ウィスタリア

第三章 第四話「私の幸せ」

 その日は久しぶりの晴天だった。庭一面に積もった雪が陽光を照り返し、辺りは白というよりも光そのものに包まれているかのようだ。幸いなことに風もない。そのため粉雪が巻き上げられ、視界が遮られることもなかった。
 ただこの輝かしい世界に慣れていないゼイツにとっては、目を開けていることも苦痛だ。だから少しでも照り返しから逃れようと、建物のすぐ傍にたたずんでいた。同じように眩しさから逃れたいのか、ウルナも壁に寄り添うように立っている。白い世界へ飛び出しているのはクロミオだけだ。
 空気は冷たい。ウルナが言うには、よく晴れた朝の方が冷え込むそうだ。寒さに弱いゼイツにとっては拷問にも近かった。足の訓練のためと思ってクロミオに付き合おうとしたのは間違いだっただろうか? 今になって後悔している。降り注ぐ日差しが嘘のように、体が芯から凍える。
「ゼイツさん、こっちこっちー!」
 庭を走り回っていたクロミオが、雪まみれになりながらゼイツの方を振り返った。いつになく楽しそうだ。もこもことした帽子に分厚いコートを着たクロミオは、無邪気に雪の上で飛び跳ねている。ゼイツは苦笑すると、隣に立つウルナを横目で見た。いかにも重そうな大きな布を羽織ったウルナは、薄く微笑んだままクロミオを見守っている。
「ここ! ここ! 大きな穴!」
 クロミオは雪の上で跳躍しつつ、嬉々として呼ぶ。なかなかの脚力だ。仕方なくゼイツは、ゆっくりクロミオの方へと近づいていった。せめて小走りで行けたらいいのだが、この雪ではそれもままならない。ジブルには滅多に雪が降らなかったため、どうもまだ慣れなかった。柔らかい雪を踏んでは埋もれ、その度に転びそうになる。
「もうゼイツさん遅いっ」
「悪い悪い」
「ほら、見てよ。これ、僕が昨日飛び降りてできた穴! そのまま凍ってるの。すごいでしょう」
「クロミオ、一体どこから飛び降りたんだ? しかも昨日って……」
「あっ」
 クロミオの指さす方には大きな雪の山があった。そこに、確かにぼっこりと人間一人分くらいの穴があいている。半眼になったゼイツは、やや大きめのコートの襟を手で寄せると、クロミオを見下ろした。「しまった」と言わんばかりに口を開けたクロミオは、ついで乾いた笑い声を漏らす。
「えーっと、や、屋根の上」
「屋根って……教会の? ここまで飛んだのか?」
「い、勢いつけたらどこまで行くかなーって」
 ゼイツは後方を振り返った。建物からここまでそれなりに距離がある。白い屋根の上にも雪が積もっているし、そこからここへ飛び込むにはかなりの助走が必要そうだった。もし雪のあまりないところへ落ちたら、怪我なしにはすまないだろう。無茶をしてくれる。ゼイツはため息を吐くと、柔らかなクロミオの帽子をぽんと叩いた。
「怪我したらどうする気だったんだ」
「し、しないよー。これでも僕、運動できるんだよ!」
「そういう問題じゃないだろ。しかも誰もいない時にとか」
 この話はウルナまで届いているのだろうか? 近づいてくる気配のないウルナへと、ゼイツは一瞥をくれた。表情が変わらないところを見ると聞こえていないのか。それともいつものことなのか。後者だとしたら大問題だとゼイツは思う。
「ゼイツさんは昔そういうことしなかったの?」
「昔? そうだなー。……木から飛び降りてたりはしたな。隣の木に飛び移ろうとしたり」
「ほ、ほら!」
「それで足を挫いて怒られたな。食事抜きになった」
 クロミオに言われて、ゼイツも子どもの頃を思い出した。無茶の経験がないわけではない。だが滅多に怒らない母のあの形相は、いまだに彼の記憶に残っている。父は相変わらず表情を崩さなかったが、「反省しなさい」とだけ口にした。庇ってはくれなかった。そうやってゼイツが過去に浸っていると、あからさまに顔を引き攣らせたクロミオが俯くのが見えた。若干青くなっている。
「まあウルナには言わないでおくから、もうするなよ」
