ウィスタリア
第三章 第三話「悲劇は奇跡となった」(前)
お茶をしようとルネテーラに呼ばれるのは、ゼイツにとって日課となりつつあった。日によってはクロミオが、またはウルナが一緒に来ることもある。だが今日は二人とも用事があるということで顔を見せず、広い部屋に二人きりだった。できるだけ意識はしないようにしているが、それでも居心地の悪さを感じる。
ゼイツはふかふかとしたソファに座り、手にしたカップの中身をぼんやりと眺める。香しい白い湯気が唯一の安らぎだ。ルネテーラの視線を時折感じつつも、彼はどうにかため息を吐きそうになるのを堪えていた。落ち着かない。
「ゼイツ、いるか」
だから扉を叩く音と共にラディアスの声が聞こえた時、正直ゼイツは「助かった」と思った。不思議そうに首を傾げるルネテーラに目配せをしてから、ゼイツはやおら立ち上がる。「いる」と簡潔に答えながら、ゼイツは扉へと近づき取っ手を握った。
「何かあったのか?」
開いた扉の向こうでは、ラディアスが普段よりいっそう険しい顔をしていた。事件か何かか。ラディアスは神妙に首を縦に振り、部屋の中へと視線を走らせる。誰がいるか確認したいのだろう。ゼイツは「ルネテーラ姫だけだ」と付け加えた。ラディアスは安堵したように肩をすくめて、今度は廊下側を確認する。どうもあまり他言できない内容のようだ。
「ジブルの使者がやってきたそうだ」
傍に誰もいないことを確信してから、ラディアスはそう告げた。冷たく胸に刺さる「ジブル」という響きに、ゼイツの鼓動が跳ねる。自然と顔が強ばるのを止められなかった。あれから音沙汰なかったが、水面下では動いていたのだろうか? 今度は何をするつもりなのだろうかと、暗い感情が湧き起こる。
「そうか」
「先日と同じ男だ」
端的なラディアスの説明を聞き、ゼイツはすぐさまフェマーの顔を思い浮かべた。対ニーミナの交渉はフェマーに一任されているのだろうか? あの童顔の男は実はやり手なのか? ジブルにいる時も、ゼイツはフェマーの名を聞いたことがなかった。もしかしたら秘密裏に動くのを得意としているのかもしれない。
「先ほどカーパル様との話が終わったところだが、どうもお前に会いたがっているようだ」
「俺に……?」
フェマーは何を考えているのか? 推し量ろうとしているところに思いも寄らぬ言葉をかけられ、ゼイツは瞠目した。あちらから接触を求めてくるとは意外だ。ゼイツが首を捻っていると、ラディアスは耳の後ろを掻いて苦笑を漏らす。
「お前の正体がばれていることが前提なのか……堂々としているな。それとも我々をなめているのか。どちらにせよ、カーパル様はそれを許可した。ただ、何の話をしたのか報告せよということだが」
「報告? い、意味がわからないな」
「お前を信用しているわけではないだろう。お前の出方をうかがっているのか、それとも他に何か考えがあるのか。カーパル様の心は俺にもわからないが、とりあえず一応報告はしてくれ。俺はそのままカーパル様に伝える」
ラディアスの声にはうんざりとした響きがあった。どうやら振り回されているのはラディアスも同じらしい。嘘を吐くのもかまわないと言われているようで、ゼイツは複雑だった。
一体、誰の味方をすればいいのか。どう振る舞えばいいのか。ジブルのことを無条件に信頼できなくなった今、彼の立ち位置は中途半端なままだ。無論、カーパルの意図もわからない。不安定な足場のまま跳躍せねばならない現状は、何がどうどこへ転んでもおかしくはなかった。ゼイツはつい眉根を寄せる。
「――わかった」
そもそも、ラディアスはゼイツのことをどう思っているのか。それも不明だ。ウルナもだ。ゼイツは今も教会にいることを許可されているし、見張られるような身分でもない。ある程度の自由もある。怪我があれば治療もしてもらえる。
だがそれでも信用されているとは到底思えなかった。ゼイツという存在は、彼らの目にどう映っているのだろう? 尋ねてみたいがその勇気もない。また、逆に問い返されるとゼイツも困った。彼はニーミナの人間についてどう思っているのかと、尋ねられたらうまく答える自信はない。だから胸に浮かんだ疑問はしまっておき、彼はとりあえずの質問を口にした。
「それで、その使者は今はどこに?」
「ああ、ちょうど部屋に戻っている頃だろう。ついてこい」
