white minds 第二部 ―疑念機密―
第五章「遠回りな求愛」5
「うん! だってお姉ちゃんやリンさんたちと一緒にいられるのが嬉しいから。私も何かしたいなぁって」
「本当? 無理しないでね。何か困ってることはない?」
籠を抱えたまま少しだけ背をかがめたリンは、こてんと首を傾けた。慣れた仕草だ。いつでもにこにこ笑顔を振りまく少女が、何かため込んでいないか気にするのは過去の自分を思い出すからなのだろうか。
十歳というのは、何もできないようでいて色々とわかっている年頃だ。それでいて狭い世界しか見えていなかったりする。技使いではないというこの少女の目に映る景色は、どんなものなのだろうか。
「うーん、特にないけど」
尋ねられたメユリはぱちりと音がしそうな瞬きをし、ついで天井を見上げながら考え込んだ。ジュリと同じふわふわとした柔らかそうな髪が揺れる。
「あ、一つ困ってるのは勉強のことかな」
そこでメユリはもう一度リンの方を見上げた。思わぬ話に滝は瞠目する。リンもはっとした様子で眼を見開き、それから籠を傍のテーブルへと乗せた。
「そっか、勉強も途中だものね。でもまさかここに先生を呼ぶわけにもいかないし……。誰か資格持ってなかったかなぁ」
独りごちるように唸りながら、リンは斜め上を見上げた。無世界には学校という制度があるようだったが、神魔世界での教育は子ども一人に担当の先生が一人付き、家を訪問するのが一般的だ。
一定の資格さえあれば、子どもたちに勉強を教えることが許される。資格がなくても教えることは可能だが、それでは子どもたちが試験を受けても認定が受けられない。
メユリがここに住むのは問題なかったが、ここに誰も呼べないとなると教育課程が止まってしまうことになる。
これは盲点だったと滝は眉間にしわを寄せた。教師の資格は取得するのにやや時間がかかるため、神技隊に選ばれるような技使いで持っている者は稀だろう。
「リンさん、だ、大丈夫だから」
「そういうわけにはいかないわよ。勉強は大事だもの」
「初級の資格でいいなら、持ってるが」
けれども予想を裏切る声は背後から聞こえた。滝が振り返れば、どこか困惑気味な面持ちでシンが首の後ろを掻いていた。それは初耳だと滝は目を丸くする。まさかシンほどの技の使い手が、そちら方面に興味を持っていたとは。
「いつの間に」
「滝さんは長のところでもう働いていたから、そりゃ知らないでしょ」
シンはどこかばつが悪そうに視線を逸らした。考えてみると、滝が本格的に長のところへ出入りするようになってから、シンたちの動向は掴みづらくなった。青葉はあちこちの町を放浪していたが、シンはヤマトにいたというのに。
それだけ滝自身にも余裕がなかったということか。資格取得のための講義が受けられるのは十八歳からだから、シンがすぐに受けていたのだとすれば取得は可能だ。
「本当!? よかった。忙しいところ悪いけどお願いできる?」
ぱっと顔を輝かせたリンは、すぐにシンへと詰め寄った。腕を掴まれたシンは苦笑しつつも素直に頷く。そのつもりでなければ、ここで口にはしないだろう。
リンの横では、メユリが申し訳なさそうな顔をしながら様子をうかがっていた。シンなら丁寧に教えてくれそうなものだが、それもほぼ初対面のこの少女にはわからないだろう。
いや、何より大人に迷惑をかけるというのを気にする年頃か。自分の我が儘が引き起こしたと思っているならなおのことだ。
「じゃあシンの買い物班の仕事は免除してもらうよう、カエリ先輩に言っておかないとな」
ならばこちらで話を進めてやった方がよいかもしれない。そう思って滝は提案してみたのだが、シンは何か言いたげに口を開いてからちらとリンの方を見遣った。リンは不思議そうに頭を傾けただけだったが、彼の視線から滝は感づく。
「いいや、それは大丈夫です。買い物当番もほとんど当たらないので」
シンは控えめに頭を振った。考えてみると、買い物班はリンと一緒だったか。――そこまで同じにしなくとも四六時中行動を共にしているようなものに思えるのだが、当人としては何か懸念があるらしい。