 ゼイツはもう一度クロミオの頭を叩いた。すると花が咲いたようにぱっと顔を輝かせたクロミオは、何度も首を縦に振る。わかりやすくて可愛らしい。ゼイツは微苦笑を浮かべた。それから撃たれた左足を見下ろし、全く違和感がないことを自覚する。普通に歩いている分にはもう大丈夫だ。全力で走った場合はどうかわからないが、日常生活には支障がない。
「ありがとうゼイツさん。そ、それに昨日も一人じゃあなかったんだよ!」
「へえ、誰が一緒だったんだ? ラディアス?」
「違うよ! えーっと、そう、フェマーさん!」
「は? フェマー?」
 言い訳するように声を張り上げたクロミオへ、ゼイツは焦って視線をやった。思いも寄らぬ名前だった。ジブルの使者が何故庭になど出ているのだろう? この庭はルネテーラの部屋の庭へも続いているはずだ。何かあったらどうする気なのか。
「うん。だってフェマーさんの部屋には、庭に出る扉もついてるよ? フェマーさんはこれだけ雪積もってるの見るの初めてなんだってさー。面白がってたよ」
 クロミオはフェマーとも仲良くなっているのか? 他国の者でもかまわないらしいクロミオの無邪気な笑い声に、ゼイツは何と返答していいのかわからなかった。疑えとゼイツが言うのもおかしな話ではあるし、かといってこのままでいいとも思えない。
 救いを求めるように、彼はウルナへと双眸を向けた。彼女は不思議そうに首を傾げる。だがこの状況をどう説明すればいいのか? 彼は曖昧な表情を浮かべ、もう一度クロミオを見た。不思議そうに瞳を瞬かせたクロミオは、彼女と同じように頭を傾ける。
「駄目だった?」
「えっと、いや……」
「あ、偉い人だから? 僕が変なこと言ってないか心配してるの? ひどいよゼイツさん! 僕だってそれくらいはわかってるよー。雪の話しかしてないから大丈夫」
 クロミオは満面の笑みを浮かべていた。ゼイツは頬を引き攣らせながらもどうにか笑顔を作り、耳の後ろを掻く。頭が痛い。
 ウルナの話では、どうもカーパルとフェマーの話し合いはうまくいっていないようだった。フェマーが何を条件として突きつけてきているのかはわからないが、ニーミナにとって受け入れがたいことなのだろう。そんな状況で、フェマーが呑気に雪景色を楽しんでいるとも思えないのだが。
「何かあったの?」
 ウルナの声が寒空の下響く。ゼイツとクロミオはほぼ同時に振り返った。悠然とした歩調で近づいてきたウルナを見て、クロミオはあからさまに動揺した素振りを見せる。屋根から飛び降りたことがばれると思ったのか。ゼイツはいつもより細めがちな瞳を伏せて、強ばりそうになる口角をどうにか上げた。
「いや、あのねお姉ちゃんっ」
 クロミオは手足をぱたぱたと揺らしている。必死に言い繕おうとしているようだ。ゼイツは一瞬だけ眉根を寄せると、できる限り爽やかな微笑を心がける。そしてクロミオの帽子を軽く撫でつつ、向かってくるウルナと向き合った。
「どうかしたの?」
「いや、クロミオがフェマーと会ったって聞いたから、ウルナは知ってるのかと思って」
「フェマー? あのジブルの使者と?」
 ゼイツが端的に説明すると、ウルナは眼を見開いた。やはり把握していなかったらしい。ウルナの右の瞳がクロミオへと向けられた。狼狽えていたクロミオはフェマーの件しか出てこなかったことに安堵したのか、半笑いを浮かべている。
「本当なの? クロミオ」
「あ、えっと、昨日たまたまっ」
「ひどい天気だったのに庭へ出たの? 外へ行く時はせめて私に伝えなさいと何度も言ったでしょう?」
 嘆息したウルナは肩を落とした。しょぼくれたクロミオはもごもごと口を動かした後、「ごめんなさい」と囁く。言い訳は口にしない。素直なのがクロミオのいいところだった。ゼイツは頬を緩めると、対照的な様子の二人を交互に見た。ウルナは嘆息すると、うなだれたクロミオの帽子を正す。
「次はちゃんと守ってね。それで、フェマーさんとは何を話したの?」
「雪の話だけだよ。変なことは言ってないよ」
「そう。他には何も聞かれなかった?」
「他に? ううん、この庭が広いとかそんな話くらいかなー」
 ウルナの手が離れると、クロミオは首を捻った。ゼイツは何となく嫌な予感を覚えて、奥歯を噛む。あのフェマーのことだ、何気ないやりとりから情報を集めていたとしてもおかしくはない。クロミオがフェマーと接触しないよう注意を払う必要があるだろう。ゼイツは拳を握り、視線をやや下げた。
