ファラールの舞曲

第二話 「笑顔は紡ぐ」

 広い部屋で一人、ベッドの上に座ったゼジッテリカは人形を相手に遊んでいた。柔らかくウェーブした人形の髪を梳いては、あれこれと髪型を変えてみる。
 一人遊びにはもう慣れた。もっと小さな頃から父は忙しかったし、母は物心ついてすぐに亡くなってしまった。時折大人たちが様子を見に来ることはあっても、遊び相手にはなってくれないのだ。むしろ邪魔なだけ。だがこの人形がある分だけ、物心のつく前よりはましなのかもしれなかった。
 そんなことをぼんやりと考えながら、ゼジッテリカは人形の丸い瞳を覗き込む。青い瞳は宝石のように、曇りなく輝いていた。
「ゼジッテリカ」
 すると背後の方から、控えめに扉を叩く音がした。テキアの声だ。もっとも声など聞こえなくても、ここを訪れるのはもうテキアくらいしかいない。使用人ならばゼジッテリカのいない間に、気づいたら掃除を終わらせてくれる。だからこうやって声をかけてくるのはテキアだけだった。
「テキア叔父様」
 ベッドから飛び降りようとしたゼジッテリカは、しかしすんでの所で思いとどまった。思い出したからだ、彼が同じ日に二度もやってくる理由を。テキアは夕方には直接護衛を連れてくると、確かそう言っていた。聞き間違いではない。
 窓から外を見れば、いつの間にか日は沈みかけていた。もうすぐ夕食という時間だ。つまり彼は今、あの絵に描かれた女性と一緒にいる。一人ではない。その事実が重くのしかかって、ゼジッテリカは人形を強く抱きしめた。
「ゼジッテリカ、いるんだろう?」
 もう一度扉が叩かれた。気のせいかやや苛立った声音だった。さすがにこのまま彼らを待たせるわけにもいかずに、ゼジッテリカは渋々と扉へと向かう。
 今までにないほど気が重かった。足も手も、動かすのが億劫だった。それでもゼジッテリカは人形を左手に抱えたまま、気合いを入れて取っ手を握った。一見重厚そうな扉は、ほんの少し力を入れるだけで簡単に開く。子どもでも開けやすいようにと工夫されているのだ。
「テキア叔父様」
「ゼジッテリカ、直接護衛の者を連れてきた」
 黒い瞳を優しく細めて、テキアは開口一番そう言った。ちらりと彼の後ろへ視線をやれば、確かにそこには一人の女性がたたずんでいる。絵に描かれていた女性だ。白い肌にテキアと同じ黒髪、黒い瞳。ゼジッテリカよりはずっと背が高いが、テキアと比べると小柄に見えた。
「そう」
 けれども適当な答えを返すだけで、ゼジッテリカは再びベッドへと向かった。そしてそのまま背を向け、両手で人形を抱きしめる。扉を開けたのだからゼジッテリカの仕事は終わりだ。もうこれ以上譲歩する気分にはなれない。
「ゼジッテリカ」
 やや咎めるようにテキアが声音を変えた。が、ゼジッテリカは動じなかった。わかっていた、テキアは誰にでも優しいし紳士だ。それでも聞こえてきた小さなため息に、少し胸が痛くなる。テキアを困らせたいわけではないのだ。ただ突然他人が自分の領域に足を踏み入れるのが、ひどく不快なだけで。
「ゼジッテリカ様?」
「すみません、シィラ殿。ゼジッテリカはいつもこうなんです」
「いつも?」
「住み込みの使用人に対しても、警戒心露わなんですよ」
 テキアは困り果てているようだった。実際幼い頃から顔見知りの使用人しか、この部屋に入ることを許されてはいない。許されているのは父やそのまた父にも仕えていた、一部の信頼できる者たちだけだった。彼らなら安心できると、ゼジッテリカが信じることのできる者たち。だから知らない間に片づけられていても不快には思わなかった。
「お一人でいるのに慣れてしまったんですね」
 ぽつりと、直接護衛の女性――シィラはつぶやいた。予想していたよりも甲高くない、落ち着いた声だ。そこには侮蔑の色も哀れみの色もなく、ただ一種の切なさだけが含まれているようだった。妙だった、変だった。会ったばかりの大人が出す声としてはおかしい。
 ゼジッテリカは唇を結んだ。シィラの顔を真正面から見たくなかった。驚くほど綺麗な顔というのは絵の中で見ればいいのだ。媚びへつらう様子もなければ子どもだと侮る気配もない女性など、そんな透明な存在など、怪しく思えて仕方がない。
「この状況で護衛はしづらいですね、申し訳ない」
