white minds 第二部 ―疑念機密―
第五章「遠回りな求愛」11
「もう一人いる!」
怒鳴るような北斗の声が響いた。はっとした時には遅かった。突然左手に気が現れたのを認識した途端、背中に何かが突き刺さる。喉から強制的に空気が吐き出される。
けれども、まだ刃は消えていない。歯を食いしばった彼女はそのまま不定の剣を振るった。刃先が何かを貫く感触と共に、喉を潰したような悲鳴がすぐ傍で空気を揺らす。
「レーナっ!」
「いいから離れろっ」
今にも泣き出しそうな声に、優しい言葉などかけてやれない。背中がどうなっているのか確認する暇もなかった。彼女は瞬きを繰り返し、どうにか周囲の視界が戻りつつあるのを認識する。
背中がじくじくと痛むが、血の滴る感触はない。この痛み方は破壊系ではないし、精神系でもないだろう。燃えるような熱を感じたところからすると炎系の刃か? やけどを負っている可能性はあったが、技を使うのに支障がなければまだやれる。
「毒にも気をつけろ!」
叫んだ彼女は刃を伸ばす。魔族の気配が一つ、消える。彼女はそのままミスカーテの気を探した。こうなったらもう全力を出すしかなかった。次の一撃で決めなければ、いつ技がまともに使えなくなるかわからない。
と、ミスカーテの気が突として膨らんだ。まずいと彼女は身構えた。焼け付く背中の痛みを無視して精神を集中させれば、分厚い結界が生まれる。だがこれでも、ミスカーテが近距離から仕掛けてくれば防げるかどうか。
わずかに歪んだ視界の中で、黒い光が弾けた。結界が何かを弾き返す感触に続いて、左方からミスカーテの気が迫ってくる。
結界を解いて動けば神技隊が置き去りとなるためそれはできない。だが結界だけでも駄目だ。仕方なく彼女は刃を構えた。多少の負傷は覚悟しなければ。
結界の範囲を最小限としたところで、忽然と上空に強い気が生じた。辺りの歪みをものともせず突き進むそれは、風だった。
「リン!」
今度はサツバの声が響く。そうか、これはリンの生み出した風だ。それも精神系の。
ミスカーテの気が歪に縮んだのを感じ取り、レーナは完全に結界を解いた。――先ほどよりもさらに視界も戻ってきている。気も感じ取りやすくなっている。機械の効果が切れてきたに違いなかった。これは、好機だ。
青い風を避けるように飛び退ったミスカーテと、一瞬目が合った。その双眸に宿っているのは喫驚の色だ。レーナは口の端を上げる。
決意すれば後は早い。雪面を蹴って大きく跳躍し、精神を集中させ、今度は白い刃を生み出す。体の芯から焼け付くような痛みが走ったが、今は無視をした。ここを逃せば後はない。
距離をとろうとするミスカーテへ、さらにリンの青い風が迫る。元々風の扱いでは誰にも負けることがないほどの使い手だ。その風が精神系であれば、魔族にとってはどれだけ驚異になるか。
ミスカーテもこちらの動きに気づいてはいるが、空にいるリンを警戒して思い切った動きができないでいる。レーナはそのまま刃に精神を込めた。ぐんと大きくなった刀身が、多少の空間の歪みなどものともせずに伸びる。
世界が震える音がした。歪んだ空間がひび割れるような、甲高い音だ。それに混じってミスカーテの気が揺らぐ。刃が、何かを切り裂く感触があった。
ここが限度だ。そう思って刃を消すのと、慣れ親しんだ気配が出現するのはほぼ同時だった。肌に突き刺さるような強烈で、冷たく、研ぎ澄まされた気。――これはイーストのものだ。
「そこまでにしようか」
転移で現れたイーストは、ミスカーテの横に立った。着地したレーナは呼吸を整えつつ、静かに顔を上げる。肩を押さえたミスカーテはきつく眉根を寄せていた。まさかここでこんな反撃に遭うとは思わなかったと、その目が如実に語っている。
「無理は禁物だと言ってあっただろう? 君は一応病み上がりなんだ。気をつけないと」
そうミスカーテに言い聞かせながら、イーストは横目で彼女の方を見た。冷静で穏やかで芯のあるその瞳は、こちらの状況などお見通しだと言わんばかりに笑っていた。