「それならいいんだけど。――ああクロミオ、最近夢の方はどう?」
 しばしウルナは考えた後、話題を変えた。クロミオはきょとりと頭を傾け、それからポンと手を叩く。軽やかな音はすぐに寒空に吸い込まれた。「夢」とは例の女神の話だろうかと、ゼイツは先日のことを思い出す。クロミオを慰めてくれているという女神の話だ。
「夢? ああ、女神様のこと? 昨日も会ったよ。何だか僕たちのこと心配してたみたい」
「そう言っていたの?」
「ううん、女神様はほとんど話さないよ。一言、二言くらい。僕の話を聞いてくれるだけ」
 クロミオは頭を振った。相変わらず曖昧な話だと、ゼイツは首を捻る。それだけでどうして女神だと思い込めるのだろう? その方がゼイツには不思議だった。
 女神の容姿については、実はほとんどわかっていないらしい。断片的に残されている情報を総合すると、白い服を纏った黒髪の女性、というくらいしか定かでないという。西の棟に残されている像の髪は肩ほどであるため、それくらいの髪の長さではと言われているが。
「そうなの……」
「辛いのは僕じゃないのに。お姉ちゃんや、たぶん女神様なのに」
 わずかに、クロミオの声が萎む。思わぬ言葉を口にされたためか、ウルナが右眼を見開くのがゼイツにも見えた。自分が案じられているということにようやく気づいたのか。
 しばし、沈黙が辺りに満ちた。風もないため本当に静かだ。あらゆる音が全て雪に吸い込まれてしまったような錯覚に陥る。ゼイツが言葉を挟めずに黙していると、クロミオがぱっと顔を上げた。それからぴょんと一度飛び跳ねると、帽子を深く被り直す。
「そうだ! こんなに晴れてるんだから雪人形作らなきゃ! 姫様に見せる約束なんだっ。それならいいでしょう!?」
 クロミオの行動は素早かった。ゼイツたちが声を上げる前にその場を駆け出し、右手の吹きだまりへと向かっていく。ゼイツは唖然としつつも、瞳を細めてその姿を見送った。目映い光の世界で、クロミオの背中はやけに色濃く見える。
「クロミオ」
 ぽつりと、ウルナが呟くのがゼイツの耳へも届いた。クロミオは単に遊びに夢中になっているわけではないだろう。この空気を壊したかっただけだろう。子どもながら彼は過敏だ。いや、子どもだからと言うべきなのか。ゼイツはため息を吐くのを堪え、歯噛みした。腑の底が重くなる。
「姫様の幸せこそが、私の幸せ。クロミオの幸せこそが、私の幸せ」
 彼の横で、ウルナがぼんやりと独りごちるのが聞こえる。呪文のような囁きは儚さを匂わせつつ、しかし以前のような力強さを持ち得ていなかった。先ほどのクロミオの言葉はそれほどまで彼女に衝撃を与えたのか? ゼイツはどう反応したらいいのかと、眉をひそめた。彼女の気配がまた薄くなったに感じられ、心がざわめく。
 その時、後ろから雪を踏みしめる音が聞こえた。恐る恐る柔らかい雪へと足を踏み入れる、慣れない者が奏でる音だ。歩調もぎこちなく、一定ではない。ゼイツは勢いよく肩越しに振り返った。煌びやかな庭、高く積まれた雪の向こうから、のそのそと一人の青年が顔を出すのが見える。
「フェマー!」
 予想通り、それはフェマーだった。一見友好的な笑みをたたえながら、フェマーは覚束ない足取りで近づいてくる。重たげな白いコートを身につけているため、彼の赤茶色の髪がやけに目立った。ゼイツはウルナへと一瞥をくれると、フェマーへ向かって一歩進み出る。
「これはこれはお二人さん、お揃いで」
 よたよたしながらやってきたフェマーは、ゼイツたちから数歩離れたところで立ち止まった。ウルナが一礼するのを視界の端に収め、ゼイツは「どうも」とだけ気のない挨拶を返す。鼻の頭を赤くしたフェマーは目尻をさらに下げた。ゼイツから見ると、何か企んでいるようにしか思えない。
「今日はいい天気ですね」
 機嫌良さそうに微笑んだフェマーは、瞳を細めて空を見上げた。ゼイツもなんとなしに頭上を仰ぐ。久しぶりの見事な青空だが、ジブルで見たよりは幾分か薄く思えるのは気のせいだろうか?