滝には全く想像できないところだ。そんなにこだわるのであればきちんと言葉にすべきだろうに。
「本当? 別にシンが抜けても誰も文句言わないわよ?」
「いや、そういう問題じゃなくて。……オレの気持ちの話だから気にしないでくれ」
詮索されたくないと言わんばかりに、シンは淡泊に告げる。リンは気圧されたよう気のない声を漏らした。もっとも、当番が免除されたと聞けばサツバあたりが何か愚痴を言いかねないというのは想像できる。
「そう? それでシンの気持ちがすむならいいけど」
リンは困惑しながらも首を縦に振った。シンが明らかに一歩退いた時、彼女はそれ以上深入りしない。それは基地に住むようになってから明白にわかるようになったことだ。
一緒に住むとこんな部分まで見えてしまう。勝手に悩むなら悩んでくれと言いたいところだが、それは精神の問題に直結しかねない話だ。技を使う身としては無視できない点だった。
そこで滝はふと、先ほどメユリが口にした言葉を思い出す。
『だってお姉ちゃんやリンさんたちと一緒にいられるのが嬉しいから。私も何かしたいなぁって』
いつだって答えは簡単なのに、願いは単純なのに、人はどうしてそこに手を伸ばすことを躊躇うのだろう。かつての自分を思い出しながら、滝はそっと瞳をすがめた。じんわりと胸の奥底に広がる懸念が、また色濃くなったように感じられた。
無機質な扉が開くと、真っ白な世界が現れる。それまであやふやにしか感じ取れなかった気が一挙に襲いかかってくるように、全身を包み込む。これが神界の特徴だ。
ミケルダは思わず腕を掲げた。神魔世界での強い日光とは違うのだから、そんな風にしても何も遮ることはできないというのに。人間たちに紛れるための癖が、こういう時にも顔を出す。
「ようやく帰ってきたな、ミケルダ」
すると懐かしい声が右方から聞こえ、ミケルダは視線を向けた。深い緑の髪を揺らしながら回廊を歩いてくるのは、幼馴染みのラウジングだ。
気を隠しているのは何故だろう? 疑問に思いつつも、その顔色がすっかり元通りになっていることにミケルダは安堵した。核の傷はずいぶん癒えたらしい。
「久しぶり。調子はもう元通りって感じ?」
「時間はかかったがな」
「それならいいんだけど」
足を止めたラウジングを、ミケルダはまじまじと見た。気が隠されていなければ本当に完治したのかどうかわかるのだが……と考えたところで、はたと気づく。まさかそれを気取られないように隠しているのか?
「嘘ばっかり。最終調整が残ってるでしょう?」
その疑問を裏付けるような声が、左上から聞こえた。目を向ければ、白い柱の縁に座ったカルマラが足をぶらぶらとさせているのが見える。
何故だか彼女まで気を隠していた。どうやら待ち伏せされていたらしい。『下』とここを結ぶこの場所は、誰であっても通らざるを得ない。
「それはほぼ治ったも同然ということだ」
「そうやって無理するからまだ下には降りちゃ駄目って釘刺されるのよ。ラウったらわかってないなー」
けらけらと笑うカルマラを、振り返ったラウジングが軽くねめつける。二人の会話から状況を把握し、ミケルダは苦笑いした。
カルマラはラウジングの行動監視でも頼まれたのだろうか? そうだとしても、ここでミケルダを待ち受けている理由にはならない。
「すぐにさぼろうとするカールとは違うだけだ」
「あ、心配してあげてるのにその言い方は何? だから友達いないんだって」
「まるでお前には友達がいるような口ぶりだな」
ミケルダがあれこれ考えている間も、ラウジングとカルマラの言い合いが繰り広げられる。放っておくといつまでも続くだろう。
額を掻いたミケルダは、どう口を挟むべきか思案した。入り方を間違えると、今度は一斉にミケルダが攻撃される羽目になる。
「あー二人とも、その辺で。オレに何か用があったんじゃないの?」