「いえ、私愛情の押し売りには慣れてるんですよ」
 すると悪戯っぽい笑いに混じり、シィラが近づいてくる気配があった。柔らかい絨毯のせいなのか足音はしない。いや、そもそも彼女には体重なんてないのかもしれない。そんなことを思いながら、ゼジッテリカはシィラの足下を一瞥した。足はちゃんとある。それが音を立てずに近づいてくる。それでも不思議と恐怖は感じなかった。
「ゼジッテリカ様」
 背後から顔を覗き込むようにして、シィラは名を呼んできた。だがゼジッテリカは答えない。答えたくなかった。このままずっと黙っていようか、無視してやろうか。そんなことを考えていると、シィラがどこまで我慢できるのか試してみたい気になった。この善人そうな顔も、粘り続ければ歪むことがあるのだろうか? あるのならば見てみたいと思う。
「ゼジッテリカ様」
「ゼジッテリカ」
 繰り返すシィラに、テキアの声が重なった。きっと仕方のない子どもだと思っているのだろう。テキアに呆れられるのは心が痛むが、だからといってシィラに返事をしてやるのは嫌だった。
 彼女は本当にゼジッテリカを守る気があるのか? ただお金のためだけに雇われた者が、その役目をちゃんと果たしてくれるのか? そもそもそこがゼジッテリカには疑問だった。ファミィール家を狙っているのは魔物だ。そこらの悪党でも調子に乗った技使いでもない。自由自在に炎を操り、水を操り、地面を振るわせ、風を起こす恐ろしい怪物なのだ。
 確かに技使いも炎や水、風といった力を使うことはできる。前にテキアが水の柱のようなものを生みだし、悪党を退治するのを見たことがあった。
 しかし魔物はそれとは比べものにならない力を持つという。獣の姿をしているもの、人の姿をしているもの、見た目は様々らしいが、とにかく強いことだけは確かなのだ。技使いはたまたま魔物と同じような力を行使することができる人間。そんな者たちで魔物に勝てるのか、ゼジッテリカには疑問だった。
「ゼジッテリカ」
 再度テキアの咎める声がした。ゼジッテリカは人形を強く抱きしめ、溢れそうになる気持ちを堪えて口を結ぶ。するとさらにシィラの顔が近づいてきて、ゼジッテリカの横におもむろに並んだ。ゼジッテリカはわずかに目線を窓側へと逸らす。
「ゼジッテリカ様は、お母様が大好きなんですね」
「っ!?」
 衝撃は、唐突だった。耳元で囁かれた声に、ゼジッテリカの体が強ばった。不意打ちだ。近づかれたのは不快でもまだ予想範囲内なのに、けれどもその名前は反則技だった。青い目を見開いたゼジッテリカは、ゆっくりとシィラへ視線を向ける。シィラの黒い瞳は、痛い程真っ直ぐゼジッテリカを見つめていた。
「き、急に変なこと――」
「そのお人形、お母様が作ってくださったんでしょう?」
 言ってシィラは花が咲いたように微笑した。春を思わせる、けれどもどこか秋のようにしっとりとした情緒を感じさせる、今まで見たことのない微笑みだった。白い肌といい全体としては淡く柔らかい笑みなのだが、それなのに瞳に宿った光は鮮烈で、目を逸らしたくても逸らせない。ゼジッテリカは息を呑んだ。
 確かにこの人形は、母が作ってくれたものだ。大好きな母親の、大切な大切な形見だった。だがそれをゼジッテリカは滅多に口にしなかった。口にしたらせっかくの思い出が汚れる気がして、言えなかったのだ。ただでさえ朧気で消えやすい思い出だというのに。
「な、なんでわかっ……たの?」
 おそるおそるゼジッテリカは尋ねた。知らぬ間に心の奥まで入り込まれたようで、正直怖かった。シィラは得体が知れない。今までおどおどしながらご機嫌をうかがってきた新しい使用人とも、媚びへつらうように挨拶しに来た父親の知り合いとも違っていた。もちろんテキアとも違う。シィラからほんの少し体を離し、ゼジッテリカは警戒の色を強めた。
「だってこの人形、ゼジッテリカ様そっくり。きっと愛情込めて作ってくださったんですよ」
 それなのにシィラはそう告げて笑った。本当に幸せそうに、自分のことのように心底嬉しそうに微笑んだ。はっとしてゼジッテリカは人形を見下ろす。
 明るい金髪も青い瞳も、人形とゼジッテリカはよく似ていた。そう言われればこれを渡す時、母は妹だと言ってなかっただろうか? 可愛い妹なのだから仲良くしてねと、微笑みながら言ってなかっただろうか。