限界が近いのも筒抜けだろう。――いや、それでいて何かあればこちらが手段を選ばないことさえ、おそらく見抜いている。
「挨拶だと言っていたのに、困った奴ですまないね。実験までしてしまったみたいで」
頭を傾けたイーストは、まるで全て見ていたかのようにそう告げた。本気でそう思っていないとわかる謝罪の意味は、問わずとも明白だ。レーナには微笑み返すしかなかった。
こちらが圧倒的に不利なのをわかっていてなお、そういう柔軟な態度を見せる。これは「いつでも受け入れる」という意思表示だ。だから安心して来いと、いつでも心変わりしてよいのだと、そう言っている。
こうやってイーストはいつでも誰でも懐に抱える。刃向かおうとしていた部下も、誰かに捨てられた者も、みんな引き入れる。過去は過去。重視するのは今の意志。イーストの姿勢は一貫していた。
「申し訳ありません」
苦々しさをかろうじて押し殺したような声で、ミスカーテはそう絞り出す。なかなか見られる光景ではない。頭を垂れるミスカーテを尻目に、イーストは満足そうに頷いた。
まだミスカーテはイーストの内にいるつもりらしい。その確認の意味も込めたやりとりなのかもしれない。
レーナはぐっと息を詰めた。ただ立っているだけでも目眩がする。足下の感覚も不安定だ。毒の影響はかすかだし、傷もそこまで重くはないはずだが、その状況で白い刃を使ったのが響いているのだろう。
だが全てが本当に落ち着くまでは、気を抜いてはいられない。背後にリンが降り立った気配を感じつつ、レーナはただただイーストの横顔を見つめる。
「さあ帰ろうか。次は本格的に踊らないといけないからね。そのための準備が必要だ」
ふっと破顔したイーストは、軽くミスカーテの肩を叩いた。何かを堪えるよう瞳をすがめたミスカーテは、最後まで黙したままだった。
幹に手をつき立ち上がった滝は、大きく息を吐いた。噴き出した汗を冷たい風が撫でていったせいか、急速に寒気を感じる。いや、今まではそれどころじゃあなかっただけだろう。
――イーストの気が消えた。たったそれだけのことで、空気が瞬く間に軽くなったような錯覚が生まれた。それでも早鐘のように打つ鼓動はいまだ収まってはいない。滝は自らの胸に手を当てる。
「イーストが去ったってことはレーナが何かしたんすかね?」
ざくりと、雪を踏みしめる音がした。剣を携えながら近づいてきた青葉が、首を捻りつつ辺りを見回すのが見える。
そう言われて滝も気を探ってみたが、ミスカーテらの方からも戦闘の気配がなくなっていた。いや、それどころか上空にいた魔族の気がどんどん減っている。退却指示が出たのか?
「撤退判断ってことか」
そう独りごちながら、滝はゆっくり視線を巡らした。雪積もる林にそれぞれが片膝をついたり、立ち尽くしていたりと様々だ。
圧倒的な存在が消え失せたことで、誰もが半分は放心状態のようだった。死を覚悟した後の安堵は反動が大きい。滝もなんだかふわふわとした感覚に襲われていた。
「また、助けられたってことですかね」
呟く声が聞こえたのは右手だった。梅花だ。細木に寄りかかるようにして片腕を抱えた彼女は、唐突にその場にしゃがみ込む。
「梅花!?」
弾かれたように青葉が駆け寄っていく。動く気力のない滝はどう声をかけたらよいのかわからず、首の後ろを掻いた。
梅花の気に歪なところは見られないから、破壊系や精神系を食らったという可能性はなさそうだ。普段の癖で答えを求めるよう背後を振り返れば、髪を解いたレンカと視線が合う。彼女も複雑そうな顔で苦笑し、首を振るばかりだった。
「まさか怪我か!?」
「大丈夫、そういうのじゃないから。ちょっと、気が抜けただけ。……自分の判断が周りを巻き込むかもしれないって、こんなに怖いのね」
青葉の問いかけを、すぐさま梅花は否定した。滝が双眸を向ければ、片膝をついた青葉は梅花の顔をのぞき込もうとしている。
頭を振った彼女が淡く微笑んでいるのが、滝には意外だった。今にも泣きそうな声ではあるのに、確かに安堵していると伝わってくる表情だ。
「そりゃ、そうだろ」
