ウィスタリア

第一章 第四話「ここに自由はない」

 腕がしっかりと動くようになるまで仕事はさせない。そう告げられたゼイツの日常は、極めて単調なものだった。目覚めて支度をしたところでウルナが持ってきた朝食を取る。それは本来『姫様』のために用意されたものだということを知ったのは、しばらく経ってからのことだった。いつも多めに作ってクロミオにも分けていたらしい。それがゼイツの分も増えたというわけだ。
 お腹が満たされたら、クロミオが勉強している間は自由な時間だ。だがそれも長くは続かない。じっとしていられなくなったクロミオが自室へ戻ってくると、ゼイツはその相手をすることになる。
 彼がいなかった時はよく庭へと飛び出し――いや、それだけではなく教会の外まで足を運んでいたようだった。それは本来、ここに住む者には許されざることだという。しかし「怪我しないように」と注意するだけで、ウルナは黙認していた。
 しばらくクロミオの遊びにつきあっていると、そのうちウルナが戻ってくる。そしてゼイツの記憶が戻るようにと、色んな話をしてくれる。現在、ゼイツにとって最大の情報源はそれだった。彼自身の探索はうまくはいっていない。
 自由な時間に教会の中を歩き回ってはいるのだが、単なる個室しか見つけられなかった。ラディアスのいる古代発掘班とやらが普段どこにいるのかもわからない。捜索しながら廊下を歩いているうちに、いつの間にやらもとの場所へ戻ってきていた。実にわかりにくい場所だ。そうでなければ完全に迷ってしまったところを、ウルナやクロミオに助けられている。
 今日も同じように時間が過ぎるはずだった。骨折り損の探索から帰ってきて、ゼイツはクロミオたちの部屋で話し相手をしていた。だが突然クロミオは「外で遊ぶ」と言い出し、庭へ続く扉から出て行ってしまった。止めるべきだったのか。手を伸ばしかけた彼が困惑に眉根を寄せていると、逆側の扉が不意に開いた。
「ゼイツ、今日もありがとう」
「ああ、ウルナ」
 ちょうどよかったとゼイツは安堵したが、ウルナは一人ではなかった。その後ろにはラディアスもいた。きちんと顔を合わせるのは三度目だろうか? ろくに会話もしたことがないこの男が、ゼイツは苦手だ。
『ウルナがどうしてお前を助けたのかわかるか?』
 あの時ラディアスから投げかけられた言葉が、胸の奥に巣くっている。あれ以来、ゼイツも考え続けていた。どうしてウルナは彼を助けたのだろう?
 はじめは勘違いが趣味の馬鹿な女だと思っていたから、あまり深く考えていなかった。だが彼女と話をしていると、知識も教養も身につけていることが次第にわかった。浮世離れしたところはあるが、それだけではあの時の行動全てを説明できない。唯一の心当たりはウィスタリア教だろうか。あの日、彼女は女神の名を口にした。だがその教えとやらを、彼はまだよく知らない。
「クロミオは?」
「今ちょうど外へ出て行ったところだ」
「あら、また? でもそろそろだと思っていたわ。子どもに、こんな場所でじっとしていろだなんて言うのは酷だものね」
 ゆったりとした袖を揺らしながら、ウルナが近づいてくる。困ったように微笑んだ彼女の右の瞳は、遠くを見据えていた。ゼイツはまだ、彼女の左目についても尋ねたことがない。彼女もそのことについては一切触れなかった。全ての闇がそこに凝縮されているような黒い布が、左の瞳をいつも覆い隠している。
「ウルナはクロミオに甘い」
「だってまだあんなに小さいのよ? 私があのくらいの頃は、毎日草原を駆け回っていたわ」
