ウィスタリア

番外編 孤独と孤独の出会う場所

『愛してるんだ』
 昨夜聞いた言葉を、少女は頭の中で繰り返した。それは胸の奥に投げ入れられた石のように、いまだ少女の心に波紋を引き起こしている。
 息苦しさを覚えて、少女は草原に座り込んだ。そして女神に縋る気持ちで、意味もなく右手を空高く掲げる。まだ日が暮れるには時間がある。手をかざした先に見える太陽は、薄雲の向こうでも輝かしく見えた。
 少女はため息を吐くと、そのまま草原へと背から倒れ込んだ。風の匂いが強い。どこかで誰かが火を焚いているのか、わずかに焦げ臭さも感じられる。しかしそれでも建物の中の濁った空気とは違い、生き生きとした草花の香りが染み込んでいた。少女は瞳をすがめて両手を頭の上に持っていく。そして白くなった指先で、肩まで切ってしまった髪を一房持ち上げた。
「切りすぎたかなぁ。たまにはいいかと思ったんだけど。――ああ、空気が冷たい」
 独りごちる声の弱々しさに、苦笑が漏れそうになる。少女は肩を震わせ、眉根を寄せた。そろそろ夏も終わりを迎えようという頃だ。清々しく思える季節だが、緩やかな風には早くも秋の気配が混じっている。しかし少女は長い貫頭衣の他には何も身につけていなかった。自然を感じたい時には体を締め付ける物は不要だ。木々の皮で染めた布の独特の色合いを、少女は気に入っている。
「カーパル、こんなところにいた!」
 少女が目を閉じかけた時、頭上から声が降り注いだ。すぐに影ができて、目の前に人の顔が現れる。少女は瞬きをしてその人物をまじまじと見上げた。手を離したせいで、頬へと黒い髪が落ちてくる。
「オレクラン」
「こんな場所で何やってるんだよ。しかもそんな恰好で」
 この国では珍しい淡い金の髪が、日の光に透かされてますます目映く見える。その持ち主である青年へと、少女は無造作に手を伸ばした。無論、この距離では触れることもできない。指先がかすかに彼の上衣をかすめるのみだ。だが気にせず少女は口を開く。
「落ち込んでいたの」
 真顔で、少女は青年を凝視する。そして瞳に映る逆さまの顔を、頭の中で見慣れた表情と比べてみる。深い森を思わせる緑の双眸は、今は影を帯びて黒々として見えた。少女がそれ以上言葉を紡がずにいると、困ったように微笑んだ青年は横へと座り込む。闇を写し取ったような青年の服を掴んで、少女は体を起こした。
「兄さんが結婚するんだって」
 端的に、少女は状況を説明した。それ以上の言葉はいらなかった。片眉を跳ね上げた青年は、肩をすくめて腕組みをする。
「それで落ち込んでるのか? 子どもだなあ」
「だってもう兄さんと一緒にはいられなくなるのよ? 私は本当に一人になってしまう」
 からかうような響きを含ませた青年から、少女は視線をはずした。そしてひたすら続く草原へと目を向ける。緩やかな風に吹かれて歌う草は、意志を持っているがごとく体を揺らしている。
 この先にあると噂される『川の名残』を思い、少女は顔を歪めた。誰にも見つけられることなくひっそりと存在しているその場所は、まるで今の自分のようだと。
「何言ってるんだよ。僕がいるだろう?」
 青年の手が、少女の頭へとのせられた。首を動かすことができずに、少女は目だけを青年の方へと向ける。当たり前だと言わんばかりに自信たっぷりの声音。不敵に微笑んだ青年を睨みつけたくて、少女は両手で彼の手を除けた。
「また冗談を言ってるの?」
「そう聞こえた?」
「いつもそんなことばかり言ってるじゃない」
 少女は唇を尖らせる。それは彼の口癖らしく、もう何度も耳にしていた。青年は再び困った風に微笑むと、少女の頬へ左手を添える。この風の中でも熱を感じさせる手のひらに、少女は眉をひそめた。同じように白い肌なのにどうしてこうも違うのか。全く別の存在だと知らしめられたようで、いつも不快になる。
「オレクラン」
「僕はそんな薄情な人間じゃあない」
「そう。ありがとう」
「それだけ? つれないなあ」
 青年の手が離れていく。先ほどとは打って変わって情けない響きだ。少女はくすりと笑い声を漏らすと、自らの両腕を抱え込んだ。緩くうねる髪が肩の上で跳ねる。耳を澄ますと、遠くで誰かが歌っているのがわかった。きっと女神へと祈る歌だろう。少女は横目でまた青年を見上げた。
「だって私はこういう人間だもの」
「それは知ってる」
「――ひどい!」
「自分で言ったんだろう?」
「言ったわ。でもそれをそのまま肯定するのは失礼な人間のすることよ。正しければいいってものじゃあない」
「カーパルの言葉はいつも辛辣だ」
 青年の瞳が細められる。少女はくつくつと笑って肩を揺らすと、そっと目を閉じた。打てば響くように返ってくる言葉が心地よい。いつも惜しみない優しさを分け与えてくれる兄とは、また別の安堵を覚えた。確かに、彼女は一人ではないのかもしれない。少なくとも教会に住んでいる限りは。彼がいる限りは。
「オレクランのおかげで元気がでたわ、ありがとう。これ以上兄さんを困らせないようにしないとね」
 目を瞑ったまま少女は口を開く。青年のかすかな笑い声が鼓膜を震わせても、怒りはしなかった。身寄りのない人間の集まりの中で、心を寄せ合うことができる人間がいるのは幸せなことなのだ。誰もがそうとは限らない。本当の孤独に打ちのめされている者も、少女は多く見てきた。
「そうそう、それでこそ僕のカーパル」
「調子がいいんだから」
「それが僕だもの」
「うん、知ってる」
 同時に顔を見合わせた二人は、吹き出すように笑い合った。青年の指先が再び頬へ伸びてくるのを、少女は止めなかった。

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