すぐに踵を返そうとしたラディアスは途中で思いとどまり、もう一度部屋の中を見た。それに倣ってゼイツも振り返った。不安そうな顔をしたルネテーラは、白いカップを手にしたまま唇を引き結んでいる。こんな時どんな言葉をかけたらいいのか。しばし迷った後、ゼイツはどうにか笑顔の形を整えた。
「大丈夫だから」
何が、とは言わずに軽く手を振ると、ゼイツはルネテーラに背を向けた。ラディアスは何も言わなかった。廊下を歩き出した無愛想な背中を、ゼイツは慌てて追いかける。「気をつけて」と見送るルネテーラの声が遠かった。重厚な扉の閉まる音も、どことなく拒絶的に聞こえる。
「こんな現場をルネテーラ姫に見られたと知ったら、ウルナは怒るな」
しばらく進んでから、ぼやくようにラディアスが独りごちた。ゼイツは曖昧な笑みを浮かべて頷く。同感だ。またルネテーラを不安にさせたと、ウルナは文句を言うだろう。ウルナにとってはルネテーラとクロミオの平穏だけが全てだ。
「しかし、お前も大概にしておけよ」
「……え?」
「ルネテーラ姫のことだ。期待させると大変なことになる。傷つけたら、それこそどうなるか」
ラディアスは大きなため息を吐いた。思わず息を詰まらせそうになり、ゼイツは顔をしかめる。それはどういった振る舞いのことを指しているのか? どうしたら期待させず、傷つけずにいられるのか? ここしばらくの悩みを言い当てられたようで、的確な返答ができなかった。
ゼイツの立場を考えれば、ルネテーラの気持ちなど到底受け入れられない。期待させるような行動は慎むべきだろう。しかし、だからといってむげにも扱えない。ならばどうしたらいいのかと、誰かに尋ねたい気分だった。
幸いと言うべきなのか否か、それ以上ラディアスは追及してこなかった。会話が途切れると、人気のない廊下に硬い靴音だけが反響する。自らの鼓動を意識しつつゼイツは思考した。今考えるべきなのはルネテーラではなくフェマーのことだ。部屋で待ち受けるフェマーは、どんな顔をしてどんなことを言ってくるのか。あの時の選択が間違っていたとゼイツは思わないが、帰る場所はなくなっているかもしれない。
沈黙を維持したまま、二人は目的の場所に着いた。ラディアスが案内してくれたのは、奥の棟にある区別のつかない部屋のうちの一つだった。ラディアスは抑揚のない声で来訪を告げ、拳の裏で戸を叩く。返事はすぐに聞こえた。優雅なフェマーの声が扉越しに響く。
「ありがとうございます、ラディアス殿」
静かに戸が開くと、その向こうにはマントを着込んだフェマーが立っていた。以前会った時とどこも変わらない。少しだけ目元に疲れが見える程度だろうか? ジブルとニーミナを行き来しているのだからそれも当たり前かと、ゼイツは納得する。あの不毛な地を歩き続けるのは体力がいる。すぐさまラディアスが脇へと避けたため、ゼイツはフェマーと向き合うこととなった。
「お久しぶりです、ゼイツ殿」
人当たりのよい笑顔で挨拶をされて、ゼイツは返答に詰まった。「ゼイツ殿」などと呼ばれるとは思いもしなかった。仕方なく「お元気そうで何よりです」と当たり障りのない返事をする。フェマーが相槌を打つと、絹のような赤茶色の髪がたおやかに揺れた。
「俺に何か話があると聞きましたが」
「ええ、そうなんです。ザイヤ殿から言付けがありまして」
悠然と微笑んだフェマーは、一度ラディアスの方を見た。唐突に父の名前を出されて、ゼイツの鼓動が跳ねる。ジブルを出発する前の夜のことが、不意に思い出された。ザイヤの眼差し、声。そして無造作に手渡された拳銃。ゼイツが言葉を失っていると、ラディアスがその横で肩をすくめた。
「ここは席を外していた方がよさそうですかね」
「そうしていただけるとありがたいです」
「できれば手短にお願いします」
「ええ、わかりました」
物わかりよく引き下がったラディアスへと、ゼイツは一瞥をくれた。先ほどの言葉通り、ゼイツが報告さえしてくれたらいいということか。仮面のような笑顔を貼り付けているフェマーに招かれ、ゼイツは渋々室内に入った。やや黄ばんだ白い壁に囲まれた殺風景な部屋だ。ゼイツのものと変わらない。
「ずいぶんと素直に二人きりにしてくれましたね」
扉が閉まると同時に、フェマーが笑った。何をどう返答しても滑稽に感じられる気がして、ゼイツは半笑いを浮かべるにとどめる。ラディアスはラディアスで、自分の仕事が果たされればいいだけの話だ。渋る理由がない。