青葉に頭を撫でられても、梅花はされるがままにしている。もう指一本動かす気力もないのかもしれない。それまで彼女にかかっていた重圧を考えれば当然のことだろうか。
まさか魔族のもとに行くわけにはいかないし、かといって相手の機嫌を損ねて本気にさせてもいけない。適度に相手の気を引きながら、決定的な一撃を放たれないように戦い続けるというのは相当の心労だ。
ミケルダたちには容赦ない攻撃が加わるかもしれないとの不安があるから、なおさらだろう。
こちらは全力で戦ってもどうしたって勝てない相手だ。ただひたすら現状が打破される好機を待ちながら、時間を引き延ばしていくしかない。そんな極限の状態が続けば、神経が摩耗する。
「梅花は十分にやってくれたわよ。だから私たち、誰も死なずにすんだ」
そこへふわりと風を纏ったレンカが近づいていった。彼女がちらと視線を向けた先には、座り込んだままのカルマラがいる。気にどこか不安定さがあるところから、破壊系か精神系の技を食らったことは察せられた。
しかし命は取られていない。上の者が誰も欠けずにすんだのは幸いとしか言いようがなかった。イーストは戯れているつもりだったとしても、こちらはいつ命を落としても不思議ではないという実力差がある。
「気を探ってみたけど、みんな無事みたい」
青葉とは逆側に座り込んだレンカは、梅花の肩をぽんぽんと叩いた。白い息を吐きながら、梅花は頬を緩める。普段は真っ白なその肌が赤く染まっているのは寒さのためだろう。
そうだ、滝が自覚したくらいだから、誰もがおそらく一気に寒気を覚えているはずだ。ちらと空を見上げると、先ほどよりもさらに厚い雲に覆われていた。ちらちらと見えていた魔族の姿は、もう見当たらない。
滝は再度梅花たちの方を見た。動きやすさを考慮すると、冬の装いとしては皆どうしても軽微なものになってしまう。どうにか五腹心イーストを退けたとしても、倒れてしまっては今後が問題になる。
「だからまずは怪我の確認。本当にどこも悪くないかちゃんと診てもらいましょう」
それを同様に懸念したのだろうか。そう告げたレンカは、もう一度梅花の肩を叩いてやおら立ち上がった。長い髪が揺れる様さえぎこちなく見えるのは、寒さで凍り付いているせいだろうか。
「滝、ここをよろしく。みんなを連れて先に基地に戻っていて。私は周りを見て、怪我人がいないかどうか確認してくるわ」
声を張ったレンカの思考は、もう現実的なものとなっていた。そう言われて滝もはっとする。
命が無事であることと、負傷者がいないことは同義ではない。それならば治癒もできるレンカに動いてもらった方がよいだろう。大体、今の自分に走り回るだけの気力も体力も残されていなかった。そういう意味でも彼女の判断は的確だ。
「レンカ先輩――」
「梅花は駄目よ。……とりあえず早く戻ってメユリちゃんを安心させてあげて。きっと誰もいなくなって心配してるでしょうから。あと、治療室とか暖めておいてね。このままじゃみんな凍えてしまうわ」
梅花が立ち上がろうとする気配にも、レンカはすぐさま反応した。何を言い出そうとしているのかすぐに察するところはさすがだし、それを封じる手もなかなかだ。そう言われると梅花も反論の言葉が浮かばないらしい。
イーストの襲来で神技隊全員がナイダの谷に来てしまったので、基地には小さな少女が取り残されてしまっている。気も感じ取れないから、皆が無事かどうかわからず不安に思っていることだろう。
「……わかりました」
渋々といった調子で梅花が頷くと、その頭を青葉がぽんと軽くまた撫でた。ゆっくり二人が立ち上がるのを横目に、滝は気を引き締め直す。
レンカばかりに負担をかけるわけにはいかない。先に基地に戻るなら、その後の対応の準備をすませておいた方がよいだろう。
自らの胸を軽く叩くと、視界の隅でラウジングがゆらりと立ち上がるのが見えた。眼差しはどこか虚ろだが、それでも彼らは生きている。
その重みを噛みしめ、滝は深呼吸した。冷たい空気に肺が震えたような、そんな心地になった。