 呆れた声で言い放ったラディアスへと、ウルナは唇をとがらせてみせた。そのように子どもっぽく反論する彼女を、ゼイツは初めて見た。まるで彼女という存在が、ようやく鮮明な輪郭を持ったかのようだった。不思議な心地で二人を眺めていると、感情とは切り離された理性が一つの疑問を投げかけてくる。
 彼女の言い様からすると、どうも幼い頃からこの教会にいたわけではないようだ。ではいつからなのか? これだけ毎日会話を交わしているというのに、肝心なことをゼイツは掴んでいないように思える。ニーミナを実質動かしていると言っても過言ではないウィスタリア教、その教会。そこにいる意味を、理由を、把握していない。
「俺たちと比べるな。ここは教会だぞ」
「ええ、それはわかっているわ。ただ、それでもかわいそうで……」
「仕方がないだろう? ここに自由はない」
 ラディアスはそう口にしてから、一度ゼイツへと一瞥をくれた。様子をうかがっているようにも、また邪魔だと言っているようにも見える眼差しに、ゼイツは閉口する。ラディアスがいるとゼイツは言葉を挟むことができない。疑いをかけられるような言動は控えなければと、胸中で警告が鳴り響く。
「ゼイツ、腕の調子はどう? まだお医者様は忙しいみたいなのよね。ごめんなさい」
「腕? 腕なら今のところは大丈夫。そんなに痛むこともないし」
「本当? それならいいんだけど」
 険悪な空気が漂い始めたためか、話題を変えようとウルナはゼイツへ話しかけた。ゼイツは首を横に振って破顔する。視界の端に映るラディアスの顔は、わずかにだが複雑そうに歪んでいた。いたたまれなさをごまかすように、ゼイツは頭の後ろを掻く。両親の喧嘩を遠巻きに見ていた幼い頃のことが、不意に脳裏をよぎった。
「でも気をつけて。完全に治るまでは時間がかかるものよ」
 ウルナは瞼を伏せた。何かを言い含んだように愁いを帯びた横顔へと、影が落ちる。彼女は時折こうした顔をする。濁った水の奥底に潜んだように決して見ることのできない、しかしある種の存在を確信させるような色を、瞳に宿す。この時ばかりは、とらえどころのない彼女の気配が濃度を増す。そして何故だか声を掛けたくなる。
「ウルナ――」
 だがゼイツが思わず手を伸ばそうとした次の瞬間、何の前触れもなく建物が揺れた。大きな振動の後、体に響くような轟音が遠くから聞こえてくる。耳が痛い。空気まで細かく揺れている。咄嗟に膝をついたゼイツは辺りを見回した。座り込んだウルナの手を、片膝をついたラディアスが引き寄せている。家具は倒れていないが、テーブルの上にあったコップが床へと落ちて転がっていた。
「何なんだ?」
 床に右手をついて、ゼイツは顔をしかめた。床の揺れは収まってきたが、空気の震えはいまだ続いている。音から考えると地震の類ではない。もっと局所的に大きな力が働いた、そんな印象だった。ゼイツは唇を噛んで金の前髪を掻き上げる。額にじんわりと汗が滲んだ。
「また研究所の事故か」
 ウルナの手を握りながら、ラディアスが顔を上げる。慣れているのか、ラディアスは落ち着いた様子だった。だがその瞳は嫌悪にも似た色を呈している。ゼイツはその横顔を眺めながら、気になる単語を半ば無意識に繰り返した。
「研究所?」
「お前は知らなくていい」
 だが返ってきたのは拒絶の言葉で。やはり口を閉ざすしかないゼイツは、視線を窓の外へと向けた。クロミオは無事だろうか? ふと心配になる。その事故とやらに巻き込まれていなければいいのだが。
「大丈夫か? ウルナ」
「ええ、大丈夫」
 声に引き寄せられるように顔を向けると、ゆっくりウルナが頭をもたげるところだった。床へと落ちた大判の布を拾い、ウルナは眉根を寄せる。そして床、壁、天井を順繰りと見回してから息を吐いた。
「最近多いわね。叔母様、焦っているのかしら」