「それで、父からの言付けとは?」
それでもゼイツとしては怪しまれるような行動は避けたい。これ以上ややこしい立場にはなりたくない。ラディアスの言う通り、手短に済ませるべきだろう。だが早速用件について切り出したゼイツへ、フェマーは焦るなとばかりに手のひらを向ける。揺れた白いマントが衣擦れの音を立てた。
「そんな怖い顔をしないで下さい。そういう目はザイヤ殿とよく似ていますね」
「そう……ですか?」
「自覚なしですか、まあいいでしょう。たった一言ですよ、信じろと」
さらりと言い放たれて、ゼイツは思わず聞き返しそうになった。まさか、たったそれだけのために呼び出されたとは信じられなかった。だがフェマーはそれ以上言葉を紡ぐ様子もなく、ゼイツの反応を待っている。脱力しそうになるのを堪えて、ゼイツは頬を掻いた。
「それだけ、ですか」
「ええ、それだけです」
「――父らしい」
感想は、それくらいだった。ザイヤは無駄に回りくどい話を好まない。いつでも単刀直入だ。一方、あまりに簡潔すぎて説明が足りない時もあった。今回は後者だろう。慣れていない者は、その話しぶりに困惑することも多いと聞く。ゼイツにとってはいつものことだが。
「ずいぶんと示唆的ですよね」
「そういうつもりはないんだと思いますが」
「それで、あなたはどうするつもりなんですか?」
空気が緩みかけた途端、フェマーの疑問がゼイツへと切り込んできた。息を呑み、ゼイツはフェマーを凝視する。その答えがわかっているなら話は早い。せめて誰が誰の味方で、何がどうなっているのか判明しているなら、もっと選択はしやすい。しかしいまだゼイツは霧の中にいる。ゼイツが返答に窮していると、フェマーはさらにたたみかけてきた。
「あなたは今どこに所属しているのですか? あなたは誰の味方なのですか?」
「俺は――」
「あなたが私の邪魔をするなら、私も容赦はしませんよ。ただそうでないのなら、正直どうでもいいのです」
フェマーは苦笑を漏らした。感情のこもらない宣言だった。本当にどうでもいいとは思っていないだろうにと、ゼイツは歪な笑みを浮かべる。全く意に介さないのなら、尋ねてもこないし揺さぶってもこないはずだ。皆が嘘を吐いている。本当は気になっているのに、何でもない振りをしている。
「俺は今、とにかく信じられるものを探したい」
それでも一つはっきりしていることがあった。ジブルを無条件に信頼できなくなったゼイツは、縋るものを求めていた。判断のよりどころとなる真実が知りたかった。わからないまま選ばされるのだけは嫌だと。わけもわからず翻弄されるだけなのはごめんだと。ただ、それだけだ。
「本当に若造ですね」
鼻で笑うフェマーを、ゼイツは睨みつけた。フェマーは頬へと滑り落ちてきた髪を耳へかけ、ついでマントの紋章へ手を伸ばす。その艶やかな表面を、手袋に包まれた指先が撫でた。ゼイツはなんとなしにその様子を眺める。
「全てを把握することなど無理なのです。それでも動かなければならないのが大人です。知らないことを含め、責任を負うのが」
嘆息したフェマーは部屋の中を見回した。ゼイツよりもよほど幼く見える横顔が、今は何だか遠い。ゼイツは奥歯を噛み締めた。確かにフェマーの言う通りなのかもしれない。一人の人間が知り得ることなど限られているのだろう。しかしだからといって、早々と諦めるのは癪だ。
「後悔する確率を、俺は減らしたいだけです。それではこれにて失礼します」
ゼイツは言いたいことだけ言いフェマーに背を向けると、扉の取っ手を握った。これ以上は時間の無駄だと思えた。重苦しい空気にフェマーの苦笑が染み入る。反射的に何か言い返したくなるのをすんでのところで飲み込み、ゼイツは廊下へと出た。途端、染み込むような冷たい空気が体を包み込む。
「終わったか?」
扉の前にはラディアスがいた。彼は腕組みをして壁にもたれかかっていた。戸が閉まる音を確認してから、ゼイツは首を縦に振る。ラディアスは吹き出すのを堪えるかのような微妙な笑みを浮かべていた。そんな様子を見るのは初めてだと、ゼイツは訝しむ。いつも無表情か、そうでなければ不機嫌だったり険しい顔をしているのに。
「……何だよ」
「いや、本当に手短だったなと思ってな。ジブルの人間は律儀なのか?」
「知るか。言付けが短かっただけだ。長話をして楽しい相手でもないしな」