仕方なく、ミケルダは正攻法でいくことにした。率直に尋ねれば、はっとしたようにラウジングが振り返る。本題を忘れていたと言わんばかりだ。軽く咳払いをしたラウジングは、きまりが悪そうに目を逸らしつつ口を開いた。
「いや、ずいぶんしつこく下に行っているなと思ってな。顔を見に来ただけだ」
何か言いたいことがあるのを隠したような、そんな口調だった。ミケルダは眉根を寄せる。いつものラウジングのお説教といえばそれまでだが、おそらくそう単純なものではないのだろう。
「しつこくってほどじゃないと思うけど」
「梅花たちに会ってきたのよね?」
「まあ」
ひょいとカルマラが飛び降りてくるのを横目に、ミケルダは当たり障りのない返事をした。
神技隊のもとを訪れていたことは、隠す必要がない。それでもなんとはなしに居心地の悪さがあった。ラウジングが口を開いたり閉じたりする様子が視界の隅に映る。
「――馴れ合うのはどうかと思うんだが」
寸刻の間を置いてから、ラウジングはそう告げた。苦々しい声がミケルダの鼓膜を揺らす。つい周囲の気を探ってしまったが、こちらへと近づいてくる者の気配はなかった。
この話題は取り扱いに気をつけなければならない。その辺がラウジングは甘い。
「今さらその指摘? オレはもう十分昔から馴れ合っちゃってると思うけど」
「違うわよ。ラウが言いたいのは、あのレーナともってことでしょう?」
うまいことはぐらかそうとしたが、こちらの意図が通じないカルマラがそう付言してきた。ミケルダは大袈裟に肩をすくめる。
ジーリュたちがレーナの動向を怖々とうかがっているこの現状で、その手の話題は厄介な問題を引き起こす可能性がある。シリウス不在の今は、いつ隙を突かれてもおかしくない。それをわかっていての質問なのだろうか?
「カール」
さすがに直接的だと思ったらしく、ラウジングが戸惑ったようにその名を呼んだ。「違う」と述べなかったところを見ると、彼が懸念しているのもその点で間違いないらしい。
ミケルダはため息を吐きたい気分だった。本気でこちらがただお喋りに降りていっていると思ってるのか。そうだとしたら、ずいぶんと舐められたものだ。
「えーちょっと待ってよ二人とも。馴れ合いだなんてひどいなぁ。まあ、ついつい可愛い子とのお喋りは弾んじゃうよね。それでも有益な情報はくれないけどさー」
できる限り軽い調子を装いながら、ミケルダは首の後ろを掻いた。気を探り続けているが、今のところ誰かが近づいてくる様子はない。それでもどこで誰が聞き耳を立てているかわからなかった。
『下』との境に当たるため、この辺りは気の察知が難しくなる。隠されている場合は全く気づけないだろう。
だから『女神狩り』の話など到底できるはずもなかった。実のところ、ミケルダがレーナから個人的に聞き出したいと思っているのはその点だ。
かつて魔族は、神の中でも女の形をとっている者を、あえて狙うという策を進めたことがあった。殺される者もいたが、中には連れ去られた者もいた。
さらわれた者たちがどうなったのか、ミケルダたちには知るよしもない。――連れ去られた母がその後どうなったのかも、無論知らない。
あれは一体何だったのだろう。どういう意図があったのだろう。生き残った仲間たちに何度も尋ねた。知ろうとした。しかし誰もそこには気づけないまま、ただ時間だけが流れた。
どんなに魔族の思惑を読み取ろうとしたところで、そこだけは掴めなかった。ずっとミケルダの中に巣くっている疑問の一つだ。
「それは無理でしょ。彼女、肝心なことは喋らないもの」
「そうなんだよね」
「でもそこは梅花も同じだからしょうがないのかもね」
カルマラは頭の上で手を組みながら、うんうんと頷く。彼女がそのような印象を抱いていたことに、ミケルダは驚嘆した。いつも好き勝手に宮殿に降りては散々周りを振り回しているように思えたが、見るところは見ていたらしい。
「なんだかんだ言いながら似てるみたいだし――」
カルマラが残念そうに頭を振った、その時だった。背筋を冷たい手が撫でていくような、言いようのない感覚が立ち上った。