 かすれたような声で彼女は呟いた。ラディアスの手が離れると、スカートの端を手で払ってから彼女は立ち上がる。緩く束ねられた黒髪が、彼女の胸の前で揺れた。もう地面は震えていない。ただ空気のさざめきのようなものを、かすかに感じるのみだ。
「ああ……」
 彼女の唇が震える。ゆっくりと立ち上がったゼイツはそんな彼女とラディアスを見比べた。腰を上げたラディアスは、陰りの見える双眸で彼女を見つめている。だが彼女はどこも見ていない。強いて言えば、壁だろうか。再び希薄になった彼女の存在が、鳴き声を漏らす空気と呼応する。この世界のどこでもない何かを見据えるように、彼女は右目を細めた。
「また人が死んだのね。ウィスタリア様のために」
 絞り出した声は呪詛のようで、それでいて祈りのようで。ゼイツは息を呑んだ。顔を歪めたラディアスが一歩彼女へと寄り、肩を掴む。だが彼女は気にした様子もなく、首を横に振るだけだった。泣いているようにも見える。笑っているようにも見える。
「ウルナ」
「一人、また一人減っていくのよ」
「ウルナ、人前だぞ」
「ええ、そうね。ごめんなさい」
 彼女は頭を振った。たしなめるラディアスの言葉を受けて、彼女の横顔に乾いた微笑が浮かぶ。そんな風に笑うところを、ゼイツは今まで見たことがなかった。何故だか息が詰まった。しかし、やはり何かここで起こっているのだという確信も生まれ、一方では勇気づけられる。
「ごめんなさいね、ゼイツ」
「いや……」
 壊れた人形のごとくぎこちない動きで、ウルナはゼイツの方を振り向く。言葉を濁して瞳をすがめ、ゼイツは唇を結んだ。
 彼女は一体何に対して謝っているのだろう? ふとそんな疑問が浮かんだ。想像している以上の何かがここに潜んでいるように思えて、背筋が冷たくなる。『禁忌の力』とは何なのか。そこに手を出すとは何を意味するのか。今さらながら根本的なことがわかっていないことに、戦慄が走る。
「きっと、そろそろあなたも呼ばれるわ。人手が足りなくなるでしょうから」
 諦めたように瞼を伏せて、彼女は囁いた。今度はラディアスは何も言わなかった。ゼイツはわかったようなわからないような曖昧な返事を口にして、それから「クロミオを探してくる」とだけ言って扉へと向かう。何故だか、この場を逃げ出したくてたまらなかった。得体の知れない恐怖に、腑の底から何かが湧き上がってくる。
 幸いにも、彼女もラディアスも止めなかった。彼は冷たい取っ手を握ると、風が吹きすさぶ庭へと足を踏み出した。



 研究所の『事故』が起こってから数日後、ウルナの予想通りにゼイツは仕事へ駆り出されることになった。医者にはまだかかれそうにないという話だったが、少なくとも日常生活には問題ないほど動かせるようになっていたため、異論を唱える必要もなかった。ずいぶんと早い回復だ。あの時ウルナが使った薬のおかげだろうか。
 初めての仕事の日。ゼイツを迎えにきたのは見知らぬ初老の男だった。灰色の髪を無造作に刈り込んだ、背の低い男性だ。父親と同じくらいだろうか。目元に刻まれた皺の深さが、積み重ねてきた年月を如実に語っている。「ついてこい」と端的に述べた彼の後を、ゼイツは歩いた。
 部屋を出てから、しばらくは代わり映えのない廊下を進んでいった。いつも彼が迷って、そしていつの間にか一周してしまう場所だ。だが突き当たりにさしかかる直前、男は左手にある扉を開け放った。並んでいる他の扉と何ら変わらない白い扉だ。しかしその奥には、地下へと続く階段が隠されていた。