「ほう」
ラディアスは興味深そうに相槌を打った。ゼイツはため息を吐き、ラディアスの横へ進むとそのまま窓から外を眺める。庭だけでなく全てが雪に覆われている。白に包まれた世界を見つめていると、自分がずいぶん遠いところに来たと実感できた。無慈悲な風が、粉雪を巻き上げてあらゆるものを塗りつぶしている。ラディアスの視線を感じながら、ゼイツは口を開いた。
「父からの伝言だった。信じろ、だとさ」
「それは確かに、拍子抜けするほど短いな」
「だろう?」
ゼイツは微苦笑を浮かべる。ラディアスと話すのもずいぶんと慣れたなと、そんなどうでもいいことを頭の隅で考えた。ラディアスのことも何となくわかってきたからだろう。たぶんゼイツと同じだ。ラディアスは傍にいるウルナたちのことしか考えていない。その他はおそらくどうでもいいと思っている。
「それで、本当にそれだけだったのか?」
「あとは若造とか馬鹿にされただけだよ。それも必要か?」
「あまりに短いとカーパル様の疑いが深まるだけだからな」
鼻で笑ったラディアスは、ついで肩をすくめた。確かに、短すぎると信憑性に欠ける。そのためにゼイツを呼び出すというのは、普通は納得できない。おそらく、フェマーの目的は言付けそのものにはなく、ゼイツの立ち位置を把握することだったのだろう。あとは、牽制だ。
「しかし異国に子どもが赴いたというのに、父親はそれしか言わないのか?」
ふと、ラディアスの声音が変わった。心底不思議そうな響きだった。ラディアスの方を横目で見て、ゼイツは眉をひそめる。腕を組んだまま頭を傾けたラディアスは、ゼイツへと一瞥をくれて額に皺を寄せた。
もしかするとラディアスは父親というものを知らないのか? ゼイツはいつだったか聞いたウルナの言葉を思い出す。ここにいる人々は皆、帰るべき場所を持たぬ者たちばかり。つまり、身寄りのない者ばかり。
「俺の父親がそういう人間なだけだ。いつも言葉が足りないんだよ。それで、えっと、ラディアスは――」
「俺は親というものを知らない。物心ついた時には死んでいたからな」
ラディアスは口の端を上げ、腕を解いた。頭の上で結ばれた髪が踊るように揺れる。彼はどこか遠くを見つめるような眼差しで、天井を睨み付けた。
「住む場所はあった。ウルナたちの家のすぐ傍だ。だが守り育ててくれる人間が一度にいなくなった。――流行病のせいらしい。はじめこそ家と教会を行き来していたが、結局は教会に住むことになった。ちょうどクロミオくらいの年の頃だな。いや、もう少し後だったか」
身の上について、ラディアスが口にするのは初めてのことだった。ラディアスがウルナたちを大切にする理由が、これでようやくゼイツにもわかった。失った家族の代わりのようなものに違いない。ゼイツが相槌を打つと、はっとしたようにラディアスは眼を見開いた。そして軽く首を横に振る。
「話が過ぎたな。俺のことなどどうでもいい」
「ラディアスもそう言うんだな」
「……は?」
「ウルナもそう言っていた。自分のことはどうだっていいって」
ゼイツは微苦笑を浮かべて言い放った。どうしてニーミナの人間はこうなのだろう? それともこの教会に住むとそうなるのか? ラディアスが壁から背を離し、あからさまに顔をしかめたのが視界の端に映る。ゼイツはゆっくり体ごとラディアスの方へと向け、窓枠に右手を載せた。そしてある種の怒りを滲ませたラディアスの双眸を、じっと見据える。指先から凍るような冷たさが染み込んできた。
「そうやって自分を大切にしないと、余計な心配をかけるだけになると俺は思う」
自己犠牲も一種の我が儘だ。思ってくれている人間をないがしろにしているようなものだ。もっとも、こんな所にとどまっているという意味では、ゼイツもそのような人間の一人なのかもしれないが。
「そうかもな」
ふと、空気が緩んだ。反論するかと思ったが、ラディアスはあっさり頷いて微笑んだ。身構えていたゼイツはすぐに言葉を継げず、ただ瞬きをして窓枠から手を離す。ラディアスは照れ隠しするように首の後ろを掻くと、ゼイツに背を向けておもむろに歩き出した。やや黄ばんだ白い廊下に、乱れのない靴音が反響する。
「カーパル様のところへ行ってくる」
振り返ることなくそれだけを言い残し、ラディアスは去っていった。ゼイツは片手を上げ、その後ろ姿を見送った。