「本当に聞いてなかったのか。あいつ、肝心なことは言わないな。説明会は明日の早朝だ。人間たちが本格的に動き出す前に、あの建物に集まることになっている。たぶん神の誰かが迎えに来るはずだ」
レーナはまた手をひらりと振って微苦笑を浮かべた。彼女の気ににわかに宿る緊張感を感じ取り、滝は唇を引き結ぶ。今回は、はぐらかされない。その確信が奥底から湧き上がってきた。
ずっと待ち望んでいたものとようやく対面できる。自分たちの立場がやっと理解できる。嬉しいはずなのに、高揚感と共にせり上がってくるのは得体の知れぬ畏怖の感情だ。滝は固唾を呑んだ。
「――そこで、今一体何が起こっているのかわかるんだな?」
「ああ、そうだ。少なくとも今お前たちが置かれている状況はおおよそわかる。そして、これから何が起きようとしているのかも」
淡々と告げられるレーナの言葉が、重く鼓膜を揺らした。この事実を帰ってきた仲間たちに告げる時のことを思い、滝はひっそり拳を握った。