 何も言わずに下りていく男の後をゼイツは追う。なるほど、地下へと続く道がこんな場所にあったとは知らなかった。これではわからないはずだと、密かに納得する。人々の大半はそこにいるのだろうか? まさか地下にも迷宮のような世界が広がっているのだろうか? 仕事の合間に詮索することができるだろうかと、ゼイツは期待を膨らませる。
 薄暗い道には、所々に赤みがかった明かりが灯されているだけだった。天井も『上』よりはずっと低いし、道幅も狭い。それは単なる通路のようだった。無理やり繋げたのだろうか? 真っ直ぐのように見えて実は徐々に曲がっているのが、前方を見ているとわかる。
 男は何も言わない。黙々と歩き続けるだけだ。その沈黙に息苦しさを覚えたところで、ようやく広い空間へと出た。部屋と呼ぶよりは間と呼んだ方が適切な、楕円形の広間だった。ぎゅうぎゅうに押し込めたら、一体何人くらい入るのだろう? だが天井が低いのはさほど変わらず、開放感はない。そこから四方八方へと、幾つも道が延びていた。
 男は迷わず右手の道の一つを進んだ。それがどの角度に位置しているのか確認して、ゼイツも後をついていく。方角から考えると、地上の廊下の突き当たり、そのさらに奥へと歩いていることになる。
 広間を離れると、やはり先ほどと同様に狭い道が続いていた。ただ磨き上げる時間がなかったのか、その必要を感じていないのか、床に敷き詰められた石は所々傾き、出っ張り、ざらついている。壁も床も同じ石を使っているようだが、こちらは出っ張ることなく並べられていた。躓かないように、ゼイツは視線を走らせながら一定の速度で進む。どうもゆっくりと上っているようだ。地上へ出るのだろうか?
 道の終わりに待っていたのは、穴だった。突然空が見えたと思ったら、目の前に巨大な穴が見えた。小さい頃に絵本で見た昔の巨大闘技場を思わせる丸い空間が、眼下に広がっている。とにかく深い。ジブルにあるどの建物でも、この穴になら埋まってしまいそうだった。
「ここだ」
 男が抑揚のない声で告げる。ゼイツは相槌を打つと、穴の底を眺めた。一体何のためにあるのかわからない大きさのそれには、どうも横穴が幾つかあるようだ。ジブルであれば、穴そのものが成り立たないのではと思う。地盤の固さが違うのだろうか?
「ここで何をするんですか?」
「穴を掘るだけだ」
「え? さらに広げるんですか?」
「そうだ」
 声を上げたゼイツに向かって、男は大仰に頷いた。この大きさでもまだ足りないというのか。押し殺しきれない動揺に瞬きを繰り返していても、男は不審には思わないようだった。誰もが似たような反応をするのか? この教会にいる者が、全ての事情に通じているわけでもないのか――。
「下りる。ついてきなさい」
 再び男は歩き出した。その後をゼイツも追った。辺りに漂うのはどこか湿気を含んだ錆び付いた臭いで、それがぬるま湯の様な風に運ばれてやってくる。この穴のせいなのか、庭の風と比べるとずいぶんと力ない。癖のある彼の金糸も、緩やかに揺れるだけだった。
「若い男は少ないのでな。君には期待している」
 そのようには聞こえぬ抑揚のない声で、男は告げた。「はあ」と気のない声を漏らして、ゼイツは首を捻る。
 若い男性が本当に少ないのかどうか、それすらも彼は知らなかった。廊下で人の姿を見かけることもほとんどないし、彼の部屋を訪れるのはウルナたちくらいだ。他にも人間はいるはずだが、その気配を感じることは少ない。彼の目の前を歩く男も、ゼイツは一度も見たことがなかった。
 ここで一体何が行われるのか。辛抱強く待っていればいつか探る機会は訪れるはずだと、彼は自分に言い聞かせた。足に跳ね返る土の感触を確かめながら、彼はもう一度穴の底を見つめた。

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