 ニーミナで色鮮やかな場所というのは限られている。ルネテーラの部屋と、聖堂だ。あとは無慈悲に茶色い世界が広がっているか、緑が広がっているか、このように白く埋め尽くされているかだった。フェマーもゼイツのように感じ取っているのかは、わからないが。
「そう……ですね」
 応えながらゼイツは考える。フェマーは話を立ち聞きしていたのか? それとも、たまたま今やってきただけなのか。距離を考えるとクロミオの声くらいしか聞こえなかったはずだが、疑念は拭いきれない。ゼイツは再びフェマーへと双眸を向けた。既にフェマーは、ゼイツたちを見据えていた。
「そんなに怖い顔しないでください。私がいてはお邪魔ですか?」
「邪魔って」
「ほら、お若い二人でしょうから」
 くつくつと笑うフェマーに、ゼイツはどう反応してやるのが正解なのかわからなかった。隣ではウルナも困惑気味な顔をしている。揺さぶりの一種ではあるのだろうが、いい迷惑だ。嘆息したゼイツは首の後ろを掻いた。
「そもそも、どうしてあなたがこんな所に?」
 庭にも出ているらしいと聞いたのは、つい先ほどのことだ。ゼイツは一応怪訝な顔を作って尋ねてみる。フェマーは楽しげに笑うと、足先を見下ろし、それから辺りへと視線を巡らせた。厚みのあるコートが重たげな音を立てる。
「もちろん、興味深いからです。クロミオ君は昨日、晴れたら雪人形を見せてくれると言ってましたしね」
 どうやらクロミオはフェマーとも約束していたらしい。そう説明して落ち着きなく辺りを眺めるフェマーの様子は、一見すると雪にはしゃぐ若者のように思える。もちろん、ゼイツは懐疑的だ。
 確かにジブルでは雪はほとんど降らない。降ったとしてもすぐに溶けてしまう。これだけ積もっているところを見るのはゼイツも初めてのことだった。しかし、それだけの理由でジブルの使者が浮き足立つなど考えにくい。幼く見られるのを嫌がっていたフェマーならなおのことだ。
「クロミオったら」
 それまで黙っていたウルナが苦笑混じりに呟いた。ゼイツは彼女の横顔をちらりと見て、そこに不安の色を感じ取る。晴れやかな空の下、やや伏せられた黒い瞳には戸惑いの気配があった。彼女が何を案じているのか彼にはわからないが、よくない兆候だとは思う。彼女の動揺は、様々なところへ影響を与える。
 沈黙が生じると、フェマーはゼイツの方を見た。肩口で切り揃えられた赤茶の髪が、空気を含んで艶やかに揺れる。どこか探るようにも見えるフェマーの垂れた目を、ゼイツは黙って見返した。するとフェマーは口角を上げて頭を傾ける。
「それで、クロミオ君は?」
 尋ねられたのはこの流れではごく自然なことで。それでも素直には答えたくない気分になりながら、ゼイツは一つ間を置き後方を振り返った。クロミオが飛び込んだ吹きだまりは、陽光を反射して輝いている。
「クロミオならあそこ。雪人形を作るそうだ」
「ああ、そうでしたかっ。それはちょうどいい、見せてもらいます」
 しゃがみ込んでいるクロミオの後ろ姿を、ゼイツは瞳をすがめて眺めた。フェマーが首を縦に振る気配があり、そのままぎこちない足音が近づいてくる。フェマーは覚束ない足取りでゼイツの横を通り抜けていった。ゼイツが歩くよりもぎこちない。体を動かすのは得意ではないのだろう。
 クロミオへと近づいていくフェマーの背中を、ゼイツは複雑な思い見守った。二人の接近を止める方法を探したが、すぐにいい案は得られなかった。

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