「これは、お母様が、亡くなる一年前に作ってくれたの」
 折れそうなほど強く抱きしめていた人形を、ゼジッテリカは胸の高さに掲げた。あれからもう何年もたった。あまりにも抱きしめすぎたからか、今は服も髪も薄汚れてしまっている。それでもゼジッテリカにとっては大切な人形で、かけがえのない友だちのようなものだった。優しかった母が、ゼジッテリカのためだけに残してくれたもの。
「こんなに大事にしてもらえて、お母様は喜んでますよ、きっと」
「……本当?」
「ええ、だって大好きな人のために作ったものを、大好きな人が大事にしてくれたら、すごく嬉しいじゃないですか」
 ゼジッテリカが顔を上げると、少し腰を浮かせたシィラは首を縦に振った。それにあわせて緩く束ねられた黒い髪が、背中から音を立ててこぼれ落ちる。艶のある綺麗な髪だった。思わず手を伸ばして触れてみたくなる。
 すると扉の方から、テキアの何とも言えない吐息が聞こえてきた。不思議に思って見てみれば、彼は呆れたようなほっとしたような顔で腕組みしていた。どうやら二人の様子を心配していたらしい。ゼジッテリカは何だか気恥ずかしくなり、彼から目線を逸らした。
 シィラは、今までの人とは違う。怪しいことには変わりないけれど、しかしそれが嬉しいことのようにゼジッテリカには思えた。ついちょっと前まではあれだけ怖かったのに不思議だ。きっとシィラの笑顔には不思議な力があるのだ。母親が頭を撫でながら微笑んでくれた時みたいに、不安をすっぽりと包み込んでくれる力が。
「あの、その、ね」
「はい? ゼジッテリカ様」
「あ、ありがとう」
 だからゼジッテリカは素直にそう告げることができた。こんなに無視したのに、そっぽを向いていたのに、腹を立てることなく付き合ってくれたことに感謝したかった。
 嫌悪や苛立ちは、隠していても伝わってくる。それなのに子どもならば気づかないだろうと、大人はいつも高をくくる。本当は子どもの方がよっぽど敏感だということを忘れているのだ。けれどもシィラからそういった気配は感じられなかった。そのことが嬉しくて、ゼジッテリカはもう一度繰り返す。
「ありがとう」
「いいえ、ゼジッテリカ様」
 シィラは首を横に振った。何でもないことのように振って、優しく瞳を細めた。ゼジッテリカは思い切って、シィラの上着の袖を掴む。そして不思議そうに頭を傾けるシィラの、その黒い瞳を見上げた。
「リカ。リカって呼んで」
「え? その、いいのですか?」
「……お母様が、よくそう呼んでくれたの」
 告げてゼジッテリカは笑った。母のことは誰にも話してこなかった。テキアにだってほとんど話さなかった。けれどもよく考えれば、話したところで母の思い出が汚れるわけではないのだ。幼かったゼジッテリカに残された朧気な何かだって、口にした途端幻になるわけでもない。母の代わりを求めたところで、母が消えてしまうわけでもなかった。
「ですが――」
「私がいいって言うからいいの。シィラは私の直接護衛なんでしょう? だからこれはその特別な印」
 そう、シィラはゼジッテリカのためだけの護衛。魔物から守ってくれる、ほんの一時だけの特別な存在。彼女が『愛情を押し売りしてくる』のならば、それを買わないでどうするのだ。ファミィール家はもともと小さな店から始まった商人の家だという。お買い得品は買わないと損だ。
「ゼジッテリカが、こんな風に笑うのを見たのは久しぶりです」
 するとやや離れたところから、テキアが遠慮がちに声をかけてきた。いや、その相手はゼジッテリカではなくシィラだろう。完全に上体を起こしたシィラは、テキアの方を振り返る。その髪の先がふわりと、ゼジッテリカの鼻先をかすめた。いい香りがする。
「慣れてるって言いましたでしょう?」
 シィラの悪戯っぽい声が、軽やかに響いた。テキアが苦笑しながらうなずくのを、ゼジッテリカは横目で見る。年中寒々と感じられた部屋にも春が訪れたようだった。それは瞬く間に、ゼジッテリカにも染み入った。

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